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第四四話
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マナで空中に火を灯す。
地下へ続く石段は長く細い。気持ちは急くが、空気が薄いため、大量に火を灯して先を照らそうとすると、自然と呼吸が苦しくなる。ゼンはまだしも本当にこの先にアガリエがいたら彼女の命に関わる。手元の灯りだけを頼りに足場の悪い道を進んでゆく。
肌にはりつく空気が重い。
水の気配がする。きっとこの先に水源がある。
やがて頭上の岩陰が急に遠のき、大きな空間に出た。
前方に灯りを向けると暗がりが揺らめく。――水だ。
水際ではなく、その奥に人の気配がある。
かまわず水の中を突き進む。乳白色の鍾乳石に覆われ足場は悪いが、旱の影響でたゆたう水は少なく、膝より上が濡れることはない。
「――アガリエ!」
水面の向こう、なだらかな岩肌の上に横たわる人影。ゼンは駆け出し、転びそうになりながら、少女の体を腕の中に抱き上げた。
閉ざされていた瞼がゆっくりと瞬きをする。
その焦点がゼンに定まるまで、奇妙な間があった。
「ゼン、さ、ま?」
「うん。どうしてこんな所にいるんだよ。探したじゃんか」
「……それは、お手間を」
言葉が続かない。少女は大儀そうに吐息し、同じだけの時間をかけて息を吸った。薄い胸元がゆっくりと上下するが、いくら地上に比べて酸素が薄いとはいえ、何かおかしい。
その表情をよく見たくて、顔にかかる髪を払いのけようとした指先が、彼女の頬に触れた瞬間、違和感は確信に変わった。
冷たい。
人肌とは思えないその冷たさに、ゼンは息を呑んだ。
「どうして、こんな……」
乾いた唇は応えない。
ただ、ふっと笑ったような気配があっただけだ。
「地上は、いかが、でしたか? 太陽は、死にましたか?」
太陽が闇に覆われたあの状態を死んだと表現するのなら。
「……ああ。みんなが大騒ぎしてる。この日が来るのを待ってたのか? 俺を城から追い出したのも、即位式だって、太陽に変異が起きることを知ってて仕組んだのか?」
「ええ。魔の女王を討ち取るのに、これほどふさわしい日も、ない、でしょうから……」
ゼンは冷たい頬に手を添える。もう一方の手で、力なく垂れた彼女の左手を取った。爪の先まで丁寧に手入れされた掌は、やはり驚くほど冷たかった。肌に刻み込まれた紋様がやけに毒々しいものに見える。
とにかく体を温めないといけない。
暗闇にささやかな光がふわりと浮かび上がる。触れる肌からぬくもりを伝えるように、ゆっくりとマナで彼女の体を包み込む。
いつか、神域にあるあの湖でしたことと同じことだ。
同じこと。
それなのにどうしてだろう。
マナを扱うことはこんなにも難しいことだっただろうか。
「どうして人生とは、己の思うままにならないのでしょうね。弟が王位に就いて、ようやく肩の荷が下りたと思ったのに、義母上があのようなふるまいをなさるなんて。人の心とは、惑いやすいものだと、……イリとは違うのだということを、愚かにもわたくしは失念していたのです」
呼吸が楽になってきたのか、言葉は聞き取りやすくなってきたが、なかなか肌には熱が戻らない。
体内にうまくマナを取り込むことができていないのだ。
マナは充分にあるのに、それを分け与えてやれないもどかしさに焦りが募る。
けれど力任せでは治るものも治らない。弱っているからこそ過剰なマナは命取りになる。
ゼンは焦る気持ちを捻じ伏せ、彼女の浅い呼吸に合わせるように、ゆっくりゆっくり、それこそ冷たい肌をあたためるように、ゆっくりとマナを注いでゆく。
大丈夫、大丈夫だからと念じながら、咽喉の奥に込み上げてくる熱を飲み込む。
ゼンの頬を伝う涙に、少女は瞬く。
「なぜ、泣いているのですか?」
「……なんでかな。アガリエが、馬鹿だからかな」
「わたくし、もう東の神女ではないのですよ」
「アガリエは、アガリエだよ」
「いいえ。魔の女王チマジムでなくては、困るのです。魔物を使役し、国を亡ぼさんとした悪しき女王。そうでなくては」
「善き女王でもいいじゃんか。イリと一緒に国の発展に尽力して、今なら俺だっているし、王様だってアガリエのことを心配してたよ。だからみんなで頑張れば、いつかきっとアガリエの望むような良い国に」
「ゼン様、わたくし、正論はいらないのです」
ゼンの眸からあふれる涙が落ちて少女の頬を濡らす。
彼女はまぶしそうに目を細めて、確かに笑った。
「はじめてゼン様にお会いした時、わたくしは本当に嬉しかったのですよ。国を亡ぼさんとすること、神にお許しいただけたようで」
「俺はっ」
そんなことを考えていたなんて。
あの日、あの海辺で、ゼンはアガリエに会えて心から嬉しかったのに。
会わなければ。――会いに来なければ、よかったのだろうか。
「俺に会わなかったらさ、アガリエは、……諦めた?」
「わたくしが? そう容易く諦めると思いますか? ここまで十年の時を経て積み重ねてきたものを、諦めるはずがないでしょう。ですからどうか悲しまないで。わたくしの行いの責任は、わたくしだけが負うべきもので、誰のせいでも、無論ゼン様のせいでもありません」
でも、と冷たい指先がゼンの頬に触れる。
「ゼン様がいてくださったから、わたくしはここまで来ることができたのです。だってゼン様はわたくしを見捨てたりしないと、わたくしは知っているのですよ。そのような格好をしてまで来てくださるとは、さすがに、思いませんでしたけれど」
「……だって斎場は男子禁制だからって、タキが」
守人に変装して――つまり女装して侵入したのだ。忘れていた。とりあえず鬘をはぎ取る。城を離れている間に少しだけ伸びた髪が、はらりと首筋に落ちた。
「ふふ。とても、お似合いですよ」
「嬉しくない」
けれどゼンだって知っているのだ。
少女が今、心から楽しそうにしていること。
こうした何気ない言葉のやりとりこそ、彼女が本当に好きなものだということを。
そんな彼女を決意させてしまったものが己であることを、心の底から疎ましく思う。
「嘘でも、王を助けて、国を救ってやるって、言えばよかった」
耳に心地よい甘い声が囁く。
「わたくしを死に場所まで連れて行ってください」
地下へ続く石段は長く細い。気持ちは急くが、空気が薄いため、大量に火を灯して先を照らそうとすると、自然と呼吸が苦しくなる。ゼンはまだしも本当にこの先にアガリエがいたら彼女の命に関わる。手元の灯りだけを頼りに足場の悪い道を進んでゆく。
肌にはりつく空気が重い。
水の気配がする。きっとこの先に水源がある。
やがて頭上の岩陰が急に遠のき、大きな空間に出た。
前方に灯りを向けると暗がりが揺らめく。――水だ。
水際ではなく、その奥に人の気配がある。
かまわず水の中を突き進む。乳白色の鍾乳石に覆われ足場は悪いが、旱の影響でたゆたう水は少なく、膝より上が濡れることはない。
「――アガリエ!」
水面の向こう、なだらかな岩肌の上に横たわる人影。ゼンは駆け出し、転びそうになりながら、少女の体を腕の中に抱き上げた。
閉ざされていた瞼がゆっくりと瞬きをする。
その焦点がゼンに定まるまで、奇妙な間があった。
「ゼン、さ、ま?」
「うん。どうしてこんな所にいるんだよ。探したじゃんか」
「……それは、お手間を」
言葉が続かない。少女は大儀そうに吐息し、同じだけの時間をかけて息を吸った。薄い胸元がゆっくりと上下するが、いくら地上に比べて酸素が薄いとはいえ、何かおかしい。
その表情をよく見たくて、顔にかかる髪を払いのけようとした指先が、彼女の頬に触れた瞬間、違和感は確信に変わった。
冷たい。
人肌とは思えないその冷たさに、ゼンは息を呑んだ。
「どうして、こんな……」
乾いた唇は応えない。
ただ、ふっと笑ったような気配があっただけだ。
「地上は、いかが、でしたか? 太陽は、死にましたか?」
太陽が闇に覆われたあの状態を死んだと表現するのなら。
「……ああ。みんなが大騒ぎしてる。この日が来るのを待ってたのか? 俺を城から追い出したのも、即位式だって、太陽に変異が起きることを知ってて仕組んだのか?」
「ええ。魔の女王を討ち取るのに、これほどふさわしい日も、ない、でしょうから……」
ゼンは冷たい頬に手を添える。もう一方の手で、力なく垂れた彼女の左手を取った。爪の先まで丁寧に手入れされた掌は、やはり驚くほど冷たかった。肌に刻み込まれた紋様がやけに毒々しいものに見える。
とにかく体を温めないといけない。
暗闇にささやかな光がふわりと浮かび上がる。触れる肌からぬくもりを伝えるように、ゆっくりとマナで彼女の体を包み込む。
いつか、神域にあるあの湖でしたことと同じことだ。
同じこと。
それなのにどうしてだろう。
マナを扱うことはこんなにも難しいことだっただろうか。
「どうして人生とは、己の思うままにならないのでしょうね。弟が王位に就いて、ようやく肩の荷が下りたと思ったのに、義母上があのようなふるまいをなさるなんて。人の心とは、惑いやすいものだと、……イリとは違うのだということを、愚かにもわたくしは失念していたのです」
呼吸が楽になってきたのか、言葉は聞き取りやすくなってきたが、なかなか肌には熱が戻らない。
体内にうまくマナを取り込むことができていないのだ。
マナは充分にあるのに、それを分け与えてやれないもどかしさに焦りが募る。
けれど力任せでは治るものも治らない。弱っているからこそ過剰なマナは命取りになる。
ゼンは焦る気持ちを捻じ伏せ、彼女の浅い呼吸に合わせるように、ゆっくりゆっくり、それこそ冷たい肌をあたためるように、ゆっくりとマナを注いでゆく。
大丈夫、大丈夫だからと念じながら、咽喉の奥に込み上げてくる熱を飲み込む。
ゼンの頬を伝う涙に、少女は瞬く。
「なぜ、泣いているのですか?」
「……なんでかな。アガリエが、馬鹿だからかな」
「わたくし、もう東の神女ではないのですよ」
「アガリエは、アガリエだよ」
「いいえ。魔の女王チマジムでなくては、困るのです。魔物を使役し、国を亡ぼさんとした悪しき女王。そうでなくては」
「善き女王でもいいじゃんか。イリと一緒に国の発展に尽力して、今なら俺だっているし、王様だってアガリエのことを心配してたよ。だからみんなで頑張れば、いつかきっとアガリエの望むような良い国に」
「ゼン様、わたくし、正論はいらないのです」
ゼンの眸からあふれる涙が落ちて少女の頬を濡らす。
彼女はまぶしそうに目を細めて、確かに笑った。
「はじめてゼン様にお会いした時、わたくしは本当に嬉しかったのですよ。国を亡ぼさんとすること、神にお許しいただけたようで」
「俺はっ」
そんなことを考えていたなんて。
あの日、あの海辺で、ゼンはアガリエに会えて心から嬉しかったのに。
会わなければ。――会いに来なければ、よかったのだろうか。
「俺に会わなかったらさ、アガリエは、……諦めた?」
「わたくしが? そう容易く諦めると思いますか? ここまで十年の時を経て積み重ねてきたものを、諦めるはずがないでしょう。ですからどうか悲しまないで。わたくしの行いの責任は、わたくしだけが負うべきもので、誰のせいでも、無論ゼン様のせいでもありません」
でも、と冷たい指先がゼンの頬に触れる。
「ゼン様がいてくださったから、わたくしはここまで来ることができたのです。だってゼン様はわたくしを見捨てたりしないと、わたくしは知っているのですよ。そのような格好をしてまで来てくださるとは、さすがに、思いませんでしたけれど」
「……だって斎場は男子禁制だからって、タキが」
守人に変装して――つまり女装して侵入したのだ。忘れていた。とりあえず鬘をはぎ取る。城を離れている間に少しだけ伸びた髪が、はらりと首筋に落ちた。
「ふふ。とても、お似合いですよ」
「嬉しくない」
けれどゼンだって知っているのだ。
少女が今、心から楽しそうにしていること。
こうした何気ない言葉のやりとりこそ、彼女が本当に好きなものだということを。
そんな彼女を決意させてしまったものが己であることを、心の底から疎ましく思う。
「嘘でも、王を助けて、国を救ってやるって、言えばよかった」
耳に心地よい甘い声が囁く。
「わたくしを死に場所まで連れて行ってください」
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