5 / 35
5
しおりを挟む
自室の扉を閉めた瞬間、ヴェラは深く、重い息を吐き出した。
視界に入る天蓋付きのベッド、繊細な彫刻が施されたライティングデスク。すべてが一度目の人生と同じ配置だ。そしてこの部屋は、彼女が冷たくなったスープを前に、誰の助けも来ないことを悟って命を絶った場所でもある。
だが、今のヴェラに感傷に浸るつもりはない。
「……ゾラ、換気をして。それから、香炉の香りを変えてちょうだい。もっと爽やかな、柑橘系のものがいいわね」
「かしこまりました。ただちに」
ゾラが機敏に動き、窓を開け放つ。夜の涼やかな風が入り込み、澱んでいた空気を一気に押し流した。
ほどなくして、約束通りの夕食が運ばれてきた。
厨房の人間は、ヴェラの「帰還」と「変貌」に戸惑ったようだが、差し出された金貨と、彼女の背後に控える無口な御者オロスの威圧感には勝てなかったらしい。
テーブルに並んだのは、厚切りの牛肉を赤ワインで煮込んだソテー、焼きたてのバゲット、そしてたっぷりのバターで和えた温野菜だ。
「素晴らしいわ。学園の、あの体面ばかり気にした薄味の食事とは大違い」
ヴェラがナイフを入れると、肉から溢れ出した肉汁が食欲をそそる音を立てた。
一口、運ぶ。
濃厚なソースのコクが舌の上で踊る。美味しいものを食べる。ただそれだけのことが、これほどまでに心を充足させるのだと、一度目の人生では気づきもしなかった。
幸せな食事の時間は、招かれざる客のノックによって中断された。
「ヴェラ、入ってもいいかしら? 少し、お話ししたいことがあって」
扉の向こうから聞こえるのは、母のカヤの声だ。先ほどの激昂はどこへやら、今は猫なで声のような、甘く優しい響きを含んでいる。
ヴェラはゾラに目配せをした。ゾラは無言で扉の鍵を開け、隙間からカヤの姿を認めたが、決して中へは通さなかった。
「お嬢様は現在、お食事中でございます。御用件があるならば、明日の朝食後にお伺いいたします」
「……そんなに硬いことを言わないで。わたくし、ヴェラが好きなハニーティーを淹れてきたのよ。一緒に飲もうと思って」
カヤの手には、豪奢な銀のトレイが乗っている。かつてのヴェラであれば、その「歩み寄り」に感激し、喜んで扉を開けただろう。だが、今のヴェラにはカヤの瞳の奥にある計算が透けて見えていた。
「お母様。お気遣い痛み入ります。ですが、そのハニーティーをいただくには、わたくしの喉は少々、贅沢に慣れすぎてしまいましたの」
ヴェラは椅子に座ったまま、扉の向こうへ声を投げた。
「先ほども申し上げた通り、わたくしは今、療養中の身。医師の診断によれば、過度なストレスは厳禁。つまり、お母様が持ち込もうとしている『王宮への謝罪の相談』や『家門の義務の話』は、わたくしにとっての毒薬と同じですわ」
「ヴェラ! そんな、言い草って……わたくしはあなたの母なのよ?」
「ええ、存じております。ですから、母娘としてのお願いがございますわ。今すぐそのトレイを持って、ご自身の寝室へお帰りください。わたくしの静寂を邪魔しないこと。それが、今のわたくしが母に求める唯一の『愛』ですもの」
カヤの絶句する気配が伝わってくる。
「あいにく、配役は辞退いたしました。良き娘として、お母様の期待に沿って微笑む役も、もう他の誰かにお譲りください」
ヴェラはそう告げると、再びナイフを手にした。
「ゾラ。扉を閉めて。カギも忘れずに」
「承知いたしました」
バタン、と重厚な扉が閉まり、再び静寂が戻る。
ヴェラは冷めかけた肉を口に運び、満足げに目を細めた。
一度目の死から、ようやく本当の人生が始まった。
明日は何をしようか。まずは、この屋敷にある不要な宝飾品をすべて売り払い、自分だけの隠居資金を増やすところから始めるとしよう。
王子の怒りも、母の嘆きも、兄の焦りも。
すべては「物語」の中の出来事。
観客席に降りたヴェラにとって、それは極上の喜劇にしか見えなかった。
----
5話まで読んで頂きありがとうございます!
いいね、お気に入り登録頂けると励みになります。
目指せHOTランキング入り!
視界に入る天蓋付きのベッド、繊細な彫刻が施されたライティングデスク。すべてが一度目の人生と同じ配置だ。そしてこの部屋は、彼女が冷たくなったスープを前に、誰の助けも来ないことを悟って命を絶った場所でもある。
だが、今のヴェラに感傷に浸るつもりはない。
「……ゾラ、換気をして。それから、香炉の香りを変えてちょうだい。もっと爽やかな、柑橘系のものがいいわね」
「かしこまりました。ただちに」
ゾラが機敏に動き、窓を開け放つ。夜の涼やかな風が入り込み、澱んでいた空気を一気に押し流した。
ほどなくして、約束通りの夕食が運ばれてきた。
厨房の人間は、ヴェラの「帰還」と「変貌」に戸惑ったようだが、差し出された金貨と、彼女の背後に控える無口な御者オロスの威圧感には勝てなかったらしい。
テーブルに並んだのは、厚切りの牛肉を赤ワインで煮込んだソテー、焼きたてのバゲット、そしてたっぷりのバターで和えた温野菜だ。
「素晴らしいわ。学園の、あの体面ばかり気にした薄味の食事とは大違い」
ヴェラがナイフを入れると、肉から溢れ出した肉汁が食欲をそそる音を立てた。
一口、運ぶ。
濃厚なソースのコクが舌の上で踊る。美味しいものを食べる。ただそれだけのことが、これほどまでに心を充足させるのだと、一度目の人生では気づきもしなかった。
幸せな食事の時間は、招かれざる客のノックによって中断された。
「ヴェラ、入ってもいいかしら? 少し、お話ししたいことがあって」
扉の向こうから聞こえるのは、母のカヤの声だ。先ほどの激昂はどこへやら、今は猫なで声のような、甘く優しい響きを含んでいる。
ヴェラはゾラに目配せをした。ゾラは無言で扉の鍵を開け、隙間からカヤの姿を認めたが、決して中へは通さなかった。
「お嬢様は現在、お食事中でございます。御用件があるならば、明日の朝食後にお伺いいたします」
「……そんなに硬いことを言わないで。わたくし、ヴェラが好きなハニーティーを淹れてきたのよ。一緒に飲もうと思って」
カヤの手には、豪奢な銀のトレイが乗っている。かつてのヴェラであれば、その「歩み寄り」に感激し、喜んで扉を開けただろう。だが、今のヴェラにはカヤの瞳の奥にある計算が透けて見えていた。
「お母様。お気遣い痛み入ります。ですが、そのハニーティーをいただくには、わたくしの喉は少々、贅沢に慣れすぎてしまいましたの」
ヴェラは椅子に座ったまま、扉の向こうへ声を投げた。
「先ほども申し上げた通り、わたくしは今、療養中の身。医師の診断によれば、過度なストレスは厳禁。つまり、お母様が持ち込もうとしている『王宮への謝罪の相談』や『家門の義務の話』は、わたくしにとっての毒薬と同じですわ」
「ヴェラ! そんな、言い草って……わたくしはあなたの母なのよ?」
「ええ、存じております。ですから、母娘としてのお願いがございますわ。今すぐそのトレイを持って、ご自身の寝室へお帰りください。わたくしの静寂を邪魔しないこと。それが、今のわたくしが母に求める唯一の『愛』ですもの」
カヤの絶句する気配が伝わってくる。
「あいにく、配役は辞退いたしました。良き娘として、お母様の期待に沿って微笑む役も、もう他の誰かにお譲りください」
ヴェラはそう告げると、再びナイフを手にした。
「ゾラ。扉を閉めて。カギも忘れずに」
「承知いたしました」
バタン、と重厚な扉が閉まり、再び静寂が戻る。
ヴェラは冷めかけた肉を口に運び、満足げに目を細めた。
一度目の死から、ようやく本当の人生が始まった。
明日は何をしようか。まずは、この屋敷にある不要な宝飾品をすべて売り払い、自分だけの隠居資金を増やすところから始めるとしよう。
王子の怒りも、母の嘆きも、兄の焦りも。
すべては「物語」の中の出来事。
観客席に降りたヴェラにとって、それは極上の喜劇にしか見えなかった。
----
5話まで読んで頂きありがとうございます!
いいね、お気に入り登録頂けると励みになります。
目指せHOTランキング入り!
1,049
あなたにおすすめの小説
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?
紺
ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。
世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。
ざまぁ必須、微ファンタジーです。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
人生の全てを捨てた王太子妃
八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。
傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。
だけど本当は・・・
受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。
王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした
由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。
無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。
再び招かれたのは、かつて母を追放した国。
礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。
これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。
別に要りませんけど?
ユウキ
恋愛
「お前を愛することは無い!」
そう言ったのは、今日結婚して私の夫となったネイサンだ。夫婦の寝室、これから初夜をという時に投げつけられた言葉に、私は素直に返事をした。
「……別に要りませんけど?」
※Rに触れる様な部分は有りませんが、情事を指す言葉が出ますので念のため。
※なろうでも掲載中
妹は私の婚約者と駆け落ちしました
今川幸乃
恋愛
貧乏貴族ブレンダ男爵家の姉妹、カトリナとジェニーにはラインハルトとレオルという婚約者がいた。
姉カトリナの婚約者ラインハルトはイケメンで女性に優しく、レオルは醜く陰気な性格と評判だった。
そんな姉の婚約者をうらやんだジェニーはラインハルトと駆け落ちすることを選んでしまう。
が、レオルは陰気で不器用ではあるが真面目で有能な人物であった。
彼との協力によりブレンダ男爵家は次第に繁栄していく。
一方ラインハルトと結ばれたことを喜ぶジェニーだったが、彼は好みの女性には節操なく手を出す軽薄な男であることが分かっていくのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる