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第4話 校正者は涙を流さない
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音が、消えていた。
匂いも、温度も、何もない。
ただ、白い。どこまでも、白い空間。
美波は立ち尽くしていた。
足元も、頭上も、地平線も。すべてが真っ白に塗り潰されている。
自分の呼吸すら聞こえない。鼓動すら感じない。
——ここは、どこ……?
視線を巡らせる。
すると、遠くに何かが見えた。
窓。
カーテン。
小さなベッド。
美波の呼吸が、止まった。
「……病室」
そこは、かつて母が入院していた病室だった。
白い壁。消毒液の匂い。心電図の静かなビープ音。
そして、ベッドの上には——
「お母さん……」
痩せ細った母が、枕に頭を預けていた。
頬がこけ、腕には何本もの管が繋がっている。
けれど、その瞳だけは、優しく笑っていた。
そして、ベッドの脇には。
幼い美波が座っていた。
膝の上には、一冊の絵本。
『まほうつかいのミルト』。
「おかあさん、つかれてない? いたくない?」
幼い美波が、不安そうに尋ねる。
母は、細い腕を伸ばして娘の頭を撫でた。
「ううん、平気よ」
嘘だと、美波には分かった。
今なら分かる。
あの時の母は、もう限界だった。
「美波が笑ってくれるなら、お母さんは何も痛くないの」
母の声は、かすれていた。
けれど、笑顔だけは崩さなかった。
「だから——美波も、泣かないでね?」
「……なるほど」
声がした。
美波が振り返ると、そこに朔が立っていた。
白い空間の中、黒い制服が異物のように浮かんでいる。
銀縁の眼鏡が、冷たく光った。
「これが『原稿』の破損原因ですか」
朔は、目の前の光景を眺めていた。
幼い美波が、泣きそうな顔で絵本を握りしめている。
母が、消え入りそうな声で『泣かないで』と繰り返している。
美波は、慌てて朔に詰め寄った。
「な、なんで常盤さんがここに……! ここは、私の——」
「記憶です。正確には、あなたの深層意識が生んだ空間ですね」
朔は淡々と答えた。
そして、白い空間を見回す。
まるで、散らかった部屋を査定するかのように。
「……おや」
朔の目が、細まった。
舌の上で何かが溶けるように、口元がわずかに動く。
「この記憶、『お粥』のような味がしますね」
「……え?」
「薄味で、病弱で、けれど確かに温かい」
朔は、目を閉じた。
喉が小さく動く。飲み込むような仕草。
まるで、目に見えない何かを味わっているかのようだった。
「母と娘の愛情。悪くない素材です。しかし——」
目を開ける。
その瞳は、氷よりも冷たかった。
「——調理法が、致命的に間違っている」
美波は、言葉を失った。
朔は、母と幼い美波を指差した。
「『泣かないで』。この言葉を、あなたはどう受け取りましたか?」
「……どう、って」
「おそらく——『私が笑っていれば、お母さんは楽になる』と解釈した」
美波の体が、びくりと震えた。
「そして、それは次第にこう変わった。『私が我慢すれば、すべてうまくいく』」
朔の声は、容赦がなかった。
「折れても笑え。壊れても耐えろ。そうすれば愛される——」
「やめて……!」
美波が叫んだ。
両手で耳を塞ぐ。けれど、朔の言葉は止まらない。
「あの怪物は、その解釈が暴走した結果です。物語の主題を歪め、登場人物を改変し、読者を傷つける」
朔が、美波の前に立った。
白い手袋が、彼女の手首をそっと掴む。
「南様。あなたは、この物語を壊した犯人です」
美波の目から、涙がこぼれ落ちた。
膝が震える。立っていられない。
けれど、朔は彼女を支えなかった。
ただ、冷たい目で見下ろしていた。
「——しかし」
朔の声が、わずかに和らいだ。
「悪文には、必ず原因があります。そして原因があるなら、校正せる」
美波が、涙に濡れた目を上げる。
「……校正、できるんですか?」
「ええ。ただし、あなたの協力が必要です」
朔が、銀縁の眼鏡に指を添えた。
「思い出してください、南様。『まほうつかいのミルト』は——本当に、折れても平気な話でしたか?」
美波は、記憶の糸を手繰り寄せた。
幼い頃。
母が元気だった頃。
まだ、この本が『大好きな絵本』だった頃。
ミルトは、魔法使いの女の子。
杖がすぐに折れてしまう、ポンコツな子。
でも——
「……あれ?」
美波の目が、見開かれた。
思い出した。
ミルトの物語の、本当の結末を。
「ミルトは……泣いてた」
そうだ。
ミルトは、痛みに強かったわけじゃない。
杖が折れるたびに、大声で泣いていた。
『いたいよう! だれか、たすけて!』
そして、森の動物たちが駆けつけてくれた。
リスが杖を拾い、ウサギが涙を拭き、クマが背中をさすってくれた。
ミルトは、一人で耐えたんじゃない。
助けてと叫んだから、助けてもらえたのだ。
「……弱音を吐く勇気」
美波の唇が、震えた。
「それが……この本の、テーマだった……」
朔が、静かに頷いた。
「正解です」
白い空間が、揺らぎ始めた。
美波の記憶が、書き換わっていく。
『泣かないで』という母の言葉。
それは、『我慢しろ』という意味ではなかった。
母は——自分が泣かせてしまうことが、辛かったのだ。
だから、『泣かないで』と言った。
けれど本当は、『泣いてもいい』と言いたかったのかもしれない。
自分のせいで、娘に無理をさせたくなかったのかもしれない。
「私……ずっと、間違えてた……」
美波の涙が、止まらなかった。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
——やっと、分かった。
「再校、終了です」
朔の声が、静かに響いた。
「現実に戻りますよ、南様。仕事の時間です」
視界が、パステルカラーに染まった。
『ミルトの森』。
甘ったるい腐臭と、ピンク色の木々。
そして——
「おせーよメガネ!」
グリムの怒声が、耳を劈いた。
見れば、グリムは左腕を折られたまま、必死にミルトを押さえていた。
ゴシック調の衣装は破れ、鋏は地面に転がっている。
それでも、歯を食いしばって立ち続けていた。
「腕がちぎれるかと思ったぞ、このクソメガネ!」
「申し訳ありません。少々、長引きました」
朔が、平然と答える。
そして、ゆっくりと眼鏡の位置を直した。
その瞳には、仕事人の冷徹な光が宿っていた。
「お待たせしました。再校終了です」
胸ポケットから、朱色のペンを取り出す。
「これより——修正作業に入ります」
ミルトが、首を傾げた。
「あれ? おにいちゃん、なにするの?」
笑顔のまま、歩み寄ってくる。
ポキ。グシャ。ポキ。
骨折の音が、明るい声に混じる。
「おねえちゃんも、おにいちゃんも、いっしょに——」
「おい、ガキ」
グリムが、声を張り上げた。
折れた左腕を庇いながら、ミルトの前に立ち塞がる。
「聞けよ、お前」
グリムの目が、真っ直ぐにミルトを見据えていた。
そこには、怒りでも憎しみでもない感情があった。
「キャラクターってのはな——作者にも読者にも愛されるために生まれてくんだ」
ミルトの笑顔が、わずかに揺らいだ。
「そんな痛々しい姿で、客が喜ぶと思ってんのか?」
グリムは、かつて名前のない脇役だった。
作者に忘れられ、物語から消えかけた存在。
だからこそ、分かる。
「俺だって——名前がなかった頃は、お前と同じこと考えてた」
グリムの声が、わずかに低くなった。
「笑ってりゃ見つけてもらえる。派手にしてりゃ忘れられない。そう思ってた」
ミルトの動きが、止まった。
「でもな、違うんだよ」
グリムが、歯を見せて笑った。
「お前が泣いて、助けてって叫んで、そんで誰かに支えてもらう——そういうシーンを見るために、読者はページをめくるんだ」
ミルトの目から、黒い涙がこぼれ落ちた。
けれど、笑顔は消えない。消せないのだ。
「でも……でも……」
小さな声が、震えた。
「わらってないと……すてられちゃう……」
「捨てねえよ」
グリムが、断言した。
「お前を書いた作者も、お前を読んだ読者も——お前が泣いたって、絶対に捨てねえ」
ミルトの目が、大きく見開かれた。
「だからよ。そのバグった笑顔、やめろ」
朔が、ペンを振るった。
空気が、震える。
空中に、見えない文字が浮かび上がる。
赤い光が、それを可視化していく。
【ミルトは、笑って痛みに耐えた】
地の文だ。
この物語を支配している、歪んだ一文。
美波の「誤読」が生み出した、呪いの言葉。
「——朱入れ」
朔の声が、響いた。
赤いペンが、空中を走る。
流麗な筆致で、二重線が引かれていく。
【~ミルトは、笑って痛みに耐えた~】
削除。
そして、その下に——
【ミルトは、大声で泣き出した】
書き込まれた瞬間、世界が軋んだ。
「あ——」
ミルトの笑顔が、崩れた。
バキバキと音を立てて、不自然な笑みが剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは——
「……うわあああん!」
泣き顔だった。
「いたいよぉ! だれか、たすけてぇ!」
骨折音が、止まった。
怪物の体から、黒いインクが抜け落ちていく。
歪んだ四肢が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。
そこにいたのは、もう怪物ではなかった。
ただ、泣いている女の子。
本当の、ミルト。
「っ……」
美波が、一歩を踏み出した。
けれど、足が震えて進めない。
自分のせいで、この子をこんな姿にしてしまった。
どんな顔をして、声をかければいいのか分からない。
「南様」
朔の声が、背中を押した。
「彼女に、正しい台詞を」
美波が、振り返る。
朔は、いつもの無表情だった。
けれど、その目には——ほんの少しだけ、温かいものがあった。
「——それが、あなたの仕事です」
美波は、深く息を吸った。
そして、震える足を、前に出した。
一歩。
また一歩。
泣いているミルトの前に、しゃがみ込む。
「……ミルト」
声が、震える。
「ごめんね。私のせいで、あなたを——」
「おねえ……ちゃん……?」
涙に濡れた目が、美波を見上げた。
その瞳には、もう狂気はなかった。
ただ、痛みと、悲しみと、助けを求める色だけがあった。
美波は、小さな体を抱きしめた。
「泣いていいよ」
自分自身に言い聞かせるように、呟く。
「痛かったら、痛いって言っていいんだよ」
ミルトの体が、震えた。
「……ほんとに?」
「うん。本当に」
美波の目から、涙がこぼれた。
けれど、今度は拭わなかった。
「私も——ずっと、泣きたかった」
ミルトが、美波の胸に顔を埋めた。
二人分の泣き声が、パステルカラーの森に響いた。
朔は、その光景を静かに見つめていた。
黒いインクが、完全に消えていく。
歪んだ木々が、本来の姿を取り戻していく。
腐った甘い匂いが、清々しい森の香りに変わっていく。
浄化が、進んでいる。
「……チッ」
横で、グリムが舌打ちした。
折れた左腕を押さえながら、ぶっきらぼうに呟く。
「泣きたきゃ泣けばいいのにな、最初から」
「それができれば、私たちの出番はありませんよ」
朔が、ペンをポケットにしまった。
「人間というのは、厄介な生き物です。助けてほしい時ほど、助けてと言えない」
「お前も人間だろ」
「さあ。どうでしょうね」
朔は、曖昧に笑った。
美波とミルトが、ゆっくりと立ち上がる。
ミルトの姿は、もう怪物ではなかった。
水色のローブを纏った、可愛らしい魔法使いの女の子。
「……おにいちゃん、おねえちゃん」
ミルトが、二人を見上げた。
「ありがとう。わたし、やっと——ちゃんと泣けた」
その笑顔は、もう歪んでいなかった。
森の空気が、澄んでいく。
パステルカラーの木々が、穏やかな風に揺れている。
朔が、懐中時計を取り出した。
針は、深夜零時を指している。
「さて」
眼鏡の奥で目を細めた。その瞳は、もう冷徹ではなかった。
どこか満足げな、職人の目だった。
「帰還の手続きを始めましょうか。グリム、その腕で歩けますか?」
「んなもん、役が解けりゃ勝手に治る」
グリムが、肩をすくめた。
「それより腹減った。メガネ、帰ったら飯作れよ」
「私に料理をさせる気ですか。図書館が燃えますよ」
「だから俺が作るっつってんだろ! お前は黙って食え!」
美波は、そんな二人のやり取りを見つめていた。
まだ、心の奥がじんわりと痛む。
けれど——不思議と、温かかった。
「……常盤さん」
美波が、小さく呼びかけた。
「私、これからも——泣いていいんですか?」
朔が、振り返った。
銀縁の眼鏡の奥で、静かな光が揺れている。
「泣くも笑うも、あなたの自由です」
淡々と、けれど確かな声で。
「ただし——当館では、お静かに願います」
その言葉に、美波は思わず笑ってしまった。
涙と一緒に、笑いがこぼれた。
ミルトが、美波の手を握った。
小さくて、温かい手。
「おねえちゃん、また遊びに来てね」
「……うん」
美波は、その手を握り返した。
「本を読めば——また会えるよね」
ミルトが、にっこりと笑った。
それは、本当の笑顔だった。
「うん! いつでも待ってる!」
森の向こうで、光が満ちていく。
帰還の扉が、開こうとしていた。
匂いも、温度も、何もない。
ただ、白い。どこまでも、白い空間。
美波は立ち尽くしていた。
足元も、頭上も、地平線も。すべてが真っ白に塗り潰されている。
自分の呼吸すら聞こえない。鼓動すら感じない。
——ここは、どこ……?
視線を巡らせる。
すると、遠くに何かが見えた。
窓。
カーテン。
小さなベッド。
美波の呼吸が、止まった。
「……病室」
そこは、かつて母が入院していた病室だった。
白い壁。消毒液の匂い。心電図の静かなビープ音。
そして、ベッドの上には——
「お母さん……」
痩せ細った母が、枕に頭を預けていた。
頬がこけ、腕には何本もの管が繋がっている。
けれど、その瞳だけは、優しく笑っていた。
そして、ベッドの脇には。
幼い美波が座っていた。
膝の上には、一冊の絵本。
『まほうつかいのミルト』。
「おかあさん、つかれてない? いたくない?」
幼い美波が、不安そうに尋ねる。
母は、細い腕を伸ばして娘の頭を撫でた。
「ううん、平気よ」
嘘だと、美波には分かった。
今なら分かる。
あの時の母は、もう限界だった。
「美波が笑ってくれるなら、お母さんは何も痛くないの」
母の声は、かすれていた。
けれど、笑顔だけは崩さなかった。
「だから——美波も、泣かないでね?」
「……なるほど」
声がした。
美波が振り返ると、そこに朔が立っていた。
白い空間の中、黒い制服が異物のように浮かんでいる。
銀縁の眼鏡が、冷たく光った。
「これが『原稿』の破損原因ですか」
朔は、目の前の光景を眺めていた。
幼い美波が、泣きそうな顔で絵本を握りしめている。
母が、消え入りそうな声で『泣かないで』と繰り返している。
美波は、慌てて朔に詰め寄った。
「な、なんで常盤さんがここに……! ここは、私の——」
「記憶です。正確には、あなたの深層意識が生んだ空間ですね」
朔は淡々と答えた。
そして、白い空間を見回す。
まるで、散らかった部屋を査定するかのように。
「……おや」
朔の目が、細まった。
舌の上で何かが溶けるように、口元がわずかに動く。
「この記憶、『お粥』のような味がしますね」
「……え?」
「薄味で、病弱で、けれど確かに温かい」
朔は、目を閉じた。
喉が小さく動く。飲み込むような仕草。
まるで、目に見えない何かを味わっているかのようだった。
「母と娘の愛情。悪くない素材です。しかし——」
目を開ける。
その瞳は、氷よりも冷たかった。
「——調理法が、致命的に間違っている」
美波は、言葉を失った。
朔は、母と幼い美波を指差した。
「『泣かないで』。この言葉を、あなたはどう受け取りましたか?」
「……どう、って」
「おそらく——『私が笑っていれば、お母さんは楽になる』と解釈した」
美波の体が、びくりと震えた。
「そして、それは次第にこう変わった。『私が我慢すれば、すべてうまくいく』」
朔の声は、容赦がなかった。
「折れても笑え。壊れても耐えろ。そうすれば愛される——」
「やめて……!」
美波が叫んだ。
両手で耳を塞ぐ。けれど、朔の言葉は止まらない。
「あの怪物は、その解釈が暴走した結果です。物語の主題を歪め、登場人物を改変し、読者を傷つける」
朔が、美波の前に立った。
白い手袋が、彼女の手首をそっと掴む。
「南様。あなたは、この物語を壊した犯人です」
美波の目から、涙がこぼれ落ちた。
膝が震える。立っていられない。
けれど、朔は彼女を支えなかった。
ただ、冷たい目で見下ろしていた。
「——しかし」
朔の声が、わずかに和らいだ。
「悪文には、必ず原因があります。そして原因があるなら、校正せる」
美波が、涙に濡れた目を上げる。
「……校正、できるんですか?」
「ええ。ただし、あなたの協力が必要です」
朔が、銀縁の眼鏡に指を添えた。
「思い出してください、南様。『まほうつかいのミルト』は——本当に、折れても平気な話でしたか?」
美波は、記憶の糸を手繰り寄せた。
幼い頃。
母が元気だった頃。
まだ、この本が『大好きな絵本』だった頃。
ミルトは、魔法使いの女の子。
杖がすぐに折れてしまう、ポンコツな子。
でも——
「……あれ?」
美波の目が、見開かれた。
思い出した。
ミルトの物語の、本当の結末を。
「ミルトは……泣いてた」
そうだ。
ミルトは、痛みに強かったわけじゃない。
杖が折れるたびに、大声で泣いていた。
『いたいよう! だれか、たすけて!』
そして、森の動物たちが駆けつけてくれた。
リスが杖を拾い、ウサギが涙を拭き、クマが背中をさすってくれた。
ミルトは、一人で耐えたんじゃない。
助けてと叫んだから、助けてもらえたのだ。
「……弱音を吐く勇気」
美波の唇が、震えた。
「それが……この本の、テーマだった……」
朔が、静かに頷いた。
「正解です」
白い空間が、揺らぎ始めた。
美波の記憶が、書き換わっていく。
『泣かないで』という母の言葉。
それは、『我慢しろ』という意味ではなかった。
母は——自分が泣かせてしまうことが、辛かったのだ。
だから、『泣かないで』と言った。
けれど本当は、『泣いてもいい』と言いたかったのかもしれない。
自分のせいで、娘に無理をさせたくなかったのかもしれない。
「私……ずっと、間違えてた……」
美波の涙が、止まらなかった。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
——やっと、分かった。
「再校、終了です」
朔の声が、静かに響いた。
「現実に戻りますよ、南様。仕事の時間です」
視界が、パステルカラーに染まった。
『ミルトの森』。
甘ったるい腐臭と、ピンク色の木々。
そして——
「おせーよメガネ!」
グリムの怒声が、耳を劈いた。
見れば、グリムは左腕を折られたまま、必死にミルトを押さえていた。
ゴシック調の衣装は破れ、鋏は地面に転がっている。
それでも、歯を食いしばって立ち続けていた。
「腕がちぎれるかと思ったぞ、このクソメガネ!」
「申し訳ありません。少々、長引きました」
朔が、平然と答える。
そして、ゆっくりと眼鏡の位置を直した。
その瞳には、仕事人の冷徹な光が宿っていた。
「お待たせしました。再校終了です」
胸ポケットから、朱色のペンを取り出す。
「これより——修正作業に入ります」
ミルトが、首を傾げた。
「あれ? おにいちゃん、なにするの?」
笑顔のまま、歩み寄ってくる。
ポキ。グシャ。ポキ。
骨折の音が、明るい声に混じる。
「おねえちゃんも、おにいちゃんも、いっしょに——」
「おい、ガキ」
グリムが、声を張り上げた。
折れた左腕を庇いながら、ミルトの前に立ち塞がる。
「聞けよ、お前」
グリムの目が、真っ直ぐにミルトを見据えていた。
そこには、怒りでも憎しみでもない感情があった。
「キャラクターってのはな——作者にも読者にも愛されるために生まれてくんだ」
ミルトの笑顔が、わずかに揺らいだ。
「そんな痛々しい姿で、客が喜ぶと思ってんのか?」
グリムは、かつて名前のない脇役だった。
作者に忘れられ、物語から消えかけた存在。
だからこそ、分かる。
「俺だって——名前がなかった頃は、お前と同じこと考えてた」
グリムの声が、わずかに低くなった。
「笑ってりゃ見つけてもらえる。派手にしてりゃ忘れられない。そう思ってた」
ミルトの動きが、止まった。
「でもな、違うんだよ」
グリムが、歯を見せて笑った。
「お前が泣いて、助けてって叫んで、そんで誰かに支えてもらう——そういうシーンを見るために、読者はページをめくるんだ」
ミルトの目から、黒い涙がこぼれ落ちた。
けれど、笑顔は消えない。消せないのだ。
「でも……でも……」
小さな声が、震えた。
「わらってないと……すてられちゃう……」
「捨てねえよ」
グリムが、断言した。
「お前を書いた作者も、お前を読んだ読者も——お前が泣いたって、絶対に捨てねえ」
ミルトの目が、大きく見開かれた。
「だからよ。そのバグった笑顔、やめろ」
朔が、ペンを振るった。
空気が、震える。
空中に、見えない文字が浮かび上がる。
赤い光が、それを可視化していく。
【ミルトは、笑って痛みに耐えた】
地の文だ。
この物語を支配している、歪んだ一文。
美波の「誤読」が生み出した、呪いの言葉。
「——朱入れ」
朔の声が、響いた。
赤いペンが、空中を走る。
流麗な筆致で、二重線が引かれていく。
【~ミルトは、笑って痛みに耐えた~】
削除。
そして、その下に——
【ミルトは、大声で泣き出した】
書き込まれた瞬間、世界が軋んだ。
「あ——」
ミルトの笑顔が、崩れた。
バキバキと音を立てて、不自然な笑みが剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは——
「……うわあああん!」
泣き顔だった。
「いたいよぉ! だれか、たすけてぇ!」
骨折音が、止まった。
怪物の体から、黒いインクが抜け落ちていく。
歪んだ四肢が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。
そこにいたのは、もう怪物ではなかった。
ただ、泣いている女の子。
本当の、ミルト。
「っ……」
美波が、一歩を踏み出した。
けれど、足が震えて進めない。
自分のせいで、この子をこんな姿にしてしまった。
どんな顔をして、声をかければいいのか分からない。
「南様」
朔の声が、背中を押した。
「彼女に、正しい台詞を」
美波が、振り返る。
朔は、いつもの無表情だった。
けれど、その目には——ほんの少しだけ、温かいものがあった。
「——それが、あなたの仕事です」
美波は、深く息を吸った。
そして、震える足を、前に出した。
一歩。
また一歩。
泣いているミルトの前に、しゃがみ込む。
「……ミルト」
声が、震える。
「ごめんね。私のせいで、あなたを——」
「おねえ……ちゃん……?」
涙に濡れた目が、美波を見上げた。
その瞳には、もう狂気はなかった。
ただ、痛みと、悲しみと、助けを求める色だけがあった。
美波は、小さな体を抱きしめた。
「泣いていいよ」
自分自身に言い聞かせるように、呟く。
「痛かったら、痛いって言っていいんだよ」
ミルトの体が、震えた。
「……ほんとに?」
「うん。本当に」
美波の目から、涙がこぼれた。
けれど、今度は拭わなかった。
「私も——ずっと、泣きたかった」
ミルトが、美波の胸に顔を埋めた。
二人分の泣き声が、パステルカラーの森に響いた。
朔は、その光景を静かに見つめていた。
黒いインクが、完全に消えていく。
歪んだ木々が、本来の姿を取り戻していく。
腐った甘い匂いが、清々しい森の香りに変わっていく。
浄化が、進んでいる。
「……チッ」
横で、グリムが舌打ちした。
折れた左腕を押さえながら、ぶっきらぼうに呟く。
「泣きたきゃ泣けばいいのにな、最初から」
「それができれば、私たちの出番はありませんよ」
朔が、ペンをポケットにしまった。
「人間というのは、厄介な生き物です。助けてほしい時ほど、助けてと言えない」
「お前も人間だろ」
「さあ。どうでしょうね」
朔は、曖昧に笑った。
美波とミルトが、ゆっくりと立ち上がる。
ミルトの姿は、もう怪物ではなかった。
水色のローブを纏った、可愛らしい魔法使いの女の子。
「……おにいちゃん、おねえちゃん」
ミルトが、二人を見上げた。
「ありがとう。わたし、やっと——ちゃんと泣けた」
その笑顔は、もう歪んでいなかった。
森の空気が、澄んでいく。
パステルカラーの木々が、穏やかな風に揺れている。
朔が、懐中時計を取り出した。
針は、深夜零時を指している。
「さて」
眼鏡の奥で目を細めた。その瞳は、もう冷徹ではなかった。
どこか満足げな、職人の目だった。
「帰還の手続きを始めましょうか。グリム、その腕で歩けますか?」
「んなもん、役が解けりゃ勝手に治る」
グリムが、肩をすくめた。
「それより腹減った。メガネ、帰ったら飯作れよ」
「私に料理をさせる気ですか。図書館が燃えますよ」
「だから俺が作るっつってんだろ! お前は黙って食え!」
美波は、そんな二人のやり取りを見つめていた。
まだ、心の奥がじんわりと痛む。
けれど——不思議と、温かかった。
「……常盤さん」
美波が、小さく呼びかけた。
「私、これからも——泣いていいんですか?」
朔が、振り返った。
銀縁の眼鏡の奥で、静かな光が揺れている。
「泣くも笑うも、あなたの自由です」
淡々と、けれど確かな声で。
「ただし——当館では、お静かに願います」
その言葉に、美波は思わず笑ってしまった。
涙と一緒に、笑いがこぼれた。
ミルトが、美波の手を握った。
小さくて、温かい手。
「おねえちゃん、また遊びに来てね」
「……うん」
美波は、その手を握り返した。
「本を読めば——また会えるよね」
ミルトが、にっこりと笑った。
それは、本当の笑顔だった。
「うん! いつでも待ってる!」
森の向こうで、光が満ちていく。
帰還の扉が、開こうとしていた。
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それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
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