推しが神様になりまして

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苔の下のイニシャル

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 本殿の裏は、参拝者があまり来ない場所だった。

 大銀杏の陰になっていて、昼間でも薄暗い。ちひろが言っていた「温かい場所」を確認しに来た。

 その奥に、古いベンチがあった。

 木製で、苔むしていて、長い間誰も座っていないように見える。

 朔さんが、ベンチの前で立ち止まった。光輪が、複雑な色に揺れている。

「朔さん」

「なんか」

 朔さんは首を傾げた。

「知ってる気がする」

「知ってる?」

「いや、わかんねえ。でも」

 朔さんはベンチに近づいた。触れようとして、手がすり抜ける。

「ここに座ったことがある気がする」

 光輪が、淡い夕焼け色を帯びた。懐かしさ。切なさ。そんな感情が、色に現れている。

「おばあちゃんが言ってました。朔さんが生前、ここに座っていたって」

 朔さんの光輪が、大きく揺れた。

「ばあさんが」

「麦茶を出したって」

 沈黙が落ちた。朔さんは動かなかった。

「覚えてねえ」

「はい」

「でも、体が覚えてるのかもな」

 同じ言葉を、前にも聞いた。この神社が落ち着く、と言ったときと同じ。

「あれ」

 ちひろの声が聞こえた。振り返ると、ちひろが近づいてきていた。

「ひなたさん、ベンチ見てたんですか」

「うん。ちょっと気になって」

「ですよね。なんか雰囲気あるんですよ、ここ」

 ちひろはベンチに近づいた。

「あ、見てください。落書きがあります」

「落書き?」

「ここ。背もたれの端」

 ちひろが指差した場所を見た。苔に覆われた木の表面に、傷がある。

「苔で見えにくいですけど、文字っぽくないですか」

 私は目を凝らした。確かに、何かが刻まれている。

「ちょっと苔、取ってみていいですか」

「いいけど、丁寧にね」

 ちひろが苔を払った。傷が、はっきりと見えてきた。

 アルファベット。一文字。

「S」

 ちひろが読み上げた。

「Sですね。誰かのイニシャルかな」

 指先が冷たくなった。

 S。氷室朔の、S。

 朔さんの光輪が、激しく揺れていた。

「ひなたさん? 顔色悪いですよ」

「大丈夫。ちょっと、考え事してた」

「そうですか。このイニシャル、謎ですよね」

 ちひろは楽しそうに言った。

「昔の参拝者とか、恋人同士とか」

 朔さんが、ぽつりと呟いた。

「俺か」

 声が震えている。

「俺が、彫ったのか」

 私は振り返った。朔さんの光輪が、淡い灰色に沈んでいる。思い出せない。でも、体が知っている。その葛藤が、色に現れていた。

「ちひろちゃん」

「はい」

「このイニシャルのこと、SNSには載せないでくれる?」

「え、なんでですか。謎めいててエモいのに」

「誰のかわからないし。プライバシーの問題もあるから」

 ちひろは不満そうに唇を尖らせた。でも、「わかりました」と頷いてくれた。

 夜、境内に一人で戻った。

 朔さんは、まだベンチの前にいた。

「朔さん」

「ああ」

「大丈夫ですか」

「わかんねえ」

 朔さんは自分の頭を押さえた。

「俺が彫ったんだろうな、あれ。でも覚えてねえ」

「無理に思い出さなくても」

「無理にじゃねえよ」

 朔さんの声が、少し荒くなった。

「俺のことなのに、俺がわかんねえのが気持ち悪いんだ」

 光輪が、不安定に明滅している。

「お前」

「はい」

「俺は」

 朔さんが何か言いかけた。でも、口を閉じた。

 光輪が、くすんだ色に沈んでいる。

「なんでもねえ」

 何を言おうとしたのだろう。聞けなかった。

「明日」

「え」

「明日、一人で見に行く」

「私も」

「いや」

 朔さんは首を振った。

「一人で見たい。思い出せるかどうか、試したい」

 その声は、どこか決意に満ちていた。

「わかりました」

「お前は、普通に仕事しろ。覗くなよ」

「はい」

 嘘だ。絶対に覗く。でも、今は頷いておく。

 朔さんの光輪が、少しだけ穏やかになった。
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