あいにく、配役は辞退いたしました

チャビューヘ

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 早朝の冷たい空気が、公爵家の車寄せに溜まっていた。
 
 ヴェラは、旅装に着替えた自分の姿を鏡で一度だけ確認すると、迷いなく玄関の扉を開けた。
 
 外には、ネフが手配した頑丈な馬車と、すでに御者台に座っているオロスの姿がある。そして、その馬車の前に、まるで壁のように立ちふさがっている一人の男がいた。
 
「……ヴェラ。本当に、一族の誇りを捨てて逃げ出すつもりか」
 
 兄のロアンだった。彼は、睡眠不足で充血した目を剥き、ヴェラを射抜くように睨みつけている。
 
「おはようございます、ロアン兄様。朝のお散歩にしては、少々場所が悪くていらっしゃいますね。オロスの運転は荒いので、そこをどいていただけませんか?」
 
「ふざけるな! 父上が許可を出したというが、俺は認めない。お前が行けば、王家とのパイプは完全に途切れる。それは、この公爵家が緩やかに死にゆくことを意味するんだぞ!」
 
 ロアンがヴェラの肩を掴もうと手を伸ばす。
 だが、ヴェラはわずかに身を引いてそれをかわした。
 
「パイプ、ですか。兄様は、わたくしをただの『水道管』か何かだと思っていらっしゃるのね」
 
「比喩の問題だ! 貴族として生まれた以上、家を支えるのは義務だろう!」
 
 ヴェラは、手元の小さなカバンから、一通の羊皮紙を取り出した。
 
「でしたら、これをご覧くださいませ。ネフに作成させた、過去五年間における『わたくしの維持費』と『わたくしが王家から引き出した便宜』の損益計算書ですわ」
 
 ロアンが、突きつけられた紙をひったくるように受け取る。
 
「これは……?」
 
「わたくしが殿下の機嫌を取り、夜会で公爵家の立場を守るために費やした時間と美容代、そして精神的苦痛への慰謝料。これらを合算すると、わたくしが家門から受け取った養育費の三倍を超えておりますの。つまり、わたくしはすでに、一生分の『義務』を前払いで完済しております」
 
 ロアンの手が、わずかに震えた。
 
 
 
「それにね、兄様。わたくしがこのまま屋敷にいれば、どうなるかお分かり? 殿下はあの方……ルミ様を正妃にするために、わたくしに『反逆の濡れ衣』を着せる算段を始めていらっしゃいますわ」
 
「……な、何だと? 殿下がそんなことをするはずが……」
 
「あいにく、わたくしの耳には届いておりますの。わたくしが有罪になれば、連座でこの家も取り潰し。兄様の輝かしい将来も、露と消えるでしょう。……わたくしが北方に『療養』という名目で消えることは、家門にとって最大の危機管理なのですわよ?」
 
 ロアンは、言葉を失った。
 
 ヴェラの言葉は、かつての感情的な訴えではない。冷徹な事実と、最悪の未来を予測した上での合理的な提案だった。
 
「……お前、本当に俺の妹なのか。そんな、計算高い女だったか」
 
「ええ。一度死ぬほどの思いをすれば、誰だって算盤の弾き方くらい覚えますわ」
 
 ヴェラは、ロアンの横をすり抜け、馬車のステップに足をかけた。
 
「ヴェラ! 待て、最後くらい、兄として……」
 
 ロアンが情に縋るような声を上げたが、ヴェラは振り返らずに告げた。
 
「あいにく、配役は辞退いたしました。兄様を慕う従順な妹の役も、もう幕を閉じましたの。これからは、主役がいない静かな屋敷で、どうぞご自身の保身に励んでくださいませ」
 
 
 
 バタン、と扉が閉まる。
 
 馬車が動き出すと同時に、ヴェラは車内に備え付けられた小さな食卓に目を向けた。
 そこには、アイラが用意した、まだ温かいカツサンドが鎮座していた。
 
「……完璧だわ。アイラ、出発に合わせたのね」
 
 ヴェラはサンドイッチを一つ手に取り、大きく口を開けて頬張った。
 
 サクッとした衣の中から、溢れ出す肉汁。
 窓の外、遠ざかっていく公爵家の屋敷は、もはや彼女にとって、ただの「退去済みの宿泊施設」に過ぎなかった。
 
 家族がどのような絶望に沈もうと、王子がどのような怒りを抱こうと、知ったことではない。
 
 ヴェラの人生という新しい舞台の幕は、すでに彼女自身の手によって、静かに下ろされていたのだ。
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