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朝の光が差し込むサロンに、場違いな革鞄の匂いが漂っていた。
ヴェラは優雅に紅茶を啜りながら、目の前のテーブルに広げられた輝きを見つめていた。かつてテオ王子から贈られた、首飾り、腕輪、指輪の数々。どれもが国一つ買えるほどの価値があると言われた品々だ。
「……見事なものですわね。特にこのドラゴンの涙と呼ばれるアレキサンドライト。これほどの純度は、そうはお目にかかれません」
眼鏡を光らせて呟いたのは、ヴェラが密かに呼び寄せた女商人、ティルダだ。彼女はヴェラの意図を察し、護衛も連れずに一人で屋敷を訪れていた。
「買い取っていただけるかしら、ティルダ」
「もちろんですわ、お嬢様。ですが、よろしいのですか? これらはすべて、テオ殿下からの……」
「ただの石塊ですわ。今のわたくしには、これらを見るだけで肩が凝りますの。それよりも、北方の領地に構える別荘の維持費や、腕利きの料理人を雇うための資金の方が、ずっと輝いて見えますわ」
ヴェラが淡々と告げたその時、サロンの扉が勢いよく撥ね飛ばされた。
「待て! ヴェラ、正気か!」
飛び込んできたのは、顔を真っ赤にした兄のロアンだった。彼はテーブルの上の宝石と、見慣れぬ商人を見て、絶望に近い表情を浮かべた。
「ロアン兄様。朝から騒々しいですわね。淑女の商談を邪魔するのは、公爵家の跡取りとしていかがなものかしら」
「商談だと!? これらは殿下から贈られた家門の至宝だぞ! 勝手に売り払うなど、反逆罪に問われかねない!」
「あら、おかしいわね。贈与契約書には『ヴェラ個人の所有物とする』と殿下の署名がございますわ。わたくしが自分の持ち物をどう処分しようと、王法に触れる筋合いはございません」
ロアンはティルダを指差し、声を荒らげた。
「貴様! どこの回し者だ。公爵家の令嬢を誑かして、王家の宝を掠め取ろうというのか。今すぐ立ち去れ! さもなくば衛兵を呼ぶぞ!」
普通の商人なら、公爵家の嫡男に凄まれれば腰を抜かすだろう。だが、ティルダは薄く笑ったまま、手帳を閉じることすらしなかった。
「失礼ながら、ロアン様。わたくしはヴェラ様から正当な依頼を受けた商人に過ぎません。商談の妨害は、ギルドを通した公的な抗議の対象となりますが……よろしいのですか?」
「くっ……ヴェラ、お前という奴は!」
ロアンは妹の肩を掴もうとしたが、ヴェラはそれを軽やかにかわし、立ち上がった。
「兄様、勘違いしないで。わたくしは、家門を貶めようとしているのではありませんわ。むしろ逆です。殿下との繋がりを物理的に清算することで、これ以上の醜聞を防ごうとしているのです」
「清算だと? そんなもの、お前の勝手な理屈だ!」
「ええ、勝手ですわ。ですが、これを見てから仰ってくださいませ」
ヴェラは机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。
「これは、わたくしが独自に調査させた、学園でのテオ殿下とあの特待生……ルミ様の目撃証言リストですわ。いつ、どこで、どのような睦まじい様子であったか。これだけの証拠があれば、婚約破棄の有責はあちら側にあると認められます」
「な……何を調べているんだ!」
「この宝石を売ったお金で、わたくしは最強の弁護士団を雇いますの。泥沼の裁判になる前に、殿下には円満な婚約解消の合意書にサインをいただく……。そのための資金ですわ。兄様は、公爵家が王室を訴える準備ができていると知って、なおわたくしを学園に戻したいのかしら?」
ロアンの足が、がくがくと震え始めた。
ヴェラの瞳には、かつての献身的な妹の面影は微塵もなかった。そこにあるのは、自らの平穏を脅かすものを徹底的に排除しようとする、冷徹な執行者の眼差しだ。
「……お前は、もう戻る気がないのだな。あんなに殿下を愛していたのに」
「愛……。ええ、そんな季節もありましたわね。でも、あいにく、配役は辞退いたしました。誰かの愛を乞うために身を削る役なんて、もう二度と御免ですわ」
ヴェラはティルダに向き直り、優雅に手を出した。
「ティルダ、契約書を。端数は切り捨てて結構ですわ。その代わり、今日中に金貨で用意してちょうだい。重たいのは嫌いなの。なるべく質の良い金貨でね」
「承知いたしました、ヴェラ様。素晴らしいお決断ですわ」
サロンの中に、ペンが走る音だけが響く。
ロアンはもはや、言葉を発することさえできず、ただ妹が過去を金に換えていく様を、呆然と見守るしかなかった。
ヴェラは窓の外の庭園に目を向けた。
あそこには、一度目の人生で自分が植えた薔薇がある。
明日にはすべて引き抜かせ、美味しい野菜を育てる菜園に作り替えさせよう。
物語の幕は、もう二度と上がらないのだから。
ヴェラは優雅に紅茶を啜りながら、目の前のテーブルに広げられた輝きを見つめていた。かつてテオ王子から贈られた、首飾り、腕輪、指輪の数々。どれもが国一つ買えるほどの価値があると言われた品々だ。
「……見事なものですわね。特にこのドラゴンの涙と呼ばれるアレキサンドライト。これほどの純度は、そうはお目にかかれません」
眼鏡を光らせて呟いたのは、ヴェラが密かに呼び寄せた女商人、ティルダだ。彼女はヴェラの意図を察し、護衛も連れずに一人で屋敷を訪れていた。
「買い取っていただけるかしら、ティルダ」
「もちろんですわ、お嬢様。ですが、よろしいのですか? これらはすべて、テオ殿下からの……」
「ただの石塊ですわ。今のわたくしには、これらを見るだけで肩が凝りますの。それよりも、北方の領地に構える別荘の維持費や、腕利きの料理人を雇うための資金の方が、ずっと輝いて見えますわ」
ヴェラが淡々と告げたその時、サロンの扉が勢いよく撥ね飛ばされた。
「待て! ヴェラ、正気か!」
飛び込んできたのは、顔を真っ赤にした兄のロアンだった。彼はテーブルの上の宝石と、見慣れぬ商人を見て、絶望に近い表情を浮かべた。
「ロアン兄様。朝から騒々しいですわね。淑女の商談を邪魔するのは、公爵家の跡取りとしていかがなものかしら」
「商談だと!? これらは殿下から贈られた家門の至宝だぞ! 勝手に売り払うなど、反逆罪に問われかねない!」
「あら、おかしいわね。贈与契約書には『ヴェラ個人の所有物とする』と殿下の署名がございますわ。わたくしが自分の持ち物をどう処分しようと、王法に触れる筋合いはございません」
ロアンはティルダを指差し、声を荒らげた。
「貴様! どこの回し者だ。公爵家の令嬢を誑かして、王家の宝を掠め取ろうというのか。今すぐ立ち去れ! さもなくば衛兵を呼ぶぞ!」
普通の商人なら、公爵家の嫡男に凄まれれば腰を抜かすだろう。だが、ティルダは薄く笑ったまま、手帳を閉じることすらしなかった。
「失礼ながら、ロアン様。わたくしはヴェラ様から正当な依頼を受けた商人に過ぎません。商談の妨害は、ギルドを通した公的な抗議の対象となりますが……よろしいのですか?」
「くっ……ヴェラ、お前という奴は!」
ロアンは妹の肩を掴もうとしたが、ヴェラはそれを軽やかにかわし、立ち上がった。
「兄様、勘違いしないで。わたくしは、家門を貶めようとしているのではありませんわ。むしろ逆です。殿下との繋がりを物理的に清算することで、これ以上の醜聞を防ごうとしているのです」
「清算だと? そんなもの、お前の勝手な理屈だ!」
「ええ、勝手ですわ。ですが、これを見てから仰ってくださいませ」
ヴェラは机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。
「これは、わたくしが独自に調査させた、学園でのテオ殿下とあの特待生……ルミ様の目撃証言リストですわ。いつ、どこで、どのような睦まじい様子であったか。これだけの証拠があれば、婚約破棄の有責はあちら側にあると認められます」
「な……何を調べているんだ!」
「この宝石を売ったお金で、わたくしは最強の弁護士団を雇いますの。泥沼の裁判になる前に、殿下には円満な婚約解消の合意書にサインをいただく……。そのための資金ですわ。兄様は、公爵家が王室を訴える準備ができていると知って、なおわたくしを学園に戻したいのかしら?」
ロアンの足が、がくがくと震え始めた。
ヴェラの瞳には、かつての献身的な妹の面影は微塵もなかった。そこにあるのは、自らの平穏を脅かすものを徹底的に排除しようとする、冷徹な執行者の眼差しだ。
「……お前は、もう戻る気がないのだな。あんなに殿下を愛していたのに」
「愛……。ええ、そんな季節もありましたわね。でも、あいにく、配役は辞退いたしました。誰かの愛を乞うために身を削る役なんて、もう二度と御免ですわ」
ヴェラはティルダに向き直り、優雅に手を出した。
「ティルダ、契約書を。端数は切り捨てて結構ですわ。その代わり、今日中に金貨で用意してちょうだい。重たいのは嫌いなの。なるべく質の良い金貨でね」
「承知いたしました、ヴェラ様。素晴らしいお決断ですわ」
サロンの中に、ペンが走る音だけが響く。
ロアンはもはや、言葉を発することさえできず、ただ妹が過去を金に換えていく様を、呆然と見守るしかなかった。
ヴェラは窓の外の庭園に目を向けた。
あそこには、一度目の人生で自分が植えた薔薇がある。
明日にはすべて引き抜かせ、美味しい野菜を育てる菜園に作り替えさせよう。
物語の幕は、もう二度と上がらないのだから。
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