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第十七話
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世界が目を覚ます。
海の彼方から新たなる太陽が生まれ、空は喜び白み始める。世界が生まれ変わる。風が木々を揺らし、鳥たちが羽ばたいた。
ゼンは腕の中のアガリエを抱きなおす。穏やかな寝息に胸を撫で下ろした。どうやらマナを急激に失った後遺症はなさそうだ。
指笛を吹く。しばらく視線をめぐらせていると、茂みからタキが出てきた。その手には色鮮やかな木の実。
放り投げられたその果実を、ゼンは片手で受けとる。皮ごと噛むと、甘味の薄い果汁が口の中に広がった。
「なにか聞きたいことは?」
「僕たちはアガリエの願いを叶えるために、アオヌスマからこちらに渡ってきた。そんな話をしているうちに、そろそろ朝だからと、僕は食べ物を探しに森に入った」
「うん。覚えてるみたいだな。よかったよかった」
「覚えていないこともありますよ。僕らが叶えるべき彼女の願いは何でしたっけ?」
「うん。良い質問だけど、それは俺にもわからない。王の病を治してほしい、月神女になりたい、王位継承が問題なく済んでほしい、とか色々言うけど、どれも嘘っぽいんだよなあ」
「ゼンが嘘だと思うのなら、そうなんでしょうけれど、なぜ嘘をつく必要があるのでしょうね。僕らは願いを阻止するのではなく、叶えるべくやってきたマナ使いなのに」
「……とんでもなく邪悪な願いごとなのかも」
「たとえば王女による王位簒奪とか?」
現王を弑してアガリエが玉座に就く。なかなか想像しがたい光景だ。
そもそも月神女は王にも等しい権威を持つ。わざわざ危険を冒してまでアガリエが王になる必要性はないだろう。
「見たところ随分と仲睦まじくなった様子ですし、そう焦らずとも、もうあと一押しくらいで判明するのでは? それにしても意外でした。どういう経緯で彼女に色仕掛けをすることに?」
果汁が喉元でむせた。
「な、なんだよ色仕掛けって!」
「おや。すでに篭絡ずみかと思ったのですが違いましたか。残念です。閨事について色々と聞いてみたかったのに」
「その無駄に旺盛な好奇心、今すぐその辺に忘れてきて! もう本当に勘弁してよ!」
そこで不意に心配になった。
「……なあ、タキ。俺と離れてる間に、どこかの女の人に迷惑かけたりとか、してないよな?」
「そうですね。僕が記憶している限りは」
「無駄に微笑みかけなくていいからって、俺の助言を、覚えてたりは……」
おや、とタキはわずかに目を見開く。その様子にゼンは嫌な気配しか感じなかった。
「誰かと喋る時は口角を上げて愛想良く、声も柔らかくしろと、言っていませんでしたか?」
「またか! なんで覚えてなくていいとこだけ覚えてて、忘れて欲しくないとこだけ忘れるわけ? タキは無駄にかっこいいんだから、愛想良くすると色恋沙汰に巻き込まれるから、それはやめようって約束してたのに!」
「残念ながら約束の部分は覚えていないので、何か問題を起こしていたかもしれませんが、覚えていません」
「記憶喪失はいいけど、もう本当に、その厄介ごとに首突っ込みたがる性格なんとかしてきてくれないかな」
「僕がいない間に妻を娶っていた人に言われたくないのですが」
「娶ってない!」
「そんな大事そうに抱えているくせに?」
「大事だけど、でも違うから!」
話し声が大きすぎたのか、腕の中でアガリエが身じろぎする。目が覚めたようだ。
「おおおおはよう! 気分はどう?」
ゼンは動揺を隠して、ゆっくりとアガリエの上半身を起こしてやる。
彼女は不思議そうに己の掌を見つめ、開いたり閉じたりをくりかえしていたが、やがて問題ないと首肯した。
「むしろ体が軽いような気がします」
「かもね。一晩中マナで包んでいたから」
「どうしてゼン様はそんなに顔を赤くしておられるのですか?」
「……っ、なんでもないよ!」
まったくもって動揺は隠しきれていなかったらしい。
アガリエの手にタキが集めてきた果実を握らせ、食べるよううながすと、ゼンは立ち上がって大きく伸びをした。
己の失態とはいえ、一晩中彼女を抱いて座っていたものだから節々が痛い。それはマヤーも同じだったようで、ふたりが身を起こしたのを契機に、森へと背を向ける。気晴らしにでも行くのだろう。
そのマヤーの足が止まった。ぴくりと動く耳は、ゼンたちには聞こえない音を拾っているようだ。
誰かが来る。
騒がしいのはゼンとアガリエが通ってきた小道のほうだ。正しい道順を知っている者がこちらへ近づいてきている。アガリエ様、と呼ぶのは若い女の声だった。
「ああ、この神域の守人のようです」
木の枝にかけたままになっていた衣を手早くまとうと、アガリエは小道へと近づいた。
走ってきたらしい。息を切らした神女はアガリエの姿を認めるなりその場に膝をつき、崩れ落ちた。
尋常ではない様子だ。ゼンとタキも駆け寄る。
神女の瞳は涙に濡れていた。
「アガリエ様、お早く城へお戻りを!」
「何事だ」
震える神女の声はなかなか言葉にならない。
それでもようやっと、絞り出すような悲痛な声で彼女は告げた。
「王が崩御なさいました」
*
夜明け前。まだ朝鳴き鳥でさえ目を覚ましていない時分に、イリは斎場の廊下で思いがけない人物と遭遇した。
「まあ、義母君。三の君まで。一体どうなさったのです?」
普段は斎場にいない顔だ。これから朝の儀式だったのだが、致し方ない。神女仲間には先に行っているよう指示し、イリは二人の元へ向かった。
王妃――第一、第二王子の母亡き今は、第三王子を産んだ彼女が王妃の座についている――は視線を泳がせた。突如強張ったその表情にイリは首を傾げる。
そんな母の袖を引き、王子が囁いた。
「イリ姉上ですよ」
なるほど。王妃は瓜二つの容姿を持つイリとアガリエの区別がつかなかったらしい。
とはいえイリが驚いたのは、区別がつかなかった王妃のことより、ただでさえ篝火と星明りしかないこの暗がりの中、久方ぶりに言葉を交わしたこの弟に、双子の姉を見分けたことの方だったが。
「このような朝早くに、よもや斎場でお見かけするとは思いもよりませんでしたわ」
「三の君が、星読みを望んでおいでですの」
「星読み?」
日々星は動いている。その星の光や動きを読み解き、天候などを予測する星読みは、神女の務めでもある。
イリはほんの少し迷ったが、ふたりと共に廊下に面した庭へ降りることにした。毎朝、日の出前に行われる儀式には他にも多くの神女が出席しているが、このかわいい弟の望みを叶えられる神女は、今この場では自分だけだ。太陽の神もお許しくださるだろう。
篝火が届かない暗がりまで来ると、夜空を彩る星がよりいっそう濃く見えた。
弟に合わせて膝を折る。が、五つほど年下の弟は思ったよりも成長していた。これなら少しばかり視線を下げるだけで、充分目を見て話すことができそうだ。母親を伴ってきたものだから、つい昔のままの幼い弟のように感じていたが、時は彼にも着実に訪れていた。
「どの星を読んでほしいの?」
母親譲りの端正な顔立ちが、まっすぐに空を見上げる。
指さす先には赤い星が浩々と輝いていた。
「あの星です。昨日まではなかったのに、突然現れて、それまであそこにあった青白い星を見えなくしてしまいました」
「まあ、驚いた。三の君は星がお好きなのね。昨日より以前の星の動きまで覚えておられるだなんて」
弟に情けない姿は見せたくないが、正直なところ、イリは星読みが得意ではない。こんなことならもっと勉学を積んでおけばよかったと今更ながらに後悔する。
一方、片割れのアガリエは、幼い頃から星読みだろうが読み書きだろうが苦手なことなど何一つとしてなかった。
それは彼女が生まれ持った才能というより、幼い彼女には勉学よりほかに、時間を費やすものがなかったからだった。
イリといえば幽閉などされていなかったので、星読みの勉強からも逃げ回っていた結果、この有様だ。人生何が良いかは、その時になるまでわからないものだと、つくづく思う。
などと現実逃避をしていることなど、純朴な弟は気づきもしないだろう。
「たしかにこの時期にあちらの方角に赤い星が見えるのは珍しいことだけど。どうしてそんなに星が気になるの?」
あたりさわりのない言葉を告げて、イリは話の矛先を変えた。
「これから先、二の兄上が王位を継がれた暁には、私は兄上に最も近しい王子となります。その時のために政を学びたいと告げたら、私の師が教えてくれたのです。王は月神女なしでは政を動かさない。その月神女は神のお告げを聞き、星を読んで物事を決めるのだから、王子は星読みの術を身につけるのがよいでしょうと。さすればきっと二の君にも重宝され、己の望む道も切り開けよう、と言うので、日々鍛錬を積み重ねております。神女である姉上がたには遠く及びませんが」
そのようなことはない。むしろイリより詳しいかもしれない。
「三の君はご立派ね。ぜひとも兄上とともにより良き国を築いてほしいものだわ」
「姉上は?」
「え?」
「一の姉上はこれからどうなさるおつもりですか? これからというのはつまり、兄上の御代が来たら、ということですが」
「わたくしはきっとこのままよ。次代の月神女はアガリエでしょうし、その後任として東の神女に選ばれるほどの才能はわたくしにはないし、何よりいま治めている西の地には思い入れもあるもの。西の神女として、二の兄上の治世を陰ながらお支えできればと思っているわ」
むしろそれ以外の選択肢があるなどと考えたこともない。
イリが祈るのはいつも、みんなが幸せあることだけだ。
だから少し気になる。
あの禍々しい光を放つ赤い星は一体何を示しているのだろう。
赤い光が青い星を打ち消した、という弟の言葉も気にかかる。
月神女か、星読みが得意なアガリエにでも相談してみようか。もしも不吉の予兆なら、来るべき厄災に備えるべく行動を起こさなければならない。
長く続く旱に不漁、王の病。まだこれ以上の厄災があるなどとは考えたくもないが、目をそらしていても望む結果は得られないのだから、だったら立ち向かうしかない。
それからしばし、二人で言葉もなく空を見上げていた。
やがて王子の背にそっと王妃の手が触れた。
「さあ、そろそろ屋敷へ戻りましょう。イリ様、このような朝早くからお騒がせして、申し訳ございませんでした」
王妃とはいえ彼女自身は貴族の娘でしかなく、王子も世継ぎではない。王家直系一の姫であるイリには気を遣うのだろう。どこか感じるよそよそしさに目をつぶって、イリはにっこりと微笑んだ。
「かわいい弟のためですもの。どうかお気になさらず。それよりも義母君こそお疲れのご様子。周りが騒がしくてなかなか難しいでしょうけれど、たまにはゆっくりお休みになってくださいね」
頷く王妃の笑みは実に弱々しい。
イリの母である元王妃が亡くなり、二の妃であった彼女は王妃となったが、なかなかに難しい立場にあるらしい。
滅多なことでは己の屋敷から出ることもなく、イリは彼女の溌溂とした姿を一度として見たことがない。第四、第五王子の母たる女性が勝ち気で、あわよくば彼女を蹴落として王妃の座に就きたい、と望んでいることも一因であるのだろうが。
王妃たちと別れたイリは、その後もしばらく星を眺めていた。
妙に気にかかる。
月神女カーヤカーナは遠からず国の憂いは晴れると明言していた。だからイリは今を乗り切れば、なんとかなると考えていたのだが、思い違いをしていたのだとしたら大変なことになる。
でも月神女様のお言葉を疑うなんて大それたことをして良いものかしら……。でも、でも万が一ということもあるかもしれないのだし、少しくらい疑ったり、調べたりしても、怒られないわよね。
そう決意して拝所へ向かったイリに、王の崩御が知らされた。
海の彼方から新たなる太陽が生まれ、空は喜び白み始める。世界が生まれ変わる。風が木々を揺らし、鳥たちが羽ばたいた。
ゼンは腕の中のアガリエを抱きなおす。穏やかな寝息に胸を撫で下ろした。どうやらマナを急激に失った後遺症はなさそうだ。
指笛を吹く。しばらく視線をめぐらせていると、茂みからタキが出てきた。その手には色鮮やかな木の実。
放り投げられたその果実を、ゼンは片手で受けとる。皮ごと噛むと、甘味の薄い果汁が口の中に広がった。
「なにか聞きたいことは?」
「僕たちはアガリエの願いを叶えるために、アオヌスマからこちらに渡ってきた。そんな話をしているうちに、そろそろ朝だからと、僕は食べ物を探しに森に入った」
「うん。覚えてるみたいだな。よかったよかった」
「覚えていないこともありますよ。僕らが叶えるべき彼女の願いは何でしたっけ?」
「うん。良い質問だけど、それは俺にもわからない。王の病を治してほしい、月神女になりたい、王位継承が問題なく済んでほしい、とか色々言うけど、どれも嘘っぽいんだよなあ」
「ゼンが嘘だと思うのなら、そうなんでしょうけれど、なぜ嘘をつく必要があるのでしょうね。僕らは願いを阻止するのではなく、叶えるべくやってきたマナ使いなのに」
「……とんでもなく邪悪な願いごとなのかも」
「たとえば王女による王位簒奪とか?」
現王を弑してアガリエが玉座に就く。なかなか想像しがたい光景だ。
そもそも月神女は王にも等しい権威を持つ。わざわざ危険を冒してまでアガリエが王になる必要性はないだろう。
「見たところ随分と仲睦まじくなった様子ですし、そう焦らずとも、もうあと一押しくらいで判明するのでは? それにしても意外でした。どういう経緯で彼女に色仕掛けをすることに?」
果汁が喉元でむせた。
「な、なんだよ色仕掛けって!」
「おや。すでに篭絡ずみかと思ったのですが違いましたか。残念です。閨事について色々と聞いてみたかったのに」
「その無駄に旺盛な好奇心、今すぐその辺に忘れてきて! もう本当に勘弁してよ!」
そこで不意に心配になった。
「……なあ、タキ。俺と離れてる間に、どこかの女の人に迷惑かけたりとか、してないよな?」
「そうですね。僕が記憶している限りは」
「無駄に微笑みかけなくていいからって、俺の助言を、覚えてたりは……」
おや、とタキはわずかに目を見開く。その様子にゼンは嫌な気配しか感じなかった。
「誰かと喋る時は口角を上げて愛想良く、声も柔らかくしろと、言っていませんでしたか?」
「またか! なんで覚えてなくていいとこだけ覚えてて、忘れて欲しくないとこだけ忘れるわけ? タキは無駄にかっこいいんだから、愛想良くすると色恋沙汰に巻き込まれるから、それはやめようって約束してたのに!」
「残念ながら約束の部分は覚えていないので、何か問題を起こしていたかもしれませんが、覚えていません」
「記憶喪失はいいけど、もう本当に、その厄介ごとに首突っ込みたがる性格なんとかしてきてくれないかな」
「僕がいない間に妻を娶っていた人に言われたくないのですが」
「娶ってない!」
「そんな大事そうに抱えているくせに?」
「大事だけど、でも違うから!」
話し声が大きすぎたのか、腕の中でアガリエが身じろぎする。目が覚めたようだ。
「おおおおはよう! 気分はどう?」
ゼンは動揺を隠して、ゆっくりとアガリエの上半身を起こしてやる。
彼女は不思議そうに己の掌を見つめ、開いたり閉じたりをくりかえしていたが、やがて問題ないと首肯した。
「むしろ体が軽いような気がします」
「かもね。一晩中マナで包んでいたから」
「どうしてゼン様はそんなに顔を赤くしておられるのですか?」
「……っ、なんでもないよ!」
まったくもって動揺は隠しきれていなかったらしい。
アガリエの手にタキが集めてきた果実を握らせ、食べるよううながすと、ゼンは立ち上がって大きく伸びをした。
己の失態とはいえ、一晩中彼女を抱いて座っていたものだから節々が痛い。それはマヤーも同じだったようで、ふたりが身を起こしたのを契機に、森へと背を向ける。気晴らしにでも行くのだろう。
そのマヤーの足が止まった。ぴくりと動く耳は、ゼンたちには聞こえない音を拾っているようだ。
誰かが来る。
騒がしいのはゼンとアガリエが通ってきた小道のほうだ。正しい道順を知っている者がこちらへ近づいてきている。アガリエ様、と呼ぶのは若い女の声だった。
「ああ、この神域の守人のようです」
木の枝にかけたままになっていた衣を手早くまとうと、アガリエは小道へと近づいた。
走ってきたらしい。息を切らした神女はアガリエの姿を認めるなりその場に膝をつき、崩れ落ちた。
尋常ではない様子だ。ゼンとタキも駆け寄る。
神女の瞳は涙に濡れていた。
「アガリエ様、お早く城へお戻りを!」
「何事だ」
震える神女の声はなかなか言葉にならない。
それでもようやっと、絞り出すような悲痛な声で彼女は告げた。
「王が崩御なさいました」
*
夜明け前。まだ朝鳴き鳥でさえ目を覚ましていない時分に、イリは斎場の廊下で思いがけない人物と遭遇した。
「まあ、義母君。三の君まで。一体どうなさったのです?」
普段は斎場にいない顔だ。これから朝の儀式だったのだが、致し方ない。神女仲間には先に行っているよう指示し、イリは二人の元へ向かった。
王妃――第一、第二王子の母亡き今は、第三王子を産んだ彼女が王妃の座についている――は視線を泳がせた。突如強張ったその表情にイリは首を傾げる。
そんな母の袖を引き、王子が囁いた。
「イリ姉上ですよ」
なるほど。王妃は瓜二つの容姿を持つイリとアガリエの区別がつかなかったらしい。
とはいえイリが驚いたのは、区別がつかなかった王妃のことより、ただでさえ篝火と星明りしかないこの暗がりの中、久方ぶりに言葉を交わしたこの弟に、双子の姉を見分けたことの方だったが。
「このような朝早くに、よもや斎場でお見かけするとは思いもよりませんでしたわ」
「三の君が、星読みを望んでおいでですの」
「星読み?」
日々星は動いている。その星の光や動きを読み解き、天候などを予測する星読みは、神女の務めでもある。
イリはほんの少し迷ったが、ふたりと共に廊下に面した庭へ降りることにした。毎朝、日の出前に行われる儀式には他にも多くの神女が出席しているが、このかわいい弟の望みを叶えられる神女は、今この場では自分だけだ。太陽の神もお許しくださるだろう。
篝火が届かない暗がりまで来ると、夜空を彩る星がよりいっそう濃く見えた。
弟に合わせて膝を折る。が、五つほど年下の弟は思ったよりも成長していた。これなら少しばかり視線を下げるだけで、充分目を見て話すことができそうだ。母親を伴ってきたものだから、つい昔のままの幼い弟のように感じていたが、時は彼にも着実に訪れていた。
「どの星を読んでほしいの?」
母親譲りの端正な顔立ちが、まっすぐに空を見上げる。
指さす先には赤い星が浩々と輝いていた。
「あの星です。昨日まではなかったのに、突然現れて、それまであそこにあった青白い星を見えなくしてしまいました」
「まあ、驚いた。三の君は星がお好きなのね。昨日より以前の星の動きまで覚えておられるだなんて」
弟に情けない姿は見せたくないが、正直なところ、イリは星読みが得意ではない。こんなことならもっと勉学を積んでおけばよかったと今更ながらに後悔する。
一方、片割れのアガリエは、幼い頃から星読みだろうが読み書きだろうが苦手なことなど何一つとしてなかった。
それは彼女が生まれ持った才能というより、幼い彼女には勉学よりほかに、時間を費やすものがなかったからだった。
イリといえば幽閉などされていなかったので、星読みの勉強からも逃げ回っていた結果、この有様だ。人生何が良いかは、その時になるまでわからないものだと、つくづく思う。
などと現実逃避をしていることなど、純朴な弟は気づきもしないだろう。
「たしかにこの時期にあちらの方角に赤い星が見えるのは珍しいことだけど。どうしてそんなに星が気になるの?」
あたりさわりのない言葉を告げて、イリは話の矛先を変えた。
「これから先、二の兄上が王位を継がれた暁には、私は兄上に最も近しい王子となります。その時のために政を学びたいと告げたら、私の師が教えてくれたのです。王は月神女なしでは政を動かさない。その月神女は神のお告げを聞き、星を読んで物事を決めるのだから、王子は星読みの術を身につけるのがよいでしょうと。さすればきっと二の君にも重宝され、己の望む道も切り開けよう、と言うので、日々鍛錬を積み重ねております。神女である姉上がたには遠く及びませんが」
そのようなことはない。むしろイリより詳しいかもしれない。
「三の君はご立派ね。ぜひとも兄上とともにより良き国を築いてほしいものだわ」
「姉上は?」
「え?」
「一の姉上はこれからどうなさるおつもりですか? これからというのはつまり、兄上の御代が来たら、ということですが」
「わたくしはきっとこのままよ。次代の月神女はアガリエでしょうし、その後任として東の神女に選ばれるほどの才能はわたくしにはないし、何よりいま治めている西の地には思い入れもあるもの。西の神女として、二の兄上の治世を陰ながらお支えできればと思っているわ」
むしろそれ以外の選択肢があるなどと考えたこともない。
イリが祈るのはいつも、みんなが幸せあることだけだ。
だから少し気になる。
あの禍々しい光を放つ赤い星は一体何を示しているのだろう。
赤い光が青い星を打ち消した、という弟の言葉も気にかかる。
月神女か、星読みが得意なアガリエにでも相談してみようか。もしも不吉の予兆なら、来るべき厄災に備えるべく行動を起こさなければならない。
長く続く旱に不漁、王の病。まだこれ以上の厄災があるなどとは考えたくもないが、目をそらしていても望む結果は得られないのだから、だったら立ち向かうしかない。
それからしばし、二人で言葉もなく空を見上げていた。
やがて王子の背にそっと王妃の手が触れた。
「さあ、そろそろ屋敷へ戻りましょう。イリ様、このような朝早くからお騒がせして、申し訳ございませんでした」
王妃とはいえ彼女自身は貴族の娘でしかなく、王子も世継ぎではない。王家直系一の姫であるイリには気を遣うのだろう。どこか感じるよそよそしさに目をつぶって、イリはにっこりと微笑んだ。
「かわいい弟のためですもの。どうかお気になさらず。それよりも義母君こそお疲れのご様子。周りが騒がしくてなかなか難しいでしょうけれど、たまにはゆっくりお休みになってくださいね」
頷く王妃の笑みは実に弱々しい。
イリの母である元王妃が亡くなり、二の妃であった彼女は王妃となったが、なかなかに難しい立場にあるらしい。
滅多なことでは己の屋敷から出ることもなく、イリは彼女の溌溂とした姿を一度として見たことがない。第四、第五王子の母たる女性が勝ち気で、あわよくば彼女を蹴落として王妃の座に就きたい、と望んでいることも一因であるのだろうが。
王妃たちと別れたイリは、その後もしばらく星を眺めていた。
妙に気にかかる。
月神女カーヤカーナは遠からず国の憂いは晴れると明言していた。だからイリは今を乗り切れば、なんとかなると考えていたのだが、思い違いをしていたのだとしたら大変なことになる。
でも月神女様のお言葉を疑うなんて大それたことをして良いものかしら……。でも、でも万が一ということもあるかもしれないのだし、少しくらい疑ったり、調べたりしても、怒られないわよね。
そう決意して拝所へ向かったイリに、王の崩御が知らされた。
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