その結末、書き換えます。 ~黄昏迷宮図書館の「物語」修復記録~

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第3話 砂糖菓子の森、骨折の音

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 朔の朱色のペンが、本の表紙を走った。
 流麗な筆跡。けれど、書かれた文字は一瞬で滲み、消えていく。
 インクが表紙に染み込んでいく――否、三人を、本の中へ引きずり込んでいく。

 黒い。
 何もかもが、黒かった。

 息ができない。
 鼻から、口から、黒い液体が流れ込んでくる。
 インクの匂い。古い本の匂い。そして――腐った砂糖の匂い。

 美波は、溺れていた。

「っ、ぶ……!」

 もがく。手を伸ばす。
 けれど上も下もない。どちらに泳げばいいのかも分からない。
 肺が軋む。視界が白く点滅する。

 ――死ぬ。

 そう思った瞬間、声が聞こえた。

「暴れないでください」

 氷のように冷たい声。
 朔だ。

「ここは本のページの隙間です。インクに肺を満たされることを――受け入れていただけますか」

 何を言っているのか分からない。
 けれど、その声だけが唯一の道標だった。

 美波は目を閉じ、拳を握りしめた。
 黒い液体が、喉の奥を這い降りていく。
 気持ち悪い。吐きそうだ。でも、逆らわない。

 その瞬間、世界が反転した。

          

 目を開けると、そこは森だった。

 淡い水色の空。
 ピンク色の木々。
 足元には、クリーム色の草が波打っている。

 先ほどまで溺れていたはずなのに、体は乾いていた。
 肺に残っていたはずのインクも、跡形もない。
 本の中では、現実の肉体は意味を持たないのだろう。

「わ……」

 美波は息を呑んだ。
 絵本そのものだ。幼い頃、何度も何度も眺めた、あの風景。
 パステルカラーの、優しい世界。

「ここ……『ミルトの森』……」

 懐かしさに、胸が詰まる。
 母の声が聞こえてきそうだ。
 あの頃の、幸せな記憶が――

「南様」

 朔の声が、冷水を浴びせた。

「よくご覧なさい。あれは花ではありません」

 指差す先に、ピンク色の花畑が広がっていた。
 可愛らしい、マカロンのような色合い。

 美波は一歩、近づいた。
 二歩、近づいた。

 そして――吐き気を堪えた。

 花弁に見えたものは、裏返った肉だった。
 赤黒く、湿った表面が、ぐちゅ、ぐちゅと脈打っている。
 花芯の部分には、歯のようなものがびっしりと並んでいた。

「な……に、これ……」

 甘ったるい腐臭が、鼻の奥を刺す。
 腐ったジャムの匂い。死んだ花の匂い。

「紙魚に侵された物語です」

 朔が淡々と告げる。

「本来の描写が書き換えられている。中身は同じでも、意味が変質している」

 チチチチ、と音がした。
 小鳥のさえずりだ。
 可愛らしい、高い声。

 けれど、よく聴くと――

「タスケテ」
「タスケテ」
「タスケテ」

 人間の声を、切り刻んで繋ぎ合わせたような音だった。
 美波の顔から、血の気が引いた。

「……うえっ」

 口元を押さえる。
 膝が笑っている。立っていられない。

「おい、しっかりしろよ」

 グリムが肩を支えた。
 その声には、いつもの軽薄さがない。

「ここから先は、お前の『思い出』を踏み荒らすことになる」

「え……」

「だから聞いておく。覚悟を決めるなら今だぜ」

 美波は、唇を噛んだ。
 震えている。怖い。今すぐ逃げ出したい。

 けれど。

「……行きます」

 声が震えていた。
 でも、視線だけは逸らさなかった。

「私の思い出だから。私が見届けないと」

 グリムの視線が、一瞬だけ柔らかくなった。
 すぐに、いつもの不機嫌な顔に戻る。

「……へえ」

 それだけ呟いて、前を向く。

「上等。じゃ、行くぜメガネ」

「ええ。では、配役をお願いします」

 朔が、朱色のペンを構える。
 先端が、淡く光を帯びていた。

「この物語は児童文学。登場人物は限られている」

 ペン先が宙を走り、見えない文字を綴る。
 ト書きシーン・ノート。物語への介入。

「適役は――『物語の整え役』。綻びを正すもの」

 グリムの輪郭が、揺らぎ始める。
 影が伸び、形を変えていく。

配役憑依キャスト・チェンジ

 光が弾けた瞬間、グリムの姿が変わっていた。

          

「……は?」

 グリム自身が、素っ頓狂な声を上げた。

 フリルの白いブラウス。
 黒いコルセット。
 膝丈のスカートには、レースがあしらわれている。
 ゴシック・ロリータ。
 少年だった体は、中性的なラインに整えられていた。

「なんでまたスカートなんだよ!?」

「この物語には男性キャラクターがほぼ登場しません。仕方ないでしょう」

 朔が涼しい顔で答える。

「それに、その鋏は悪くない」

 グリムの手には、巨大な裁ち鋏が握られていた。
 刃渡りは腕ほどもある。銀色の刀身が、鈍く光っている。

物語の整え役トリマー。歪んだ物語を裁断し、正す存在です」

「へっ、やればいいんだろ」

 グリムが鋏を構える。
 不満そうな顔だが、その目は獰猛に光っていた。

「待ってください。まず、状況を――」

 朔が言いかけた、その時だった。

 藪が、揺れた。

 ザワザワ、ザワザワ。
 風ではない。何かが、近づいてくる。

 甘い腐臭が、一気に濃くなった。

「来るぞ!」

 グリムが叫び、鋏を振り上げる。
 藪の中から、黒い影が飛び出してきた。

 銀閃。

 グリムの斬撃が、影を両断する。
 手応えはあった。確かに、切った。

 けれど。

「あ?」

 切断面から、黒いインクが糸のように伸びた。
 ぐにゃり、と肉が蠢く。
 ずるり、ずるり、と再生していく。

「なんだよこれ、切れねえぞ!?」

 グリムが後退する。
 再生した影が、ゆっくりと姿を現した。

 水色のローブ。
 星の形をした杖。
 栗色の髪を、リボンで結んだ少女。

 ミルト。

 美波の記憶の中に生きる、優しい魔法使いの女の子。

 ――けれど、その姿は。

「ひ……っ」

 美波が、悲鳴を飲み込んだ。

 ミルトの腕は、ありえない方向に曲がっていた。
 肘が逆向きに折れている。
 手首が、ぐるりと一回転している。
 首が、わずかに傾きすぎている。

 にっこり。

 少女は、満面の笑みを浮かべた。
 その口元から、黒い液体がつう、と垂れた。

「あはは、またおれちゃった!」

 一歩、踏み出す。

 ポキ。

 骨が折れる音がした。
 ミルトの膝が、内側に曲がった。

「でもへいき。わたし、がんばりやさんだから!」

 もう一歩。

 グシャ。

 足首が砕ける音。
 それでも少女は歩みを止めない。

「ポキポキおれても、えがおでいれば、なんでもできるの!」

 ポキ。グシャ。ポキ。

 骨折の音が、明るい声に混じる。
 壊れた体を引きずりながら、少女は笑い続けている。

「だって、ミルトは『ポンコツ』だけど、あきらめないって――」

 ミルトの目が、一瞬だけ揺らいだ。
 その視線が、美波を捉える。
 まるで、幼い頃に絵本を読んでいた少女を見つけたかのように。

「――おねえちゃんが、いってたから……」

 美波の呼吸が、止まった。

 ――私が言った言葉。

 幼い頃、この本を読みながら言った言葉。
 「ミルトは偉いね」「ポンコツでも頑張るミルトは強いね」

 その言葉が。
 醜悪に、戯画化されている。

「あ……ああ……」

 美波の膝が、崩れ落ちた。

 ミルトの言葉は、美波自身の言葉だった。
 職場で言い聞かせていた言葉。
 どんなに辛くても笑っていなきゃ。
 私が我慢すればいい。
 壊れても、折れても、笑顔でいれば大丈夫。

 ――それが、目の前で蠢いている。

 朔が眼鏡を押し上げた。氷のような目が、ミルトを観察している。

「同じパターンの繰り返し。自己完結した文脈」

 呟くように、分析する。

「物理では意味がありませんね。『削除できない誤字』だ」

 ミルトが、美波を見つけた。
 首を、ぐきり、と傾げる。

「あ」

 笑顔が、深くなった。
 黒い涙が、頬を伝う。

「おねえちゃんも、『おれて』いるの?」

 一歩。ポキ。
 一歩。グシャ。

「かわいそう。なおしてあげる」

 杖を、振り上げる。

「わたしとおなじに、なろう?」

 ――それは、治癒ではなかった。

 相手の骨を折り、無理やり笑わせようとする。
 自分と同じにすることで、救おうとする。
 善意の暴力。

「来んな!」

 グリムが飛び出した。
 鋏を構え、ミルトの前に立ち塞がる。

 杖が、振り下ろされた。

 メキ。

 憑依した役の左腕から、嫌な音がした。

「っ、く……!」

 役の肉体が軋んでいる。ありえない角度に曲がっている。
 それでもグリムは、美波を庇い続けた。

 朔の眉が、わずかに動いた。
 一瞬だけ。すぐに無表情に戻る。

「逃げろ! こいつ、俺の鋏じゃ――」

「グリム、退いてください」

 朔の声が、遮った。

 静かだった。
 けれど、有無を言わせない響きがあった。

「目を逸らさないでください、南様」

 白い手袋が、美波の肩を掴む。
 冷たい。けれど、しっかりとした感触。

「あれは、物語に食い殺された『あなたの成れの果て』です」

 美波の瞳が、大きく見開かれる。

「わ……たし……?」

「ええ。あなたの中にある『歪んだ解釈』が、この物語を蝕んでいる」

 朔の目が、銀色に光った。

「この紙魚の正体は――あなた自身です」

 ミルトが、首を傾げた。
 満面の笑みのまま、ゆっくりと近づいてくる。

「ねえ、おねえちゃん」

 ポキ。

「いっしょに、おれよう?」

 グシャ。

「そうしたら、ずっとずっと、えがおでいられるよ」

 黒い涙を流しながら、少女は手を伸ばす。

 美波は、動けなかった。
 恐怖ではない。
 その言葉が、自分の本音と重なって――

「……っ」

 ――否定できなかった。

          

 黄昏迷宮図書館。
 汚された物語を浄化する場所。

 けれど、この敵は。
 刃で切れるものではなかった。

 常盤朔は、眼鏡を押し上げた。
 朱色のペンが、淡く光を放っている。
 その目が、かすかに細められた。

 これは、校正作業ではない。
 改稿リライトだ。

「南様」

 司書は、静かに告げた。

「あなたには、思い出すべきことがあります」

 ミルトの手が、美波の頬に近づく。
 あと数センチ。

「この物語の、『本当の結末』を」

 その瞬間、ミルトの指先が美波の頬に触れた。

 視界が、白く染まった。
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