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第ニ帖 菊羽
2-2 菊羽
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◆◇
この頃の鏡は、青銅に水銀でメッキを施したものである。
手入れをしなければ、すぐに曇ってしまう。
鴻上舎人に呼ばれてから数日のち、巽丸は初めて、その鏡台というものの前にいた。
「こ、これが、おれ――」
そこに映る姿に、衝撃を抑えられない色の声がつむがれる。
怠らずに丹念に磨かれた鏡の中には、戸惑いを隠せない様子の巽丸の顔があった。
髪は継ぎ足されて島田に結い上げられ、今まで着たことはもちろん、持ってもいない、鮮やかな朱色の地に牡丹と菊を散りばめた振袖をまとい、七宝柄の帯を締められている。
まだまだ男の兆しも少なかった顔は産毛から剃られ、眉の形を整え、薄めに白粉が塗られ、唇には紅がふっくらと乗せられている。
ふわりと色づいた頬のさまが、まさに、年頃の娘のようであった。
促されて、立ち上がる。
ちなみに、振袖といっても、現代のものほど袖は長くない。
微笑みながら裾を整えているのは、舎人の妻女である。
化粧を施したのもまた、彼女であった。
「なかなか、よいの」
満足気に頷いて立ち上がり、巽丸の尻を軽く叩く。
「お、おれ、こんな……」
すっかり娘らしくなった巽丸は自分の格好を見回し、鏡で自分の顔を再度覗き込んだり、そわそわとどうにも落ち着かない態度がおさまらないでいる。
「武家の女子がそのような言葉を使うでない。いまどき町の娘でも『わたくし』か『わたし』と言うぞ。
おれ、ではなく妾、と言ってみなさい」
舎人の妻はそう言って巽丸の肩に手を置く。
「あ、あの、おれ、男――」
「聞いておる。男子として育てられてきたのだとか」
「あ、えっと……」
「泰平の世に、難儀なことじゃ。聞けばそなた、御母堂も早くに亡くされたそうじゃな。
それだと女のこと、知らぬのであろう? それも教えてやろうかの」
「あ、いや、そんな。
ご面倒では……」
「気兼ねせずともよい。妾には娘も孫娘もおらぬゆえ、この歳にしてはじめて娘の世話をしておるような心持ちで、嬉しいのじゃ」
楽しげにそう言って、舎人の妻はふふ、と笑う。
鴻上舎人には息子ばかりで、昨年産まれた孫もまた、男子であった。
この日、舎人宅に父ともども呼ばれたのち、玄信とは行き先を分けられていた。
それから、舎人の妻ともう一人の侍女にされるがまますべて――締めていた褌も含めて脱がされた。
女物の衣も化粧道具も、つけ毛までもが用意されており、こうして女らしく仕上げられたのだった。
舎人の妻が廊下へ向かう。
控えていた侍女に命じて、舎人を呼びに遣わせる。
ほどなくして舎人と、玄信がこの部屋にやって来た。
男ふたり、所在なさげにただ立つ巽丸の変身ぶりに感嘆の声をあげる。
「おお、これは見違えた。なんとも愛らしい娘御ではないか、のう左兵衛」
「は」
舎人よりも目を丸くしていた玄信は、ただ頷くばかりだった。
「父上、おれ……」
「おれはやめなさいと言うに」
舎人の妻が口を挟むが、厳しくはない。
「まあ、急には難しかろうが」
そう苦笑して、玄信に言う。
「左兵衛どの、妾は女子を授からば『菊』の字をつけようと思っておったのじゃが、知っての通り男にばかり恵まれてその機もない。
そなたの娘に贈りたいが、よいか」
「――仰せのままに」
あらためて、玄信が頭を下げる。
やはり、断れるものではないが、
「では、菊羽、と」
と、一字足す。
舎人がほう、としばし考えるように顎に手をやった。
「荘子に『図南の翼』とある。九万里をゆく羽を娘に望むか」
そう言って笑う。
この時代、宋代の『荘子口義』が広く読まれている。
舎人の深読み違いではあるのだが、玄信はやはり言を返さずにいた。
巽丸は何か訴えるような目線を父に送り、玄信はわずかに首を横に振って見せた。
「こういうものはけじめじゃからの、慣れぬことで窮屈だろうがしかと執り行うぞ。
よいな、巽丸」
それには気付いた様子のない舎人が一同を促してその部屋を出る。
外は、快晴だった。
日は、舎人が吉日を選んでいた。
玄信がもう一度、巽丸を見てそっと首を振る。
巽丸は見開き気味の目で、天を仰いだ。
こうして、巽丸は女として成人し、名を、菊羽と改めたのだった。
小袖に着替えさせられ、帰宅してなお、巽丸――菊羽は、娘のようであった。
ふたりが帰ったのはもう、すっかり陽も暮れた頃で、さすがに疲労の色を隠せないでいた。
玄信が言う。
「大変だったな、巽丸――いや、菊羽、か」
元服の儀のあと、菊羽は舎人の妻に武家の娘の心得から床の作法まで教え込まれ、短刀をひと振りいただいていた。
「女に、なっちまったんだな、私……」
結い上げた髪に触れ、着ているものを見て、溜め息の多い声をもらす。
数刻で、菊羽は己のことを『おれ』と『妾』との妥協の結果、『私』と言うように叩き込まれていた。
「――心を保つことだ。いずれ道も拓ける、よいな」
数日前、弧月斎の妖術より回復し、肉体の変化を知った時と同じくらい、菊羽は肩の力を抜き落としていた。
「どのような姿であっても、お前はわしの息子じゃ」
土間で玄信が言い、菊羽は隣の父を見上げる。
「父上?」
「わしは己に言い聞かせた。お前もそう思っておればよい」
「でも、菊羽だなんて……」
玄信が下駄を脱ぎ、菊羽もそれに合わせた。
「名も姿も、乱波のつとめにおいては要ではない。状況を受け入れ、そこに合わせて忍ぶことこそが肝要と心得よ」
あっ、と菊羽の目がやや大きくなる。
それは、玄信が息子の幼いころより言い聞かせてきていたことの一つだった。
菊羽は、島田髷に手をやる。
いまだに晴れきれない表情ではあるが、
「承知、しました――」
と拳を握った。
その上でなお、
「でもやっぱり、男に戻りたいよ……」
とも呟く。
大叔父が言ったのは、その夜であった。
数日で、大叔父も変化した巽丸に慣れつつあったが、あらためて菊羽となったことを報告するとまた、驚いた色の片目を菊羽に向けた。
ひととおりの話のあと、しばし黙してから、口を開く。
「玄信、おぬしの師は何か知らぬか」
「師、ですか」
「伊賀にて力のある者の流れを学んだのであろう? その師はいま、どうしておる」
玄信はむう、と唸った。
順影老の言う通り、玄信が若い頃に師事したのは伊賀の忍びの一人であった。
この大叔父はというと、玄信とは異なる術を習得している。
順影老の知るところでは、菊羽にかけられた術について皆目見当がつかない、というのは数日前に出ていた。
霾の縁者は、そのようにして、各地に分かれていた。
玄信が順影をこの地に呼び、こうして居を同じくしているのは菊羽の祖父――玄信の父の遺言に近い頼みからであるが、それについてはこの話との関わりは薄い。
大叔父の案を聞いた菊羽は、
「父上、伊賀でもどこでも、男に戻れるなら行きたいっ。私一人ででも」
と、父に詰め寄る。
「どこですか? 教えてください、父上っ」
「――隠遁、されておる」
しばらく間をおいたのち、じわりと玄信は言った。
「行ったところで、会うてくれるか判らんぞ。
それでも、行くか?」
「はいっ」
間髪入れずに菊羽は頷いていた。
「わかった。
一筆書いてやるから、菊羽は己の支度をしておくように」
「支度?」
玄信は菊羽の肩をゆるりと掴んで、座り直させる。
「旅の支度じゃ。
百里はあるぞ」
父の手が、やや力を増す。
浮きかけた菊羽の腰が、下ろされる。
「心情逸るな。
意志焦るな。
気を乱すな。
教えているだろう。常に平らかなる心であれ、と。忘れたか」
「いえ。でも――」
「用意を怠ってうまくいくことなどない。
事を為すには、それより前の備えの方に重きをおくことだ」
「でもこれは、私ひとりの問題だし――」
「それでも、だ」
玄信はゆっくりとした調子で、話す。
「無手で知らぬ土地へ行き、疑いを持たれたらどうする」
「それは……」
「そうならぬための、支度だ。わかったな」
「――はい」
すぐにでも飛び出しそうな菊羽だったが、父の手と言葉に落ち着きを取り戻させられたように、渋々ながらも頷いた。
この頃の鏡は、青銅に水銀でメッキを施したものである。
手入れをしなければ、すぐに曇ってしまう。
鴻上舎人に呼ばれてから数日のち、巽丸は初めて、その鏡台というものの前にいた。
「こ、これが、おれ――」
そこに映る姿に、衝撃を抑えられない色の声がつむがれる。
怠らずに丹念に磨かれた鏡の中には、戸惑いを隠せない様子の巽丸の顔があった。
髪は継ぎ足されて島田に結い上げられ、今まで着たことはもちろん、持ってもいない、鮮やかな朱色の地に牡丹と菊を散りばめた振袖をまとい、七宝柄の帯を締められている。
まだまだ男の兆しも少なかった顔は産毛から剃られ、眉の形を整え、薄めに白粉が塗られ、唇には紅がふっくらと乗せられている。
ふわりと色づいた頬のさまが、まさに、年頃の娘のようであった。
促されて、立ち上がる。
ちなみに、振袖といっても、現代のものほど袖は長くない。
微笑みながら裾を整えているのは、舎人の妻女である。
化粧を施したのもまた、彼女であった。
「なかなか、よいの」
満足気に頷いて立ち上がり、巽丸の尻を軽く叩く。
「お、おれ、こんな……」
すっかり娘らしくなった巽丸は自分の格好を見回し、鏡で自分の顔を再度覗き込んだり、そわそわとどうにも落ち着かない態度がおさまらないでいる。
「武家の女子がそのような言葉を使うでない。いまどき町の娘でも『わたくし』か『わたし』と言うぞ。
おれ、ではなく妾、と言ってみなさい」
舎人の妻はそう言って巽丸の肩に手を置く。
「あ、あの、おれ、男――」
「聞いておる。男子として育てられてきたのだとか」
「あ、えっと……」
「泰平の世に、難儀なことじゃ。聞けばそなた、御母堂も早くに亡くされたそうじゃな。
それだと女のこと、知らぬのであろう? それも教えてやろうかの」
「あ、いや、そんな。
ご面倒では……」
「気兼ねせずともよい。妾には娘も孫娘もおらぬゆえ、この歳にしてはじめて娘の世話をしておるような心持ちで、嬉しいのじゃ」
楽しげにそう言って、舎人の妻はふふ、と笑う。
鴻上舎人には息子ばかりで、昨年産まれた孫もまた、男子であった。
この日、舎人宅に父ともども呼ばれたのち、玄信とは行き先を分けられていた。
それから、舎人の妻ともう一人の侍女にされるがまますべて――締めていた褌も含めて脱がされた。
女物の衣も化粧道具も、つけ毛までもが用意されており、こうして女らしく仕上げられたのだった。
舎人の妻が廊下へ向かう。
控えていた侍女に命じて、舎人を呼びに遣わせる。
ほどなくして舎人と、玄信がこの部屋にやって来た。
男ふたり、所在なさげにただ立つ巽丸の変身ぶりに感嘆の声をあげる。
「おお、これは見違えた。なんとも愛らしい娘御ではないか、のう左兵衛」
「は」
舎人よりも目を丸くしていた玄信は、ただ頷くばかりだった。
「父上、おれ……」
「おれはやめなさいと言うに」
舎人の妻が口を挟むが、厳しくはない。
「まあ、急には難しかろうが」
そう苦笑して、玄信に言う。
「左兵衛どの、妾は女子を授からば『菊』の字をつけようと思っておったのじゃが、知っての通り男にばかり恵まれてその機もない。
そなたの娘に贈りたいが、よいか」
「――仰せのままに」
あらためて、玄信が頭を下げる。
やはり、断れるものではないが、
「では、菊羽、と」
と、一字足す。
舎人がほう、としばし考えるように顎に手をやった。
「荘子に『図南の翼』とある。九万里をゆく羽を娘に望むか」
そう言って笑う。
この時代、宋代の『荘子口義』が広く読まれている。
舎人の深読み違いではあるのだが、玄信はやはり言を返さずにいた。
巽丸は何か訴えるような目線を父に送り、玄信はわずかに首を横に振って見せた。
「こういうものはけじめじゃからの、慣れぬことで窮屈だろうがしかと執り行うぞ。
よいな、巽丸」
それには気付いた様子のない舎人が一同を促してその部屋を出る。
外は、快晴だった。
日は、舎人が吉日を選んでいた。
玄信がもう一度、巽丸を見てそっと首を振る。
巽丸は見開き気味の目で、天を仰いだ。
こうして、巽丸は女として成人し、名を、菊羽と改めたのだった。
小袖に着替えさせられ、帰宅してなお、巽丸――菊羽は、娘のようであった。
ふたりが帰ったのはもう、すっかり陽も暮れた頃で、さすがに疲労の色を隠せないでいた。
玄信が言う。
「大変だったな、巽丸――いや、菊羽、か」
元服の儀のあと、菊羽は舎人の妻に武家の娘の心得から床の作法まで教え込まれ、短刀をひと振りいただいていた。
「女に、なっちまったんだな、私……」
結い上げた髪に触れ、着ているものを見て、溜め息の多い声をもらす。
数刻で、菊羽は己のことを『おれ』と『妾』との妥協の結果、『私』と言うように叩き込まれていた。
「――心を保つことだ。いずれ道も拓ける、よいな」
数日前、弧月斎の妖術より回復し、肉体の変化を知った時と同じくらい、菊羽は肩の力を抜き落としていた。
「どのような姿であっても、お前はわしの息子じゃ」
土間で玄信が言い、菊羽は隣の父を見上げる。
「父上?」
「わしは己に言い聞かせた。お前もそう思っておればよい」
「でも、菊羽だなんて……」
玄信が下駄を脱ぎ、菊羽もそれに合わせた。
「名も姿も、乱波のつとめにおいては要ではない。状況を受け入れ、そこに合わせて忍ぶことこそが肝要と心得よ」
あっ、と菊羽の目がやや大きくなる。
それは、玄信が息子の幼いころより言い聞かせてきていたことの一つだった。
菊羽は、島田髷に手をやる。
いまだに晴れきれない表情ではあるが、
「承知、しました――」
と拳を握った。
その上でなお、
「でもやっぱり、男に戻りたいよ……」
とも呟く。
大叔父が言ったのは、その夜であった。
数日で、大叔父も変化した巽丸に慣れつつあったが、あらためて菊羽となったことを報告するとまた、驚いた色の片目を菊羽に向けた。
ひととおりの話のあと、しばし黙してから、口を開く。
「玄信、おぬしの師は何か知らぬか」
「師、ですか」
「伊賀にて力のある者の流れを学んだのであろう? その師はいま、どうしておる」
玄信はむう、と唸った。
順影老の言う通り、玄信が若い頃に師事したのは伊賀の忍びの一人であった。
この大叔父はというと、玄信とは異なる術を習得している。
順影老の知るところでは、菊羽にかけられた術について皆目見当がつかない、というのは数日前に出ていた。
霾の縁者は、そのようにして、各地に分かれていた。
玄信が順影をこの地に呼び、こうして居を同じくしているのは菊羽の祖父――玄信の父の遺言に近い頼みからであるが、それについてはこの話との関わりは薄い。
大叔父の案を聞いた菊羽は、
「父上、伊賀でもどこでも、男に戻れるなら行きたいっ。私一人ででも」
と、父に詰め寄る。
「どこですか? 教えてください、父上っ」
「――隠遁、されておる」
しばらく間をおいたのち、じわりと玄信は言った。
「行ったところで、会うてくれるか判らんぞ。
それでも、行くか?」
「はいっ」
間髪入れずに菊羽は頷いていた。
「わかった。
一筆書いてやるから、菊羽は己の支度をしておくように」
「支度?」
玄信は菊羽の肩をゆるりと掴んで、座り直させる。
「旅の支度じゃ。
百里はあるぞ」
父の手が、やや力を増す。
浮きかけた菊羽の腰が、下ろされる。
「心情逸るな。
意志焦るな。
気を乱すな。
教えているだろう。常に平らかなる心であれ、と。忘れたか」
「いえ。でも――」
「用意を怠ってうまくいくことなどない。
事を為すには、それより前の備えの方に重きをおくことだ」
「でもこれは、私ひとりの問題だし――」
「それでも、だ」
玄信はゆっくりとした調子で、話す。
「無手で知らぬ土地へ行き、疑いを持たれたらどうする」
「それは……」
「そうならぬための、支度だ。わかったな」
「――はい」
すぐにでも飛び出しそうな菊羽だったが、父の手と言葉に落ち着きを取り戻させられたように、渋々ながらも頷いた。
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