その結末、書き換えます。 ~黄昏迷宮図書館の「物語」修復記録~

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第2話 無限書架と汚された思い出

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 落ちる。
 そう思った瞬間、美波の足元から床が消えた。

 悲鳴を上げる暇もなかった。
 視界がぐるりと反転する。天井だったはずの場所に本棚が並び、壁だったはずの場所を階段が貫いている。
 エッシャーのだまし絵。いや、それ以上だ。
 上下左右、すべての概念が溶け合い、ねじれ、絡み合っている。

「あ、あの……!」

 美波は咄嗟に手すりを掴んだ。
 冷たい金属の感触。それだけが、現実との唯一の接点だった。

「足元にお気をつけください」

 振り返ると、朔が平然と歩いていた。
 壁を。
 真横の壁面を、まるで地面のように踏みしめながら。

「ここでは『下』という概念は曖昧です。あなたが『下』だと思った方向が、下になります」

 白い手袋をした手が、優雅に示す。
 見れば、グリムは天井を歩いていた。逆さまのまま、欠伸をしながら。

「ねえ、落ちたらどうなるんですか……?」

 美波の声が震える。
 朔は眼鏡を押し上げ、淡々と答えた。

「永遠に『未読の山』に埋もれることになりますね」

「積読地獄ってやつだ。読みたい本に囲まれて、永遠に読み終わらねえ」

 グリムが肩をすくめる。

「そいつはマジで地獄だぜ。俺は御免だね」

 冗談なのか本気なのか分からない。
 美波は手すりを握る手に、さらに力を込めた。

          

 歩き始めてから、どれほど経っただろう。

 時間の感覚が曖昧になっていく。
 無限に続く書架。琥珀色の光。古書の匂い。
 美しい。けれど、どこか息苦しい空間だった。

 不意に、一冊の本が宙を横切った。
 羽ばたくように、ページをはためかせながら。

「あ……」

 美波が目で追う。本は書架の隙間に吸い込まれるように消えていった。

「返却中の本です。お気になさらず」

 朔が何事もなかったように言う。
 この場所では、それが当たり前らしい。

「南様」

 朔が足を止めた。
 振り返り、静かに問いかける。

「その本の詳細を、もう少しお聞かせ願えますか」

「え……?」

「出版社、装丁の色、発行された年代。何でも構いません。手がかりがあれば、検索が容易になります」

 美波は記憶を辿った。
 あの頃の自分。まだ夢を見ることを恥じなかった、幼い自分。

「……表紙は、水色でした。空みたいな、薄い水色」

 言葉が、ゆっくりと紡がれる。

「主人公の女の子が、星の杖を持っていて。でも魔法を使うたびに、杖がぽきぽき折れちゃうんです」

「折れる杖」

「はい。だから周りからは『ポンコツ魔法使い』って馬鹿にされていて……でも、絶対に諦めなかったんです」

 声が、少し柔らかくなった。
 目元に、かすかな温もりが宿る。

「母が……入院する前に、よく読んでくれました」

 沈黙が落ちた。
 古書の匂いが、二人を包み込む。

「その本のタイトル、覚えていますか」

 朔の声は、静かだった。
 責めるでも、急かすでもない。ただ、事実を確認する声。

「……『まほうつかいのミルト』」

 美波は、小さく呟いた。

「あの子の名前。忘れたことは、一度もないんです」

          

 グリムの鼻が、ひくひくと動いた。

「おい、メガネ」

 低い声。いつもの軽薄さが消えている。

「なんか……変な匂いがする」

「変な匂い?」

「物語が腐ってる匂いだ。甘ったるくて……吐き気がする」

 美波が首を傾げる。
 朔が淡々と補足した。

「彼は物語のツクモ神です。物語の『歪み』には、人一倍敏感でしてね」

 グリムは答えず、鼻をひくつかせ続けている。
 朔の眼鏡が、光を反射した。
 表情から、穏やかな色が消えていく。

「……児童書エリアは、本来なら明るい空気のはずです」

 確かに、周囲の様子が変わっていた。
 先ほどまでの琥珀色の光が、どこか濁っている。
 空気が淀み、重い。呼吸するたびに、喉の奥がざらつくような感覚。

「グリム」

「へいへい」

 少年の瞳が、鋭く細められた。
 パーカーのフードを深く被り直す。
 野生動物のような警戒心が、全身から滲み出ていた。

「あっちだ。三つ目の角を曲がった先……棚の奥」

 グリムが指差す。
 その方向から、微かに――甘い腐臭が漂っていた。

          

 見つけた。

 美波の目が、大きく見開かれた。
 書架の片隅。埃を被った一角に、それはあった。

 水色の表紙。星の杖を持った女の子。
 色褪せてはいるが、間違いない。

「ありました……! これです、これ……!」

 駆け寄ろうとした、その瞬間。

「触れてはいけません」

 朔の声が、静かに空気を裂いた。
 白い手袋が、美波の肩にそっと触れる。
 それだけで、彼女の足は凍りついたように止まった。

「な、なんで……」

 美波が振り向く。
 そして、朔の表情を見て息を呑んだ。

 あの穏やかな微笑みが、消えている。
 銀縁の眼鏡の奥。氷のような瞳が、本を見つめていた。

「……見てください」

 朔が静かに告げる。
 美波は、恐る恐る視線を戻した。

 本から、何かが滴っていた。

 黒い。
 インクのような、粘液のような何か。
 ポタリ、ポタリと床に落ち、嫌な水音を立てている。

「え……?」

 そして、気づいた。
 表紙の絵が、変わっている。

 星の杖を持った女の子。
 あの優しい笑顔が――苦悶に歪んでいた。
 泣いているのか、叫んでいるのか。口は大きく開かれ、目からは黒い涙が流れ落ちている。

 甘い腐臭が、鼻を突いた。
 吐き気がこみ上げる。美波は口元を押さえた。

「な、なにこれ……なんで……」

紙魚シミだ」

 グリムが、低く吐き捨てた。
 その声には、怒りと嫌悪が滲んでいた。

「本を食い荒らす害虫みてえなもんだ。物語を歪めて、改変して、最後には食い尽くす」

 グリムが本の周囲を睨む。

「自然発生じゃねえ。誰かが意図的に放ちやがった」

「どうして分かるんですか」

 美波の問いに、グリムは顔をしかめた。

「喰い方が綺麗すぎんだよ。狙い撃ちだ、これは」

 美波は、崩れ落ちそうになった。
 けれど、歯を食いしばって踏みとどまる。

「……治せるんですか」

 震える声。けれど、その目には涙だけでなく――意志があった。

「この本を、元に戻せるんですか」

 朔が、わずかに目を細めた。
 眼鏡の奥で、氷のような瞳が一瞬だけ緩んだ。
 それはほんの一瞬のこと。すぐにいつもの無表情に戻る。

「南様」

 朔の声が、静かに響いた。
 眼鏡を押し上げる。その仕草は、いつもと同じ。
 けれど、瞳の奥に宿る光は――冷徹だった。

「残念ですが、あなたの思い出は今、重篤な病に侵されています」

 沈黙が、落ちた。
 腐臭が、三人を包み込む。

 朔は、静かに続けた。

「けれど――」

 その声には、鉄のような決意が滲んでいた。

「当館の蔵書を、このまま見過ごすわけにはまいりません」

「へっ、やっとお出ましかよ」

 グリムが口の端を吊り上げた。
 獰猛な、けれどどこか待ちわびていたような笑み。

 その姿が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
 影が伸び、輪郭が歪み――何か別のものに、変わりかけている。

「静粛に」

 朔の声が、それを制する。
 グリムは舌打ちして、元の姿に戻った。

「チッ、分かってるよ」

「南様」

 朔は美波に向き直った。
 胸ポケットからハンカチを取り出し、そっと差し出す。

「少しだけ、お待ちいただけますか」

 その声は穏やかだった。
 けれど、銀縁の眼鏡の奥には――嵐の前の静けさが宿っていた。

 美波は、ハンカチを受け取った。
 涙を拭う手が、まだ震えている。
 けれど、頷いた。しっかりと。

「……お願いします」

 黒い粘液が、本から滴り落ち続ける。
 腐臭が濃くなる。
 表紙の少女の悲鳴が、聞こえるような気がした。

 物語が、悲鳴を上げている。

          

 黄昏迷宮図書館。
 ここは、人生に迷った者が辿り着く場所。
 そして――汚された物語を、浄化する場所。

 常盤朔は、胸ポケットから一本のペンを取り出した。
 深い朱色の軸。先端が、淡く光を帯びている。

「さあ、グリム」

 司書の目が、冷たく光った。

「害虫駆除の時間です」
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