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1 ギャルの釣果は男の娘?

1-4 はじめての釣り

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 しゅるしゅると疾るロケット状の容器――よく見ると、ウキと何本か針が連なっている――が数十メートルくらい先の海に着水した。
 ウキが海面にぴょんと立つ。
 その様がいかにも決まっていたのか、少し離れた隣からどこかいぶかしむように朋美さんと僕を見ていた初老くらいの釣り人が目を丸くする。
 釣りはしたことないけど、綺麗に飛ばした朋美さんの腕前が相当なものなんだろうという気がした。
 椅子に座ろうとした僕を朋美さんが呼ぶ。
「ごめーん、そこにさ、ロッドホルダー入ってるから取ってくんない?」
 便利な道具箱というか、クーラーボックスの上にある箱には何でも入ってるのだろうか。
 開けて見る。ライターはあるのに煙草はない。部屋からも車からも――彼女からも、煙草の匂いはしないので吸わないんだろうけど、じゃあこのライターは?
 疑問符は浮かぶものの僕はコンテナを探り、それっぽい形の器具を朋美さんに見せる。
「そうそれ、ありがと」
 朋美さんは竿を柵に一旦立てかけて、そのU字型のホルダーを柵に固定した。
 そこに竿を挟んでから、ようやく座った僕のほうにやってくる。
「体調どう? 気持ち悪くなってない?」
 頷く。
「無理しないでね。水分補給もして――」
 と、ドリンクホルダーに差していたペットボトルを取って多めに一口飲む。
 ――それ、僕の飲みかけ……
 と言い出せないまま朋美さんはさらにクーラーボックスからレジ袋を出してきた。
「いっちゃんはどれがいい?」
 袋の中身は、コンビニおにぎりだった。
 適当にひとつ、ツナマヨをもらう。
 塩むすびを取ったところで、朋美さんがペットボトルを見直す。
「あっ――このお茶、いっちゃんのか」
 未開封だったもう一本を見て苦笑して、半分くらいになった方を僕の手に戻す。
「こっちも開けて、飲んでいいからね、ごめんね」
「あ、いえ……」
 朋美さんが、竿が揺れているのに気付く。
 遠くに見えていたウキが、消えていた。
 朋美さんが短く「んっ」と喉を鳴らして食べかけのおにぎりを口に詰め込んで竿に飛びつく。
 ホルダーから外した竿を「っし――きたきたぁ」と呟きながら脇に挟み、慎重な手つきで糸を巻いてゆく。
 竿先がぐいぐい曲がる。
「――ゃっ」
 朋美さんが竿を立てて持ち上げる。
 魚が一匹、その先にかかっていた。
「おおっ」
 開いているペットボトルの麦茶を飲もうかどうしようか――僕のと朋美さんのリップが残っているし、これって――とドキドキしていたのを忘れて、つい声がもれる。
 さっきの釣り人も、朋美さんに注目していた。
 満足気に朋美さんは魚を素手でつかみ、手早くかかっていた針を外して、海水で満たしていたロープつきバケツにするりと入れた。
「幸先いいね」
 魚は二十センチくらいか、バケツの中で暴れるように泳ぎ回っている。
 心底嬉しそうな、朋美さんの笑顔が眩しくて、こんな表情になれる釣りに興味が湧く。
「何ですか、こいつ」
「アジ。見たことない?」
 竿をまた柵に立てかけて、朋美さんが振り返る。
「泳いでるのは初めてです。スーパーだと開いてたりするし」
「スーパー行くんだ。一人暮らしって言ってたね、自炊してるの?」
「ええ、まあ」
 曖昧に答える。けど、料理はけっこう好きだ。
 アジ――というか魚ってどうやって料理するんだろう、釣りもだけどそっちも気になる。
「偉いね」
 朋美さんが笑う。
「アタシなんて、適当に切って焼くくらい。そもそもあんまし料理できないからだいたい外かコンビニ」
 楽しそうに僕を見ていた。
「顔色もよくなってきたね。やってみる?」
 と、竿を僕に示した。
「え、でも朋美さんは……」
「予備ロッドあるよ。じゃ、そっちでやってみよっか」
 僕の返答を待たずに、朋美さんは竿の入っていたケースから、もう一本の竿を出していた。
 朋美さんのより、細い感じだ。
 あの箱からリールも出してきて、かちっと組み付ける。
「はい」
 その状態で、僕の手に渡される。
「伸ばしてって、ガイドの向きは合わせて――」
 と、僕の手を導いてゆく。
 密着するくらい近くなって、また朋美さんの香りに包まれて、鼓動が早まる。
 見る見る内に竿は三メートルくらいの長さになり、リールから伸びた糸の先に数本の連なった針と細長いカゴが付けられた。
 朋美さんのと、ちょっと違う。
「ウキは付けないんですか?」
「あれは、タナ固定するため」
 おそるおそる竿を持つ。
「リールのそこを挟んで――そうそう。で、糸を指で押さえて、ベールを立てる」
 手を引かれて、腰を上げる。
 右手でさっきよりしっかり竿を握って海に近付き、ぷらぷらしていた針とカゴ――いつの間にか、朋美さんがそこにアミエビを詰めていた――を柵の向こうにやる。
「指離したら落ちてくから、それで少し放置して――」
 言われるまま糸を押さえていた人差し指を伸ばすと、カゴが落ちていって水音を立てた。
 糸がしゅるしゅると出てどんどん海に飲み込まれていく。
 不安になって朋美さんを見上げるとニコニコしている。
 このままでいいんだ――と思ってる内に、繰り出されていた糸が止まった。
「持ち替えて、そこでベール倒して、ちょっと巻き上げて、糸フケ取って」
 竿を左手にしてレバーを何度か回すと、糸がぴんと張った。
「あとは待つだけ。ちょっと上下に揺らしてみるとかしてもいいけどね」
 そう言いながら、朋美さんは自分のほうにまたエサを入れて勢いよく振る。
 小気味いい音と、キリッと構える朋美さんが格好いい。
「サビキはね、基本的には待ちだからのんびり海眺めていいよ」
 そう言う朋美さんも、竿を軽そうに持って柵に肘をかけている。
 とはいえ様子が気になって、僕はそれほど待たずに糸を巻き上げる。
 ――針には何もかかっていなく、カゴのアミエビはなくなっていた。
「もうちょっと待ってみてもいいかも」
 朋美さんは僕の竿――借り物だけど――のカゴにもう一度エサを入れて、促す。
 海に落としたところで、朋美さんが言う。
「底に着いたら、少し上げる感じで巻いてみて」
 難しそうなことを、いま竿持ったのが初めての人に――と思ったけど、糸が出ていくのが収まったところで竿を持っている手に『とん』とごくかすかな衝撃が届いた。
 ベールを倒して、少し巻くと浮いた重みが手に伝わる。
 竿先を下げるとまた同じ、重量感の抜ける感触がある。
 なるほど、これか。
「ぼんやり海見るの、好きなんだよね」
 朋美さんが近寄ってくる。
「いっちゃんはどう思う? あまり何も考えずに、こうやって海を眺めるだけって」
「そう――ですね」
 なんとなく解る。
 昨夜のこととか、そこからの結果で今、朋美さんとこうして釣りに来ていることとか、今の格好とか、学校のこととか、実家のこととか、色々なことを置いていってただぼうっと景色を見るのは何か、楽になる気がする。
 ふと、すぐ隣の朋美さんを見る。
 朋美さんはゆったりした目つきで遠くに視線を飛ばしていた。
 今までイメージしていた「ギャル」とはずいぶん印象の差がある人だけど、それは悪い意味で、じゃない。
「なんか――いい、ですね」
 僕が言うと、朋美さんは「でしょっ」と嬉しそうな笑顔を見せる。
 ドキッとした僕は照れ隠しのように竿に注目を移す。
 左手に、こつこつと細かな振動がきていた。
「ん?」
 朋美さんを呼ぼうとして――ぶるぶるっ! と震える。
「わっ!」
 つい声を上げて、竿を強く握った。
 手に感じるより竿の揺れは穏やかだけど、カゴの重みと違う引っ張られている感じがする。
「と、朋美さんっ」
「きた? 慎重に、でもダラけないように引いて」
 ぐるぐるとレバーを回す。
 見えない海の中でバタバタ暴れられているような引きが続く。
 もしかして、けっこう大きいのが……?
 針とカゴが見えてきた。
「やった――えっ?」
 連なる針のひとつに、魚がかかっていた――けど、想像したのよりずいぶん小さい。
 引き上げる。
 十センチもない細い魚だった。朋美さんの釣ったアジとは、見た目も違う。
「おおっ、いいじゃん」
「えっと、ど、どうしたら――」
はり外してあげなきゃ。できる?」
「あ――はい」
 見様見真似で魚を掴むと、大人しくなってたのがまた暴れる。
 左手の竿を置いて、爪で小さな針をひねるようにして外して、さっきのアジが入っているバケツに飛び込ませる勢いで入れた。
「やったね、初釣りで初釣果、いいじゃない」
「ても、小さいような……」
「この時期のイワシはこれくらいだよ」
 そう言ってくれて、手を取られる。
「鱗拭いて、すぐ次入れよう。時合きてるのかも」
 隣で竿を出していたオジサンの視線はすっかり変わって、どこか羨んでいるようにも見えた。
 僕と目が合う。朋美さんとも合ったのか、朋美さんがにこやかに会釈すると慌てたように挨拶を返してから向きを変えた。
 僕の手には、小さな鱗が何枚も残っていた。
 乾いてパリパリしてきている。見ると、バケツの中のイワシの色が斑になっていた。
 鱗がはがれたらこうなるのか――ウェットシートをもらって手を拭いて、空になっていたカゴにまたアミエビを入れる。
 さっきの感覚が手によみがえってくる。
 あの手応えと、上がってきた時の達成感。
 ――釣り、楽しい。

 それからぽつぽつと、僕はイワシをもう一匹、朋美さんはアジを数匹――小さいものは「大きくなれよ~」と海に返していた――釣って、僕の初めての釣りは終了した。
 朋美さんが用意していたアミエビを使い切ったのは、昼過ぎだった。

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