7 / 35
7
しおりを挟む
朝露に濡れた庭園に、場違いな金属音が響き渡っていた。
かつて「王都一の美しさ」と謳われた公爵家の薔薇園。そこには、ヴェラが一度目の人生でテオ王子のために精魂込めて育て上げた、希少な品種の薔薇が咲き誇っている。
だが、今のヴェラはその一角で、泥にまみれた作業着に身を包み、大きなスコップを地面に突き立てていた。
「……ふう。意外と根が深いのね」
ヴェラが額の汗を拭い、力任せにスコップを煽ると、美しい大輪の赤い薔薇が、根こそぎ地上へと引き抜かれた。それはテオとの愛の象徴として、かつての彼女がもっとも大切にしていた花だった。
「ヴェラ! あなた、一体何を……何をしているの!」
悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきたのは、母のカヤだった。彼女は、泥だらけの娘の姿を見て、今にも倒れそうなほど顔を青ざめさせている。
「おはようございます、お母様。見ての通り、模様替えですわ。この土は栄養が豊富ですから、ジャガイモやタマネギを育てるのに最適だと思いまして」
「ジャガイモ!? 公爵家の庭で、野菜を育てるというの? 正気なの、ヴェラ! その薔薇がどれほど高価なものか分かっているの?」
「ええ。ですが、薔薇は食べられませんもの。これからのわたくしに必要なのは、飾るための花ではなく、生きるための糧ですわ」
ヴェラは平然と言ってのけると、次に狙いを定めた白い薔薇の根元にスコップを突き入れた。
「お止めなさい! 今すぐその汚い服を着替えて部屋に戻るのよ。間もなく王宮から、殿下の使者が到着するわ。そんな姿を見られたら、公爵家の恥です!」
カヤがヴェラの腕を掴もうとしたが、その前に一人の小柄な男が音もなく割り込んだ。
「失礼、奥様。そこから先は、私の管轄となります」
灰色の地味な上着を着たその男、ネフは、無表情に一通の書面を掲げた。
「……誰よ、あなた。衛兵! この不審者を追い出しなさい!」
「わたくしの代理人のネフですわ、お母様。彼は王都の行政ギルドに登録された正当な実務家です。わたくしが、わたくしの私費で雇いましたの」
ヴェラは手を止め、カヤに向き直った。
「奥様、ヴェラ様は現在、この屋敷内における特定区域の『使用権』を、当主であるお父様との契約に基づき、正式に確保されています。その区域内での活動に対し、不当な干渉を行うことは、契約不履行の対象となりますが……よろしいですね?」
ネフの淡々とした説明に、カヤは口をパクパクと動かすことしかできなかった。
「ヴェラ……あなた、お父様といつの間にそんな約束を……」
「お父様は今、北方領地の視察で不在でしょう? ですから、魔法通信で直接お話ししましたの。『婚約解消に関する一切の責任を引き受ける代わりに、わたくしを自由にさせてほしい』と。お父様は即座に承諾してくださいましたわ」
一度目の人生で、父は自分を政治の道具としてしか見ていなかった。ならば、その「道具」としての価値を逆手に取り、責任という名の免罪符を買い取ればいい。冷徹な取引ほど、あの父に通用するものはないのだ。
その時、門の方から騒がしい蹄の音が聞こえてきた。
豪奢な王家の紋章が刻まれた馬車が、庭園のすぐ近くで急停止する。扉が開くと、中から現れたのは、苛立ちを隠そうともしないテオ王子だった。
「ヴェラ! 手紙の返事もせず、こんなところで何をして……っ!?」
テオの言葉が、物理的に止まった。
彼の視界に入ったのは、美しいドレスを着て涙ながらに謝罪を乞う婚約者の姿ではない。
作業着に身を包み、泥のついたスコップを杖のように突き、抜いた薔薇を足元に転がしている、冷ややかな瞳の女だった。
「お迎えもせず失礼いたします、殿下。あいにくですが、わたくしは今、劇の稽古中ではございませんの。現実の生活に追われておりますゆえ」
「その姿はなんだ……。その薔薇は、俺が君に贈った苗木も含まれているはずだぞ!」
「ええ、そうですわね。ですが、殿下。あいにく、配役は辞退いたしました。貴方の愛を、この薔薇のように大切に育てる役も、もう終わったのです」
ヴェラは足元の薔薇を、ためらいなく踏み越えて一歩前へ出た。
「これからは、この場所に美味しいジャガイモが実ります。殿下も、あの方……ルミ様でしたか。彼女と一緒に、その美しい愛という名の花だけを愛でていればよろしい。わたくしは、泥のついた野菜の方が、ずっと信頼できますの」
テオの顔が、屈辱と混乱で赤黒く染まっていく。
ヴェラにとって、彼の怒りはもはや、実りのための肥料ほどの影響力も持たなかった。
かつて「王都一の美しさ」と謳われた公爵家の薔薇園。そこには、ヴェラが一度目の人生でテオ王子のために精魂込めて育て上げた、希少な品種の薔薇が咲き誇っている。
だが、今のヴェラはその一角で、泥にまみれた作業着に身を包み、大きなスコップを地面に突き立てていた。
「……ふう。意外と根が深いのね」
ヴェラが額の汗を拭い、力任せにスコップを煽ると、美しい大輪の赤い薔薇が、根こそぎ地上へと引き抜かれた。それはテオとの愛の象徴として、かつての彼女がもっとも大切にしていた花だった。
「ヴェラ! あなた、一体何を……何をしているの!」
悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきたのは、母のカヤだった。彼女は、泥だらけの娘の姿を見て、今にも倒れそうなほど顔を青ざめさせている。
「おはようございます、お母様。見ての通り、模様替えですわ。この土は栄養が豊富ですから、ジャガイモやタマネギを育てるのに最適だと思いまして」
「ジャガイモ!? 公爵家の庭で、野菜を育てるというの? 正気なの、ヴェラ! その薔薇がどれほど高価なものか分かっているの?」
「ええ。ですが、薔薇は食べられませんもの。これからのわたくしに必要なのは、飾るための花ではなく、生きるための糧ですわ」
ヴェラは平然と言ってのけると、次に狙いを定めた白い薔薇の根元にスコップを突き入れた。
「お止めなさい! 今すぐその汚い服を着替えて部屋に戻るのよ。間もなく王宮から、殿下の使者が到着するわ。そんな姿を見られたら、公爵家の恥です!」
カヤがヴェラの腕を掴もうとしたが、その前に一人の小柄な男が音もなく割り込んだ。
「失礼、奥様。そこから先は、私の管轄となります」
灰色の地味な上着を着たその男、ネフは、無表情に一通の書面を掲げた。
「……誰よ、あなた。衛兵! この不審者を追い出しなさい!」
「わたくしの代理人のネフですわ、お母様。彼は王都の行政ギルドに登録された正当な実務家です。わたくしが、わたくしの私費で雇いましたの」
ヴェラは手を止め、カヤに向き直った。
「奥様、ヴェラ様は現在、この屋敷内における特定区域の『使用権』を、当主であるお父様との契約に基づき、正式に確保されています。その区域内での活動に対し、不当な干渉を行うことは、契約不履行の対象となりますが……よろしいですね?」
ネフの淡々とした説明に、カヤは口をパクパクと動かすことしかできなかった。
「ヴェラ……あなた、お父様といつの間にそんな約束を……」
「お父様は今、北方領地の視察で不在でしょう? ですから、魔法通信で直接お話ししましたの。『婚約解消に関する一切の責任を引き受ける代わりに、わたくしを自由にさせてほしい』と。お父様は即座に承諾してくださいましたわ」
一度目の人生で、父は自分を政治の道具としてしか見ていなかった。ならば、その「道具」としての価値を逆手に取り、責任という名の免罪符を買い取ればいい。冷徹な取引ほど、あの父に通用するものはないのだ。
その時、門の方から騒がしい蹄の音が聞こえてきた。
豪奢な王家の紋章が刻まれた馬車が、庭園のすぐ近くで急停止する。扉が開くと、中から現れたのは、苛立ちを隠そうともしないテオ王子だった。
「ヴェラ! 手紙の返事もせず、こんなところで何をして……っ!?」
テオの言葉が、物理的に止まった。
彼の視界に入ったのは、美しいドレスを着て涙ながらに謝罪を乞う婚約者の姿ではない。
作業着に身を包み、泥のついたスコップを杖のように突き、抜いた薔薇を足元に転がしている、冷ややかな瞳の女だった。
「お迎えもせず失礼いたします、殿下。あいにくですが、わたくしは今、劇の稽古中ではございませんの。現実の生活に追われておりますゆえ」
「その姿はなんだ……。その薔薇は、俺が君に贈った苗木も含まれているはずだぞ!」
「ええ、そうですわね。ですが、殿下。あいにく、配役は辞退いたしました。貴方の愛を、この薔薇のように大切に育てる役も、もう終わったのです」
ヴェラは足元の薔薇を、ためらいなく踏み越えて一歩前へ出た。
「これからは、この場所に美味しいジャガイモが実ります。殿下も、あの方……ルミ様でしたか。彼女と一緒に、その美しい愛という名の花だけを愛でていればよろしい。わたくしは、泥のついた野菜の方が、ずっと信頼できますの」
テオの顔が、屈辱と混乱で赤黒く染まっていく。
ヴェラにとって、彼の怒りはもはや、実りのための肥料ほどの影響力も持たなかった。
836
あなたにおすすめの小説
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?
紺
ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。
世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。
ざまぁ必須、微ファンタジーです。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
人生の全てを捨てた王太子妃
八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。
傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。
だけど本当は・・・
受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。
王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした
由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。
無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。
再び招かれたのは、かつて母を追放した国。
礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。
これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。
別に要りませんけど?
ユウキ
恋愛
「お前を愛することは無い!」
そう言ったのは、今日結婚して私の夫となったネイサンだ。夫婦の寝室、これから初夜をという時に投げつけられた言葉に、私は素直に返事をした。
「……別に要りませんけど?」
※Rに触れる様な部分は有りませんが、情事を指す言葉が出ますので念のため。
※なろうでも掲載中
妹は私の婚約者と駆け落ちしました
今川幸乃
恋愛
貧乏貴族ブレンダ男爵家の姉妹、カトリナとジェニーにはラインハルトとレオルという婚約者がいた。
姉カトリナの婚約者ラインハルトはイケメンで女性に優しく、レオルは醜く陰気な性格と評判だった。
そんな姉の婚約者をうらやんだジェニーはラインハルトと駆け落ちすることを選んでしまう。
が、レオルは陰気で不器用ではあるが真面目で有能な人物であった。
彼との協力によりブレンダ男爵家は次第に繁栄していく。
一方ラインハルトと結ばれたことを喜ぶジェニーだったが、彼は好みの女性には節操なく手を出す軽薄な男であることが分かっていくのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる