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暖炉の火が、石造りの壁に二人の影を長く落としていた。
ヴェラは長椅子に深く身を預け、冷え切った指先をカノの大きな掌に委ねていた。魔晶獣との戦いの後、彼女の体温はなかなか戻らず、カノは無言のまま、火に炙った厚手の布で彼女の手を包み込み、ゆっくりと揉み解している。
「……カノ、貴方の手はいつも温かいわね。薪を割る力強い手なのに、触れ方は驚くほど優しいわ」
「……ヴェラ様が、あまりに脆く見えるからです。王都の宝石のように、少し力を入れただけで砕けてしまいそうで」
カノの低く落ち着いた声が、ヴェラの耳元で心地よく響く。
見つめ合う二人の間に、吹雪の音さえ入り込めない濃密な沈黙が流れた。かつてテオ王子に触れられた時に感じた、あの義務感に伴う嫌悪感とは正反対の、心の底から湧き上がる安らぎ。
その静寂を破ったのは、ゾラが運び込んできた黒い金属製の箱だった。
「ヴェラ様。王都から『聖別された棺』が届きました。……魔導省の特使によれば、これに触れることで聖女の魂が共鳴し、拒絶しようのない慈愛の力が強制的に引き出されるとのことです」
箱の中には、まばゆい光を放つ黄金の冠が納められていた。それは「聖女の首輪」と呼ばれる伝説の呪具。装着者の意志を奪い、死ぬまで魔力を供給させ続けるための非人道的な遺物だ。
ヴェラは、その冠をゴミを見るような目で見つめた。
「慈愛の強制……。殿下はついに、わたくしの心ではなく『機能』だけを求めてきたというわけね。……カノ、この術式、分解できるかしら?」
「……容易ではありませんが、不可能ではありません。ですが、もし失敗すれば……」
「失敗などさせませんわ。わたくしの平穏を脅かすものは、神の遺物であろうとただの資材ですもの」
ヴェラはカノの手を強く握り返した。その接触が、彼に迷いを断ち切らせる。
一時間後、別荘の地下にある浴室では、驚くべき光景が広がっていた。
黄金の冠は見る影もなく解体され、その中央に埋め込まれていた巨大な魔晶石は、浴槽の底に備え付けられた銅製の熱交換器の中に組み込まれていた。国家を救うはずの神聖な魔力は、ヴェラの冷えた体を温めるための「お湯」を沸かすという、極めて世俗的な目的のために浪費され始めた。
「あいにく、配役は辞退いたしました。聖なる力をもって国を救う役も、意志を奪われて微笑む人形の役も、もう終わったのです。今のわたくしにとって、この黄金の冠は、最高に心地よい温度のお風呂を提供する『道具』以上の価値はございませんわ」
ヴェラは湯気の立ち上る浴室で、満足げに微笑んだ。
そこへ、一人の女性が転がり込むようにして現れた。
泥にまみれた法衣を着た彼女、ヴァレリアナは、解体された遺物の残骸と、優雅に湯加減を確かめるヴェラを見て、その場に膝をついた。
「……信じられない。王都の魔術師たちが命がけで守ってきた遺物を、お風呂のボイラーにするなんて。……ヴェラ様、どうか私をここで雇ってください。あんな狂った場所には、もう戻りたくないのです!」
「……ヴァレリアナ、といったかしら。面白い方ね。あいにくですが、わたくしの屋敷に『聖女』を崇める席はございませんわよ? 美味しい料理を研究し、快適な生活を追求する『技術者』の席なら、空いておりますけれど」
ヴァレリアナは、涙を流しながら深く頭を下げた。
王都では今頃、聖なる遺物が発動し、ヴェラが光に包まれて帰還する奇跡を今か今かと待ち構えていることだろう。
だが、その光は今、北方の小さな浴室を温かく照らすためだけに使われている。
ヴェラはカノの差し出した温かいタオルを受け取り、その指先が再び触れ合う瞬間に、微かな、しかし消えることのない愛の予感を感じていた。
物語の主役たちがどれほど劇的な結末を望もうとも、ヴェラがそれを「日常の贅沢」に変えてしまう限り、その幕が上がることは、二度とないのである。
ヴェラは長椅子に深く身を預け、冷え切った指先をカノの大きな掌に委ねていた。魔晶獣との戦いの後、彼女の体温はなかなか戻らず、カノは無言のまま、火に炙った厚手の布で彼女の手を包み込み、ゆっくりと揉み解している。
「……カノ、貴方の手はいつも温かいわね。薪を割る力強い手なのに、触れ方は驚くほど優しいわ」
「……ヴェラ様が、あまりに脆く見えるからです。王都の宝石のように、少し力を入れただけで砕けてしまいそうで」
カノの低く落ち着いた声が、ヴェラの耳元で心地よく響く。
見つめ合う二人の間に、吹雪の音さえ入り込めない濃密な沈黙が流れた。かつてテオ王子に触れられた時に感じた、あの義務感に伴う嫌悪感とは正反対の、心の底から湧き上がる安らぎ。
その静寂を破ったのは、ゾラが運び込んできた黒い金属製の箱だった。
「ヴェラ様。王都から『聖別された棺』が届きました。……魔導省の特使によれば、これに触れることで聖女の魂が共鳴し、拒絶しようのない慈愛の力が強制的に引き出されるとのことです」
箱の中には、まばゆい光を放つ黄金の冠が納められていた。それは「聖女の首輪」と呼ばれる伝説の呪具。装着者の意志を奪い、死ぬまで魔力を供給させ続けるための非人道的な遺物だ。
ヴェラは、その冠をゴミを見るような目で見つめた。
「慈愛の強制……。殿下はついに、わたくしの心ではなく『機能』だけを求めてきたというわけね。……カノ、この術式、分解できるかしら?」
「……容易ではありませんが、不可能ではありません。ですが、もし失敗すれば……」
「失敗などさせませんわ。わたくしの平穏を脅かすものは、神の遺物であろうとただの資材ですもの」
ヴェラはカノの手を強く握り返した。その接触が、彼に迷いを断ち切らせる。
一時間後、別荘の地下にある浴室では、驚くべき光景が広がっていた。
黄金の冠は見る影もなく解体され、その中央に埋め込まれていた巨大な魔晶石は、浴槽の底に備え付けられた銅製の熱交換器の中に組み込まれていた。国家を救うはずの神聖な魔力は、ヴェラの冷えた体を温めるための「お湯」を沸かすという、極めて世俗的な目的のために浪費され始めた。
「あいにく、配役は辞退いたしました。聖なる力をもって国を救う役も、意志を奪われて微笑む人形の役も、もう終わったのです。今のわたくしにとって、この黄金の冠は、最高に心地よい温度のお風呂を提供する『道具』以上の価値はございませんわ」
ヴェラは湯気の立ち上る浴室で、満足げに微笑んだ。
そこへ、一人の女性が転がり込むようにして現れた。
泥にまみれた法衣を着た彼女、ヴァレリアナは、解体された遺物の残骸と、優雅に湯加減を確かめるヴェラを見て、その場に膝をついた。
「……信じられない。王都の魔術師たちが命がけで守ってきた遺物を、お風呂のボイラーにするなんて。……ヴェラ様、どうか私をここで雇ってください。あんな狂った場所には、もう戻りたくないのです!」
「……ヴァレリアナ、といったかしら。面白い方ね。あいにくですが、わたくしの屋敷に『聖女』を崇める席はございませんわよ? 美味しい料理を研究し、快適な生活を追求する『技術者』の席なら、空いておりますけれど」
ヴァレリアナは、涙を流しながら深く頭を下げた。
王都では今頃、聖なる遺物が発動し、ヴェラが光に包まれて帰還する奇跡を今か今かと待ち構えていることだろう。
だが、その光は今、北方の小さな浴室を温かく照らすためだけに使われている。
ヴェラはカノの差し出した温かいタオルを受け取り、その指先が再び触れ合う瞬間に、微かな、しかし消えることのない愛の予感を感じていた。
物語の主役たちがどれほど劇的な結末を望もうとも、ヴェラがそれを「日常の贅沢」に変えてしまう限り、その幕が上がることは、二度とないのである。
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