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嵐が去った後のテラスには、冷やしすぎた桃のコンポートの甘い余韻だけが残っていた。
ヴェラは最後の一片をゆっくりと味わい、銀の匙を皿に置いた。
「……ゾラ。あの方たちが歩いた場所、すべて塩を撒いて清めておいてちょうだい。それから、テラスの入り口には新しく魔導式の鍵を増設しましょう」
「畏まりました、ヴェラ様。すでに庭師には、殿下たちが通った小道の土を入れ替えるよう手配しております」
ゾラの完璧な仕事ぶりに、ヴェラは満足げに頷いた。
一度目の人生では、彼らがここに来れば、ヴェラは狂喜乱舞して迎え入れたものだ。そしてルミの涙を見て、テオの冷ややかな視線に傷つき、夜通し泣き明かした。
だが、今のヴェラには、彼らが落としていった不快な感情を拾い上げる趣味はない。
傍らで書類を整理していたネフが、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら口を開いた。
「ヴェラ様。先ほどの一件、正式に王宮の儀礼局へ『療養妨害』として報告書を作成しました。王子の身分があるとはいえ、療養中の令嬢の私的空間へ未婚の女性を伴って乱入するのは、貴族の範疇を大きく逸脱しています」
「助かるわ、ネフ。わたくしが望むのは、謝罪でも和解でもないの。ただの『不可侵』よ」
「承知しております。内容には、今後の直接的な接触を一切拒絶する条項も含めておきました。これにサインをいただければ、次からは衛兵が殿下を物理的に拘束することも可能になります」
ヴェラは迷わず、差し出された羽根ペンを走らせた。
その頃、王都へ向かう馬車の中では、テオが座席を拳で叩きつけていた。
「……信じられん。あのヴェラが、俺を不審者扱いするとは! ルミ、君があんなに健気に謝っているのに、一瞥もくれないなんて!」
「殿下……ううっ、わたくし、ヴェラ様が怖いです。あの方は、わたくしたちを人間とも思っていないような目で……」
ルミはテオの胸に顔を埋めて震えていた。
本来なら、ここでテオが「俺が君を守る。あの悪魔のような女には、必ず報いを受けさせてやる」と誓い、二人の絆が深まるはずの場面だ。
しかし、テオの心には、今まで感じたことのない奇妙な焦燥感が芽生えていた。
ヴェラが自分を罵倒し、嫉妬に狂っている間、彼は自分が「愛される価値のある男」だと実感できていた。だが、泥まみれでスコップを杖にする彼女の瞳に映っていたのは、自分への愛憎ではなく、ただの「排除すべき雑音」に対する不快感だけだった。
敵がいなければ、正義の味方は成立しない。
ヴェラという「壁」を失ったことで、テオとルミの恋物語は、急速にその熱量を失い、ただの「身勝手な不貞」という現実的な色味を帯び始めていた。
公爵家の自室。ヴェラは柔らかな絹の寝具に身を預け、窓の外の夜空を眺めていた。
明日は、ネフに頼んで新しい土地の権利書を確認する予定だ。宝石を売った資金で、北方に小さな農園を買い取る。そこは王都の喧騒からも、あの不毛な「物語」からも、もっとも遠い場所。
「あいにく、配役は辞退いたしました。わたくしがいない舞台で、どうぞお好きなだけ主役の孤独を味わってくださいませ」
ヴェラは小さく呟くと、深く、心地よい眠りへと落ちていった。
彼女の夢の中に、もう王子の姿が現れることはなかった。
代わりに、黄金色に実ったジャガイモの畑と、それを香ばしく揚げた料理の匂いが、彼女の意識を優しく満たしていた。
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ヴェラは最後の一片をゆっくりと味わい、銀の匙を皿に置いた。
「……ゾラ。あの方たちが歩いた場所、すべて塩を撒いて清めておいてちょうだい。それから、テラスの入り口には新しく魔導式の鍵を増設しましょう」
「畏まりました、ヴェラ様。すでに庭師には、殿下たちが通った小道の土を入れ替えるよう手配しております」
ゾラの完璧な仕事ぶりに、ヴェラは満足げに頷いた。
一度目の人生では、彼らがここに来れば、ヴェラは狂喜乱舞して迎え入れたものだ。そしてルミの涙を見て、テオの冷ややかな視線に傷つき、夜通し泣き明かした。
だが、今のヴェラには、彼らが落としていった不快な感情を拾い上げる趣味はない。
傍らで書類を整理していたネフが、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら口を開いた。
「ヴェラ様。先ほどの一件、正式に王宮の儀礼局へ『療養妨害』として報告書を作成しました。王子の身分があるとはいえ、療養中の令嬢の私的空間へ未婚の女性を伴って乱入するのは、貴族の範疇を大きく逸脱しています」
「助かるわ、ネフ。わたくしが望むのは、謝罪でも和解でもないの。ただの『不可侵』よ」
「承知しております。内容には、今後の直接的な接触を一切拒絶する条項も含めておきました。これにサインをいただければ、次からは衛兵が殿下を物理的に拘束することも可能になります」
ヴェラは迷わず、差し出された羽根ペンを走らせた。
その頃、王都へ向かう馬車の中では、テオが座席を拳で叩きつけていた。
「……信じられん。あのヴェラが、俺を不審者扱いするとは! ルミ、君があんなに健気に謝っているのに、一瞥もくれないなんて!」
「殿下……ううっ、わたくし、ヴェラ様が怖いです。あの方は、わたくしたちを人間とも思っていないような目で……」
ルミはテオの胸に顔を埋めて震えていた。
本来なら、ここでテオが「俺が君を守る。あの悪魔のような女には、必ず報いを受けさせてやる」と誓い、二人の絆が深まるはずの場面だ。
しかし、テオの心には、今まで感じたことのない奇妙な焦燥感が芽生えていた。
ヴェラが自分を罵倒し、嫉妬に狂っている間、彼は自分が「愛される価値のある男」だと実感できていた。だが、泥まみれでスコップを杖にする彼女の瞳に映っていたのは、自分への愛憎ではなく、ただの「排除すべき雑音」に対する不快感だけだった。
敵がいなければ、正義の味方は成立しない。
ヴェラという「壁」を失ったことで、テオとルミの恋物語は、急速にその熱量を失い、ただの「身勝手な不貞」という現実的な色味を帯び始めていた。
公爵家の自室。ヴェラは柔らかな絹の寝具に身を預け、窓の外の夜空を眺めていた。
明日は、ネフに頼んで新しい土地の権利書を確認する予定だ。宝石を売った資金で、北方に小さな農園を買い取る。そこは王都の喧騒からも、あの不毛な「物語」からも、もっとも遠い場所。
「あいにく、配役は辞退いたしました。わたくしがいない舞台で、どうぞお好きなだけ主役の孤独を味わってくださいませ」
ヴェラは小さく呟くと、深く、心地よい眠りへと落ちていった。
彼女の夢の中に、もう王子の姿が現れることはなかった。
代わりに、黄金色に実ったジャガイモの畑と、それを香ばしく揚げた料理の匂いが、彼女の意識を優しく満たしていた。
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