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春の思い出

第一話『空蝉』

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 教室の木製扉には、味も素っ気もない座席表が貼ってある。僕の席は窓から二列目の五番目だ。
 高校生にもなるとさすがにみんな落ち着いていて、ついこの間まで中学校で騒いでいた連中さえ、どこか大人びて見えたんだ。
 けど、僕はというと新生活には早くも幻滅してしまっていて、窓の向こうに広がる春空もそんな気分を鏡に映したようなねずみ色をしている。
「三十九番。スズキカオリ」
 小さな声が答える。
「四十番。タモリミカ」
「はーい」待ってましたと返事する田守に、先生も「はーい」とオウム返しする。そんな些細なことで、四角い世界は和やかな雰囲気に満たされる。
 教室に入ってくるなり沸いた黄色い感嘆を片手と微笑みだけで軽く受け流して教団に立った第一印象から爽やな担任の青葉山あおばやま先生には、高校教師に相応しくない重大な欠点があるんだ。
「次は…… っと」先生がクラス名簿に目を落とした時……
福井ふくい結衣ゆいです」
 それは、決して大きな声じゃなかった。けど、その言葉は確かな説得力と圧倒的な強制力を持っていて、心地いいSの残響が消えるまでの短い間だけ、一年三組を支配した。
 時計の分針がカチンと音を立てて、午前十一時四十九分を示す。何事も無かったかのように教室の時間は戻っていた。
「……はい。次は四十二番。タワラギミカ」
「はい」俵木は冷めた返事をした。
「四十三番。ナカジマアヤ」
 今の僕にとって、世界の人間なんてたったの三種類だ。
 僕と、あの子と、それ以外。
 最前列で返事した声は明らかに第三者で、僕は中島さんの後頭部を恨んだ。
 今朝の入学式は『君たちは今日、希望に満ちた受験生になりました』なんていう教頭の講話で始まったけど、滑り出しからもう滑ってしまっている僕の中には、希望なんて言葉は見つからない気がした。僕は今日から、あの子がいない空虚な四角い世界の最底辺で、ねずみ色の高校生活を送だけなんだから。
「じゃ、一年間よろしくな!」
 先生は、自分で黒板に大きく書いた『青葉山総』という、希望に満ちた受験生たちには至極不適切な文字列を黒板消しで消す。
 総と書いて『すべる』と読むんだそうだ。
 あの“黒板消し”が名前の通りの役割を果たして黒板を消し去れば、一組にいるあの子が見えるだろうか?
 僕はただ、そんな馬鹿なことを妄想するだけだった。


 ホームルームが終わると“高校生の落ち着き”なんてものが幻想だったことに気付かされる。対角線の隅まで騒がしい教室で「クラスのコミュグループ建てようぜ」と誰かが叫んだ。
 僕には関係ないことだけど……
 隣の福井さんも、長い黒髪から覗く形のいい鼻筋で教室の喧騒を受け流して、配布物をバッグに入れるところだった。
 あの子ではない。隣に福井さんが座ったときに感じた残念な空気だけで嫌悪していたその横顔は、想像とは全然違っていて綺麗だった。どことなくあの子に似ている気までしてくる。全然、似ていないのに。
 福井さんはリボンバラもプリントも全部重ねてまとめて突っ込んで、バシャリと閉じた福井さんの通学カバンの取手に、それはぶら下がっていた。
「カニポッポ!?」僕はその名前をつい口に出してしまう。
 あの子と同じ、黒くうす汚れた小さなプラ人形。福井さんのはスカイブルーだった。
 さっきまで眠そうだった目が見開かれてこちらを見据える。端整に整った顔の左右に最高のバランスで配置されたその瞳はとても大きくて、けど…… ドロリと黒ずんでひどく濁って見えた。
「あ! 隣の席でし…… よろひし」
 早口になったうえ舌までもつれて、我ながら最悪だ。
 僕のことを気持ち悪いと思ったのかもしれない。福井さんは一度うつむき、顔をあげながらバッグを握ると僕に背中を向ける。
 歩き去る前に、福井さんは小声で一言つぶやいた。
「晴キャベがナンパ? びっくり!」右斜め前の田守が振り返っていた。
“晴キャベ”っていうのは、ずっと昔からの僕のあだ名なんだ。
「高校デビューが二秒で玉砕とはね。同情するしかないよ」否定する前に右斜め後ろで俵木が肯定した。
「それにしても、れいな子だったよなぁ。晴キャベは福井さんと何を話したんだよさ?」
 前の席で振り返った荻畑も、福井さんの名前をしっかり覚えていた。
 荻畑のあだ名は“タマネギ”だ。
「それより、みんなは部活はどうするの?」別の話題を振ってみたけど、
「ああいう子はハードル高いって。晴キャベは彼女の前に友達作りなよ?」と田守が笑った。
 人生の救いなんて些細なものだ。幼馴染たちと同じクラスになれて、僕は救われた。
「菜っパは一組だってさ……」
 俵木が不服そうなのは、町内の五人で菜摘だけが別のクラスになったからだ。
「なぁ、さっき福井さんと何をはなしてたんだよさ?」荻畑が蒸し返したけど、
「全然会話にならなかったんだ。その上、帰り際に『アンタ臭い。もういい』って言われた」なんて真実を打ち明けられる気分じゃなかった。


 僕が家でこっそり読んでいる源氏物語の文庫本は、源氏物語解説サイトと照らし合わせながら読んでもなお、ほとんど意味が分からない。
 春休みに、篠宮の古本ショップの108円ワゴンの中から、あの子が読んでいたのと同じ表紙を見つけて買ったものだ。
 高貴な血を引く絶世の美男子として生まれた光源氏は、幼くして母を亡くしたかと思えば、なんの前触れもなく年上の女性と結婚する。結婚生活がうまく行かず母親とよく似た女性を追いかけたりしていたかと思えば、人妻と突然のダブル不倫。しまいにはその人妻の義理の娘にまで手を出す始末。もう最悪だ。
 序盤のたった百ページの中にそんな話が詰め込まれていて、とてもじゃないけど僕が付いて行けるストーリーじゃなかった。
「作者の、與謝野こうしゃのあきら……子訳ししゃく? って人の感性が、ちょっとおかしいんじゃないかと思うんだけど……」
 明は、電話でそう話した僕をひとしきり笑ったあとで、この文庫本が“紫式部”という女流作家が千年前に書いた物語を“与謝野晶子”という明治時代の作家が百年前に翻訳したものだと教えてくれた。それが文庫本として十年前に出版され、一年前にあの子が中学校の図書室で読んでいたということになる。
 あんなに楽しそうに読んでいたから、穏やかで微笑ましい恋物語なのだろうと勝手に想像していたんだ。
『原文に近いものが教科書に載ってるぞ?』
 明に言われるがままに真新しい古典の教科書も開いてみると、そこには意味が分からないどころか、到底日本語とは思えない文字列が並んでいた。
 不思議と意味が分かるのは、明と晶子さんのおかげなのだろう。
「あれ? 帯木おびきとか空蝉そらせみとか、さっき読んでたところは教科書には載ってない」
『ん? ……あぁ。箒木ははきぎ空蝉うつせみか。帯じゃなくてほうきだろ? 古文の教科書ではカットされてるんだな』
「やっぱり、浮気とか不倫とか、酷い内容だから?」
『まぁ、無難かつ平安の日本語が学びやすい部分の抜粋って建前で、その実、イケメン皇子の美談に仕立てられている側面はある気はする』
「編集して不祥事を隠蔽するとかさ、なんか、フェイクニュースみたいだ」
『計算しろよ? SNSも携帯もない平安時代だぞ? しかも、当時の平均寿命は精々四十歳。年齢は一・五倍に換算。夜這いはデートの誘い、添い寝はふたりで食事、結婚はカップル成立に読み替えるくらいでちょうどいいと思うぞ?』
「なんか、随分と軽い話になりそうだ」
 だとしても、それぞれに交際中の相手がいるなら、浮気は良くないとも思う。
『そうだろ? あれは読み方によっては、惚れ症のイケメン皇子が好きになった女性に片っ端からフラれ続ける失恋物語だ』
 そう言われて読み返すと、光源氏はあおいうえには邪険にされ、藤壺更衣ふじつぼのこういには距離を置かれ、一度は受け入れてもらったはずの空蝉には会ってももらえない。

   空蝉の 身をかへてける のもとに
        なほ人がらの なつかしきかな
                      [第三帖 空蝉]

 空蝉に逃げられた光源氏が、恨み節とともにうたった歌だ。
 光源氏が空蝉の薄衣うすものを持ち帰った気分は、言葉に表せるものではないけど、それはきっと、商店街の道端に出された古本ワゴンの中からこの文庫本を探し出した僕が抱いている気持ちと同じ種類のものじゃないかと思う。


 三日もするとクラスの半分くらいは顔と名前が一致するようになって、この先一年続くだろうクラスの雰囲気もそれとなく固まってくる。
「下村が昨日、福井さんにフラれたんだよさ!」
 福井さんは今日もホームルームが終わるとさっさと帰ってしまって、それを見計らったように荻畑が旬の話題を持ち出した。
「あーあ。この時期に告白失敗とか、一年間ずっと気まずいじゃん」
 俵木はいつもこうやって悲観的で斜め下の意見を差し込む。けど、それはいつも正論ばかりなんだ。
「今朝…… 俺も実は、福井さんに『嫌い』って言われたさ」荻畑が自白する。
『嫌い』と『臭い』と、どっちがマシだろうかと考えてみた。僕は一昨日から、通学前にシャワーを浴びることにしたんだ。シャンプーもCMで見たトニックブラックに変えた。
「タマネギは、また変な事でも言ったんじゃないの?」俵木が楽しそうに訊く。
「昇降口で自己紹介しただけさ。そしたら福井さんが『嫌い』って。でも後からすぐに『よろしく』って言ってくれたさ」荻畑は得意げだ。
「あ~。それって『アンタ嫌い。今後は一切関わらないように“ヨロシク”』って意味だと思うんだけど?」
 さすがに、これは俵木が酷すぎると思う。
「がっかり。それ嫌われすぎ!」どこかから席に戻ってきた田守が、まるでずっと聞いていたかのように会話に混ざった。
「でもさ、福井さんって、絞りたてのミルクみたいないい匂いがするさ」
 ポジティブなのは、やっぱり荻畑の長所なんだろう。
「私もタマネギきら~い」と一蹴する俵木は、そもそも重度の野菜嫌いで、けど、ネギとタマネギとキャベツだけは好きなんだ。俵木の好物は、お好み焼きとジャガイモ抜きの肉じゃがだ。
「下村君はね、福井さんにデート申し込んだら『一万円』って言われたんだって。びっくり!」
 どうやら田守は、本人にそれを確かめてきたらしい。
 僕は、黒く淀んだ福井さんの目を思い出していた。横顔は見惚れてしまうくらい綺麗なのに……
「一万円で、どこまでオッケーなんだよさ?」
 こうやって荻畑は、思ったことが勝手に口から出てきていつも損をするんだ。
「タマネギ、ほんっとゲスいよね」田守が楽しそうに笑った。
「てことはぁ、晴キャベにアンダーソンにタマネギ。三日で撃墜勲章三つも獲得てことかぁ。福井ちゃん、凄まじい戦果じゃん」俵本が指折りする。
 アンダーソンってのは下村のハンドルネームなんだ。僕でさえ知っているのに本人はバレていないつもりらしくて、昨夜もSNSで『さて私は誰でしょう?』とかやっていた。
「あれ? ちょっと待ってよ。何で俺まで入ってるんだ?」気が付いてすぐに抗議したけど、
「アンタ臭っしゃい」と、俵木が二本指で自分の鼻をつまんだ。
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