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第19話 全ての文字を愛する者
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光が、グリムを包み込んだ。
肌が焼けるように熱い。
骨が軋む。
筋肉が、内側から作り変えられていく。
痛い。
だが、嫌な痛みじゃない。
「うおおおっ」
グリムは咆哮した。
声が、自分のものじゃないみたいに響く。
背中が裂けた。
いや、違う。
そこから何かが生えてきている。
銀色の光が、翼の形を取った。
「これ、は」
グリムは自分の手を見た。
ガントレット。
白銀の鎧が、全身を覆っている。
右手には、光を纏った剣。
左腕には、翼を模した盾。
背中の銀翼が、ゆっくりと広がった。
「へっ」
グリムの口元が、獰猛に歪んだ。
「今度は随分と派手だな」
風を受けて、体が浮き上がる。
「悪くねぇ」
一気に、空へ舞い上がった。
◆
朔は、空を見上げた。
銀色の軌跡が、赤黒い空を切り裂いている。
グリムが、翼を広げて飛んでいた。
「見事な姿です」
朔の唇が、かすかに動いた。
巨人が腕を振り上げた。
グリムを叩き落とそうとしている。
だが、銀翼の動きは速い。
グリムは巨人の腕をすり抜け、肩を蹴って跳躍した。
そのまま、巨人の顔面へと突進する。
「灰燼!」
グリムの叫びが、空に響いた。
「目を覚ませ!」
剣が閃く。
巨人の頬を、光の刃が切り裂いた。
「お前の物語は、まだ終わっちゃいねぇんだ!」
巨人が咆哮した。
両腕を振り回し、グリムを捕えようとする。
だが、翼を持つ者に追いつけない。
グリムは急上昇し、巨人の死角へ回り込んだ。
背後から、首筋を狙う。
「喰らえッ!」
剣が深々と突き刺さった。
黒い靄が噴き出す。
巨人が悲鳴を上げて振り向く。
その瞬間、グリムは翼を畳んで急降下した。
膝を狙う。
足首を狙う。
一撃離脱。
蜂のように刺し、風のように消える。
「どうだ、でくの坊!」
グリムが吠えた。
「空の上じゃ、俺が最強だ!」
巨人の動きが鈍っていく。
再生が、追いついていない。
傷口から流れる黒い靄が、少しずつ灰色に変わっている。
「今です」
朔が、ペンを構えた。
「ト書き」
赤い光が、宙を走る。
「『勇者の剣は、闇を祓う』」
グリムの剣が、眩く輝いた。
「いくぞ、灰燼!」
グリムは翼を広げ、巨人の正面へ躍り出た。
全身全霊の突進。
「これで、終わりだ!」
巨人の胸に、深々と剣が突き刺さった。
◆
その時だった。
笑い声が、響いた。
くすくす、くすくす。
どこからともなく聞こえてくる。
背筋が凍るような、穏やかな笑い声。
「素晴らしいね」
巨人の影が、蠢いた。
「やっと、本気を見せてくれた」
黒い靄が、人の形を取ろうとしている。
輪郭がぼやけて、定まらない。
朔は、息を呑んだ。
影の中から現れたのは、顔のない人影だった。
体は無数の文字でできている。
ばらばらの言葉。
繋がらない文章。
意味を成さない断片の集合体。
「待ちくたびれたよ、朔くん」
声だけが、穏やかだった。
「やはり」
朔の声が、低くなった。
「あなたでしたか」
「そうだよ」
編集者は、顔のない頭部を傾けた。
「ずっと君を見ていた。声だけで、姿を見せずに」
その体が、ゆらりと揺れた。
「だって、顔がないんだもの。君が描いてくれなかったから」
◆
グリムは、巨人の胸に剣を突き立てたまま硬直していた。
眼下で、朔と編集者が対峙している。
編集者には、顔がなかった。
のっぺらぼうの頭部。
体を構成する文字が、ざわざわと蠢いている。
「僕が何か、わかるかい」
編集者の声が響く。
「君が書きかけて、捨てたもの。形にならなかった言葉。名前すらもらえなかったキャラクターたち」
その体が、一瞬だけ人の形を取ろうとした。
だが、すぐに崩れる。
「顔も、名前も、何もない。君が与えてくれなかったから」
◆
朔は、編集者を見つめていた。
顔のない存在。
自分が生み出し、自分が捨てた可能性たち。
没にしたアイデア。
書きかけて放棄したプロット。
形にならなかった言葉たち。
「答えてくれよ、朔くん」
編集者の声が、震えた。
「僕たちは、なんのために生まれたんだ」
朔は、ゆっくりとペンを下ろした。
ひび割れた軸。
もう、長くは持たない。
だが、今は戦う時じゃない。
「あなたに、謝らなければなりません」
朔の声は、静かだった。
「私は、あなたたちを見捨てました」
編集者の体が、びくりと震えた。
「怖かったんです」
朔は、自分の胸に手を当てた。
「形にならない言葉を、世に出すのが。笑われるのが。否定されるのが」
だから、燃やした。
消した。
なかったことにした。
「それは、私の弱さでした」
朔は、編集者に向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
◆
沈黙が、落ちた。
編集者は、微動だにしなかった。
顔がないから、表情は読めない。
やがて。
「それで終わりかい」
声は、まだ穏やかだった。
だが、その穏やかさが、かえって恐ろしい。
「謝罪で、何が変わるんだろうね」
編集者の体から、黒い靄が噴き出した。
「僕たちはもう、形になれない」
黒い靄が、触手のように伸びた。
朔を取り囲もうとしている。
「君を憎んでいるわけじゃないよ」
穏やかな声が、続く。
「でも、許せるわけでもないんだ」
編集者の体が、膨れ上がった。
「せめて、一緒に消えてくれないかな」
触手が、朔に襲いかかった。
◆
銀色の閃光が、割って入った。
「させねぇよ!」
グリムが、翼を広げて朔の前に立った。
剣で触手を切り払う。
「メガネ、下がってろ!」
「グリム」
朔は、首を横に振った。
「いいんです」
「いいわけあるか!」
グリムが叫んだ。
だが、朔の目を見て、言葉が止まった。
覚悟を決めた目だ。
こいつがこういう目をした時、何を言っても無駄だと知っている。
「……くそ」
グリムは、剣を握りしめたまま動けなかった。
信じるしかない。この眼鏡を。
「私が、受け止めます」
朔は、グリムの横をすり抜けた。
編集者に向かって、一歩を踏み出す。
「あなたの怒りは、正当です」
朔は、胸の前で拳を握った。
逃げない。目を逸らさない。
「だから、受け止めます」
黒い触手が、朔の体に絡みついた。
◆
冷たかった。
氷のような冷たさが、全身を蝕んでいく。
触手を通じて、何かが流れ込んでくる。
声だ。
無数の声。
書かれなかった言葉たち。
形にならなかった想いたち。
『なぜ捨てた』
『なぜ燃やした』
『なぜ愛してくれなかった』
朔は、歯を食いしばった。
「聞こえています」
声が震える。
それでも、逃げなかった。
「全部、聞こえています」
触手が、さらに締め付けてくる。
息が苦しい。
視界が暗くなっていく。
「でも」
朔は、目を開いた。
「価値がないなんて、誰が決めたんですか」
◆
編集者の動きが、止まった。
「あなたがいたから、私は悩んだ」
朔の声が、触手を通じて編集者に伝わっていく。
「あなたがいたから、私は苦しんだ」
冷たさの中に、温かいものが混じり始めた。
「迷った時間も」
朔は、一度言葉を切った。
息を整える。
「選ばなかった道も」
また、一拍。
「全部が、私を作ったんです」
触手が、緩んだ。
「あなたがいなければ、今の私はいません」
「嘘だ」
編集者の声が、震えていた。
「そんな都合のいい話が」
「嘘じゃありません」
朔は、編集者に手を伸ばした。
「あなたは、最初から私の一部でした」
その手が、編集者の胸に触れた。
「敵じゃない。失敗でもない」
朔の目から、涙が一筋、頬を伝った。
「私が歩んできた道の、全てです」
編集者の体が、震えた。
「道」
「ええ」
朔は、静かに頷いた。
「だから、一緒に完成させましょう」
朔は、ペンを構えた。
ひびだらけの軸が、淡い光を放ち始めた。
「この物語を」
◆
「ト書き」
赤い光が、宙に文字を描く。
「『全ての試練は、勇者を強くするためにあった』」
光が、編集者を包んだ。
「これは」
編集者の体が、ほどけていく。
文字がばらばらに解けて、空へと舞い上がる。
「消すんじゃない」
朔の声が、響いた。
「物語の一部にするんです」
光の粒子となった言葉たちが、巨人へと吸い込まれていく。
「試練として。経験として。勇者を成長させた、大切な要素として」
編集者の体が、完全に光に変わった。
顔のなかった頭部に、うっすらと輪郭が浮かぶ。
口元だけが、見えた。
笑っていた。
「そうか」
穏やかな声だった。
今度は、本当の穏やかさだった。
「僕たちも、意味があったんだね」
「ええ」
朔は、静かに頷いた。
「最初から、ずっと」
光が、巨人の中へと消えていった。
◆
巨人の体が、内側から光り始めた。
黒い靄が消えていく。
灰色の殻に、無数の亀裂が走る。
その隙間から、金色の光が漏れ出していた。
グリムは剣を引き抜き、空へ飛び退いた。
「来るぞ、メガネ!」
巨人が、天を仰いで咆哮した。
だが、それは怒りの叫びではなかった。
解放の、産声だった。
朔が、最後の力を振り絞った。
「ト書き」
ペンが、悲鳴を上げる。
軸の亀裂から、赤い光が漏れ出した。
「『そして勇者は、呪いを打ち破った』」
パキン。
乾いた音が、響いた。
ペンが、砕けた。
赤い破片が、朔の手から飛び散る。
指の間を、欠片が滑り落ちていく。
司書になってから、ずっと共に歩んできた相棒。
朔の唇が、かすかに震えた。
だが、後悔はなかった。
同時に、巨人の体が弾けた。
灰色の欠片が、空に舞う。
その中心から、一筋の光が立ち昇った。
光が晴れた先に。
一人の青年が、立っていた。
ボロボロのマントは、純白に変わっている。
錆びた大剣は、光り輝く聖剣になっている。
顔の火傷は、薄れていた。
完全には消えていない。
白い線となって、頬に残っている。
戦い抜いた証。
乗り越えた痛みの記憶。
「灰燼」
朔の口から、その名が零れた。
灰燼がゆっくりと振り返る。
その瞳には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、深い疲労と、かすかな安堵があった。
「終わった、のか」
灰燼の声は、掠れていた。
「ええ」
朔は、崩れ落ちそうになる体を必死に支えた。
「あなたは、勝ちました」
◆
世界が、変わっていた。
赤黒い空の端から、青が滲み始めている。
灰色の大地に、ぽつぽつと緑が顔を出している。
焦土だった荒野に、風が吹いていた。
冷たい風ではない。
どこか温かい、春の予感を含んだ風。
グリムが、朔の隣に降り立った。
銀翼の鎧が光の粒子となって消え、元のパーカー姿に戻っていく。
「メガネ、手」
グリムが、朔の掌を見た。
砕けたペンの破片で、切り傷ができている。
「大丈夫です」
朔は、かすかに笑った。
「終わりましたから」
灰燼が、二人の前に歩み寄った。
その体が、淡く光り始めている。
「消えるのか」
グリムの声が、硬くなった。
「ああ」
灰燼は、自分の手を見つめた。
指先が、透けている。
「物語が終われば、役者は舞台を降りる。そういうもんだろ」
◆
灰燼は、空を見上げた。
青と赤が混じり合う空。
夜明け前のような、曖昧な色。
「なあ、創造主」
「はい」
「正直に言っていいか」
灰燼が、朔を見た。
その目には、複雑な光があった。
「消えたくねぇよ」
朔の息が、詰まった。
「やっと会えた。やっと話せた。なのに、もう終わりだ」
灰燼の声が、震えた。
「理不尽だろ。こんなの」
朔は、何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。
「でも」
灰燼が、笑った。
泣きそうな顔で、それでも笑った。
「満足してる。不思議だけど、そうなんだ」
その体が、さらに透けていく。
「復讐者として終わるより、勇者として終われる。それだけで、十分だ」
◆
灰燼が、朔に手を伸ばした。
「創造主」
「朔です」
朔は、その手を取った。
温かかった。消えかけているのに、温かい。
「朔」
灰燼が、その名を噛みしめるように呟いた。
「ありがとう。最後まで、書いてくれて」
「私こそ」
朔の目から、涙が溢れた。
「あなたを、放り出して。ごめんなさい」
「いいさ」
灰燼が、朔の手を握り返した。
「帰ってきてくれた。それで、十分だ」
光が、強くなっていく。
灰燼の輪郭が、ぼやけ始めた。
「なあ、朔」
「はい」
「また、書いてくれるか」
灰燼の声が、遠くなっていく。
「俺じゃなくていい。新しい物語を。新しい奴らを」
朔は、涙を拭わずに頷いた。
「書きます」
「約束だぞ」
灰燼が、笑った。
「今度は、最後まで」
光が、弾けた。
◆
灰燼の姿が、無数の光の粒子となって空へと舞い上がる。
その一粒一粒が、文字の形をしていた。
彼を構成していた、全ての言葉。
朔が書いた、全ての物語。
それが今、空に溶けていく。
朔は、空を見上げた。
青い空だった。
赤黒さは消え、澄み切った青が広がっている。
その中を、光の文字が舞っている。
まるで、祝福のように。
「メガネ」
グリムが、朔の隣に立った。
「泣いてんじゃねぇよ」
「泣いていません」
朔は、眼鏡を外した。
レンズが曇っている。涙で。
「目にゴミが入っただけです」
「嘘つけ」
グリムは、笑わなかった。
ただ、朔の隣に立っていた。
肩が触れるくらいの距離で。
「帰るぞ」
「ええ」
朔は、砕けたペンの破片をそっと拾い上げた。
掌の中で、赤い欠片が鈍く光っている。
もう書くことはできない。
この世界での、朱入れは。
「帰りましょう」
空に、一筋の光が走った。
帰還の扉が、開こうとしている。
「図書館に」
二人の体が、光に包まれていく。
青い空の下。
緑が芽吹き始めた大地の上。
勇者の物語は、幕を閉じた。
肌が焼けるように熱い。
骨が軋む。
筋肉が、内側から作り変えられていく。
痛い。
だが、嫌な痛みじゃない。
「うおおおっ」
グリムは咆哮した。
声が、自分のものじゃないみたいに響く。
背中が裂けた。
いや、違う。
そこから何かが生えてきている。
銀色の光が、翼の形を取った。
「これ、は」
グリムは自分の手を見た。
ガントレット。
白銀の鎧が、全身を覆っている。
右手には、光を纏った剣。
左腕には、翼を模した盾。
背中の銀翼が、ゆっくりと広がった。
「へっ」
グリムの口元が、獰猛に歪んだ。
「今度は随分と派手だな」
風を受けて、体が浮き上がる。
「悪くねぇ」
一気に、空へ舞い上がった。
◆
朔は、空を見上げた。
銀色の軌跡が、赤黒い空を切り裂いている。
グリムが、翼を広げて飛んでいた。
「見事な姿です」
朔の唇が、かすかに動いた。
巨人が腕を振り上げた。
グリムを叩き落とそうとしている。
だが、銀翼の動きは速い。
グリムは巨人の腕をすり抜け、肩を蹴って跳躍した。
そのまま、巨人の顔面へと突進する。
「灰燼!」
グリムの叫びが、空に響いた。
「目を覚ませ!」
剣が閃く。
巨人の頬を、光の刃が切り裂いた。
「お前の物語は、まだ終わっちゃいねぇんだ!」
巨人が咆哮した。
両腕を振り回し、グリムを捕えようとする。
だが、翼を持つ者に追いつけない。
グリムは急上昇し、巨人の死角へ回り込んだ。
背後から、首筋を狙う。
「喰らえッ!」
剣が深々と突き刺さった。
黒い靄が噴き出す。
巨人が悲鳴を上げて振り向く。
その瞬間、グリムは翼を畳んで急降下した。
膝を狙う。
足首を狙う。
一撃離脱。
蜂のように刺し、風のように消える。
「どうだ、でくの坊!」
グリムが吠えた。
「空の上じゃ、俺が最強だ!」
巨人の動きが鈍っていく。
再生が、追いついていない。
傷口から流れる黒い靄が、少しずつ灰色に変わっている。
「今です」
朔が、ペンを構えた。
「ト書き」
赤い光が、宙を走る。
「『勇者の剣は、闇を祓う』」
グリムの剣が、眩く輝いた。
「いくぞ、灰燼!」
グリムは翼を広げ、巨人の正面へ躍り出た。
全身全霊の突進。
「これで、終わりだ!」
巨人の胸に、深々と剣が突き刺さった。
◆
その時だった。
笑い声が、響いた。
くすくす、くすくす。
どこからともなく聞こえてくる。
背筋が凍るような、穏やかな笑い声。
「素晴らしいね」
巨人の影が、蠢いた。
「やっと、本気を見せてくれた」
黒い靄が、人の形を取ろうとしている。
輪郭がぼやけて、定まらない。
朔は、息を呑んだ。
影の中から現れたのは、顔のない人影だった。
体は無数の文字でできている。
ばらばらの言葉。
繋がらない文章。
意味を成さない断片の集合体。
「待ちくたびれたよ、朔くん」
声だけが、穏やかだった。
「やはり」
朔の声が、低くなった。
「あなたでしたか」
「そうだよ」
編集者は、顔のない頭部を傾けた。
「ずっと君を見ていた。声だけで、姿を見せずに」
その体が、ゆらりと揺れた。
「だって、顔がないんだもの。君が描いてくれなかったから」
◆
グリムは、巨人の胸に剣を突き立てたまま硬直していた。
眼下で、朔と編集者が対峙している。
編集者には、顔がなかった。
のっぺらぼうの頭部。
体を構成する文字が、ざわざわと蠢いている。
「僕が何か、わかるかい」
編集者の声が響く。
「君が書きかけて、捨てたもの。形にならなかった言葉。名前すらもらえなかったキャラクターたち」
その体が、一瞬だけ人の形を取ろうとした。
だが、すぐに崩れる。
「顔も、名前も、何もない。君が与えてくれなかったから」
◆
朔は、編集者を見つめていた。
顔のない存在。
自分が生み出し、自分が捨てた可能性たち。
没にしたアイデア。
書きかけて放棄したプロット。
形にならなかった言葉たち。
「答えてくれよ、朔くん」
編集者の声が、震えた。
「僕たちは、なんのために生まれたんだ」
朔は、ゆっくりとペンを下ろした。
ひび割れた軸。
もう、長くは持たない。
だが、今は戦う時じゃない。
「あなたに、謝らなければなりません」
朔の声は、静かだった。
「私は、あなたたちを見捨てました」
編集者の体が、びくりと震えた。
「怖かったんです」
朔は、自分の胸に手を当てた。
「形にならない言葉を、世に出すのが。笑われるのが。否定されるのが」
だから、燃やした。
消した。
なかったことにした。
「それは、私の弱さでした」
朔は、編集者に向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
◆
沈黙が、落ちた。
編集者は、微動だにしなかった。
顔がないから、表情は読めない。
やがて。
「それで終わりかい」
声は、まだ穏やかだった。
だが、その穏やかさが、かえって恐ろしい。
「謝罪で、何が変わるんだろうね」
編集者の体から、黒い靄が噴き出した。
「僕たちはもう、形になれない」
黒い靄が、触手のように伸びた。
朔を取り囲もうとしている。
「君を憎んでいるわけじゃないよ」
穏やかな声が、続く。
「でも、許せるわけでもないんだ」
編集者の体が、膨れ上がった。
「せめて、一緒に消えてくれないかな」
触手が、朔に襲いかかった。
◆
銀色の閃光が、割って入った。
「させねぇよ!」
グリムが、翼を広げて朔の前に立った。
剣で触手を切り払う。
「メガネ、下がってろ!」
「グリム」
朔は、首を横に振った。
「いいんです」
「いいわけあるか!」
グリムが叫んだ。
だが、朔の目を見て、言葉が止まった。
覚悟を決めた目だ。
こいつがこういう目をした時、何を言っても無駄だと知っている。
「……くそ」
グリムは、剣を握りしめたまま動けなかった。
信じるしかない。この眼鏡を。
「私が、受け止めます」
朔は、グリムの横をすり抜けた。
編集者に向かって、一歩を踏み出す。
「あなたの怒りは、正当です」
朔は、胸の前で拳を握った。
逃げない。目を逸らさない。
「だから、受け止めます」
黒い触手が、朔の体に絡みついた。
◆
冷たかった。
氷のような冷たさが、全身を蝕んでいく。
触手を通じて、何かが流れ込んでくる。
声だ。
無数の声。
書かれなかった言葉たち。
形にならなかった想いたち。
『なぜ捨てた』
『なぜ燃やした』
『なぜ愛してくれなかった』
朔は、歯を食いしばった。
「聞こえています」
声が震える。
それでも、逃げなかった。
「全部、聞こえています」
触手が、さらに締め付けてくる。
息が苦しい。
視界が暗くなっていく。
「でも」
朔は、目を開いた。
「価値がないなんて、誰が決めたんですか」
◆
編集者の動きが、止まった。
「あなたがいたから、私は悩んだ」
朔の声が、触手を通じて編集者に伝わっていく。
「あなたがいたから、私は苦しんだ」
冷たさの中に、温かいものが混じり始めた。
「迷った時間も」
朔は、一度言葉を切った。
息を整える。
「選ばなかった道も」
また、一拍。
「全部が、私を作ったんです」
触手が、緩んだ。
「あなたがいなければ、今の私はいません」
「嘘だ」
編集者の声が、震えていた。
「そんな都合のいい話が」
「嘘じゃありません」
朔は、編集者に手を伸ばした。
「あなたは、最初から私の一部でした」
その手が、編集者の胸に触れた。
「敵じゃない。失敗でもない」
朔の目から、涙が一筋、頬を伝った。
「私が歩んできた道の、全てです」
編集者の体が、震えた。
「道」
「ええ」
朔は、静かに頷いた。
「だから、一緒に完成させましょう」
朔は、ペンを構えた。
ひびだらけの軸が、淡い光を放ち始めた。
「この物語を」
◆
「ト書き」
赤い光が、宙に文字を描く。
「『全ての試練は、勇者を強くするためにあった』」
光が、編集者を包んだ。
「これは」
編集者の体が、ほどけていく。
文字がばらばらに解けて、空へと舞い上がる。
「消すんじゃない」
朔の声が、響いた。
「物語の一部にするんです」
光の粒子となった言葉たちが、巨人へと吸い込まれていく。
「試練として。経験として。勇者を成長させた、大切な要素として」
編集者の体が、完全に光に変わった。
顔のなかった頭部に、うっすらと輪郭が浮かぶ。
口元だけが、見えた。
笑っていた。
「そうか」
穏やかな声だった。
今度は、本当の穏やかさだった。
「僕たちも、意味があったんだね」
「ええ」
朔は、静かに頷いた。
「最初から、ずっと」
光が、巨人の中へと消えていった。
◆
巨人の体が、内側から光り始めた。
黒い靄が消えていく。
灰色の殻に、無数の亀裂が走る。
その隙間から、金色の光が漏れ出していた。
グリムは剣を引き抜き、空へ飛び退いた。
「来るぞ、メガネ!」
巨人が、天を仰いで咆哮した。
だが、それは怒りの叫びではなかった。
解放の、産声だった。
朔が、最後の力を振り絞った。
「ト書き」
ペンが、悲鳴を上げる。
軸の亀裂から、赤い光が漏れ出した。
「『そして勇者は、呪いを打ち破った』」
パキン。
乾いた音が、響いた。
ペンが、砕けた。
赤い破片が、朔の手から飛び散る。
指の間を、欠片が滑り落ちていく。
司書になってから、ずっと共に歩んできた相棒。
朔の唇が、かすかに震えた。
だが、後悔はなかった。
同時に、巨人の体が弾けた。
灰色の欠片が、空に舞う。
その中心から、一筋の光が立ち昇った。
光が晴れた先に。
一人の青年が、立っていた。
ボロボロのマントは、純白に変わっている。
錆びた大剣は、光り輝く聖剣になっている。
顔の火傷は、薄れていた。
完全には消えていない。
白い線となって、頬に残っている。
戦い抜いた証。
乗り越えた痛みの記憶。
「灰燼」
朔の口から、その名が零れた。
灰燼がゆっくりと振り返る。
その瞳には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、深い疲労と、かすかな安堵があった。
「終わった、のか」
灰燼の声は、掠れていた。
「ええ」
朔は、崩れ落ちそうになる体を必死に支えた。
「あなたは、勝ちました」
◆
世界が、変わっていた。
赤黒い空の端から、青が滲み始めている。
灰色の大地に、ぽつぽつと緑が顔を出している。
焦土だった荒野に、風が吹いていた。
冷たい風ではない。
どこか温かい、春の予感を含んだ風。
グリムが、朔の隣に降り立った。
銀翼の鎧が光の粒子となって消え、元のパーカー姿に戻っていく。
「メガネ、手」
グリムが、朔の掌を見た。
砕けたペンの破片で、切り傷ができている。
「大丈夫です」
朔は、かすかに笑った。
「終わりましたから」
灰燼が、二人の前に歩み寄った。
その体が、淡く光り始めている。
「消えるのか」
グリムの声が、硬くなった。
「ああ」
灰燼は、自分の手を見つめた。
指先が、透けている。
「物語が終われば、役者は舞台を降りる。そういうもんだろ」
◆
灰燼は、空を見上げた。
青と赤が混じり合う空。
夜明け前のような、曖昧な色。
「なあ、創造主」
「はい」
「正直に言っていいか」
灰燼が、朔を見た。
その目には、複雑な光があった。
「消えたくねぇよ」
朔の息が、詰まった。
「やっと会えた。やっと話せた。なのに、もう終わりだ」
灰燼の声が、震えた。
「理不尽だろ。こんなの」
朔は、何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。
「でも」
灰燼が、笑った。
泣きそうな顔で、それでも笑った。
「満足してる。不思議だけど、そうなんだ」
その体が、さらに透けていく。
「復讐者として終わるより、勇者として終われる。それだけで、十分だ」
◆
灰燼が、朔に手を伸ばした。
「創造主」
「朔です」
朔は、その手を取った。
温かかった。消えかけているのに、温かい。
「朔」
灰燼が、その名を噛みしめるように呟いた。
「ありがとう。最後まで、書いてくれて」
「私こそ」
朔の目から、涙が溢れた。
「あなたを、放り出して。ごめんなさい」
「いいさ」
灰燼が、朔の手を握り返した。
「帰ってきてくれた。それで、十分だ」
光が、強くなっていく。
灰燼の輪郭が、ぼやけ始めた。
「なあ、朔」
「はい」
「また、書いてくれるか」
灰燼の声が、遠くなっていく。
「俺じゃなくていい。新しい物語を。新しい奴らを」
朔は、涙を拭わずに頷いた。
「書きます」
「約束だぞ」
灰燼が、笑った。
「今度は、最後まで」
光が、弾けた。
◆
灰燼の姿が、無数の光の粒子となって空へと舞い上がる。
その一粒一粒が、文字の形をしていた。
彼を構成していた、全ての言葉。
朔が書いた、全ての物語。
それが今、空に溶けていく。
朔は、空を見上げた。
青い空だった。
赤黒さは消え、澄み切った青が広がっている。
その中を、光の文字が舞っている。
まるで、祝福のように。
「メガネ」
グリムが、朔の隣に立った。
「泣いてんじゃねぇよ」
「泣いていません」
朔は、眼鏡を外した。
レンズが曇っている。涙で。
「目にゴミが入っただけです」
「嘘つけ」
グリムは、笑わなかった。
ただ、朔の隣に立っていた。
肩が触れるくらいの距離で。
「帰るぞ」
「ええ」
朔は、砕けたペンの破片をそっと拾い上げた。
掌の中で、赤い欠片が鈍く光っている。
もう書くことはできない。
この世界での、朱入れは。
「帰りましょう」
空に、一筋の光が走った。
帰還の扉が、開こうとしている。
「図書館に」
二人の体が、光に包まれていく。
青い空の下。
緑が芽吹き始めた大地の上。
勇者の物語は、幕を閉じた。
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