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第二十話
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ゼンの名を呼ぶ声が響く。
この状況下でアガリエが叫ぶなど予想していなかったゼンは動揺した。彼女たちがいる屋敷の向かい側の屋根で、思わず体を縮こまらせる。
それでもゼンを呼ぶ声は止まない。
彼女からこちらの姿が見えているはずがないのに、どうしてゼンが傍にいると確信しているのだろうか。
ひかえめに隠れていたタキが、諦めたように嘆息して姿勢を正した。
「あれだけ叫ばれると、隠れている意味もありませんね」
事の成り行きを見守るだけのつもりだったのだが。
ゼンは心を決めた。
「……行ってくるよ」
「行けばどうなるか、考えましたか?」
「考えた。神様だってみんなに勘違いされている俺がアガリエに味方したら、アガリエが望む王子が勝つことになるんだろ。でもこのままでも結果は同じみたいだし、だったら少しでも早く事が納まって、被害を最低限に抑えたほうが良いと思う」
「なるほど。ではお手並み拝見といきましょうか」
「タキも一緒に行く……」
「安心してください。隠れてこっそり一部始終つぶさに見物していますから。こんな興味深い状況はなかなかありませんよ」
この相棒はその無表情さとは裏腹に好奇心旺盛で、薄情だ。
ゼンは単身、庭へ降りた。
その姿を認めた月神女が息を呑むのがわかる。
彼女がゼンを不甲斐ないと、浅慮だとたしなめてくれたのは、つい昨日のことだ。
その舌の根の乾かぬ内に王やアガリエを呪詛したというのだから、人の心とはわからない。頼りになる伯母上なのだと思っていたのに。
ゼンに背を向けたまま、月神女と相対するアガリエは静かに問うた。
「わたくし達の会話をどこかで聞いておられたのでしょう?」
「まあね。どうしてわかった?」
「この緊急時にゼン様がわたくしの傍を離れるわけがありませんもの。さあ、伯母上。神の御前で何か申し開きをなさることがおありですか」
月神女は歯ぎしりをして姪を睨む。
「そなたの世は長くは続くまい。忘れるでないぞ。わたくしは常夜の国で、いつまでもそなたの所業を見ておるからな」
「お言葉、肝に銘じておきます」
月神女の表情がいびつなほどに歪んだかと思えば、その口から血が滴り落ちた。
次いでごぼり、と大量の血液が溢れ出す。
――何が、起きたのか。
月神女の体は前のめりに倒れこむ。
あたりを包み込む奇妙な静寂。床に広がってゆく血だまりだけが時の経過を示している。
誰もが動けずにいる中で、アガリエの声はやけに大きく、無機質に響いた。
「月神女は忠誠心を示すために自ら命を絶たれ、常夜の国におられる王のお傍へ参られた。誰か、このことを三の君へお伝えせよ。できることなら一の君へも。それでこの動乱は納まるであろう」
にわかに外が騒々しくなる。
ゼンは鉛のように思い足を引きずり、アガリエの傍らに寄った。膝をつき、事切れた月神女の亡骸を見下ろす。
「月神女に何が……」
「奥歯に毒を仕込んでいたのでしょう」
「だからどうしてそんなもの持ってるんだよ!」
「どうやら表では今、第一王子と第三王子が戦っている様子。ゼン様にはお分かりにならないかもしれませんが、事ここに及んでは第一王子に勝ち目はありません。無論、第一王子に与していた伯母上にも……。ですから自害なされたのです。月神女を務めた王女が謀反人として火炙りになるなど、恥以外の何物でもありませんので」
「だからって」
「火炙りになったほうがよかったと? 先に申し上げておきますが、他の選択肢はありませんよ。伯母上は我が父王を呪詛し、すでに成就させているのですから。それとも今からオル兄上のもとに駆けつけて、神の御力で謀反を成功させ、兄上の御代を作ってみますか? その場合、手向かいした第三王子が火炙りになりますけれど」
淡々と告げられる容赦のない言葉に、そうだった、アガリエはこういう娘だったと思い返す。
みんな幸せになって欲しいという、イリの願いは届かない。
皆が皆、それぞれに願いを抱いている。
矛盾するそれら全てを叶えることなど、決してできないのだ。
わかっていた。覚悟していた、そのつもりだったのに。
月神女の死に動揺している自分がいる。
何か他に、もっと良い方法があったのではないかと、無意識のうちに考えてしまう。
今更だ。
すべて今更。
良い方法が見つかったとして、すでに毒は月神女の体を蝕み、その動きを止めてしまっているのだから、取り返しはつかない。
たとえ時間を巻き戻すことができたとしても、謀反を企てていた月神女やオルに味方するつもりもないのに。
俺はアガリエの声に応えた時点で選んでたんだ。ただ考えが至らなかった。……覚悟が、全然足りてなかった。
事は表と裏のように対になっていて、どちらか一方しか選ぶことができない。
だとしたらゼンが選ぶのはアガリエだ。
彼女を選び、隣に立った時点で、すでに月神女の死は免れないものだった。ただ今は頭では理解できても心が追いつかないだけで。
その時ふいに嫌な予感がした。
「……もしかしてアガリエも持ってる?」
「何をでしょう」
「毒」
「そのようなもの持っておりませんよ」
アガリエは即座に否定する。その迷いのない態度に、ゼンは確信した。
「持ってるんだな? だったらその毒、俺に渡して」
「ですから持ってなど」
「早く出して」
アガリエはゆっくりとゼンを見やり、しばらく逡巡する気配を見せた後、ようやく手を動かした。
丁寧に結い上げた髪に指を差し込み、中から小さな包みを取り出す。
「どうしてそんなところに……」
「たとえこの身が敵対する者たちの手に落ちたとして、高貴な身分にある神女の髪を乱す者が、どれほどいるとお思いですか?」
一体どこまで想定して彼女は動いているのだろう。
「毒針は? マヤーに使ったやつ以外にも予備とかあるんだろ?」
「あれは常に携帯しているわけではありません。道中の危険に備えて、旅支度の際に仕込んだものですから……」
「アガリエ」
しばし無言のまま睨み合う。
珍しく根負けしたのはアガリエだった。
彼女は双眸を伏せると、慣れた手つきで袖口の縫い目から小指ほどの長さの針を押し出し、ゼンの掌に乗せた。三本も。
これで持っていないと言い張ろうとしたのだから、本当に油断ならない娘だ。
ゼンは毒の包みと針を帯の間に押し込んだ。
「毒は本来、護身用に持ち歩いているものです。すべて取り上げられてしまっては、わたくしはいざという時に身を守る術がなくなるではありませんか」
「そんな心配しなくていいよ。アガリエは俺が守るから」
「わたくしが火炙りの刑に処されそうになっても、ですか?」
「うん。助ける。ていうか、そんなことさせない。アガリエが間違えたら、俺が正しい方向に導いてあげるから、だから大丈夫」
「とても心外です。ゼン様の中では、間違えるのはわたくしであると確定されているのですね。……ああ、触れてはなりません。他の者にさせますから、どうかそのままで」
月神女の亡骸を抱き上げようとした手を止められる。
特段抗う理由もない。けれど血だまりに伏した顔が忍びなく、せめてと思い、体を仰向けにし、見開かれたままの双眸を閉じさせた。
「あのさ、どうして自分が一の姫だなんて嘘ついたんだ?」
アガリエの予想通り、ゼンとタキはふたりの会話をはじめから全て盗み聞きしていた。だから月神女がアガリエを一の姫ではないかと疑ったことも知っている。
けれどゼンには、彼女は真実アガリエであると――ウタという真名を持つ二の姫であるとわかる。
わからないのは、なぜ月神女の呪詛が彼女に効かなかったかだ。
「最後の望みが絶たれたと伯母上に思わせることができれば、何でもよかったのです。わたくしより己の力が劣るとは、たとえそれが事実であろうと、お認めにならないことは想像に難くありませんでした。でも真名を取り違えたとなれば、諦めもつくのではないかと推察いたしました」
アガリエは立ち上がり、頬や手の甲についていた血を平然と袖でぬぐう。
月神女を見つめるまなざしは澄んでいて、どんな感情も――憎悪も憐れみも、何も感じることはできなかった。
「このような俗世の争いに、ゼン様のお力をお借りして申し訳ありませんでした。しばらく騒々しくなるでしょうから、ゼン様はどうか巻き込まれないようにしていてくださいね」
「俺を巻き込むのはアガリエだけだよ」
どの口で言うか。ゼンは嘆息して目を閉じた。
この状況下でアガリエが叫ぶなど予想していなかったゼンは動揺した。彼女たちがいる屋敷の向かい側の屋根で、思わず体を縮こまらせる。
それでもゼンを呼ぶ声は止まない。
彼女からこちらの姿が見えているはずがないのに、どうしてゼンが傍にいると確信しているのだろうか。
ひかえめに隠れていたタキが、諦めたように嘆息して姿勢を正した。
「あれだけ叫ばれると、隠れている意味もありませんね」
事の成り行きを見守るだけのつもりだったのだが。
ゼンは心を決めた。
「……行ってくるよ」
「行けばどうなるか、考えましたか?」
「考えた。神様だってみんなに勘違いされている俺がアガリエに味方したら、アガリエが望む王子が勝つことになるんだろ。でもこのままでも結果は同じみたいだし、だったら少しでも早く事が納まって、被害を最低限に抑えたほうが良いと思う」
「なるほど。ではお手並み拝見といきましょうか」
「タキも一緒に行く……」
「安心してください。隠れてこっそり一部始終つぶさに見物していますから。こんな興味深い状況はなかなかありませんよ」
この相棒はその無表情さとは裏腹に好奇心旺盛で、薄情だ。
ゼンは単身、庭へ降りた。
その姿を認めた月神女が息を呑むのがわかる。
彼女がゼンを不甲斐ないと、浅慮だとたしなめてくれたのは、つい昨日のことだ。
その舌の根の乾かぬ内に王やアガリエを呪詛したというのだから、人の心とはわからない。頼りになる伯母上なのだと思っていたのに。
ゼンに背を向けたまま、月神女と相対するアガリエは静かに問うた。
「わたくし達の会話をどこかで聞いておられたのでしょう?」
「まあね。どうしてわかった?」
「この緊急時にゼン様がわたくしの傍を離れるわけがありませんもの。さあ、伯母上。神の御前で何か申し開きをなさることがおありですか」
月神女は歯ぎしりをして姪を睨む。
「そなたの世は長くは続くまい。忘れるでないぞ。わたくしは常夜の国で、いつまでもそなたの所業を見ておるからな」
「お言葉、肝に銘じておきます」
月神女の表情がいびつなほどに歪んだかと思えば、その口から血が滴り落ちた。
次いでごぼり、と大量の血液が溢れ出す。
――何が、起きたのか。
月神女の体は前のめりに倒れこむ。
あたりを包み込む奇妙な静寂。床に広がってゆく血だまりだけが時の経過を示している。
誰もが動けずにいる中で、アガリエの声はやけに大きく、無機質に響いた。
「月神女は忠誠心を示すために自ら命を絶たれ、常夜の国におられる王のお傍へ参られた。誰か、このことを三の君へお伝えせよ。できることなら一の君へも。それでこの動乱は納まるであろう」
にわかに外が騒々しくなる。
ゼンは鉛のように思い足を引きずり、アガリエの傍らに寄った。膝をつき、事切れた月神女の亡骸を見下ろす。
「月神女に何が……」
「奥歯に毒を仕込んでいたのでしょう」
「だからどうしてそんなもの持ってるんだよ!」
「どうやら表では今、第一王子と第三王子が戦っている様子。ゼン様にはお分かりにならないかもしれませんが、事ここに及んでは第一王子に勝ち目はありません。無論、第一王子に与していた伯母上にも……。ですから自害なされたのです。月神女を務めた王女が謀反人として火炙りになるなど、恥以外の何物でもありませんので」
「だからって」
「火炙りになったほうがよかったと? 先に申し上げておきますが、他の選択肢はありませんよ。伯母上は我が父王を呪詛し、すでに成就させているのですから。それとも今からオル兄上のもとに駆けつけて、神の御力で謀反を成功させ、兄上の御代を作ってみますか? その場合、手向かいした第三王子が火炙りになりますけれど」
淡々と告げられる容赦のない言葉に、そうだった、アガリエはこういう娘だったと思い返す。
みんな幸せになって欲しいという、イリの願いは届かない。
皆が皆、それぞれに願いを抱いている。
矛盾するそれら全てを叶えることなど、決してできないのだ。
わかっていた。覚悟していた、そのつもりだったのに。
月神女の死に動揺している自分がいる。
何か他に、もっと良い方法があったのではないかと、無意識のうちに考えてしまう。
今更だ。
すべて今更。
良い方法が見つかったとして、すでに毒は月神女の体を蝕み、その動きを止めてしまっているのだから、取り返しはつかない。
たとえ時間を巻き戻すことができたとしても、謀反を企てていた月神女やオルに味方するつもりもないのに。
俺はアガリエの声に応えた時点で選んでたんだ。ただ考えが至らなかった。……覚悟が、全然足りてなかった。
事は表と裏のように対になっていて、どちらか一方しか選ぶことができない。
だとしたらゼンが選ぶのはアガリエだ。
彼女を選び、隣に立った時点で、すでに月神女の死は免れないものだった。ただ今は頭では理解できても心が追いつかないだけで。
その時ふいに嫌な予感がした。
「……もしかしてアガリエも持ってる?」
「何をでしょう」
「毒」
「そのようなもの持っておりませんよ」
アガリエは即座に否定する。その迷いのない態度に、ゼンは確信した。
「持ってるんだな? だったらその毒、俺に渡して」
「ですから持ってなど」
「早く出して」
アガリエはゆっくりとゼンを見やり、しばらく逡巡する気配を見せた後、ようやく手を動かした。
丁寧に結い上げた髪に指を差し込み、中から小さな包みを取り出す。
「どうしてそんなところに……」
「たとえこの身が敵対する者たちの手に落ちたとして、高貴な身分にある神女の髪を乱す者が、どれほどいるとお思いですか?」
一体どこまで想定して彼女は動いているのだろう。
「毒針は? マヤーに使ったやつ以外にも予備とかあるんだろ?」
「あれは常に携帯しているわけではありません。道中の危険に備えて、旅支度の際に仕込んだものですから……」
「アガリエ」
しばし無言のまま睨み合う。
珍しく根負けしたのはアガリエだった。
彼女は双眸を伏せると、慣れた手つきで袖口の縫い目から小指ほどの長さの針を押し出し、ゼンの掌に乗せた。三本も。
これで持っていないと言い張ろうとしたのだから、本当に油断ならない娘だ。
ゼンは毒の包みと針を帯の間に押し込んだ。
「毒は本来、護身用に持ち歩いているものです。すべて取り上げられてしまっては、わたくしはいざという時に身を守る術がなくなるではありませんか」
「そんな心配しなくていいよ。アガリエは俺が守るから」
「わたくしが火炙りの刑に処されそうになっても、ですか?」
「うん。助ける。ていうか、そんなことさせない。アガリエが間違えたら、俺が正しい方向に導いてあげるから、だから大丈夫」
「とても心外です。ゼン様の中では、間違えるのはわたくしであると確定されているのですね。……ああ、触れてはなりません。他の者にさせますから、どうかそのままで」
月神女の亡骸を抱き上げようとした手を止められる。
特段抗う理由もない。けれど血だまりに伏した顔が忍びなく、せめてと思い、体を仰向けにし、見開かれたままの双眸を閉じさせた。
「あのさ、どうして自分が一の姫だなんて嘘ついたんだ?」
アガリエの予想通り、ゼンとタキはふたりの会話をはじめから全て盗み聞きしていた。だから月神女がアガリエを一の姫ではないかと疑ったことも知っている。
けれどゼンには、彼女は真実アガリエであると――ウタという真名を持つ二の姫であるとわかる。
わからないのは、なぜ月神女の呪詛が彼女に効かなかったかだ。
「最後の望みが絶たれたと伯母上に思わせることができれば、何でもよかったのです。わたくしより己の力が劣るとは、たとえそれが事実であろうと、お認めにならないことは想像に難くありませんでした。でも真名を取り違えたとなれば、諦めもつくのではないかと推察いたしました」
アガリエは立ち上がり、頬や手の甲についていた血を平然と袖でぬぐう。
月神女を見つめるまなざしは澄んでいて、どんな感情も――憎悪も憐れみも、何も感じることはできなかった。
「このような俗世の争いに、ゼン様のお力をお借りして申し訳ありませんでした。しばらく騒々しくなるでしょうから、ゼン様はどうか巻き込まれないようにしていてくださいね」
「俺を巻き込むのはアガリエだけだよ」
どの口で言うか。ゼンは嘆息して目を閉じた。
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