あいにく、配役は辞退いたしました

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 朝露に濡れた庭園に、場違いな金属音が響き渡っていた。
 
 かつて「王都一の美しさ」と謳われた公爵家の薔薇園。そこには、ヴェラが一度目の人生でテオ王子のために精魂込めて育て上げた、希少な品種の薔薇が咲き誇っている。
 
 だが、今のヴェラはその一角で、泥にまみれた作業着に身を包み、大きなスコップを地面に突き立てていた。
 
「……ふう。意外と根が深いのね」
 
 ヴェラが額の汗を拭い、力任せにスコップを煽ると、美しい大輪の赤い薔薇が、根こそぎ地上へと引き抜かれた。それはテオとの愛の象徴として、かつての彼女がもっとも大切にしていた花だった。
 
「ヴェラ! あなた、一体何を……何をしているの!」
 
 悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきたのは、母のカヤだった。彼女は、泥だらけの娘の姿を見て、今にも倒れそうなほど顔を青ざめさせている。
 
「おはようございます、お母様。見ての通り、模様替えですわ。この土は栄養が豊富ですから、ジャガイモやタマネギを育てるのに最適だと思いまして」
 
「ジャガイモ!? 公爵家の庭で、野菜を育てるというの? 正気なの、ヴェラ! その薔薇がどれほど高価なものか分かっているの?」
 
「ええ。ですが、薔薇は食べられませんもの。これからのわたくしに必要なのは、飾るための花ではなく、生きるための糧ですわ」
 
 ヴェラは平然と言ってのけると、次に狙いを定めた白い薔薇の根元にスコップを突き入れた。
 
 
 
「お止めなさい! 今すぐその汚い服を着替えて部屋に戻るのよ。間もなく王宮から、殿下の使者が到着するわ。そんな姿を見られたら、公爵家の恥です!」
 
 カヤがヴェラの腕を掴もうとしたが、その前に一人の小柄な男が音もなく割り込んだ。
 
「失礼、奥様。そこから先は、私の管轄となります」
 
 灰色の地味な上着を着たその男、ネフは、無表情に一通の書面を掲げた。
 
「……誰よ、あなた。衛兵! この不審者を追い出しなさい!」
 
「わたくしの代理人のネフですわ、お母様。彼は王都の行政ギルドに登録された正当な実務家です。わたくしが、わたくしの私費で雇いましたの」
 
 ヴェラは手を止め、カヤに向き直った。
 
「奥様、ヴェラ様は現在、この屋敷内における特定区域の『使用権』を、当主であるお父様との契約に基づき、正式に確保されています。その区域内での活動に対し、不当な干渉を行うことは、契約不履行の対象となりますが……よろしいですね?」
 
 ネフの淡々とした説明に、カヤは口をパクパクと動かすことしかできなかった。
 
「ヴェラ……あなた、お父様といつの間にそんな約束を……」
 
「お父様は今、北方領地の視察で不在でしょう? ですから、魔法通信で直接お話ししましたの。『婚約解消に関する一切の責任を引き受ける代わりに、わたくしを自由にさせてほしい』と。お父様は即座に承諾してくださいましたわ」
 
 一度目の人生で、父は自分を政治の道具としてしか見ていなかった。ならば、その「道具」としての価値を逆手に取り、責任という名の免罪符を買い取ればいい。冷徹な取引ほど、あの父に通用するものはないのだ。
 
 
 
 その時、門の方から騒がしい蹄の音が聞こえてきた。
 
 豪奢な王家の紋章が刻まれた馬車が、庭園のすぐ近くで急停止する。扉が開くと、中から現れたのは、苛立ちを隠そうともしないテオ王子だった。
 
「ヴェラ! 手紙の返事もせず、こんなところで何をして……っ!?」
 
 テオの言葉が、物理的に止まった。
 
 彼の視界に入ったのは、美しいドレスを着て涙ながらに謝罪を乞う婚約者の姿ではない。
 作業着に身を包み、泥のついたスコップを杖のように突き、抜いた薔薇を足元に転がしている、冷ややかな瞳の女だった。
 
「お迎えもせず失礼いたします、殿下。あいにくですが、わたくしは今、劇の稽古中ではございませんの。現実の生活に追われておりますゆえ」
 
「その姿はなんだ……。その薔薇は、俺が君に贈った苗木も含まれているはずだぞ!」
 
「ええ、そうですわね。ですが、殿下。あいにく、配役は辞退いたしました。貴方の愛を、この薔薇のように大切に育てる役も、もう終わったのです」
 
 ヴェラは足元の薔薇を、ためらいなく踏み越えて一歩前へ出た。
 
「これからは、この場所に美味しいジャガイモが実ります。殿下も、あの方……ルミ様でしたか。彼女と一緒に、その美しい愛という名の花だけを愛でていればよろしい。わたくしは、泥のついた野菜の方が、ずっと信頼できますの」
 
 テオの顔が、屈辱と混乱で赤黒く染まっていく。
 
 ヴェラにとって、彼の怒りはもはや、実りのための肥料ほどの影響力も持たなかった。
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