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銀の匙ですくい上げた桃のコンポートは、透き通るような琥珀色の果肉が美しく、蜂蜜の柔らかな香りを放っていた。
ヴェラがまさにその至福の一片を口に運ぼうとした、その時だ。
「ヴェラ! どうしても君に見せたいものがあって戻ってきた!」
テラスの扉が再び無作法に開け放たれ、テオ王子の声が響いた。
ヴェラは匙を止め、深く、静かに息を吐いた。
「……アイラ。今日のコンポートの温度は完璧だったわ。でも、追加で必要なものがあるみたい」
傍らに控えていた若き料理人のアイラが、感情の消えた瞳でヴェラを見た。
「……塩水でしょうか。不純物を洗い流すための」
「いいえ、もっと強力なものが必要ね。視界に入る雑音を消し去るための静寂よ」
ヴェラが視線を向けると、テオの背後には、震えながら裾を握りしめる一人の少女が立っていた。
特待生のルミだ。彼女の瞳にはすでに涙が溜まっており、今にもこぼれ落ちそうな絶妙な「健気さ」を演出している。
テオは自信満々にルミの肩を抱き寄せ、ヴェラに向かって言い放った。
「ルミは、自分のせいで君たちが不仲になったと責任を感じているんだ。こうしてわざわざ、君に謝罪するために付いてきてくれた。さあ、彼女の誠意を受け取って、その冷酷な態度を改めるがいい」
ルミが、一歩前に出る。その膝は小刻みに震え、か細い声がテラスに響いた。
「ヴェラ様……本当に、ごめんなさい……っ。わたくしのせいで、お二人の幸せな婚約が……。どうか、殿下を責めないでください。悪いのは、何も知らないわたくしなのです……!」
ルミはそのまま地面に膝をつこうとした。
本来なら、ここでヴェラが「汚らわしい!」と罵倒するか、無理やり立たせようとして乱暴な振る舞いに見える場面だ。
だが、ヴェラは座ったまま、冷めた目でルミを観察した。
「殿下。一つ、お伺いしてもよろしいかしら」
「なんだ、ようやくその頑なな心を解く気になったか」
「いいえ。この屋敷の警備体制についての相談ですわ。あいにくですが、わたくしは現在療養中。そしてこのテラスは、わたくしが私費で借り上げているプライベート空間です。そこへ、面会の予約もなく、許可も得ていない『部外者』を招き入れる……。これは不法侵入の手伝いと見なしてよろしいのかしら?」
テオの顔が、一瞬で強張った。
「……不法、だと? 俺を誰だと思っている! それに、彼女は謝りに来たと言っているんだぞ!」
「謝罪? 何を謝る必要があるのですか? わたくし、あの方に何かされた記憶はございませんわ。学園で殿下があの方を抱きとめていたのは事実ですが、それは殿下の御意思でしょう? あの方が謝るということは、殿下がご自身の意思を持たない操り人形だとでもおっしゃりたいのかしら」
ヴェラは、地面に伏せようとしていたルミを指差した。
「それに、ルミ様。その床、先ほどわたくしが泥だらけの靴で歩いた場所ですわよ。そんなところで膝をつけば、貴女の清らかな平民のドレスが汚れてしまいます。……ああ、そうか。汚れた姿を殿下に見せて、『公爵令嬢に虐げられた可哀想な私』を完成させたいのですわね?」
ルミの動きが、物理的に止まった。
見開かれた瞳から、計算外の動揺が滲み出る。
「あいにく、配役は辞退いたしました。貴女がヒロインとして輝くために必要な『嫉妬深い婚約者』という役は、もう在庫切れですの」
ヴェラはアイラに合図を送った。
「アイラ、この方々を玄関までご案内して。それから、わたくしの匙を新しいものに変えてちょうだい。空気の汚れが味に移ってしまったわ」
「かしこまりました。お二人とも、こちらへ。拒否される場合は、当家お抱えの衛兵による強制排除となります」
アイラの事務的かつ冷徹な通告に、テオは歯噛みした。
「……ヴェラ、君は本当に変わってしまったな。そんなに、その桃の方が大事だというのか!」
「ええ。少なくとも、貴方の謝罪劇よりは、この桃の方がわたくしの血肉になりますから」
ヴェラは背を向け、新しく用意された匙を手に取った。
背後でテオがルミを連れて立ち去る足音が聞こえてくる。ルミの啜り泣く声も、もはや風の音と変わらない。
再び訪れた静寂の中で、ヴェラはコンポートを一口食べた。
甘い。
誰の期待も背負わず、誰の役も演じない食事は、何物にも代えがたい贅沢だった。
主役たちがどれほど熱演しようとも、舞台そのものが、もう存在しない。
ヴェラがまさにその至福の一片を口に運ぼうとした、その時だ。
「ヴェラ! どうしても君に見せたいものがあって戻ってきた!」
テラスの扉が再び無作法に開け放たれ、テオ王子の声が響いた。
ヴェラは匙を止め、深く、静かに息を吐いた。
「……アイラ。今日のコンポートの温度は完璧だったわ。でも、追加で必要なものがあるみたい」
傍らに控えていた若き料理人のアイラが、感情の消えた瞳でヴェラを見た。
「……塩水でしょうか。不純物を洗い流すための」
「いいえ、もっと強力なものが必要ね。視界に入る雑音を消し去るための静寂よ」
ヴェラが視線を向けると、テオの背後には、震えながら裾を握りしめる一人の少女が立っていた。
特待生のルミだ。彼女の瞳にはすでに涙が溜まっており、今にもこぼれ落ちそうな絶妙な「健気さ」を演出している。
テオは自信満々にルミの肩を抱き寄せ、ヴェラに向かって言い放った。
「ルミは、自分のせいで君たちが不仲になったと責任を感じているんだ。こうしてわざわざ、君に謝罪するために付いてきてくれた。さあ、彼女の誠意を受け取って、その冷酷な態度を改めるがいい」
ルミが、一歩前に出る。その膝は小刻みに震え、か細い声がテラスに響いた。
「ヴェラ様……本当に、ごめんなさい……っ。わたくしのせいで、お二人の幸せな婚約が……。どうか、殿下を責めないでください。悪いのは、何も知らないわたくしなのです……!」
ルミはそのまま地面に膝をつこうとした。
本来なら、ここでヴェラが「汚らわしい!」と罵倒するか、無理やり立たせようとして乱暴な振る舞いに見える場面だ。
だが、ヴェラは座ったまま、冷めた目でルミを観察した。
「殿下。一つ、お伺いしてもよろしいかしら」
「なんだ、ようやくその頑なな心を解く気になったか」
「いいえ。この屋敷の警備体制についての相談ですわ。あいにくですが、わたくしは現在療養中。そしてこのテラスは、わたくしが私費で借り上げているプライベート空間です。そこへ、面会の予約もなく、許可も得ていない『部外者』を招き入れる……。これは不法侵入の手伝いと見なしてよろしいのかしら?」
テオの顔が、一瞬で強張った。
「……不法、だと? 俺を誰だと思っている! それに、彼女は謝りに来たと言っているんだぞ!」
「謝罪? 何を謝る必要があるのですか? わたくし、あの方に何かされた記憶はございませんわ。学園で殿下があの方を抱きとめていたのは事実ですが、それは殿下の御意思でしょう? あの方が謝るということは、殿下がご自身の意思を持たない操り人形だとでもおっしゃりたいのかしら」
ヴェラは、地面に伏せようとしていたルミを指差した。
「それに、ルミ様。その床、先ほどわたくしが泥だらけの靴で歩いた場所ですわよ。そんなところで膝をつけば、貴女の清らかな平民のドレスが汚れてしまいます。……ああ、そうか。汚れた姿を殿下に見せて、『公爵令嬢に虐げられた可哀想な私』を完成させたいのですわね?」
ルミの動きが、物理的に止まった。
見開かれた瞳から、計算外の動揺が滲み出る。
「あいにく、配役は辞退いたしました。貴女がヒロインとして輝くために必要な『嫉妬深い婚約者』という役は、もう在庫切れですの」
ヴェラはアイラに合図を送った。
「アイラ、この方々を玄関までご案内して。それから、わたくしの匙を新しいものに変えてちょうだい。空気の汚れが味に移ってしまったわ」
「かしこまりました。お二人とも、こちらへ。拒否される場合は、当家お抱えの衛兵による強制排除となります」
アイラの事務的かつ冷徹な通告に、テオは歯噛みした。
「……ヴェラ、君は本当に変わってしまったな。そんなに、その桃の方が大事だというのか!」
「ええ。少なくとも、貴方の謝罪劇よりは、この桃の方がわたくしの血肉になりますから」
ヴェラは背を向け、新しく用意された匙を手に取った。
背後でテオがルミを連れて立ち去る足音が聞こえてくる。ルミの啜り泣く声も、もはや風の音と変わらない。
再び訪れた静寂の中で、ヴェラはコンポートを一口食べた。
甘い。
誰の期待も背負わず、誰の役も演じない食事は、何物にも代えがたい贅沢だった。
主役たちがどれほど熱演しようとも、舞台そのものが、もう存在しない。
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