魔の女王

香穂

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第十六話

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 あたたかい。

 その穏やかな熱はじわりと広がり、体の芯からやわらぐ心地がする。守られている。その安堵にまどろみが深くなる。

 まるで海の中を漂っているかのようだ。

 魚はいつもこのような幸福感に包まれているのだとしたら、なんとも羨ましいことだ。地上はあまりにも息苦しい。

 まどろみが揺らぐ。なんだか気だるい。

 夢うつつに目を開けると、腰にまわる腕が見えた。

 どうやら後ろにいる誰かに抱きしめられている。ゆるゆると視線を動かすと、ゼンの顔がそこにあった。予想の範囲内だ。この王国で、王の娘であり東の神女であるアガリエを、気安く抱きしめることができる男は限られている。

 どうやらゼンは眠っているようだ。

 すでに夜の帳は降りている。マヤーを枕にふたりは泉のほとりで横になっていた。抱きしめられている理由はよくわからないが、ゼンの腕がやけにあたたかく感じる。あたためてもらう必要があるほど、王国の夜は寒くはないのだが。

 夜空に目を凝らす。

 今宵は満天だ。色とりどりの宵闇に星が散りばめられている。明日は久方ぶりに月がない夜だ。よって強い光がないため、星がよく見える。

 アガリエはひとつふたつと星を読む。

 星は生きている。光が強くなったり弱くなったり、色や位置が変わることもある。それを読み解き天の意を汲み取るのは神女の役目だが、その術は口伝で受け継がれているものが多い。それをひとつひとつ思い起こしながら星の軌跡を読み解くことは容易くはない。アガリエもまた物心ついた時から天を見上げ、神女の師の元で星の読み方を教わってきた。

 今宵の星はよく語る。

「……ん? アガリエ、起きたのか」

 ゼンのかすれた声が耳元で聞こえる。

 アガリエは身じろぎをして彼を振り返った。頬に彼の手が触れる。

「ごめんな。……その、本当に」

 彼がなぜ言いよどむのかわからない。

 記憶の糸をたどり、彼にくちづけられたあたりで、その糸がぷつりと途切れていることに気づいた。

「何が、起きたのですか」

 ゼンは長く長く躊躇ってから、話し始めた。心なしか耳まで赤くなっている。

「どうしてだか俺にもわからないんだけどさ。アガリエのことが大切だなって、大事にしたいなって心の底から思ってたはずなんだけど、アガリエのマナを吸い取っちゃったみたいで」

「マナを吸う……」

「その、……口から」

 だからくちづけの後から記憶がないのか。

「少しずつマナを注いでたんだけど、どう? 気分が悪いとかはない?」

「体が気だるくて、なんだかとても眠いです」

「じゃあ、もう少し寝たらいいよ。俺もマヤーもアガリエの傍にいるから。……今日はもうアガリエを困らせるようなことは、絶対にしないって約束するから、安心して大丈夫だから」

「今日のゼン様は、謝ってばかりですね」

「ごめん。いや、その、……ごめん」

 孤独の中に育ったアガリエには覚えがないが、子守歌とはこのようなものなのだろうか。

 心にあたたかく染みこむ声。

 安堵する。



 ――その静寂が、不意に破られた。



 がさりと木々の梢が不自然に動く。騒々しいその音は草木をかきわけて進むものがあると示している。

 アガリエは体を強張らせた。

 獣の気配ではない。夜半、このような場所にいるなど正気の沙汰ではない。よもや刺客だろうか。アガリエの命を狙うものは数えきれない。

 訊かれていないのでゼンには伝えていないが、王位継承に関して影響力があるということは、亡き者にしてしまえば己に有利になると考える者もいるということだ。加えてアガリエが持つ東の神女の座を奪おうと企む者もいるので、刺客には事欠かない。

 今度は誰が命を奪いにくるのだろう。

 まだここで終わるわけにはいかないのに――。



 暗がりの中から男が姿を現す。



「マナを辿ってきてみれば……、失礼。お邪魔をしてしまったようですね」

 男はくるりと踵を返す。

 その彼をゼンは必死になって止めた。

「待って。タキ、誤解だから!」

「誤解、とは?」

「うっ、いや、その……失態は失態なんだけど」

「なるほどそれは興味深い。詳しく聞かせてもらえますか。ところで、そちらの女性は?」

 タキと目が合う。その瞳に嘘偽りはなく、純粋な興味しかないように、思うの、だが。

「タキ様、わたくしがお分かりにならないのですか?」

「……どうやらすでに会っているようですね」

 タキは泉のほとりを歩き、アガリエの傍らに膝をつく。起きようとすると、無理せずに、と止められてしまい、仕方なくゼンにもたれかかったまま彼と向き合った。

 無言のまま顔を凝視される。アガリエも表情の乏しいタキのしぐさから、彼の気持ちを読み解こうと試みる。

 結果、自然と黙りこんだふたりを見かねたのか、さして間を置かずにゼンから助け船が出た。

「あのさ、タキ。この娘はアガリエだよ。アガリエはわかる?」

「ああ、きみがアガリエですか。東の神女の。しかし何故、東の城にいるはずの東の神女が王都に?」

 どういうことだろう。

 ゼンを見やると、彼は困ったように微笑んだ。アガリエを抱く腕にわずかに力がこもる。

「タキはさ、記憶を繋ぎ留めておくことが苦手なんだ」

「ずいぶん回りくどい言い方ですね。ようは新しく覚えた記憶は、長く維持していることができないんですよ。その昔、魔物に襲われてここを喰われたらしくて。まあ、その魔物は今もここにいて、僕の記憶を食べているんですが」

 ここ、そう言って、タキは己のこめかみを指先でとんとんと叩く。

「でもゼン様のことはお分かりに?」

「魔物が巣食う以前の記憶はそのままですからね。新しい記憶もすべて消え失せるわけではないので、きみのことも部分的にはまだ覚えていますよ。東の神女で、王の娘でしょう。そのきみが何故うちの相棒の腕の中にいたのかはわかりませんが。ああ、もしかしてきみが今回の依頼人ですか?」

「タキ、ちゃんと一から説明するから。ほら、アガリエはもう寝てな」

「お待ちください。一から説明するのですか? ……毎回、毎日?」

「そうだけど」

 ゼンは不思議そうに首をかしげる。その行為にまったく躊躇いを抱いていないのだということが、すぐに見て取れて、驚いた。

 しかしゼンにしてみれば、そんなアガリエの反応のほうが意外だったようだ。

「だってタキは毎日何かを忘れちゃうし、だったら毎日説明してあげないと、かわいそうだろ?」

「誰がかわいそうですか。心外ですね。僕はきみがいなくてもなんとかなりますよ」

「なに言ってんだよ。この島に来た目的もわからなくなって、道にも迷って、俺を探してさ迷い歩いてきたくせに」

「ああ……、そう言えばそうですね。そうそう。どうしてか王都に呼ばれているような気がして歩いてきたんですよ。そうするうちにきみの気配に気づいて、ひとまずこちらに来たんでした。何故きみはここに?」

「だからその説明を今からするから、おとなしくそこに座って」

「そんな暇はありません。僕はきみの花嫁も探さないといけないんですよ」

「いや、だからさ! なんでそこは忘れてくれないんだよ! その件はもう大分前に解決してるから! 今は新しい任務についてるから、それはもういいの!」

「ゼン様の花嫁とは、妻としては聞き捨てなりませんね」

「アガリエもそこ気にしなくていいから!」

「そういうわけにはまいりません。ゼン様は王もお認めになられたわたくしの伴侶なのですから」

「おや、花嫁はすでに見つかっていたのですか。それは良かった。ゼンの子と思えばかわいいですが、それでも赤子の面倒を見るのは骨が折れますからね」

「ゼン様の子?」

「待った! アガリエ、タキが言ってるのは、タキが記憶喪失になる前にあった事件のことで、いろいろ間違ってるから、いちいち気にしなくていいの! タキも、それは解決済みで、赤子は無事に返したからもう心配なしなくていいよ!」

「ですが父親としての責務が」

「だからもうそれは解決済みだから大丈夫姉様に誓って大丈夫だから!」

 ゼンは一息に言い募る。

 すると表情に変化はなかったが、今度こそタキは観念したらしい。いきなり無言になって姿勢を正した。聞いてやるから早く説明しろと言うことか。ゼンたちの姉弟子の名は、彼らにとってすこぶる影響力があるようだ。

 ふう、と盛大に溜息をついたゼンが、アガリエと目が合い、へらっと笑う。

 それだけで誤魔化そうなどと、浅はかにもほどがあると思うが、花嫁や赤子という意味深な言葉を追求するにはいささか体力が心許ない。こちらも目元を緩めて、今は見逃してあげることにした。

 代わりに、ふたりのこれまでに想いを馳せる。

 アガリエは彼らのやりとりを見て、微笑ましく思った。羨ましいとも。

 ゼンは決してタキを見捨てない。

 毎日記憶の一部を失う相棒を嫌がらずに、少しの手間も惜しまずに、毎日彼の記憶を補い、支える。

 けれどそれはどれほど大変なことだろう。

 それでもゼンは相棒を諦めない。

 アガリエならとうの昔に切り捨てているところだ。目的があるのなら尚更のこと、足手まといは必要ない。

 だからこそゼンに、その声に、しぐさに、アガリエの心は安らぐ。

 彼はきっとアガリエのことも見捨てない。そう信じることができる。

 きっとそうだ。

 最期の、その時まで。

「おやすみ、アガリエ。良い夢を」

 額に触れるやわらかな掌。

 瞼が重い。急激に襲ってきた眠気に逆らうことなく、アガリエは意識を手放した。

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