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夜の帳が降りると、北方の冷気は石造りの壁さえも凍てつかせる。
ヴェラは暖炉の前で、アイラが用意したばかりの生地をこねていた。今日は、この地方で冬の盛りに食べられるという揚げ菓子を作る予定だ。
「……ヴェラ様、あまり力を入れすぎると、せっかくの気泡が潰れてしまいます」
隣で薪を整理していたカノが、静かな声で助言を口にする。
「あら、難しいわね。でも、この生地を黄金色に揚げて、たっぷりの砂糖をまぶしたところを想像すると、どうしても手が止まらないの」
ヴェラが微笑むと、カノの瞳がわずかに揺れた。
火の粉が爆ぜる音だけが響く沈黙の中、二人の距離は、防寒着が触れ合うほどに近かった。王都の舞踏会で交わされる形式的な抱擁よりも、この静寂の方が、ヴェラの心には温かく染み渡る。
そこへ、吹雪を突いてナタリエラが訪ねてきた。
彼女はこの一帯の野草や古い知恵に精通した薬草師だ。
「……お嬢様、また王都から『厄介なもの』が届いているようだね。門の外に、王家の封印がなされた大きな箱が置かれていたよ」
ナタリエラが指差した先。ゾラが困り果てた様子で、その箱を広間へと運び込んできた。
中に入っていたのは、拳ほどもある巨大な深紅の魔導石だった。添えられた手紙には、テオ王子の傲慢な独白が綴られている。
『ヴェラ。国境の魔力異常は日ごとに増している。この魔導石は、聖女の祈りを増幅させるための王家の至宝だ。これを受け取ったのなら、君が果たすべき配役を思い出し、速やかに力を注ぎ込むがいい。君の慈愛だけが、この国を救うのだ』
ヴェラは一読すると、その魔導石を無造作に手に取った。
「……聖女の祈り、ですか。殿下は相変わらず、わたくしに『無償の労働』を強いるのがお上手ね」
ナタリエラが、深紅の石を覗き込んで鼻で笑った。
「あんなもの、王都の連中が勝手に意味を持たせているだけだよ。北方の人間からすれば、ただの『熱を出す石』だ」
「良いことをおっしゃるわ、ナタリエラ。カノ、これの出力を調整して、調理場の大鍋の底に固定できるかしら? 油の温度を一定に保つには、薪よりも魔導石の方が効率が良いでしょう?」
カノは一瞬だけ絶句したが、すぐにヴェラの意図を汲み取った。
「……王家の至宝を、揚げ物の熱源にするのですか。ヴェラ様、貴女という方は」
「あいにく、配役は辞退いたしました。国を救うために祈る役なんて、もう一秒も演じるつもりはございません。ですが、美味しいお菓子を揚げるための『火の番』なら、この石も喜んで務めてくれるはずですわ」
カノは迷いなく魔導石を受け取り、自らの魔力で術式を上書きし始めた。国家を支えるための聖なる術式が、ヴェラの食欲を満たすための「一定温度維持」という卑近な命令へと書き換えられていく。
数分後。厨房からは、じゅわっという心地よい音が聞こえ始めた。
出来上がった揚げ菓子は、魔導石の完璧な温度管理のおかげで、外は驚くほど軽く、中はしっとりとした最高の仕上がりだった。
ヴェラは揚げたての一つをカノの口元へ差し出した。
「……あ、熱いですわよ。カノ」
カノは戸惑いながらも、ヴェラの指先からそれを受け取った。
「……美味しいです。王都のどんな繊細なデザートよりも、力強く、体を温めてくれます」
「そうでしょう? 誰かのために祈って心を削るより、こうして二人で熱いお菓子を分け合う方が、ずっと人間らしい生活ですわ」
ヴェラは自分も一口頬張り、甘美な熱に瞳を細めた。
王都では今頃、魔導石を送ったことでヴェラが改心すると信じているテオ王子が、期待に胸を膨らませていることだろう。
だが、彼が望んだ「聖女の帰還」という物語は、今この瞬間、油の泡と共に消え去った。
窓の外、吹き荒れる吹雪を見つめながら、ヴェラは確信していた。
どれほど劇的な運命が追いかけてこようとも、彼女がそれを「生活の資材」に変えてしまう限り、その物語の幕が上がることは、永久にないのである。
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20話まで読んで頂きありがとうございます!途中で離脱せずここまでついてきてくれて嬉しいです!皆様のしおりが次の話に次の話に動くたびに頑張ろうと思えます。本日は0:10までに25話までリリース予定です!
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ヴェラは暖炉の前で、アイラが用意したばかりの生地をこねていた。今日は、この地方で冬の盛りに食べられるという揚げ菓子を作る予定だ。
「……ヴェラ様、あまり力を入れすぎると、せっかくの気泡が潰れてしまいます」
隣で薪を整理していたカノが、静かな声で助言を口にする。
「あら、難しいわね。でも、この生地を黄金色に揚げて、たっぷりの砂糖をまぶしたところを想像すると、どうしても手が止まらないの」
ヴェラが微笑むと、カノの瞳がわずかに揺れた。
火の粉が爆ぜる音だけが響く沈黙の中、二人の距離は、防寒着が触れ合うほどに近かった。王都の舞踏会で交わされる形式的な抱擁よりも、この静寂の方が、ヴェラの心には温かく染み渡る。
そこへ、吹雪を突いてナタリエラが訪ねてきた。
彼女はこの一帯の野草や古い知恵に精通した薬草師だ。
「……お嬢様、また王都から『厄介なもの』が届いているようだね。門の外に、王家の封印がなされた大きな箱が置かれていたよ」
ナタリエラが指差した先。ゾラが困り果てた様子で、その箱を広間へと運び込んできた。
中に入っていたのは、拳ほどもある巨大な深紅の魔導石だった。添えられた手紙には、テオ王子の傲慢な独白が綴られている。
『ヴェラ。国境の魔力異常は日ごとに増している。この魔導石は、聖女の祈りを増幅させるための王家の至宝だ。これを受け取ったのなら、君が果たすべき配役を思い出し、速やかに力を注ぎ込むがいい。君の慈愛だけが、この国を救うのだ』
ヴェラは一読すると、その魔導石を無造作に手に取った。
「……聖女の祈り、ですか。殿下は相変わらず、わたくしに『無償の労働』を強いるのがお上手ね」
ナタリエラが、深紅の石を覗き込んで鼻で笑った。
「あんなもの、王都の連中が勝手に意味を持たせているだけだよ。北方の人間からすれば、ただの『熱を出す石』だ」
「良いことをおっしゃるわ、ナタリエラ。カノ、これの出力を調整して、調理場の大鍋の底に固定できるかしら? 油の温度を一定に保つには、薪よりも魔導石の方が効率が良いでしょう?」
カノは一瞬だけ絶句したが、すぐにヴェラの意図を汲み取った。
「……王家の至宝を、揚げ物の熱源にするのですか。ヴェラ様、貴女という方は」
「あいにく、配役は辞退いたしました。国を救うために祈る役なんて、もう一秒も演じるつもりはございません。ですが、美味しいお菓子を揚げるための『火の番』なら、この石も喜んで務めてくれるはずですわ」
カノは迷いなく魔導石を受け取り、自らの魔力で術式を上書きし始めた。国家を支えるための聖なる術式が、ヴェラの食欲を満たすための「一定温度維持」という卑近な命令へと書き換えられていく。
数分後。厨房からは、じゅわっという心地よい音が聞こえ始めた。
出来上がった揚げ菓子は、魔導石の完璧な温度管理のおかげで、外は驚くほど軽く、中はしっとりとした最高の仕上がりだった。
ヴェラは揚げたての一つをカノの口元へ差し出した。
「……あ、熱いですわよ。カノ」
カノは戸惑いながらも、ヴェラの指先からそれを受け取った。
「……美味しいです。王都のどんな繊細なデザートよりも、力強く、体を温めてくれます」
「そうでしょう? 誰かのために祈って心を削るより、こうして二人で熱いお菓子を分け合う方が、ずっと人間らしい生活ですわ」
ヴェラは自分も一口頬張り、甘美な熱に瞳を細めた。
王都では今頃、魔導石を送ったことでヴェラが改心すると信じているテオ王子が、期待に胸を膨らませていることだろう。
だが、彼が望んだ「聖女の帰還」という物語は、今この瞬間、油の泡と共に消え去った。
窓の外、吹き荒れる吹雪を見つめながら、ヴェラは確信していた。
どれほど劇的な運命が追いかけてこようとも、彼女がそれを「生活の資材」に変えてしまう限り、その物語の幕が上がることは、永久にないのである。
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