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第五帖 旅立
5-1 役目
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夜が白じんできた頃に、菊羽は姫木の陣屋に入った。
ぼろぼろになった襦袢と汚れて擦り切れた腰巻という、人にはおいそれと見せられない格好で、刀も失っていた。
書だけは、大事に抱えて戻ってきた。
この時間に役所の奥――環の寝所へ行くわけにはいかず、陣屋のはずれに近いところにある実家へ向かう。
隠しきれない気配を識り起きてきた父に、事情を話そうとするが、張っていた糸が切れたように菊羽はふっつりと崩れ落ちてしまった。
玄信が抱きとめて、床へ運ぶ。
――目を覚ましたのは、日の昇りかける昼前であった。
漁火に斬られた脇腹は、玄信が手当てしていた。
忍びの膏薬を厚く塗って油紙をあてて、包帯を巻かれていることに菊羽は気付き、全身を確かめる。
汚れも拭き取られ、髪は解かれている。
体は、やはり女であった。
わずかなため息をこぼし、起き上がった。
家の中には、菊羽のほかに誰もいなかった。
菊羽はほとんど裸で家じゅう回り、大叔父も不在であることに首を傾げる。
それから、支度をはじめた。
そこだけは男を残したいかのように、褌を身に着ける。
盥に水を張って、竈で湯を沸かし、髪を洗う。
洗髪に使うふのりや椿油など、菊羽が女になるまでは見たことのなかった女性の道具が、いつの間にか用意されていた。
じっくり拭って水気を減らし、消していなかった竈の火で乾かし、結い上げる。
そこに、江戸で環に買ってもらった櫛を差した。
菊葉の知らぬ間に増えている女物の中から、萌黄に波の柄を刺繍した小袖を選ぶ。
唇に、わずかに紅を乗せる。
年頃の武家の娘らしく装って、菊羽が家を出た頃には、昼を過ぎていた。
役所へ向かう。
環の女中であることを示し、咎められることなく中へ入る。
奥へ行く前に用人部屋に顔を出すと、玄信がいた。
「もう、よいのか」
二人で廊下へ出たところで心配そうに聞いてくる父に、菊羽は微笑んで見せた。
「はい――父上。寝ていられません」
そうか、と短く息を吐いた玄信に、菊羽は声を潜めて続けた。
「これから環さまのところへ行きますが、火急の報せがあるのです。
殿のお具合は、どうなっているのですか?」
「いまだに、伏せってしまわれたままだ」
玄信は素早く周囲を窺い、菊羽と同じくらい抑えた声で言う。
「ならば、ご家老も呼ぶか。
妹姫さまとのお話は、どれほどかかりそうだ」
「――一刻、いや、半刻ほどで」
「わかった」
玄信は、ふっと頬を崩して菊羽の――すっかり娘となったもと息子の肩に、柔らかく手を置いた。
「よくやったな、菊羽」
菊羽は目を丸くしてから「はいっ」と笑顔で頷いた。
女中部屋に入ってきた環は、短い距離を駆け寄って菊羽を抱き締めた。
「菊羽っ! よう帰ってきた……」
「環さま――ぁ」
唇が重なる。
さすがに、すぐ離れる。
「どうであった」
環は、菊羽が帰国した理由を察していた。
ほとんど抱き合ったままの位置で、環は扇子をわずかに開いてふたりの口元を廊下側から見えないように立てて持つ。
片手は繋いだままでいる。
菊羽は小さく頷いた。
「右近衛権中将が後ろ盾、と」
環は目を丸くした。
「また、尾張か――」
呆れと怒りの混じった調子で、環が吐き捨てるように言う。
「もしや、以前に菊が探った間者とも関わりがあるのやもな」
菊羽はなるほど、と頷く。
「それで、ご家老どのと、父上とも話し合いとうございます」
「そうじゃな。悠長なことはやっておれんかも知れん」
環が眉をひそめる。
「兄上が、一向に回復せん」
「はい」
父から聞いたと、菊羽は真剣な面持ちで頷く。
「そのことでも、お知らせが」
「そうか」
環はふたたび、菊羽を抱く力を強くした。
「短い間によく調べたのう」
「――乱破、ですから」
ふふ、と環が微笑む。
「そうじゃな、菊」
抱き合った背を撫でる。
「まことに、ようやった。
よし、従兄どのの好きにはさせぬぞ」
環の瞳が、熱を帯びていた。
筆頭家老である鴻上舎人と、用人霾玄信と、領主の妹である小浦環の三人に、菊羽は江戸での経緯を報告した。
三人三様、それぞれに唸る。
菊葉が持ち帰った丸薬は、玄信が調べることとなる。
「これは、謀反じゃな」
舎人が断じた。
「酉谷――どのが、どのような密約を交わしておるのかはともかく、謀反の企みであることに相違ない」
玄信を見る。
「その薬、どれほどで効能が判る」
「いや――しばらく。
服んでみればすぐでしょうが……」
「私が――」
「駄目じゃ」
菊羽が実験台を名乗り出ようとしてすぐに、環に袖を引かれる。
「妾の菊に、人身御供などさせるものか」
舎人が、声をあげて笑った。
「いつの間にそれほど親しくなられたのか。歳の近いおなご同士、微笑ましいな。
のう玄信」
同意を求められた玄信は、二人の様子に苦笑気味の首肯を返したのだった。
後日わかったことではあるが、丸薬は、毒であった。
ぼろぼろになった襦袢と汚れて擦り切れた腰巻という、人にはおいそれと見せられない格好で、刀も失っていた。
書だけは、大事に抱えて戻ってきた。
この時間に役所の奥――環の寝所へ行くわけにはいかず、陣屋のはずれに近いところにある実家へ向かう。
隠しきれない気配を識り起きてきた父に、事情を話そうとするが、張っていた糸が切れたように菊羽はふっつりと崩れ落ちてしまった。
玄信が抱きとめて、床へ運ぶ。
――目を覚ましたのは、日の昇りかける昼前であった。
漁火に斬られた脇腹は、玄信が手当てしていた。
忍びの膏薬を厚く塗って油紙をあてて、包帯を巻かれていることに菊羽は気付き、全身を確かめる。
汚れも拭き取られ、髪は解かれている。
体は、やはり女であった。
わずかなため息をこぼし、起き上がった。
家の中には、菊羽のほかに誰もいなかった。
菊羽はほとんど裸で家じゅう回り、大叔父も不在であることに首を傾げる。
それから、支度をはじめた。
そこだけは男を残したいかのように、褌を身に着ける。
盥に水を張って、竈で湯を沸かし、髪を洗う。
洗髪に使うふのりや椿油など、菊羽が女になるまでは見たことのなかった女性の道具が、いつの間にか用意されていた。
じっくり拭って水気を減らし、消していなかった竈の火で乾かし、結い上げる。
そこに、江戸で環に買ってもらった櫛を差した。
菊葉の知らぬ間に増えている女物の中から、萌黄に波の柄を刺繍した小袖を選ぶ。
唇に、わずかに紅を乗せる。
年頃の武家の娘らしく装って、菊羽が家を出た頃には、昼を過ぎていた。
役所へ向かう。
環の女中であることを示し、咎められることなく中へ入る。
奥へ行く前に用人部屋に顔を出すと、玄信がいた。
「もう、よいのか」
二人で廊下へ出たところで心配そうに聞いてくる父に、菊羽は微笑んで見せた。
「はい――父上。寝ていられません」
そうか、と短く息を吐いた玄信に、菊羽は声を潜めて続けた。
「これから環さまのところへ行きますが、火急の報せがあるのです。
殿のお具合は、どうなっているのですか?」
「いまだに、伏せってしまわれたままだ」
玄信は素早く周囲を窺い、菊羽と同じくらい抑えた声で言う。
「ならば、ご家老も呼ぶか。
妹姫さまとのお話は、どれほどかかりそうだ」
「――一刻、いや、半刻ほどで」
「わかった」
玄信は、ふっと頬を崩して菊羽の――すっかり娘となったもと息子の肩に、柔らかく手を置いた。
「よくやったな、菊羽」
菊羽は目を丸くしてから「はいっ」と笑顔で頷いた。
女中部屋に入ってきた環は、短い距離を駆け寄って菊羽を抱き締めた。
「菊羽っ! よう帰ってきた……」
「環さま――ぁ」
唇が重なる。
さすがに、すぐ離れる。
「どうであった」
環は、菊羽が帰国した理由を察していた。
ほとんど抱き合ったままの位置で、環は扇子をわずかに開いてふたりの口元を廊下側から見えないように立てて持つ。
片手は繋いだままでいる。
菊羽は小さく頷いた。
「右近衛権中将が後ろ盾、と」
環は目を丸くした。
「また、尾張か――」
呆れと怒りの混じった調子で、環が吐き捨てるように言う。
「もしや、以前に菊が探った間者とも関わりがあるのやもな」
菊羽はなるほど、と頷く。
「それで、ご家老どのと、父上とも話し合いとうございます」
「そうじゃな。悠長なことはやっておれんかも知れん」
環が眉をひそめる。
「兄上が、一向に回復せん」
「はい」
父から聞いたと、菊羽は真剣な面持ちで頷く。
「そのことでも、お知らせが」
「そうか」
環はふたたび、菊羽を抱く力を強くした。
「短い間によく調べたのう」
「――乱破、ですから」
ふふ、と環が微笑む。
「そうじゃな、菊」
抱き合った背を撫でる。
「まことに、ようやった。
よし、従兄どのの好きにはさせぬぞ」
環の瞳が、熱を帯びていた。
筆頭家老である鴻上舎人と、用人霾玄信と、領主の妹である小浦環の三人に、菊羽は江戸での経緯を報告した。
三人三様、それぞれに唸る。
菊葉が持ち帰った丸薬は、玄信が調べることとなる。
「これは、謀反じゃな」
舎人が断じた。
「酉谷――どのが、どのような密約を交わしておるのかはともかく、謀反の企みであることに相違ない」
玄信を見る。
「その薬、どれほどで効能が判る」
「いや――しばらく。
服んでみればすぐでしょうが……」
「私が――」
「駄目じゃ」
菊羽が実験台を名乗り出ようとしてすぐに、環に袖を引かれる。
「妾の菊に、人身御供などさせるものか」
舎人が、声をあげて笑った。
「いつの間にそれほど親しくなられたのか。歳の近いおなご同士、微笑ましいな。
のう玄信」
同意を求められた玄信は、二人の様子に苦笑気味の首肯を返したのだった。
後日わかったことではあるが、丸薬は、毒であった。
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