オモイデカプセル

ワレモア

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春の思い出

高校三年 春

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 体育館裏庭の花壇で開いた少しいびつなチューリップを見て、誰かが『綺麗やね』と口にする。
 春の風に剥がされて、花弁かべんが一枚、地面に落ちた。
 チューリップの香りが分からない晴史にも、菜摘が不機嫌になっている理由くらいはすぐに分かる。
 三人の新入部員は『やれることはやりました』と前置きしてから『でもダメみたいです』と、元から決して明るくはない部室に暗い雰囲気を漂わせた。
「一年さぁ、あれじゃ使い物にならないんだけど?」
 そんな菜摘の言葉はもっともだと思う。
「けど…… なんで僕への風当たりまでキツくなるんだよ?」
 花首をつまんで親指の爪を立てる。そのまま指を捻じると花は簡単にちぎれる。そうやって花壇に咲いたチューリップを次々にへし折ると、晴史の両手にハンドボールサイズのピンク色の塊が出来上がった。
 晴史はそれを三メートルほど先の手摺り壁に投げつける。
 体育館裏のコンクリート壁の裏には、緑色の大型ポリボックスがあるからだ。
「キャ!」短い悲鳴。
「え!?」驚いたのは晴史も同じだ。
 体育館裏のコンクリート壁の裏には、緑色の大型ポリボックスしかないはずだった。
 コンクリート壁の向こう側で、頭に花びらを一枚乗せたままの貴希が『しまった』と言わんばかりの顔で立ち上がる。
「なんで…… そんなところに?」
 貴希はそれには答えずに慌てた様子で足元の花殻を拾い集めると、少し迷ってポリボックスに捨てる。それから晴史に会釈ひとつ残して、あとは逃げるように背中を向けて駆け出した。
 走り去った貴希の足跡に、花弁かべんが一枚、地面に落ちた。
「ゴメン! 今日は部活サボる!」
 晴史が部室に向かって叫ぶと、開けっ放しにしていた窓から菜摘と明が同時に顔を出す。
「ゴメン! 今日は部活サボるから!」
 もう一度繰り返す。
 すぐぶ菜摘が無言で投げて寄越したリュックは、花を失い随分とみすぼらしくなったチューリップの花壇をまっすぐ飛んで晴史の胸に届いた。
「ウォゲベッ」
 三年一組の五時間目は古典で、晴史のリュックには古語辞典が入っている。新年度、晴史の隣の席に座っている菜摘もそのことは重々承知しているに違いない。
「ハンッ! ポンコツのひとりやふたり、居ても居なくても一緒だから!」
「おいおい、ポンコツが二人居たら大変だろ?」
 そんな菜摘と明のやり取りを背中に流して、晴史はもう走り出していた。


「ちょっと待って!」
 晴史が貴希に追いついたのは、長い階段の途中だった。
「あ。こんにちは」
 貴希の挨拶がどうにも無機質に聞こえたことが、さすがの晴史にも寂しい。
「あ、さっきは……うん。こんにちは」
「すみません。部活のことは、まだ迷ってるんです……」
「偶然会ったから声を掛けただけって言うか……」
 隠れていた貴希を、炙り出して、追いかけて、呼び止めて。それを『偶然』と言ってしまう自分には、晴史自身が呆れてしまっている。
「別に、演劇部に勧誘しにきたとか、そういうわけじゃないんだ」
 そう言われて、貴希は顔の左下だけに作り笑いを浮かべてますます俯いた。
「折角高校に入学したんだから、貴希にも、この高校で楽しく過ごして欲しいと思ってる。僕みたいに後悔しないように」
「風上先輩でも、後悔したりするんですか?」
「……うん。ほんと後悔ばかりだったよ。けど、こうやって貴希を追いかけてきたことは、後悔しないような気がする」
 貴希の口元がほっとしたように緩む。
 ちょうど下校の時間帯で、晴史の知っている顔と見知らぬ顔とが、狭い階段の中ほどで向き合う二人のすぐ横を黙って通り過ぎた。
「あ、この場所で呼び止めたのも…… いま、少しだけ後悔した」
 晴史が危惧する通り、傍目からみれば『告白』にしか見えないだろう。
「えっと…… 貴希の家は二丁目だった?」
「あ、はい」
 晴史が階段を登りだすと、貴希もそれに従った。


「あの…… 風上先輩はどうしてこの高校を選んだんですか?」
 モミの木が植えられた広い踊り場で貴希が口を開く。足元のタイルには、サンタクロースとトナカイの絵がかれている。
「うちは農家だから、朝の手伝いとかもあってさ、だから、家から近い高校が良かった」晴史は『ポジティブ』のカードを思い浮かべながら「それに、生徒主導の真面目な校風ってのも、ちょっと良さそうだっと思ったし。まぁ、受験勉強は大変だったけどね」ともっともらしい理由を並べる。
「やっぱり、風上先輩はすごいです……」
 表裏おもてうらのない賞賛が晴史の胸をチクリを刺した。
「別に、そんなことは……」
 罪悪感に苛まれながら次の階段に右足を掛けて、晴史は動けなくなる。
 階段の上から吹き下ろした季節外れの北風が、貴希になにかを伝えようとした晴史の唇を乾かした。
 風に煽られるように振り返ると、貴希は晴史をまっすぐ見上げていた。
「わたし…… 本当は演劇がしたくてこの高校を選んだんじゃないんです」
 貴希は必死の表情で告白する。
「え?」
『四人で演劇しようって、ずっと言ってたのに……』三人になってしまった仲良し四人組は、今日も揃って寂しそうな顔をしていた。
「ゴメン。僕も、勝手にそうだと思い込んでた」
 晴史の返事に首を二度三度と横に振ってから貴希は唇を噛む。。
「最初は、わたしがみんなを誘ったんです。『演劇がしたい』って。『一緒の高校でみんなで演劇をしよう』って。だけど、それが嘘だったかもしれなくて……」
 中学三年の教室では、そんな話がごく当たり前のように聞こえる。けれども、貴希と他の三人の問題はそこではないだろうと晴史は想像する。
「小学校の頃はさ、僕が鶴を折るとくちばしが白くなってた」
「え?」
「折り紙だよ。僕は苦手だった」
「私は…… えっと……」
「今はちゃんと折れるようになったんだ。コツを覚えたから」
「コツ……ですか?」
「少しいい加減に折るのがコツだった。そうすると、どこかに紙の厚みの逃げ場が出来るから、結局はそれなりに正しい折り目に落ち着いて、綺麗に仕上がるんだ」
 それは、晴史が菜摘から教わったことだ。
「複雑な折り合いは折れ目がズレ易い。人間関係も同じだと思う」
「……はい」ゆっくりと言葉を咀嚼してから貴希は頷く。
 メッセージは即返信。順番に電話して、趣味も合わせる。そうやって毎日毎日、互いに友情をいちいち確認する。女子高生の友達付き合いは大変だと、晴史はつくづく思う。
「少し適当なくらいでいいんだと思う。貴希も折り合いを付けて、やりたい事をすればいいと思うんだ。あの三人なら、ちゃんと分かってくれる」
「みんな、優しいですからね…… だけどわたし、自分がこんなにいい加減な気持ちだったことが本当に情けなくて……」貴希は言葉通りの顔をする。
 それから「本当はわたし、好きな人が居るからこの高校を選んだんです」と、祈るように呟いた。
 冷たい風かふたりの世界を吹き抜ける。
「プッ」晴史は思わず吹き出した。
 あっという間に表情を曇らせていく貴希の目の前で、晴史は笑いを堪えることができない。
「ゴメン。これは違うんだ、ちょっと待って!」
 晴史のクラスメイト三人が、ふたりを横目に黙って通り過ぎていった。
 新年度早々、通学路の真ん中で新入生を泣かせたという噂が学校に広まれば、さすがに笑い話では済まされない。
「嘘をついてたんだ! 僕は…… 貴希の前だから見栄を張ってた!」
「え?」
 いっぱいいっぱいの涙目が晴史を見上げる。
「ゴメン。先輩らしくしたいとか、そんなこと考えて」
 貴希が小柄なことと、階段に足を掛けていたこと。ふたつの偶然が幸いして、晴史はギリギリのところで悲劇を免れた。


 階段を登りきった『あの丘の公園』のグラウンドでは、小学生がドッジボールをして遊んでいた。
「貴希は今日、なにか予定とかある?」
「いいえ。わたしは特に…… だけど、先輩は大丈夫なんですか? 演劇部」
 春の花壇に囲まれた見晴台からは、雑草の生えた部室の板屋根が見えていた。
「どうせ僕はいつもサボってるから、今日もサボりでいい」
 晴史がバウムクーヘン型のベンチに座ると、少し離れて貴希も腰掛ける。
「突然笑ってさ、悪かったよ。けど、まさか努力家でしっかり者の貴希がさ……」
 よもや貴希が自分と同じ理由で進路を決めていたとは、思いもよらなかった。もちろん、晴史のような綱渡りではなかったであろうことくらい、容易に想像がつく。
「変、ですか?」
「いや。そうじゃないんだ……」
 それを堂々と口にした貴希と、もっともらしい理由を飾り立てて取り繕った自分を比べてしまうと、晴史にはもう笑うことしかできなかった。
「僕がこの学校に入学した理由はさ……」


 貴希の幸福を願いながら、晴史は話し始める。
 それは、ちょうど二年前。春の出来事。
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