あいにく、配役は辞退いたしました

チャビューヘ

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 朝の光がサンルームの床に格子模様を描き、アイラが焼いたばかりのサブレの甘い香りが屋敷を満たしていた。
 
 ヴェラがその一枚を口に運び、サクッという軽快な音を楽しんでいた、その時。
 
 屋敷の門前に、鉄の蹄が土を叩く激しい音が響き渡った。
 
「……騒がしいわね。ゾラ、春の訪れにしては少々乱暴な客人のようだけれど?」
 
「畏まりました。……どうやら王都の『高等執行部』の方々のようでございます」
 
 ゾラが冷淡な報告を終えるのと同時に、広間の扉が荒々しく開け放たれた。現れたのは、重厚な黒い法衣を纏った男、バルデラス。その後ろには、武装した兵士たちが十数名、殺気立って控えている。
 
「ヴェラ公爵令嬢! 貴殿に国家反逆、および『聖女の魔力横領罪』の容疑で逮捕状が出ている。速やかに投降し、王都へ同行願おう!」
 
 バルデラスが突きつけた羊皮紙には、王家の紋章と、テオ王子の署名が醜く歪んだ文字で刻まれていた。
 
 
 
 ヴェラは、手に持っていたサブレの欠片をゆっくりと飲み込むと、座ったまま冷ややかな一瞥をくれた。
 
「魔力横領……? ふふっ、面白いことをおっしゃるのね。わたくしが、あのルミ様の貧相な魔力を盗んだとでも? ダイヤモンドを隠し持っている者が、道端の小石を盗む必要がどこにありますの?」
 
「問答無用だ! 王都は今、貴殿が消えたことで魔力の均衡が崩れ、飢えと寒さに喘いでいる。これは国民を救うための正義である!」
 
 バルデラスが手を挙げ、兵士たちが一斉に踏み出そうとした瞬間。
 
 ヴェラの椅子の影から、音もなくカノが立ち上がった。
 
 彼が軽く床を突くと、屋敷全体に張り巡らされた魔導防壁が共鳴し、重苦しい圧力となって兵士たちの動きを封じた。カノの瞳には、一切の慈悲を排した、純粋な闘争の熱が宿っている。
 
「……一歩でも彼女に近づけば、この屋敷の庭の肥やしにする。……覚悟はできているな?」
 
 カノの低く、地を這うような声に、百戦錬磨のはずの兵士たちがたじろぐ。
 ヴェラはカノの背中に指先を這わせ、その強靭な筋肉の震えを感じながら、優雅に立ち上がった。
 
 
 
「バルデラス様。一つ、法的実務について教えて差し上げますわ。わたくしの代理人であるネフが、すでに『王都居住権の放棄』と『北方自治権の取得』の手続きを完了させておりますの。つまり、王都の逮捕状など、この地ではただのゴミと同じですわ」
 
「な、何だと……! そんな勝手な理屈が通るか!」
 
「通るのではなく、通したのです。……あいにく、配役は辞退いたしました。貴方たちの無能を隠すための『大罪人』という役も、国を救うために引き立てられる『悲劇の令嬢』という役も、もう捨てたのです。今のわたくしにとって、王都の正義よりも、この焼きたてのサブレの香りを守ることの方が、何万倍も重要ですの」
 
 ヴェラは、隣に立つカノの逞しい腕を、そっと引き寄せた。
 
「カノ、この方たちをお帰りなさい。……少々、庭が荒れても構わないわ。その分、春の野菜がよく育つでしょうから」
 
「……承知いたしました。ヴェラ」
 
 カノがヴェラの名前を呼び捨てにした。
 その響きに含まれた濃厚な守護の意志と、隠しきれない独占欲に、ヴェラの心臓が跳ね上がる。
 
 
 
 次の瞬間、カノが放った魔力の衝撃がバルデラスたちを吹き飛ばし、彼らは悲鳴を上げて門の外へと転がり出た。
 
 閉ざされた扉の向こうで、敗残兵たちの呪詛の言葉が響いていたが、ヴェラはそれを聞き届けることもなく、再び椅子に腰を下ろした。
 
「……驚きましたわ、カノ。わたくしの名を呼ぶなんて」
 
「……無礼を承知で。ですが、貴女を『令嬢』と呼ぶ連中から、守り抜きたかったのです」
 
 カノが膝をつき、ヴェラの手を恭しく、しかし力強く包み込んだ。
 
 王都では今頃、物語を無理やり繋ぎ止めようとする主役たちが、いかに自分たちの言葉が届かないかに絶望していることだろう。
 
 だが、その不毛な執着は、この北方の静寂を汚すことはできない。
 
 ヴェラは、カノの掌から伝わる熱を噛み締めながら、まだ少し温かいサブレをもう一枚、口に運ぶのだった。


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みなさま、引き続き30話まで読み進めて頂きありがとうございます!
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。

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