あいにく、配役は辞退いたしました

チャビューヘ

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 学園の寄宿舎の前に停まった馬車は、華美な装飾の一切を排した、実用本位の堅牢なものだった。
 
 ヴェラは、最低限の荷物だけを積み込ませると、一度も後ろを振り返ることなくステップに足をかけた。
 
「……待てと言っているだろう! ヴェラ!」
 
 背後から響いたのは、この国の第一王子とは思えない、余裕を欠いた怒声だった。
 
 ヴェラはため息を飲み込み、ゆっくりと向き直った。そこには、肩で息をしながらこちらを睨みつけるテオの姿があった。彼の端正な顔は、憤怒と、それ以上に深い戸惑いに歪んでいる。
 
「殿下。まだこちらにいらしたのですか。あいにくですが、出発の時刻ですの。お見送りは結構ですわ」
 
「見送りに来たわけではない! こんな勝手な真似、許されると思っているのか。学園の休暇でもない時期に、婚約者の俺に無断で帰省するなど、我が儘にも程がある!」
 
 テオがヴェラの腕を掴もうと一歩踏み出した瞬間、彼の前に一人の男が立ちふさがった。
 
 御者のオロスだ。彼は王子の放つ威圧感を柳に風と受け流し、ただ無表情に、ヴェラを守る盾となった。
 
「どけ、不届き者が。俺を誰だと思っている」
 
「……旦那様からのご命令でございます。お嬢様を安全にお送りするのが、私の役目ですので」
 
 オロスの低く地を這うような声に、テオがわずかに怯んだ。その隙を逃さず、ヴェラは冷淡な微笑を浮かべて言葉を重ねる。
 
「殿下。無断、とおっしゃいますが、すでに学園長には『療養のための長期休暇』の手続きを済ませておりますわ。診断書も添えて、受理されております」
 
「療養だと? そんな話、聞いていない!」
 
「ええ、殿下にお話しする必要はございませんもの。わたくしの健康管理はわたくしの責任。そして、婚約者としての『公的な義務』が果たせない以上、その座を維持するのは不誠実だと考えましたの」
 
 ヴェラはカバンから通達書の写しを取り出し、テオの目の前に突きつけた。
 
「こちら、王宮の儀礼局へも届けてありますわ。婚約関係の『一時凍結』に関する上申書です。受理された時点で、わたくしは殿下の管理下から外れます」
 
 テオは差し出された紙を、信じられないものを見るような目で見つめた。
 
「凍結……? 君は、本気で俺から離れるつもりなのか? そんなことをして、君の家がどうなるか分かっているのか! 俺に捨てられた女として、一生を台無しにするつもりか!」
 
 その言葉は、彼なりの「引き止め」だったのだろう。
 だが、今のヴェラには、哀れな負け惜しみにしか聞こえなかった。
 
「台無し、ですか。ふふっ……」
 
 ヴェラは喉の奥で小さく笑った。
 
 一度目の人生で、すべてを投げ打って彼に尽くし、最後にはその彼によって処刑台へ送られた。あの瞬間こそが、わたくしの人生の「台無し」だったというのに。
 
「ご心配には及びません。わたくし、もう『愛される婚約者』という役には飽きましたの。これからは、ただの自分として、静かにカツサンドを嗜む生活を送るつもりですわ」
 
「何を……何を言っているんだ!」
 
「殿下。あいにく、配役は辞退いたしました。これ以上わたくしの時間を奪うのは、王族としての品位に欠ける行為ではありませんこと?」
 
 ヴェラは、凍りついたように動けなくなったテオを置き去りにし、馬車の中へと滑り込んだ。
 
「オロス、出してちょうだい。急いでね」
 
「承知いたしました」
 
 御者の短い返事と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
 
 窓の外、遠ざかっていくテオの姿。彼は何かを叫んでいるようだったが、ヴェラは迷わずカーテンを閉めた。
 
 狭い車内には、ゾラが用意してくれたハーブティーの香りが漂っている。
 
 ようやく、第一幕が終わった。
 
 次の舞台は、かつて自分が一度目の死を迎えた場所――実家の屋敷だ。
 ヴェラは深く背もたれに身を預け、閉じた瞳の裏で、これから始まる「自由な余生」の計画を、一つ一つ丁寧に見直し始めた。
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