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第5話 雑炊と珈琲と
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光が、弾けた。
万華鏡のような色彩が視界を埋め尽くし、次の瞬間——古書の匂いが、鼻腔を満たした。
「——っ、はぁ」
グリムが膝をついた。
左腕をかばう姿勢のまま、荒い息を吐いている。
だが、その腕には傷一つない。パーカーの袖がめくれ上がり、白い肌がのぞいていた。
「……骨、治ってやがる」
自分の腕を見下ろして、グリムは呆れたように笑った。
「おい、メガネ。聞いてた通りだな。本の外に出りゃ、役の傷は残んねぇってのは」
返事がない。
グリムが振り返ると、朔はカウンターに片手をついたまま、動かなくなっていた。
銀縁のメガネがわずかに曇っている。呼吸は浅く、肌は蒼白だった。
「……おい。メガネ」
「——問題、ありません」
朔はゆっくりと顔を上げた。いつもの営業スマイルを浮かべようとして、失敗している。唇の端が、かすかに引きつっていた。
「……多少、疲労しただけですよ」
「疲労で済む顔色じゃねぇだろうが」
グリムは舌打ちをした。
それから、ソファの方へ視線を向ける。
美波は、そこで眠っていた。
革張りのソファに身体を預け、穏やかな寝息を立てている。頬には涙の跡が残っていたが、表情には安らぎがあった。まるで、長い悪夢からようやく目覚めたかのように。
「……あっちは、大丈夫そうだな」
「ええ。記憶は——おそらく、朧げになっているでしょう」
朔はメガネを外し、袖で静かにレンズを拭いた。
「潜書中の出来事は、現実に戻ると夢のように曖昧になります。戦いの記憶は消え、ただ——」
一拍、間があいた。
「——温かさだけが、残る」
その言葉を最後に、朔はカウンターに肘をつき、そのまま動かなくなった。
十五分後。
図書館のバックヤードにある小さなキッチンから、出汁の香りが漂っていた。
「チッ……冷蔵庫、もやしと卵しかねぇじゃねぇか」
グリムはぶつぶつと文句を言いながら、手際よく鍋を火にかけていた。
エプロンを腰に巻き、鰹節を削る手つきは妙に慣れている。
「せめて鶏肉くらい買っとけよな……あのクソメガネ……」
独り言は止まらない。だが、その目は真剣だった。
もやしをざく切りにし、卵を溶き、残りご飯を鍋に投入する。醤油を垂らし、味を見る。うん、と小さく頷いた。
五分後。
湯気を立てる土鍋を持って、グリムはカウンターへ戻った。
朔は相変わらず動かない。
カウンターに突っ伏したまま、書類の山に顔を埋めている。こうして見ると、ただの居眠りにしか見えなかった。
「……おいメガネ。できたぞ」
反応がない。
グリムは土鍋をドン、と置いた。
「起きろっつってんだろ。食わなきゃ朱入れのツケ、払えねぇぞ」
朔がゆっくりと顔を上げた。
目の下に隈ができている。頬はこけ、唇は乾いていた。まるで、何日も眠っていない人間のような顔だった。
「……これは」
「卵雑炊。贅沢言うなよ、あるもんで作ったんだからな」
グリムは木のレンゲを差し出した。
朔はしばらくそれを見つめてから、機械的に手を伸ばし——雑炊を口に運んだ。
咀嚼する。
飲み込む。
また、掬う。
グリムは腕を組んで、その様子を見ていた。
「……味、どうだよ」
朔の手が止まった。
「……熱量としては、十分です」
淡々と、事務的な口調。
「それから?」
「……味は」
朔は小さく首を傾げた。
レンゲを持つ手が、少しだけ震えている。
「——分かりません」
グリムは鼻を鳴らした。
「チッ。張り合いのねぇ舌だな、ほんと」
それだけ言って、グリムは自分の分の雑炊を掬った。
ふうふうと息を吹きかけ、口に入れる。
「ん。俺の雑炊、うまいじゃん」
自画自賛しながら、グリムは何度も口を動かした。
その横顔を、朔はぼんやりと眺めている。
「……グリム」
「あ?」
「——温かいですね」
朔は、レンゲを握ったまま、そう呟いた。
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「……この熱が分かるのは、あなたのおかげです」
「……何言ってんだよ、急に」
グリムは一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、ふいっと視線を逸らす。
「……当たり前だろ、今作ったんだから」
ぶっきらぼうな声。
だが、その耳が少しだけ赤くなっていることに、朔は気づかないふりをした。
コーヒーの香りが、静かに広がっていた。
朔がハンドミルを回す、ゴリ、ゴリ、という音。
深夜の図書館に、いつもの静寂が戻っている。
「——ん……」
ソファで、美波が目を覚ました。
ゆっくりと上体を起こし、ぼんやりと周囲を見回す。
「……あれ、私」
記憶が曖昧だった。
確か、本の相談をして——それから——
「お目覚めですか、南様」
朔の声に、美波ははっと顔を上げた。
カウンターの向こうで、朔がいつものように微笑んでいる。銀縁のメガネ。ベストを纏った、きちんとした佇まい。
「あ……すみません、私、寝てしまって」
「いえ。お疲れだったのでしょう。少しお待ちください」
朔はポットから湯を注ぎ、ドリッパーをセットした。
透明なサーバーに、黒い液体がゆっくりと落ちていく。
美波はぼんやりとその様子を眺めていた。
何か——大事なことを忘れているような気がする。悪い夢を見ていたような。でも、それが何だったのか、思い出せない。
ただ、胸のつかえが取れたような——不思議な爽快感だけがあった。
「こちらを、どうぞ」
朔がカウンター越しに、一冊の本を差し出した。
『まほうつかいのミルト』。
鮮やかな青い空。緑の丘。
そして、笑顔の魔法使いが、表紙で手を振っている。
「修復が終わりました。……良い物語ですね」
美波は、震える手で本を受け取った。
表紙を撫でる。ページをめくる。
あの頃と変わらない——温かい物語が、そこにあった。
「……ミルト」
美波の目から、涙がこぼれた。
悲しみではない。懐かしさと、安堵の涙だった。
「ありがとう……ございます……」
嗚咽混じりの声に、朔は静かに頷いた。
扉の前で、美波は振り返った。
図書館の入り口。外からは、うっすらと朝焼けの光が差し込んでいる。
「あの……」
美波は『まほうつかいのミルト』を胸に抱きしめたまま、言葉を探していた。
「私、明日——いえ、今日から、会社に行ってみようと思います」
朔は、穏やかに頷いた。
「それは、良いご決断です」
「あの……もし、また迷ったら」
「いつでも、お越しください」
朔は、営業用ではない——どこか柔らかな笑みを浮かべた。
「黄昏迷宮図書館は、深夜零時をまたぐ限り、開館しておりますので」
美波は一瞬、目を見開いた。
それから、くしゃりと顔を歪めて、笑った。
「……ありがとうございます。本当に」
深々と頭を下げて、美波は扉に手をかけた。
その瞬間——
「……元気でやれよ」
小さな声が、聞こえたような気がした。
振り返る。ソファでは、グリムがヘッドホンを耳にかけたまま、目を閉じていた。まるで、最初から眠っていたかのように。
美波は微笑んだ。
きっと、気のせいだ。——でも。
「……ありがとう」
誰にともなく、そう呟いて。
美波は、扉の向こうへ消えていった。
朝の光が、図書館のロビーを照らす。
埃が、きらきらと舞っていた。
「——あーあ。行っちまった」
グリムの声が、静寂を破った。
ソファに寝そべったまま、ヘッドホンを首にかけ直している。
「……聞こえてたかな、さっきの」
ぽつりと、呟く。
戦いの中で一緒に走り、一緒に怯え、一緒に立ち向かった。なのに、美波と目が合うことは、最後までなかった。
「……忘れることが、救いになることもあります」
朔はコーヒーカップを傾けながら、静かに言った。
「彼女にとって——あなたは『物語の登場人物』だった。夢の中の出来事として、記憶の奥底に沈んでいくでしょう」
「……チッ」
グリムは舌打ちをした。
それから、ソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げる。
「——まあ、いいけどよ」
しばらくの沈黙。
コーヒーを啜る音だけが、静かに響いていた。
「……なあ、メガネ」
「なんですか」
「俺のこと——お前は忘れねぇよな?」
グリムの声は、いつもの軽さがなかった。
どこか、怯えたような——幼い響き。
朔はカップを置いた。
ゆっくりと振り返り、グリムの方を見る。
「——忘れるわけがないでしょう」
淡々と、けれど確かな声だった。
「あなたがいなければ、私は今頃、本の山に埋もれて餓死しています」
「……はっ。それ褒めてんのか貶してんのか分かんねぇぞ」
「事実を述べているだけです」
朔は再びカップを手に取った。
黒い液体を一口、啜る。
「——それに」
「ん?」
ほんの少しだけ、朔の口元が緩んだ。
「……物語の結末は、悪くない味でしたよ」
グリムは、ぽかんとした。
それから——
「——は、はあ!? お前、味分かんねぇって言ってたじゃねぇか!」
「ええ。食事の味は分かりません」
朔は指先でレンズの縁に触れた。
その奥の瞳が、どこか満足げに細められている。
「ですが——物語の味なら、分かります」
「……なんだよそれ。意味わかんねぇ」
グリムはそっぽを向いた。
だが、その頬が少し緩んでいることに、朔は気づいていた。
窓の外では、朝日が昇り始めている。
深夜の図書館が、ゆっくりと眠りにつこうとしていた。
「……おい、メガネ」
「なんですか」
「次の依頼、いつ来んだよ」
グリムは天井を見上げたまま、呟いた。
その声には、わずかな期待が滲んでいた。
「さあ。それは、物語次第です」
朔は空になったカップを置いた。
そして、静かにカウンターを離れる。
「——静粛に願います、グリム。開館時間は終了しました」
「へいへい。分かってるっつーの」
グリムは欠伸をしながら、ソファで丸くなった。
図書館が、深い眠りに落ちていく。
無限に続く書架の向こうで——また新たな物語が、司書の訪れを待っている。
ゴリ、ゴリ。
どこかで、ミルの音が聞こえる。
次の来館者を迎えるための、静かな準備。
深夜零時のレファレンス。
その扉は、いつでも開いている。
万華鏡のような色彩が視界を埋め尽くし、次の瞬間——古書の匂いが、鼻腔を満たした。
「——っ、はぁ」
グリムが膝をついた。
左腕をかばう姿勢のまま、荒い息を吐いている。
だが、その腕には傷一つない。パーカーの袖がめくれ上がり、白い肌がのぞいていた。
「……骨、治ってやがる」
自分の腕を見下ろして、グリムは呆れたように笑った。
「おい、メガネ。聞いてた通りだな。本の外に出りゃ、役の傷は残んねぇってのは」
返事がない。
グリムが振り返ると、朔はカウンターに片手をついたまま、動かなくなっていた。
銀縁のメガネがわずかに曇っている。呼吸は浅く、肌は蒼白だった。
「……おい。メガネ」
「——問題、ありません」
朔はゆっくりと顔を上げた。いつもの営業スマイルを浮かべようとして、失敗している。唇の端が、かすかに引きつっていた。
「……多少、疲労しただけですよ」
「疲労で済む顔色じゃねぇだろうが」
グリムは舌打ちをした。
それから、ソファの方へ視線を向ける。
美波は、そこで眠っていた。
革張りのソファに身体を預け、穏やかな寝息を立てている。頬には涙の跡が残っていたが、表情には安らぎがあった。まるで、長い悪夢からようやく目覚めたかのように。
「……あっちは、大丈夫そうだな」
「ええ。記憶は——おそらく、朧げになっているでしょう」
朔はメガネを外し、袖で静かにレンズを拭いた。
「潜書中の出来事は、現実に戻ると夢のように曖昧になります。戦いの記憶は消え、ただ——」
一拍、間があいた。
「——温かさだけが、残る」
その言葉を最後に、朔はカウンターに肘をつき、そのまま動かなくなった。
十五分後。
図書館のバックヤードにある小さなキッチンから、出汁の香りが漂っていた。
「チッ……冷蔵庫、もやしと卵しかねぇじゃねぇか」
グリムはぶつぶつと文句を言いながら、手際よく鍋を火にかけていた。
エプロンを腰に巻き、鰹節を削る手つきは妙に慣れている。
「せめて鶏肉くらい買っとけよな……あのクソメガネ……」
独り言は止まらない。だが、その目は真剣だった。
もやしをざく切りにし、卵を溶き、残りご飯を鍋に投入する。醤油を垂らし、味を見る。うん、と小さく頷いた。
五分後。
湯気を立てる土鍋を持って、グリムはカウンターへ戻った。
朔は相変わらず動かない。
カウンターに突っ伏したまま、書類の山に顔を埋めている。こうして見ると、ただの居眠りにしか見えなかった。
「……おいメガネ。できたぞ」
反応がない。
グリムは土鍋をドン、と置いた。
「起きろっつってんだろ。食わなきゃ朱入れのツケ、払えねぇぞ」
朔がゆっくりと顔を上げた。
目の下に隈ができている。頬はこけ、唇は乾いていた。まるで、何日も眠っていない人間のような顔だった。
「……これは」
「卵雑炊。贅沢言うなよ、あるもんで作ったんだからな」
グリムは木のレンゲを差し出した。
朔はしばらくそれを見つめてから、機械的に手を伸ばし——雑炊を口に運んだ。
咀嚼する。
飲み込む。
また、掬う。
グリムは腕を組んで、その様子を見ていた。
「……味、どうだよ」
朔の手が止まった。
「……熱量としては、十分です」
淡々と、事務的な口調。
「それから?」
「……味は」
朔は小さく首を傾げた。
レンゲを持つ手が、少しだけ震えている。
「——分かりません」
グリムは鼻を鳴らした。
「チッ。張り合いのねぇ舌だな、ほんと」
それだけ言って、グリムは自分の分の雑炊を掬った。
ふうふうと息を吹きかけ、口に入れる。
「ん。俺の雑炊、うまいじゃん」
自画自賛しながら、グリムは何度も口を動かした。
その横顔を、朔はぼんやりと眺めている。
「……グリム」
「あ?」
「——温かいですね」
朔は、レンゲを握ったまま、そう呟いた。
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「……この熱が分かるのは、あなたのおかげです」
「……何言ってんだよ、急に」
グリムは一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、ふいっと視線を逸らす。
「……当たり前だろ、今作ったんだから」
ぶっきらぼうな声。
だが、その耳が少しだけ赤くなっていることに、朔は気づかないふりをした。
コーヒーの香りが、静かに広がっていた。
朔がハンドミルを回す、ゴリ、ゴリ、という音。
深夜の図書館に、いつもの静寂が戻っている。
「——ん……」
ソファで、美波が目を覚ました。
ゆっくりと上体を起こし、ぼんやりと周囲を見回す。
「……あれ、私」
記憶が曖昧だった。
確か、本の相談をして——それから——
「お目覚めですか、南様」
朔の声に、美波ははっと顔を上げた。
カウンターの向こうで、朔がいつものように微笑んでいる。銀縁のメガネ。ベストを纏った、きちんとした佇まい。
「あ……すみません、私、寝てしまって」
「いえ。お疲れだったのでしょう。少しお待ちください」
朔はポットから湯を注ぎ、ドリッパーをセットした。
透明なサーバーに、黒い液体がゆっくりと落ちていく。
美波はぼんやりとその様子を眺めていた。
何か——大事なことを忘れているような気がする。悪い夢を見ていたような。でも、それが何だったのか、思い出せない。
ただ、胸のつかえが取れたような——不思議な爽快感だけがあった。
「こちらを、どうぞ」
朔がカウンター越しに、一冊の本を差し出した。
『まほうつかいのミルト』。
鮮やかな青い空。緑の丘。
そして、笑顔の魔法使いが、表紙で手を振っている。
「修復が終わりました。……良い物語ですね」
美波は、震える手で本を受け取った。
表紙を撫でる。ページをめくる。
あの頃と変わらない——温かい物語が、そこにあった。
「……ミルト」
美波の目から、涙がこぼれた。
悲しみではない。懐かしさと、安堵の涙だった。
「ありがとう……ございます……」
嗚咽混じりの声に、朔は静かに頷いた。
扉の前で、美波は振り返った。
図書館の入り口。外からは、うっすらと朝焼けの光が差し込んでいる。
「あの……」
美波は『まほうつかいのミルト』を胸に抱きしめたまま、言葉を探していた。
「私、明日——いえ、今日から、会社に行ってみようと思います」
朔は、穏やかに頷いた。
「それは、良いご決断です」
「あの……もし、また迷ったら」
「いつでも、お越しください」
朔は、営業用ではない——どこか柔らかな笑みを浮かべた。
「黄昏迷宮図書館は、深夜零時をまたぐ限り、開館しておりますので」
美波は一瞬、目を見開いた。
それから、くしゃりと顔を歪めて、笑った。
「……ありがとうございます。本当に」
深々と頭を下げて、美波は扉に手をかけた。
その瞬間——
「……元気でやれよ」
小さな声が、聞こえたような気がした。
振り返る。ソファでは、グリムがヘッドホンを耳にかけたまま、目を閉じていた。まるで、最初から眠っていたかのように。
美波は微笑んだ。
きっと、気のせいだ。——でも。
「……ありがとう」
誰にともなく、そう呟いて。
美波は、扉の向こうへ消えていった。
朝の光が、図書館のロビーを照らす。
埃が、きらきらと舞っていた。
「——あーあ。行っちまった」
グリムの声が、静寂を破った。
ソファに寝そべったまま、ヘッドホンを首にかけ直している。
「……聞こえてたかな、さっきの」
ぽつりと、呟く。
戦いの中で一緒に走り、一緒に怯え、一緒に立ち向かった。なのに、美波と目が合うことは、最後までなかった。
「……忘れることが、救いになることもあります」
朔はコーヒーカップを傾けながら、静かに言った。
「彼女にとって——あなたは『物語の登場人物』だった。夢の中の出来事として、記憶の奥底に沈んでいくでしょう」
「……チッ」
グリムは舌打ちをした。
それから、ソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げる。
「——まあ、いいけどよ」
しばらくの沈黙。
コーヒーを啜る音だけが、静かに響いていた。
「……なあ、メガネ」
「なんですか」
「俺のこと——お前は忘れねぇよな?」
グリムの声は、いつもの軽さがなかった。
どこか、怯えたような——幼い響き。
朔はカップを置いた。
ゆっくりと振り返り、グリムの方を見る。
「——忘れるわけがないでしょう」
淡々と、けれど確かな声だった。
「あなたがいなければ、私は今頃、本の山に埋もれて餓死しています」
「……はっ。それ褒めてんのか貶してんのか分かんねぇぞ」
「事実を述べているだけです」
朔は再びカップを手に取った。
黒い液体を一口、啜る。
「——それに」
「ん?」
ほんの少しだけ、朔の口元が緩んだ。
「……物語の結末は、悪くない味でしたよ」
グリムは、ぽかんとした。
それから——
「——は、はあ!? お前、味分かんねぇって言ってたじゃねぇか!」
「ええ。食事の味は分かりません」
朔は指先でレンズの縁に触れた。
その奥の瞳が、どこか満足げに細められている。
「ですが——物語の味なら、分かります」
「……なんだよそれ。意味わかんねぇ」
グリムはそっぽを向いた。
だが、その頬が少し緩んでいることに、朔は気づいていた。
窓の外では、朝日が昇り始めている。
深夜の図書館が、ゆっくりと眠りにつこうとしていた。
「……おい、メガネ」
「なんですか」
「次の依頼、いつ来んだよ」
グリムは天井を見上げたまま、呟いた。
その声には、わずかな期待が滲んでいた。
「さあ。それは、物語次第です」
朔は空になったカップを置いた。
そして、静かにカウンターを離れる。
「——静粛に願います、グリム。開館時間は終了しました」
「へいへい。分かってるっつーの」
グリムは欠伸をしながら、ソファで丸くなった。
図書館が、深い眠りに落ちていく。
無限に続く書架の向こうで——また新たな物語が、司書の訪れを待っている。
ゴリ、ゴリ。
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