あいにく、配役は辞退いたしました

チャビューヘ

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 北方の朝は、王都のそれよりも一時間早く動き出す。
 
 ヴェラを叩き起こすのは、着飾った侍女の慇懃な挨拶ではなく、窓の外で鳴く小鳥の声と、薪がはぜる乾いた音だった。
 
 彼女は、簡素な麻の寝衣から、昨夜カノに用意させた丈夫な革のズボンと厚手の外套に着替えた。鏡に映る自分は、公爵令嬢としての華やかさこそ失っていたが、瞳には見たこともないほどの力が宿っている。
 
「……ゾラ、朝食は戻ってからにするわ。今日はカノに案内してもらう約束なの」
 
「畏まりました。ですがヴェラ様、その……あまり汚れないようにだけ、お気をつけくださいませ」
 
 ゾラが苦笑しながら、ヴェラの足元に頑丈な編み上げ靴を用意する。
 
 
 
 屋敷の裏手に広がる針葉樹の森は、深い緑の香りに包まれていた。
 
 先を歩くカノは、時折足を止め、ヴェラがついてきているかを確認する。その目は、まだどこか彼女を「温室の花」と決めつけている節があった。
 
「ヴェラ様。ここから先は道が険しくなります。王都のドレスでは、一歩も進めないでしょうが……よろしいので?」
 
「構いませんわ。わたくしが求めているのは、整備された散歩道ではなく、そこに自生する『本物』ですもの。カノ、貴方の知っている『至宝』の場所へ連れて行ってちょうだい」
 
 カノは一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて小さく口角を上げた。
 
「……いいでしょう。そこの朽ちた大木の根元を見てください」
 
 カノが斧の柄で指し示した場所には、茶褐色の、一見すると土塊のような塊がいくつも顔を出していた。
 
 ヴェラは迷わず膝をつき、泥を恐れずに素手でその周囲を掘り起こした。現れたのは、王都の夜会で一皿金貨数枚の値がつくという、幻のキノコだ。それも、市場に出回るものとは比較にならないほど瑞々しく、芳醇な香りを放っている。
 
「……素晴らしいわ。テオ殿下が贈ってくださった、あの不自然なほど大粒の真珠より、ずっと美しい。これは、わたくしの血になり、肉になるものですもの」
 
「……真珠とキノコを比べる令嬢なんて、初めて見ましたよ」
 
「あら、真珠は噛んでも味がしませんでしょう? わたくし、もう実体のない飾り物には飽き飽きなんですの」
 
 ヴェラは収穫したキノコを籠に詰め、満足げに立ち上がった。
 
 
 
 屋敷に戻ると、門の前に王宮の紋章が刻まれた緊急伝達用の早馬が停まっていた。
 
 泥だらけのヴェラの姿を見て、伝令の男がぎょっとしたように声を上げる。
 
「ヴェラ様! 探しましたぞ! 王宮より、テオ殿下の御名において『緊急召喚』の下命でございます! 殿下が体調を崩され、貴女様の献身が必要だと……」
 
 男は恭しく、金色の縁取りがされた封筒を差し出した。
 
 ヴェラは、籠の中のキノコに付いた泥を軽く払いながら、冷ややかな一瞥をくれた。
 
「殿下の体調? でしたら、腕の良い医者を呼ぶべきですわね。わたくしは医術の心得などございませんもの。そこらで野垂れ死にそうになっていても、わたくしにできるのは祈りだけですわ」
 
「ですが! これは王宮からの命令です! 拒否すれば不敬罪に……」
 
 ヴェラは、ネフに作成させた「療養に関する合意書」の写しを伝令の胸元に叩きつけた。
 
「こちらには、国王陛下の印章もございますわ。わたくしの療養期間中、公務および王族への謁見は一切免除される。この合意書は、殿下の我が儘よりも優先されるはずですが?」
 
「そ、それは……」
 
「お帰りなさい。あいにく、配役は辞退いたしました。病に伏せる王子を看病して慈愛を示す『献身的な婚約者』という役も、もう他の誰かに譲りましたの」
 
 ヴェラはそれ以上言葉を交わすことなく、カノに目配せをした。
 
 カノが無言で斧を肩に担ぎ直し、一歩前へ出る。その無言の威圧感に、伝令の男は顔を青ざめさせ、慌てて馬に飛び乗って逃げ去っていった。
 
 
 
 その夜。
 
 別荘の食堂には、キノコの濃厚なポタージュの香りが満ちていた。
 
 ヴェラは一口、その黄金色のスープを口に含んだ。
 
 大地の旨みが五臓六腑に染み渡る。
 王都で誰かの顔色を窺いながら、冷めた社交辞令を飲み込んでいた頃が、遠い前世の記憶のように感じられた。
 
「……最高だわ。カノ、明日はあの川沿いの山菜を採りに行きましょう」
 
 ヴェラは微笑み、再び匙を手にした。
 
 主演俳優がどれほど劇場で暴れ回ろうとも、脚本そのものを捨てたヴェラにとって、それはもう、風の音よりも価値のない雑音に過ぎなかった。
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