魔の女王

香穂

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第四十話

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 夜が明ける。
 それなのにアガリエ――女王は一向に見つからない。
 どこにいるんだよ。
 ゼンは焦りを覚えていた。夜半に城内に侵入してからこちら、ずっと探し回っているのに未だ見つからないのだ。一体どこへ行ってしまったのか。
 しかも都合が悪いことに、女王を見失ったのは何もゼンだけではないらしかった。
 女王の寝所に近づこうとゼンが屋根の上を駆けていた時、すでに御殿では女官たちが主君の不在に気づき、慌てふためていた。
 おかしい。そう感じて身を潜め観察していると、やがてセイシュと呼ばれる老人がやって来た。
 女官いわく、明け方になっても起きてこない女王を不審に思い、室内を覗いたところ、女王の姿はすでになかったそうだ。
 折しも先王の誘拐事件があった直後で、周囲の警備を厳しくしたばかりらしい。そもそも昨夜は女王が寝所に入ってから今朝まで、不審者の目撃情報などは一切なく、寝所の外はいたって平穏だった。
 それなのに室内にいるはずの女王がいない。
 老人はその話を聞くなり女官たちに緘口令を敷き、決して口外するなときつく言い含めた。捜索を命じられた隊士たちが忙しなく駆けてゆく。
 どういうことだろう。
 彼らの反応からするに、女王は寝所で寝ているはずだったのだ。出入りをした様子もない。だと言うのに忽然と姿を消してしまった。
 用意周到な彼女のことだ。寝所に抜け道を作っていても驚かない。
 けれどこの騒動はなんとすれば良いのか。
 事前に抜け道を用意するくらいなら、騒ぎにならないように仕組むこともできただろう。
 そうしなかったのは、あえて騒ぎ立てることを選んだのか、もしくは彼女にとって何か不測の事態が起きたのか。
 ――それとも。
 すべてを放り出して逃げた、のだろうか。
 あのアガリエが?
 ありえない。
 それなのに咽喉が、いやもっと下の、胸の裏あたりが妙にくるしくて、つらい。
「また俺から逃げるつもりなのかな……」
 きっとゼンは、それが一番嫌なのだ。だから不安で仕方がない。
 この期に及んでアガリエが逃げるなどありえない。そんなことはわかっている。誰より理解しているつもりだ。
 アガリエがいない。そのことに御殿中が動揺している。
 それはつまりアガリエがそう望んでいるということだ。
 彼女はもうここに戻るつもりがないのかもしれない。騒ぎになったところで困らないから、何の策も施さずに姿を消した。
 また、誰の手助けも借りずに、独りで。
 どうして、たすけて欲しいと言わないのか。
 アガリエはいつだって独りで決めて実行に移してしまう。ゼンのことを利用するだけ利用して、でも決して頼ってはくれない。
 伸ばした手を振り払われて、けれど諦めずに再び伸ばそうと決意することは、こんなにも難しいのに。
 それでも彼女はきっと、ひどくあっさりと拒むのだろう。
 駄目だ。俺が諦めたら、本当にここで終わりになってしまう。
 アガリエに望まれたからじゃない。
 望まれていなくても、助けたいから助ける。
 それがマナ使いの本分から外れていることだとしてもかまわない。もう彼女の願いが何かなんて、どうでもいい。ただ彼女を放ってはおけない。
 御殿にいないのなら、もう一度斎場を探して回ろう。
 斎場もまた蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。隊士や守人、神女が総出で先王を探している。どうやら緘口令は功を奏していないらしく、女王までもが行方不明になったと聞き、泣き崩れる者の姿も幾度か見かけた。
 これでは表に知れ渡るのも時間の問題だろう。そうなる前に見つけ出し、事態を収拾したい。
 ゼンは顔見知りに会いませんようにと願いながら、斎場の廊下を歩き回った。
 けれど月神女の御殿やふたりで暮らした屋敷、拝所、どこにも女王の姿は見当たらない。
 地上にいないとなると、……地下、かな。
 顎に指をそえて思考にふけっていたその時、背後から呼び止められた。

「あなた、そこで何をしているの?」

 振り返ると、そこにいたのは神女だった。幸い顔見知りではなさそうだ。
「守人は皆、表に集えと命令が出ていますよ。どうやら宴に出席されている方々に、我が君の不在が知れ渡ってしまったようで、一体何事かと騒ぎになっているそうよ」
「ああ、予想してたより早かったなー」
「予想?」
「こちらの話です。ではさっそく表へ行ってきますね」
「お待ちなさい。あなた……」
 神女の言葉が唐突に途切れる。
 寒い。
 その悪寒をゼンも察知した。
 神女を背にかばい、周囲の様子を窺う。何かがおかしい。けれど一体何がおかしいのか。
 今日も今日とて王国は晴れだ。
 それなのに空が暗い。
「太陽が闇に喰われてゆく……」
 立ちくらみを起こしたのか、神女がその場に膝をつく。そんな彼女を気遣ってやる余裕もない。
 ゼンは庭先へ飛び降り空を見上げた。
 太陽は静かに、けれど着実に影に覆われてゆく。
 人々も異変に気づいたらしい。斎場から、いや、至る所から悲鳴にも近い叫び声が響いていた。彼らにとって太陽は神だ。その絶望たるや計り知れないものがある。
 太陽が闇に飲まれる。
 地上に届く日差しの力が薄れ、しだいに影が占める部分が大きくなっていく。寒い。まだ夜が明けたばかりだというのに周囲は薄暗く、肌寒い。
 ここ数日の寒さは、これが原因だったのか。
 ゼンは呆然とその場に立ち尽くしていた。
 脳裏に過ぎるのは、星を眺める彼女の横顔。
 思えば出逢った日の夜も、彼女はひとり夜空を見上げていた。神女は星の動きを読み、そこから神威を読み解くというが、はたしてそれだけだったのだろうか。
 彼女は星ではなく、天の動きを詠もうとしていたのかもしれない。

「神がお怒りなのだわ」

 低く呟かれたその声にゼンは我に返る。
 神女の目は瞬きも忘れ、はらはらと涙を流し続けていた。
「やはり月神女が王になるなど、許されるはずがないことだったのだわ。太陽の神のお怒りを鎮めるためにも、早く、一刻も早く、魔の女王チマジムを葬らなくては!」
「……なにを、言って」
 呼び止める間もない。神女はゆらりと立ち上がると、驚くほどの速さで廊下を駆けだした。
 ――何が、起きているんだ?
 この現象の名を、ゼンは知っている。
 数年、あるいは数十年や数百年に一度起きる現象で、それは王国の繁栄や衰退に関わらず、その時を迎えれば否応なしに起こるものだ。
 アガリエの所為じゃない。

「太陽の神がお怒りなのだ!」

 アガリエが悪いわけじゃない。

「魔の女王チマジムを探し出せ!」

 それなのに人々の憎悪は止まらない。太陽の神を崇拝するその気持ちの分だけ、太陽を失うかもしれないという恐怖心は彼らの狂気を煽った。



「魔の女王チマジムを殺せ!」

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