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第20話 インクの匂いと、新しい朝
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光が、収束していく。
まぶたの裏に焼きついた白が、ゆっくりと薄れていった。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
古い紙。
埃。
そして、コーヒーの残り香。
朔は、目を開けた。
見慣れた天井がある。
深い木目の、重厚な梁。
ランプの暖かい光が、オレンジ色に空間を染めている。
「戻った、のか」
グリムの声が、すぐ隣から聞こえた。
朔は周囲を見回した。
カウンター。
無限に続く書架。
窓の外には、いつもと変わらぬ黄昏の空。
黄昏迷宮図書館。
深夜のような静寂に包まれた、いつもの図書館だった。
「ええ」
朔の声は、かすれていた。
「戻りましたね」
◆
崩壊していたはずの本棚が、元に戻っている。
散乱していた本も、きれいに書架に収まっていた。
まるで何事もなかったかのように。
夢だったと言われれば、そう信じてしまいそうな静けさ。
だが、朔の掌には確かな痛みがあった。
砕けたペンの破片。
赤い欠片が、傷ついた皮膚に食い込んでいる。
「メガネ、手」
グリムが、朔の掌を覗き込んだ。
「血、出てんぞ」
「大丈夫です」
朔は、破片をそっとカウンターの上に置いた。
赤い欠片が、ランプの光を受けて鈍く光る。
司書になってから、ずっと共に歩んできた相棒。
もう、二度と書くことはできない。
朔は、静かに息を吐いた。
グリムは何も言わなかった。
ただ、朔の隣に立っている。
肩が触れるくらいの距離で。
◆
沈黙が、流れた。
時計の針が、かちり、かちりと音を立てている。
規則正しいリズム。
静寂の中で、それだけが時間の流れを告げていた。
「なあ、メガネ」
グリムが、ぽつりと言った。
「お前、泣いてただろ」
朔の指が、かすかに動いた。
「目にゴミが入っただけです」
「嘘つけ」
グリムは、鼻を鳴らした。
「俺、見てたんだからな。あいつが消える時」
朔は、答えなかった。
眼鏡を外し、レンズを服の裾で拭く。
その手が、わずかに震えていた。
「灰燼さんは、勇者として終われました」
朔の声が、小さくなった。
「それだけで、いいんです」
グリムは、朔の背中を見ていた。
細い背中だった。
いつもより、小さく見える。
◆
その時だった。
朔の視線が、カウンターの隅で止まった。
「これは」
声が、固くなる。
見たことのない小箱が置かれていた。
深い藍色のベルベット。
古めかしい銀の留め金。
「おい、何だそれ」
グリムが、首をかしげた。
「こんなの、あったか?」
「いいえ」
朔は、ゆっくりと手を伸ばした。
留め金を外す。
かちり、と音がした。
◆
箱の中には、一本の万年筆が収められていた。
朔は、息を呑んだ。
軸は、透明だった。
クリスタルのように澄んでいる。
インクは入っていない。
ペン先だけが、銀色に輝いている。
「ペン、だよな。でも色がねぇ」
グリムが、覗き込む。
朔は、そっと万年筆を手に取った。
指先が触れた瞬間、軸がかすかに光った。
透明だった軸が、ほんのりと色づいていく。
淡い朱色。
砕けたペンと同じ、懐かしい色。
「使い手の色に、染まるペン」
朔の声が、震えていた。
軸の色が、ゆっくりと変化していった。
朱色から、青へ。
青から、緑へ。
そしてまた、透明に戻る。
まるで、可能性そのもののように。
「何色にでもなれる、ということですか」
過去の自分だけじゃない。
これからの自分も。
どんな物語でも、書ける。
「誰が用意したんだ」
グリムの問いに、朔は首を横に振った。
「わかりません」
朔は、万年筆を胸の前に掲げた。
ランプの光を受けて、軸が虹色に輝く。
「ただ、この図書館は時々、迷い人に道を示します」
指先で軸を撫でる。
温かい。
まるで、生きているように。
「続きを書け、ということでしょうね」
◆
グリムは、朔の横顔を見ていた。
新しいペンを手にした朔の目には、さっきまでの虚脱感がない。
かといって、完全に立ち直ったわけでもない。
どこか複雑な表情。
「なあ、メガネ」
グリムは、腕を組んだ。
「あいつとの約束、果たせんのか」
朔の手が、止まった。
灰燼の最期の言葉。
「また、書いてくれるか」
「今度は、最後まで」
「正直に言えば、わかりません」
朔の声は、静かだった。
「怖いんです。また途中で投げ出してしまうかもしれない」
声が、かすれる。
「書けなくなるのが、怖い」
◆
グリムが、朔の背中を叩いた。
ばしん、と乾いた音。
「痛っ」
「安心しろ」
グリムは、にやりと笑った。
「お前が書けなくなったら、俺が何度でも煽ってやる。『続き読ませろ』ってな」
朔が、目を瞬いた。
「俺さ、お前の書く文章、嫌いじゃなかったぜ」
グリムは、少し顔を背けた。
耳が、わずかに赤い。
「あの英雄譚のト書きとか。『勇者の剣は闇を祓う』とか」
「あれは、即興で」
「だから言ってんだろ」
グリムが、朔をまっすぐ見た。
金色の瞳が、ランプの光を映している。
「即興であれが出てくるんだ。才能あんじゃねぇか、お前」
◆
朔は、言葉を失っていた。
グリムが、自分の才能を認めている。
あの、文句ばかり言う悪友が。
面と向かって。
「目が潤んでるぞ」
「花粉です」
「この図書館に花粉はねぇだろ」
グリムが、肩をすくめる。
「とにかく、だ。お前が逃げようとしたら、俺が引き戻してやる」
グリムは、親指で自分の胸を叩いた。
「一番うるせぇ批評家として、な」
「批評家、ですか」
「当たり前だ」
グリムの声が、少しだけ低くなった。
「俺は完結させてもらえなかった側だからな」
朔の目が、見開かれた。
グリム。
未完の原稿から生まれた付喪神。
名前も、顔も、結末ももらえなかった存在。
「だから、最後まで書く奴の味方だ」
グリムは、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「つまんない話書いたら容赦なくダメ出しするけどな」
朔は、小さく笑った。
久しぶりに、笑った気がした。
◆
「コーヒー、淹れましょうか」
朔が、カウンターの奥に歩いていく。
手動のミルを取り出した。
豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回す。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
乾いた音が、静かな図書館に響いた。
豆の香ばしい匂いが、空間に広がっていく。
深煎りの、苦いブレンド。
「おう、頼むわ」
グリムが、カウンターに肘をついた。
朔は、湯を沸かし、丁寧にドリップしていく。
細い湯筋が、粉の上で円を描く。
泡が膨らみ、やがて褐色の液体がカップに落ちていった。
「どうぞ」
白い陶器のカップを、グリムに差し出す。
「おう」
グリムが、カップを受け取った。
二人で、カウンターに並んで立つ。
◆
朔は、カップを口元に運んだ。
湯気が、眼鏡を曇らせる。
いつもの感覚。
いつもの匂い。
一口、啜った。
苦い。
当然だ。
砂糖もミルクも入れていない。
いつもと同じ、ただの温かい液体。
そのはずだった。
「……おや」
朔の手が、止まった。
「どうした」
「いえ」
朔は、カップの中を見つめた。
黒い液体が、静かに揺れている。
「気のせいかもしれませんが」
もう一口、啜る。
「かすかに、何か感じます」
「何かって、何だよ」
「わかりません。苦味、のような。深み、のような」
朔の目が、わずかに見開かれた。
「ほんの少しだけ。本当に、かすかに」
◆
グリムが、朔を見た。
「お前、今まで何食っても味しねぇって言ってたじゃねぇか」
「ええ」
朔は、カップを見つめたまま動かなかった。
「まだ、はっきりとはわかりません。気のせいかもしれない」
カップを、両手で包み込む。
陶器越しに、温もりが伝わってくる。
「でも」
朔の声が、かすかに震えた。
「温かい、とは感じます」
その瞬間、ふと、あの感覚が蘇った。
灰燼の手。
消えかけていたのに、温かかった。
光に溶けていく寸前まで、確かに温かかった。
朔は、目を閉じた。
カップの温もりが、掌に染み込んでいく。
まるで、あの時の手のひらのように。
「……ありがとうございました」
声は、小さかった。
誰に向けたものかも、わからない。
灰燼に。
あるいは、このコーヒーに。
グリムは、何も言わなかった。
ただ、朔の横顔を見ていた。
◆
「グリム」
「ん?」
「約束します」
朔は、カウンターの上に目を向けた。
砕けたペンの破片が、そこにある。
赤い欠片。
もう書くことはできない。
その隣に、新しいペンを置いた。
透明な軸が、淡い朱色に染まっている。
砕けた破片と、同じ色。
古いものと、新しいもの。
終わりと、始まり。
二つが並んでいる。
「また、書きます」
朔は、砕けた破片を手に取った。
そっと、新しいペンの軸に触れさせる。
透明な軸が、深く色づいた。
朱色が濃くなり、どこか懐かしい輝きを帯びる。
朔は何も言わなかった。
ただ、破片を丁寧にベストの内ポケットにしまった。
心臓の、すぐ近く。
そして、新しいペンを胸ポケットに挿した。
「新しい物語を。今度こそ、最後まで」
グリムが、にやりと笑った。
「当たり前だ。俺が読むんだからな」
「厳しい批評家がいると、緊張しますね」
「緊張しろ。その方がいいもん書けるだろ」
◆
カランコロン。
扉のベルが、鳴った。
朔とグリムが、同時に顔を上げる。
図書館の入り口。
重厚な木の扉が、ゆっくりと開いていく。
「新しい客か」
グリムが、囁いた。
朔は、答えなかった。
ただ、カウンターの前に立った。
背筋を伸ばす。
眼鏡の位置を直す。
新しいペンが、胸ポケットの中で温かく光っている。
扉が、完全に開いた。
黄昏色の光の中に、人影が浮かび上がった。
◆
朔は、微笑んだ。
いつもの、慇懃無礼な笑み。
けれど、そこにはかすかな温かさがあった。
「いらっしゃいませ」
声が、静かに響く。
「ここは、人生に迷った方が、ふと辿り着く場所です」
グリムが、朔の隣に立った。
パーカーのフードを下ろし、金色の瞳を光らせる。
朔は、胸ポケットのペンに触れた。
透明な軸が、虹色に輝いている。
新しい物語が、始まろうとしていた。
「ようこそ、黄昏迷宮図書館へ」
時計の針が、零時を指した。
深夜零時。
レファレンスの時間。
まぶたの裏に焼きついた白が、ゆっくりと薄れていった。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
古い紙。
埃。
そして、コーヒーの残り香。
朔は、目を開けた。
見慣れた天井がある。
深い木目の、重厚な梁。
ランプの暖かい光が、オレンジ色に空間を染めている。
「戻った、のか」
グリムの声が、すぐ隣から聞こえた。
朔は周囲を見回した。
カウンター。
無限に続く書架。
窓の外には、いつもと変わらぬ黄昏の空。
黄昏迷宮図書館。
深夜のような静寂に包まれた、いつもの図書館だった。
「ええ」
朔の声は、かすれていた。
「戻りましたね」
◆
崩壊していたはずの本棚が、元に戻っている。
散乱していた本も、きれいに書架に収まっていた。
まるで何事もなかったかのように。
夢だったと言われれば、そう信じてしまいそうな静けさ。
だが、朔の掌には確かな痛みがあった。
砕けたペンの破片。
赤い欠片が、傷ついた皮膚に食い込んでいる。
「メガネ、手」
グリムが、朔の掌を覗き込んだ。
「血、出てんぞ」
「大丈夫です」
朔は、破片をそっとカウンターの上に置いた。
赤い欠片が、ランプの光を受けて鈍く光る。
司書になってから、ずっと共に歩んできた相棒。
もう、二度と書くことはできない。
朔は、静かに息を吐いた。
グリムは何も言わなかった。
ただ、朔の隣に立っている。
肩が触れるくらいの距離で。
◆
沈黙が、流れた。
時計の針が、かちり、かちりと音を立てている。
規則正しいリズム。
静寂の中で、それだけが時間の流れを告げていた。
「なあ、メガネ」
グリムが、ぽつりと言った。
「お前、泣いてただろ」
朔の指が、かすかに動いた。
「目にゴミが入っただけです」
「嘘つけ」
グリムは、鼻を鳴らした。
「俺、見てたんだからな。あいつが消える時」
朔は、答えなかった。
眼鏡を外し、レンズを服の裾で拭く。
その手が、わずかに震えていた。
「灰燼さんは、勇者として終われました」
朔の声が、小さくなった。
「それだけで、いいんです」
グリムは、朔の背中を見ていた。
細い背中だった。
いつもより、小さく見える。
◆
その時だった。
朔の視線が、カウンターの隅で止まった。
「これは」
声が、固くなる。
見たことのない小箱が置かれていた。
深い藍色のベルベット。
古めかしい銀の留め金。
「おい、何だそれ」
グリムが、首をかしげた。
「こんなの、あったか?」
「いいえ」
朔は、ゆっくりと手を伸ばした。
留め金を外す。
かちり、と音がした。
◆
箱の中には、一本の万年筆が収められていた。
朔は、息を呑んだ。
軸は、透明だった。
クリスタルのように澄んでいる。
インクは入っていない。
ペン先だけが、銀色に輝いている。
「ペン、だよな。でも色がねぇ」
グリムが、覗き込む。
朔は、そっと万年筆を手に取った。
指先が触れた瞬間、軸がかすかに光った。
透明だった軸が、ほんのりと色づいていく。
淡い朱色。
砕けたペンと同じ、懐かしい色。
「使い手の色に、染まるペン」
朔の声が、震えていた。
軸の色が、ゆっくりと変化していった。
朱色から、青へ。
青から、緑へ。
そしてまた、透明に戻る。
まるで、可能性そのもののように。
「何色にでもなれる、ということですか」
過去の自分だけじゃない。
これからの自分も。
どんな物語でも、書ける。
「誰が用意したんだ」
グリムの問いに、朔は首を横に振った。
「わかりません」
朔は、万年筆を胸の前に掲げた。
ランプの光を受けて、軸が虹色に輝く。
「ただ、この図書館は時々、迷い人に道を示します」
指先で軸を撫でる。
温かい。
まるで、生きているように。
「続きを書け、ということでしょうね」
◆
グリムは、朔の横顔を見ていた。
新しいペンを手にした朔の目には、さっきまでの虚脱感がない。
かといって、完全に立ち直ったわけでもない。
どこか複雑な表情。
「なあ、メガネ」
グリムは、腕を組んだ。
「あいつとの約束、果たせんのか」
朔の手が、止まった。
灰燼の最期の言葉。
「また、書いてくれるか」
「今度は、最後まで」
「正直に言えば、わかりません」
朔の声は、静かだった。
「怖いんです。また途中で投げ出してしまうかもしれない」
声が、かすれる。
「書けなくなるのが、怖い」
◆
グリムが、朔の背中を叩いた。
ばしん、と乾いた音。
「痛っ」
「安心しろ」
グリムは、にやりと笑った。
「お前が書けなくなったら、俺が何度でも煽ってやる。『続き読ませろ』ってな」
朔が、目を瞬いた。
「俺さ、お前の書く文章、嫌いじゃなかったぜ」
グリムは、少し顔を背けた。
耳が、わずかに赤い。
「あの英雄譚のト書きとか。『勇者の剣は闇を祓う』とか」
「あれは、即興で」
「だから言ってんだろ」
グリムが、朔をまっすぐ見た。
金色の瞳が、ランプの光を映している。
「即興であれが出てくるんだ。才能あんじゃねぇか、お前」
◆
朔は、言葉を失っていた。
グリムが、自分の才能を認めている。
あの、文句ばかり言う悪友が。
面と向かって。
「目が潤んでるぞ」
「花粉です」
「この図書館に花粉はねぇだろ」
グリムが、肩をすくめる。
「とにかく、だ。お前が逃げようとしたら、俺が引き戻してやる」
グリムは、親指で自分の胸を叩いた。
「一番うるせぇ批評家として、な」
「批評家、ですか」
「当たり前だ」
グリムの声が、少しだけ低くなった。
「俺は完結させてもらえなかった側だからな」
朔の目が、見開かれた。
グリム。
未完の原稿から生まれた付喪神。
名前も、顔も、結末ももらえなかった存在。
「だから、最後まで書く奴の味方だ」
グリムは、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「つまんない話書いたら容赦なくダメ出しするけどな」
朔は、小さく笑った。
久しぶりに、笑った気がした。
◆
「コーヒー、淹れましょうか」
朔が、カウンターの奥に歩いていく。
手動のミルを取り出した。
豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回す。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
乾いた音が、静かな図書館に響いた。
豆の香ばしい匂いが、空間に広がっていく。
深煎りの、苦いブレンド。
「おう、頼むわ」
グリムが、カウンターに肘をついた。
朔は、湯を沸かし、丁寧にドリップしていく。
細い湯筋が、粉の上で円を描く。
泡が膨らみ、やがて褐色の液体がカップに落ちていった。
「どうぞ」
白い陶器のカップを、グリムに差し出す。
「おう」
グリムが、カップを受け取った。
二人で、カウンターに並んで立つ。
◆
朔は、カップを口元に運んだ。
湯気が、眼鏡を曇らせる。
いつもの感覚。
いつもの匂い。
一口、啜った。
苦い。
当然だ。
砂糖もミルクも入れていない。
いつもと同じ、ただの温かい液体。
そのはずだった。
「……おや」
朔の手が、止まった。
「どうした」
「いえ」
朔は、カップの中を見つめた。
黒い液体が、静かに揺れている。
「気のせいかもしれませんが」
もう一口、啜る。
「かすかに、何か感じます」
「何かって、何だよ」
「わかりません。苦味、のような。深み、のような」
朔の目が、わずかに見開かれた。
「ほんの少しだけ。本当に、かすかに」
◆
グリムが、朔を見た。
「お前、今まで何食っても味しねぇって言ってたじゃねぇか」
「ええ」
朔は、カップを見つめたまま動かなかった。
「まだ、はっきりとはわかりません。気のせいかもしれない」
カップを、両手で包み込む。
陶器越しに、温もりが伝わってくる。
「でも」
朔の声が、かすかに震えた。
「温かい、とは感じます」
その瞬間、ふと、あの感覚が蘇った。
灰燼の手。
消えかけていたのに、温かかった。
光に溶けていく寸前まで、確かに温かかった。
朔は、目を閉じた。
カップの温もりが、掌に染み込んでいく。
まるで、あの時の手のひらのように。
「……ありがとうございました」
声は、小さかった。
誰に向けたものかも、わからない。
灰燼に。
あるいは、このコーヒーに。
グリムは、何も言わなかった。
ただ、朔の横顔を見ていた。
◆
「グリム」
「ん?」
「約束します」
朔は、カウンターの上に目を向けた。
砕けたペンの破片が、そこにある。
赤い欠片。
もう書くことはできない。
その隣に、新しいペンを置いた。
透明な軸が、淡い朱色に染まっている。
砕けた破片と、同じ色。
古いものと、新しいもの。
終わりと、始まり。
二つが並んでいる。
「また、書きます」
朔は、砕けた破片を手に取った。
そっと、新しいペンの軸に触れさせる。
透明な軸が、深く色づいた。
朱色が濃くなり、どこか懐かしい輝きを帯びる。
朔は何も言わなかった。
ただ、破片を丁寧にベストの内ポケットにしまった。
心臓の、すぐ近く。
そして、新しいペンを胸ポケットに挿した。
「新しい物語を。今度こそ、最後まで」
グリムが、にやりと笑った。
「当たり前だ。俺が読むんだからな」
「厳しい批評家がいると、緊張しますね」
「緊張しろ。その方がいいもん書けるだろ」
◆
カランコロン。
扉のベルが、鳴った。
朔とグリムが、同時に顔を上げる。
図書館の入り口。
重厚な木の扉が、ゆっくりと開いていく。
「新しい客か」
グリムが、囁いた。
朔は、答えなかった。
ただ、カウンターの前に立った。
背筋を伸ばす。
眼鏡の位置を直す。
新しいペンが、胸ポケットの中で温かく光っている。
扉が、完全に開いた。
黄昏色の光の中に、人影が浮かび上がった。
◆
朔は、微笑んだ。
いつもの、慇懃無礼な笑み。
けれど、そこにはかすかな温かさがあった。
「いらっしゃいませ」
声が、静かに響く。
「ここは、人生に迷った方が、ふと辿り着く場所です」
グリムが、朔の隣に立った。
パーカーのフードを下ろし、金色の瞳を光らせる。
朔は、胸ポケットのペンに触れた。
透明な軸が、虹色に輝いている。
新しい物語が、始まろうとしていた。
「ようこそ、黄昏迷宮図書館へ」
時計の針が、零時を指した。
深夜零時。
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