魔の女王

香穂

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第三九話

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 この地にはじめて王が立った頃のことに思いを馳せる。

 王とは、何をもってして王だったのか。

 月神女カーヤカーナが王と同等の権力を保持していることからしても、巫覡の力が重要であったことは明白だ。事実、当代の月神女も幼少の頃より突出した力を発揮していた。

 月神女は神の声を聞く。

 王は、その声の体現者だ。

 嵐が来ると神託が下れば民を避難させ、豊かな土地があると知ればその地へ誘った。

 王国に生きる者にとって太陽は特別な存在だ。太陽の恩恵なしには人も植物も生きてはゆけない。ゆえに太陽は最も崇拝するべき神であり、王はその神にも等しい存在であるとされる。

 太陽王ティダヌカン。

 その名は本来、太陽の神を意味する。

 だがしかし、と少年は思う。

 太陽は重要だ。

 けれど太陽だけでは足りない。

 この地に人が生きるには水も不可欠となる。

 だから城の地下には水源がある。少年の眼前にもたゆたう水面が広がっていた。

 王族の中でも限られた者しか立ち入ることを許されていない斎場の奥深く。古びた扉の向こうに続く石段を下りてゆくと、次第に空気が冷えてくる。

 漂う水の匂い。

 入口の大きさからは想像できないほど広大な鍾乳洞が、そこには広がっていた。

 昨今の旱により、その水量は明らかに目減りしている。それでも乾いた地上に比べればここは充分潤いに満ちていた。

 だからこそ王は王として君臨することができたのだ。

 水際まで降りる。そこには茣蓙が敷かれていた。傍らには簡素な燭台がいくつも並べられており、その上には大小不揃いな長さの蝋燭が立っている。ここではこうした雑事さえ月神女が行わなければならないのだが、彼女は近頃この水場に近づかない。

 少年は手燭から蝋燭に火を移して光源を増やした。

 この地下道の闇を払うにはあまりにも心許ない灯りだが、それでも幾分心は和らいだ。常とは違い傍には誰もいない。このような状況下で火が消えたらどうなるか、考えるのも恐ろしい。

 茣蓙の上に膝をつく。

 王城内で最も神聖な拝所を訪れながら、けれど少年は祈らない。

 必ず来る。そう確信している。

 なぜなら師がそう断言したのだから、きっと彼はここへ来る。

 どれほどそうしていただろう。やがて蝋燭の炎が揺れた。

 空気が動く。そして程なくして水音が響いた。

 あるはずもない波紋が水面に広がってゆくのが微かに、だが確実に見て取れる。

 光が届かない水源の向こうから何かが来る。

 仄暗い水底から立ち上がる影。それはゆらりと動き、こちらに焦点を定めた。

 その双眸がわずかに瞠目する。

「そなたは」

 予想だにしなかった人物の登場に少年は言葉に詰まった。

 まさか彼が来るとは――いや、あながち間違えてもいないのだが、彼ひとりが来るとは思っていなかった。

「ゼン様は一緒ではないのか。見たところそなた一人のようだが」

「ええ。途中までは一緒だったのですが、急遽別行動することになりまして。どうやら僕はきみに呼ばれたようです」

「私に? ……姉上に、ではなく?」

「姉とは、ゼンたちからアガリエと呼ばれていた者のことですか? だとすると君は先の王ですね。申し訳ないですが僕は記憶喪失体質で、きみの願いを叶えたかどうかさえ忘れてしまいました。が、今も祈りの声が途切れていないということは、まだ叶えていないということでよろしいですか?」

「いや、待て。待て。どういうことだ? たしかにそなたは幾度となく私の前に現れた。だがそれだけだ。それが何故、今になってそのようなことを申すのだ」

「ですから諸事情で、よく記憶喪失になるんです」

 青年――タキが目を閉じると、どこからともなく風が吹いた。

 何が起きたのか。呆気に取られているうちに蝋燭の炎が消し飛ぶ。周囲に漂う焦げ臭いにおいと深い暗闇。

 あれだけ注意を払って持ち込んだ光源だというのに、こうも容易く、それも待ち人だった相手に消されてしまうとは。

 突然光を失った目に暗闇は驚くほど手強く、すぐ傍にいる相手の姿さえ見つけることができない。知らずに飲んだ唾の音が、鼓膜の奥で大きく鳴り響いた。

 彼は一体どういうつもりなのだろう。

 冴えた空気が心の臓をきゅっと握り締める。そんな心地がする。

「実は気づいたのはつい先程のことでして。僕が聞いていた声と、ゼンが聞いていた声が違うということに。二人で一対がマナ使いの基本ですから、当然同じ祈りの声を聞いているとばかり思っていたのですが、どうにも僕はきみに引き寄せられてしまう。それでようやく前提を間違えているのだということに気づきました。……まあ、マナ使いが相手の願いを叶えたいと思うのは義務でも、世の理や自然の摂理でもないので、そういう可能性もあるのでしょうけど、前代未聞の珍事ですよ」

「そなたは私の願いを叶えてくれるのか? 姉上の願いではなく?」

「そのつもりですよ。さて、何をお望みですか。地上への道案内役でもしましょうか?」

「姉上をお助けせよ」

「……ここから地上まで結構な距離がありそうですが、手燭もなしにどうするおつもりで?」

「どうとでもする。いや、戻れずとも良い。姉上が助かるのなら、そのために私の命が必要だというのなら、喜んでこの身をそなたに捧げよう。だから姉上をお助けせよ」

 しばしの沈黙の後、タキは問うた。

「解せませんね。何故にそうまでして姉君を助けたいのですか? 先の王は母親を殺されたばかりか、玉座までも追われたと聞いています。てっきり姉君を恨んでいるものだとばかり思っていましたが」

「姉上を恨むなど……、母上を止められなかったのは私だ。私がお諫めしなくてはならなかったのに、どうしてもそれができず、見かねた姉上が決断を下してしまわれた。私が王位を退いたのも姉上のお心遣いだ。斎場の地下に居れば、いずれそなたらに会えるから、身の安全を乞えと助言をしてくださったのもまた、姉上だ」

 この水場を生み出した鍾乳洞は地下深くまで続き、幾重にも枝分かれしている。

 どの洞穴がどこへ繋がっているのか。それは王であった少年でさえ与り知らぬことだ。時に洞穴は途切れ、水に埋もれて人が通れるような状況ではなく、それらすべてを把握することは到底不可能であった。

 ただ王や月神女は知っている。

 口伝でのみ残る正しい道順を辿ってゆくことができれば、城の外へ――王家の墓所に辿り着くことができると。

 そしてそれはイリも例外ではない。

 だから少年は斎場の奥に籠もり待っていた。彼らがマナ使いとしての能力を駆使し、正しい道順を進んでここへやって来るのを。

「……やはり解せません。君が姉君を慕っているとしましょう。それならば何故自らの手で姉君を助けようとしないのですか?」

「私の手で? ……姉上を?」

「さほど可笑しなことではないでしょう。それとも年長者というだけで手助けは必要ないとでも?」

 幼い頃から彼を導いてきたのは母ではなく、二の姉だ。

 箱入り娘で、花嫁修業ばかり積んできた母に代わり、少年を為政者とするべく用意された書物も教師も、すべて姉が裏で手をまわして用意したものだった。

 二の姉は、彼にとって誰より信頼できる師だ。

「姉上のお考えはいつも正しい。此度とて、きっと正しいのだ。だから姉上の願いが、再び私を玉座に据えることだというのであれば、事が納まるまで私は安全な場所に避難しなくてはならん」

「では先程の願いは取り消しということにして、今からでも城の外へ連れ出してさしあげましょうか?」

「……だが、それでは姉上が」

 その先に続く言葉が見つからない。

 タキの嘆息する気配。呆れられているのだろうと思うのは、負い目があるからだろうか。

 ひんやりと冴えた空気が動く。

「やれやれ、困りましたね」

「願いを叶えると申し出たのは、そなたではないか!」

「ええ、まあ、そうですね。それで? 甚だ不本意ですが、僕はきみの願いに非常に興味がありますから、最後まで聞きますよ。ただし僕も万能ではないので、姉君も助けたい、でもその他の者も助けたい、などという無茶な願いを聞き届けるのは不可能だということは事前にご了承いただきたい」

 随分と投げやりな口調になった。

 腹立たしいが相手がどこにいるかも見えない。少年は立ち上がり、目の前の暗闇に向って叫んだ。

「私の真名をそなたに預けよう。私はユルムリカだ」

「……名を明かすとは、随分と不用心では? その名があれば、僕はきみを呪い殺すことさえ可能になるのですよ」

「名の呪詛などという真似をせずとも、そなたが私を亡き者にしたければ、私をここに置き去りにすればすむ話であろう。私の心に嘘偽りはない。それを名を明かすことで証明したまでだ」

 この心の叫びを聞き届けてほしい。

 もう無理だと、叶わない願いだと諦めていた心に火を灯したのはタキだ。

 この好機を逃してはいけない。絶対に。

「私の願いは正しくはないのかもしれん。だが姉上に汚名を着せてまで、私は名君であろうとは思わないのだ」

 そう意気込んだのに、タキは実に無情だった。

「それで?」

「……そなたは!」

「あまり大きい声を出すと、外に控えている者たちに気づかれるのでは?」

 そのとおりだ。ぐっと奥歯を噛みしめる。

 何かがぱきっと弾け、手燭にふたたび火が灯った。ゆらりと揺れる炎。

 タキは少年の目の前にしゃがみこみ、器用にもその膝に頬杖をついてこちらを覗き込んでいた。

 問いに対する答えを待っている。姉を、何から助け出せば良いのか。

「私の治世を穏やかなものとするため、姉上はすべての汚名を背負い、不正や贈賄をくりかえす不届き者たちを道連れに死ぬおつもりなのだ。頼む。姉上を止めてほしい」

「命令が懇願に変わりましたね」

「ええい、口答えばかりしおって! そなたは本当に私の願いを聞き届けるつもりがあるのか?」

「あるからこそ、こうして遠路はるばる西からやって来たのですが。ただし姉君を止めるのは、僕ではなく、きみです。そのための助力は惜しみませんよ。お約束しましょう」

「……私が? 姉上を?」

 タキはおもむろに立ち上がると、外へ続く石段を登り始めた。少年は手燭を取り、慌ててその後を追う。

「どこへゆくのだ?」

 何を今更、とタキは眉を寄せた。

「どこって、姉君のところに決まっているではありませんか」





 そうして地上に出た少年は、タキの肩に担がれて空を飛び、断末魔のように壮絶な悲鳴をあげた。おそらく彼の生涯で最も大きな声であっただろう。

 その絶叫を耳にした者は、先王が不届き者に誘拐されたと信じて疑わなかったという。
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