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新婚旅行と潜入工作は、記録されていた
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【ヴァルトシュタイン帝国 宮廷官報 帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日】
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【公式発表】
皇帝陛下並びに皇后陛下(婚約)、静養のため御不在に
皇帝ジークハルト陛下と、婚約者ティアラ殿下は、公務の疲れを癒やすため、本日より静養に入られる。
期間は未定。
行き先は非公表。
なお、静養中の政務は、宰相が代行する。
臣民各位におかれては、両陛下の御休息を心よりお祈り申し上げる。
(署名:帝国宮廷府)
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ】
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静養。
公式発表には、そう記されていた。
しかし、私は知っている。
これは「静養」などではない。
昨夜、ティアラ殿下から呼び出された。
「ハインリヒ様。少しお願いがありますの」
彼女は微笑みながら言った。
その笑顔が、背筋を凍らせた。
「ネルヴァス商業連合のラスヴェーダ。ご存じかしら?」
「……はい。商業連合最大の港湾都市にして、大陸随一の歓楽街ですね」
「ええ。カジノ、劇場、高級娼館……何でもある街ですわ」
彼女は扇子を開いた。
「そして、闇国の資金洗浄拠点でもありますの」
「……」
「私たち、そこへ『視察旅行』に参りますわ。ハインリヒ様には、執事として同行していただきたいの」
断れるわけがなかった。
そして今、私は馬車の中にいる。
「大富豪の若夫婦」に扮した両陛下と共に。
胃薬は、三日分を用意した。
足りるだろうか。
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【ヴァルトシュタイン帝国 城下町 掲示板】
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【速報】陛下静養入り 第1板
1:名無しの帝国民
静養だってさ
2:名無しの帝国民
求婚から一週間で静養は森生える
3:名無しの帝国民
>>2
疲れたんだろ、色々と
4:名無しの帝国民
いや本当に疲れてるならいいけど
5:名無しの帝国民
何の疲れかは言及しない
6:名無しの帝国民
>>5
賢明
7:名無しの帝国民
行き先非公表なのが気になる
8:名無しの帝国民
>>7
新婚旅行じゃね
9:名無しの帝国民
まだ婚約だぞ
10:名無しの帝国民
>>9
プレ新婚旅行
11:名無しの帝国民
どこ行くんだろ
12:名無しの帝国民
>>11
南の島とか?
13:名無しの帝国民
陛下、暑いの苦手そう
14:名無しの帝国民
氷の皇帝だからな
15:名無しの帝国民
でもティアラ様のためなら灼熱の砂漠でも行きそう
16:名無しの帝国民
>>15
分かる
17:名無しの帝国民
溶けそう
18:名無しの帝国民
愛の力で耐えるだろ
19:名無しの帝国民
まあ幸せならいいか
20:名無しの帝国民
それな
21:名無しの帝国民
お幸せに!
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【移動中 馬車内 映像ログ006-A】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午前10時23分
記録者:帝国記録官ハインリヒ
場所:帝国領内街道、馬車内
(注:本映像は極秘記録として保管された)
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馬車の窓から、冬の田園風景が流れていく。
車内には三人。
一人目は、眼鏡をかけた銀髪の男。
長い髪を後ろで一つに束ね、商人風の上質なコートを羽織っている。
──ジークハルト。
変装しているはずだが、隠しきれない威圧感が車内に満ちている。
「陛下、眼鏡が曇っておられます」
「む」
彼は眼鏡を外し、懐から布を取り出して拭き始めた。
「この眼鏡というものは不便だな。視界が狭い」
「変装ですので、ご辛抱くださいませ」
「ティアラ。余の目は悪くないのだが、なぜ眼鏡をかけねばならん」
二人目の人物が、くすりと笑った。
「陛下。眼鏡をかけると、少し印象が柔らかくなりますのよ」
蜂蜜色の髪を緩く編み込み、商家の娘風のドレスを纏った女性。
左手の薬指には、永久氷晶の指輪が光っている。
──ティアラ。
「それに」
彼女は扇子で口元を隠した。
「眼鏡姿の陛下、とてもお似合いですわ」
「……そうか」
ジークハルトの耳が、かすかに赤くなった。
「ならば、つけておこう」
三人目──執事に扮したハインリヒは、静かにため息をついた。
……相変わらずだ。
「あの、殿下。確認させていただきたいのですが」
「なんですの、ハインリヒ様」
「今回の『視察旅行』の目的は、本当に通商条約の事前調査なのでしょうか」
ティアラは微笑んだ。
「ええ、もちろんですわ」
「……」
「ラスヴェーダは商業連合最大の都市。帝国との交易拡大に向けて、現地の実情を把握しておくのは大切なことですもの」
彼女の言葉は、一分の隙もなかった。
しかし、その目が笑っていない。
「陛下はどうお考えですか」
「余か?」
ジークハルトは窓の外を見た。
「ティアラと二人で旅ができる。それだけで十分だ」
「……はあ」
「通商条約だの、交易拡大だの、正直どうでもいい」
彼は振り返り、ティアラを見つめた。
「お前と一緒にいられれば、それでいい」
「……っ」
ティアラの頬に、朱が差した。
「か、陛下。朝から直球すぎますわ」
「事実を述べただけだ」
「それが直球だと申し上げているのです」
馬車の中に、穏やかな空気が流れた。
ハインリヒは、再びため息をついた。
──この二人の会話を聞いていると、本当に「新婚旅行」のようだ。
しかし、私は知っている。
ティアラ殿下の本当の目的を。
彼は、懐に入れた胃薬の瓶を握りしめた。
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【極秘映像 馬車内 午前10時45分】
(注:この映像は通常のログには記録されていない)
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ジークハルトが、窓の外を眺めながら眠り始めた。
規則正しい寝息が、馬車内に響く。
ティアラは、その横顔を見つめた。
そして、静かに旅行鞄を開けた。
中から取り出したのは──
小さな金属の蝶だった。
手のひらに乗るほどの大きさ。
翅には精緻な魔導刻印が刻まれ、かすかに光を放っている。
「……行ってらっしゃいな」
ティアラは窓を細く開けた。
金属の蝶は、翅を震わせ、冬の空へと飛び立った。
ハインリヒは、その光景を見つめていた。
「殿下。それは……」
「偵察型ゴーレム。私が作りましたの」
ティアラは微笑んだ。
「ラスヴェーダに先行して、情報を集めさせますわ」
「……」
「カジノの裏帳簿、闇国との取引記録、要人の弱み。何でも見つけてくれる、優秀な子ですのよ」
彼女は窓を閉めた。
「ハインリヒ様」
「はい」
「今のこと、陛下には内緒にしてくださいまし」
彼女の目が、ハインリヒを捉えた。
穏やかな翠色。
しかし、その奥に冷たい光が宿っている。
「……承知いたしました」
ハインリヒは頷いた。
それ以外に、何ができるというのか。
ティアラは再び微笑んだ。
「良い子ですわね、ハインリヒ様」
その声は、まるで子供を褒めるようだった。
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【ネルヴァス商業連合 ラスヴェーダ 入国審査所 同日 午後3時12分】
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ラスヴェーダ。
大陸最大の港湾都市にして、商業連合の経済の心臓。
そして、「何でも買える街」として知られる歓楽の都。
入国審査所は、多くの旅行者で賑わっていた。
「次の方、どうぞ」
審査官が手招きする。
ジークハルトとティアラが、窓口に進んだ。
「ご身分と渡航目的を」
「商人だ。妻と二人で、休暇を楽しみに来た」
ジークハルトは、偽造の身分証を差し出した。
「ジーク・シルバーマン」と記されている。
「奥様のお名前は?」
「ティア・シルバーマン。余の……俺の妻だ」
ティアラが、彼の腕に手を添えた。
「新婚旅行ですの。よろしくお願いいたしますわ」
審査官は二人を見つめた。
銀髪の男は、眼鏡をかけているが、その眼光は鋭い。
蜂蜜色の髪の女は、左手の指輪を輝かせている。
「……永久氷晶の指輪ですね」
「ええ。夫からの贈り物ですわ」
「大変高価なものです。相当な資産家とお見受けしますが」
「そうだ」
ジークハルトが頷いた。
「金なら腐るほどある。この街で全て使い切るつもりだ」
「……」
審査官の目が、一瞬輝いた。
「ようこそ、ラスヴェーダへ。ごゆっくりお楽しみください」
スタンプが押され、三人は街へと足を踏み入れた。
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【ラスヴェーダ 中央大通り 映像ログ006-B】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午後3時45分
記録者:帝国記録官ハインリヒ(執事として同行中)
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中央大通りは、活気に満ちていた。
色とりどりの看板。
客引きの声。
香水と酒と、どこか甘い煙の匂い。
「あなた、あちらに露店がありますわ」
「うむ」
ティアラが指差した先には、小さな宝飾品の店があった。
店主が、二人を見て顔を輝かせる。
「いらっしゃいませ! お美しい奥様に、耳飾りなどいかがですか?」
「ほう」
ジークハルトが、陳列台を見下ろした。
真珠、紅玉、青玉。
様々な宝石が並んでいる。
「……全部くれ」
「ジーク様!?」
ティアラが、慌てて彼の腕を引いた。
「お、お待ちくださいませ。そんなに買ってどうなさるのです」
「お前にやる」
「私一人では着けきれませんわ」
「なら、毎日違うものを着ければいい」
ジークハルトは真顔だった。
「一年分くらいは買えるだろう」
「そういう問題ではありませんの」
ティアラは彼の手を握った。
「『お忍び』なのですから、目立つ行動は控えてくださいまし」
「……むう」
ジークハルトは不満そうだったが、やがて頷いた。
「分かった。では、三つだけにしておこう」
「……まあ、それなら」
ティアラは諦めたように微笑んだ。
店主は歓喜の表情で、最高級の耳飾りを三組包んだ。
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通りを歩く二人の後ろで、影が動いた。
黒いフードの男が二人、路地から姿を現す。
「あの二人、金持ちだな」
「ああ。永久氷晶の指輪……本物なら、城が三つ買える」
「尾行するか」
「ああ。隙を見て、財布を──」
その時。
「虫がいるな」
ジークハルトの声が、静かに響いた。
彼は振り返らなかった。
ただ、片手を軽く振った。
──バキッ。
空気が凍りついたような音。
二人の男は、壁に叩きつけられていた。
まるで見えない巨人に殴り飛ばされたかのように。
「か……は……」
「な、何が……」
男たちは呻きながら、這うように逃げていった。
「あなた?」
「なんでもない。虫を払っただけだ」
ジークハルトは、何事もなかったかのように歩き続けた。
ティアラは、彼の横顔を見つめた。
「……相変わらず、加減が苦手ですわね」
「加減?」
「殺さなかっただけ、上達しましたわ」
「お前がいるからな」
彼は、かすかに微笑んだ。
「お前の前で、殺しはしない」
「……」
ティアラの頬に、また朱が差した。
後ろを歩くハインリヒは、静かにメモを取った。
『旦那様、デコピンで成人男性二人を吹き飛ばす。本人は「虫を払った」と主張。お忍びになっていない。なお、一人称「俺」を三回に一回は「余」と言い間違えている。変装になっていない』
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【ラスヴェーダ 城下町 掲示板(ネルヴァス支部)】
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【雑談】最近の観光客 第42板
1:名無しの商人
今日見た客がすごかった
2:名無しの商人
>>1
どんな
3:名無しの商人
銀髪の男と、蜂蜜色の髪の美女
新婚旅行だって
4:名無しの商人
ふーん
5:名無しの商人
何がすごいの
6:名無しの商人
>>5
女の指輪、永久氷晶だった
7:名無しの商人
は?
8:名無しの商人
嘘だろ
9:名無しの商人
城三つ分の価値のやつじゃん
10:名無しの商人
>>9
そう、それ
11:名無しの商人
どこの貴族だ
12:名無しの商人
名乗ったのは「シルバーマン」って名前
商人らしい
13:名無しの商人
聞いたことない
14:名無しの商人
新興の大富豪か?
15:名無しの商人
にしても永久氷晶は異常
16:名無しの商人
そんな富豪いたら噂になるだろ
17:名無しの商人
そういえば
18:名無しの商人
>>17
ん?
19:名無しの商人
帝国の皇帝が婚約したって話、聞いたか
20:名無しの商人
ああ、全世界配信のやつな
21:名無しの商人
永久氷晶の指輪で求婚したって
22:名無しの商人
……
23:名無しの商人
……
24:名無しの商人
まさか
25:名無しの商人
いやいや
26:名無しの商人
帝国の皇帝がうちの街に来るわけないだろ
27:名無しの商人
だよな
28:名無しの商人
偶然だ、偶然
29:名無しの商人
偶然だな
30:名無しの商人
……たぶん
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【ラスヴェーダ グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 夜】
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ラスヴェーダ最大のカジノ、「黄金の羅針盤」。
金と大理石で装飾された内装。
シャンデリアが無数の光を放ち、夜を昼に変えている。
タキシードの紳士たち。
ドレスを纏った貴婦人たち。
そして、ディーラーたちの手さばき。
チップが積まれ、歓声と溜息が交錯する。
「……すごいですわね」
ティアラは、会場を見渡した。
深紅のドレスに着替えた彼女は、まるで社交界の花のようだった。
「うむ」
ジークハルトは、黒のタキシードを纏っていた。
眼鏡はそのまま。
髪を束ねた姿は、どこか知的な印象を与える。
──しかし、その威圧感は隠しようがなかった。
周囲の客たちが、無意識に道を空ける。
彼が歩くと、まるで海が割れるように人波が分かれていく。
「あなた。あちらにルーレットがありますわ」
「ルーレット?」
「玉を回して、どこに落ちるか当てる遊戯ですの」
「ほう」
ジークハルトは、ルーレット台に近づいた。
ディーラーが、彼を見上げた。
その目に、一瞬怯えの色が浮かぶ。
「い、いらっしゃいませ。賭けはいかがなさいますか」
「赤か黒か、だな」
「はい。赤か黒か、あるいは数字に賭けることもできます」
「なるほど」
ジークハルトは、懐から金貨の袋を取り出した。
──ずっしりと重い袋。
どう見ても、普通の商人が持つ額ではない。
「全部、赤に」
「……は?」
ディーラーの声が裏返った。
「その袋、全てですか?」
「ああ」
ジークハルトは平然と頷いた。
「足りなければ追加する」
「あ、あの、お客様……」
周囲の客たちが、どよめいた。
「正気か、あの男」
「一発勝負で全財産?」
「狂ってる」
「いや、見ろ。あの女の指輪」
「永久氷晶……本物だ」
「金持ちの道楽か」
ディーラーは、震える手でルーレットを回した。
玉が、回転する台の上を跳ねる。
カラカラカラ……
全員の視線が、玉に集中した。
カラ……カラ……
玉の動きが、ゆっくりになっていく。
そして──
「……赤、27」
ディーラーの声が、震えていた。
「……赤」
静寂。
次の瞬間、会場が沸いた。
「勝った!?」
「一発勝負で!?」
「ありえない!」
「いや、確率は半々だろ」
「それにしても度胸がすごい」
ジークハルトは、淡々とチップを受け取った。
「次も赤だ」
「え?」
「聞こえなかったか。赤に全額だ」
「……」
ディーラーは、もう何も言わなかった。
ただ、震える手でルーレットを回した。
結果。
赤。
「もう一度」
赤。
「もう一度」
赤。
──五回連続で、赤が出た。
会場は、もはや騒然としていた。
「ありえない」
「イカサマだ」
「いや、ディーラーがイカサマしてるわけない」
「じゃあ何だ」
「……運?」
「五回連続で運?」
「女神に愛されてるのか、あの男」
ジークハルトは、積み上がったチップの山を見下ろした。
「つまらんな」
「……え?」
隣に立つティアラが、首を傾げた。
「あなた?」
「余が勝つと分かっている勝負など、つまらん」
彼は、チップの山をそのままにして歩き去った。
「ちょ、お客様! チップは……」
「くれてやる」
「は?」
「俺の物は、全てお前の物だ。好きに使え」
ティアラは、呆れたように微笑んだ。
「……かしこまりましたわ」
彼女は、チップの山をハインリヒに託した。
「ハインリヒ様。これで情報を買ってきてくださいまし」
「……承知いたしました」
ハインリヒは、重いため息と共にチップを受け取った。
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ】
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ルーレットで五連勝。
全て赤。
確率を計算してみた。
二分の一の五乗。
約3%。
……いや、違う。
あれは確率ではなかった。
私は見た。
陛下がルーレットを睨んだ瞬間、玉の動きが変わったのを。
覇気。
圧力。
存在感。
あの方は、玉を「赤に落ちろ」と命じたのだ。
そして、玉は従った。
これを「運」と呼ぶべきか。
それとも「暴力」と呼ぶべきか。
いずれにせよ、私の胃には厳しい夜になりそうだ。
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【グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 VIPラウンジ】
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VIPラウンジは、一般フロアとは別世界だった。
深紅のソファ。
金糸で縁取られたカーテン。
静かに流れる弦楽の調べ。
ジークハルトとティアラは、奥のソファに座っていた。
給仕が、シャンパンを運んでくる。
「お飲み物でございます」
「うむ」
ジークハルトは、グラスを受け取った。
ティアラも、小さく頷いて受け取る。
「……静かですわね」
「ああ。外の騒がしさが嘘のようだ」
二人は、グラスを軽く合わせた。
その時──
「あら、素敵な旦那様ですこと」
女の声が、二人の耳に届いた。
振り向くと、一人の女がソファの傍に立っていた。
黒髪を艶やかに結い上げ、背中の大きく開いたドレスを纏っている。
唇は紅く、目元には影が差している。
──どこか蛇を思わせる、妖艶な美女だった。
「失礼ですわ。私はルシアと申します」
彼女は、ジークハルトに近づいた。
「こんな素敵な殿方が、お一人で退屈されているのかと思いまして」
「一人ではない」
ジークハルトの声は、冷たかった。
「妻がいる」
「あら、奥様は……」
ルシアは、ティアラを見た。
その目に、かすかな侮蔑が浮かぶ。
「……とてもお若い方ですのね。旦那様のご趣味かしら」
「……」
ティアラは、扇子で口元を隠した。
「ふふ。私、年上の殿方のお世話をするのが得意ですの」
ルシアは、ジークハルトの隣に座ろうとした。
その瞬間──
「臭い」
ジークハルトの一言が、彼女を凍りつかせた。
「……は?」
「香水が臭い。近寄るな」
彼の目が、ルシアを見据えた。
氷のように冷たい、切れ長の瞳。
ルシアは、一歩後退った。
その背筋に、悪寒が走る。
「あ……あの……」
「余の妻は、花の香りがする」
ジークハルトは、ティアラの方を向いた。
「お前の香水の方が、百倍いい匂いだ」
「……っ」
ティアラの頬が、真っ赤になった。
「あ、あなた。こんな所で何をおっしゃるのです」
「事実だ」
「事実でも、時と場所を……!」
ルシアは、その光景を呆然と見つめていた。
自分は今、存在を無視されている。
いや、「臭い」と一蹴された上で、無視されている。
屈辱で、顔が熱くなった。
「……失礼しましたわ」
彼女は踵を返した。
しかし、その腕を誰かが掴んだ。
「あら、もうお帰りですの?」
ティアラの声だった。
「少しお話ししましょうよ、ルシアさん」
彼女の笑顔は、穏やかだった。
しかし、握られた腕には、逃げられないほどの力がこもっている。
「女同士、色々とお話ししたいことがありますもの」
「……」
「ねえ?」
ティアラの目が、ルシアを見据えた。
その奥に、冷たい光が宿っている。
ルシアは、初めて「恐怖」を感じた。
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【グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 裏通路 音声ログ006-C】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午後11時23分
記録者:不明(盗聴装置による自動記録と推測)
場所:VIPラウンジ裏、従業員通路
(注:映像なし、音声のみ)
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コツ、コツ、コツ。
ヒールの音が、通路に響く。
「さあ、着きましたわ」
女の声。
穏やかで、どこか冷たい。
「ここなら、誰にも邪魔されませんわね」
扉が閉まる音。
「……あなた、何者なの」
別の女の声。
震えている。
「あら、名乗りませんでしたかしら。失礼いたしましたわ」
衣擦れの音。
扇子を開く音。
「ティア・シルバーマン。……ふふ、今はそう名乗っておりますの」
「……偽名ね」
「ご明察ですわ。さすが、闇国のスパイは優秀ですこと」
息を呑む音。
「な……何のことかしら」
「ルシアさん。いえ、本名は別にあるのでしょうけれど。……あなた、この街で何をしていらして?」
沈黙。
「答えたくないなら、構いませんわ」
何かが軽く叩かれる音。
壁か、あるいは人か。
「私、すでに知っていますもの」
「……」
「カジノの裏帳簿の管理。闇国への送金の仲介。そして、富豪を誘惑して情報を抜き取る『ハニートラップ』担当」
息を荒げる音。
「ど、どうしてそれを……」
「私の可愛いお友達が、教えてくれましたの」
微かな羽音。
金属が軋むような、小さな共鳴音。
「これ……何……」
「偵察型ゴーレム。私が作りましたの。可愛いでしょう?」
蝶の羽ばたくような音。
「この子が、あなたの上司の部屋に忍び込んで、色々と記録してくれましたわ」
「……」
「昨夜の会話、聞かせてあげましょうか?」
水晶の共鳴音。
別の男の声が、再生される。
『──闇国からの指示だ。帝国の動きを探れ。皇帝が動くなら、情報を最優先で送れ』
『分かりました。ですが、報酬は──』
『金なら心配するな。マリア様が持ってきた資金がある。存分に使え』
再生が止まる。
沈黙。
「マリア様、ですって」
ティアラの声が、低くなった。
「あの聖女……やはり闇国に逃げていたのね」
「わ、私は何も知らない……」
「嘘はお上手でないですわね」
壁に何かが叩きつけられる音。
女の悲鳴。
「マリアはどこ?」
ティアラの声は、もはや穏やかではなかった。
氷のように、冷たい。
「北の塔……闇国の……北の、塔に……!」
息が荒くなる。
「あら、素直でいらっしゃること」
足音。
ティアラが離れる気配。
「お、終わり……? 私を……殺さないの……?」
「殺しませんわ」
ティアラの声が、再び穏やかになった。
「あなたには、もう少し働いていただきますもの」
「……え?」
「明日から、あなたは私の『お友達』。……分かりますわね?」
沈黙。
「分かりますわね?」
声が、低くなる。
「は……はい……」
「よろしい」
扉が開く音。
「夫がお待ちですから、失礼いたしますわ。……ああ、それから」
足が止まる。
「上司の方には、何も言わないでくださいましね。もし言ったら……」
間。
「あなたの故郷のご家族、元気にしていらっしゃるかしら?」
息を呑む音。
「……い、言いません……絶対に……」
「良い子ですわ」
足音が遠ざかる。
残されたのは、震える呼吸だけだった。
(音声ログ終了)
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【グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 VIPラウンジ 映像ログ006-D】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午後11時47分
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ティアラは、涼しい顔でVIPラウンジに戻ってきた。
「お待たせいたしましたわ」
「うむ」
ジークハルトは、グラスを傾けていた。
「女同士の話は済んだか」
「ええ。とても有意義でしたわ」
ティアラは、彼の隣に座った。
「素敵なお友達ができましたの」
「そうか。よかったな」
ジークハルトは、穏やかに頷いた。
彼女が「何をしてきたか」など、聞く気はないようだった。
「ねえ」
「なんだ」
「明日は、もう少しゆっくり過ごしましょうか」
「……ああ」
彼は、グラスを置いた。
「お前と一緒なら、何でもいい」
「……」
ティアラの頬に、かすかな朱が差した。
「……相変わらず、直球ですわね」
「事実だ」
「はいはい。事実ですわね」
彼女は、彼の肩に頭を預けた。
「……少し、疲れましたわ」
「そうか」
ジークハルトは、彼女の髪をそっと撫でた。
「今日は早く休もう」
「ええ」
二人は、静かにソファに寄り添っていた。
その姿は、どこから見ても──幸せな新婚夫婦だった。
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【ラスヴェーダ 城下町 掲示板(ネルヴァス支部)】
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【目撃情報】例の夫婦、カジノで大暴れ 第1板
1:名無しの商人
見た
2:名無しの商人
>>1
何を
3:名無しの商人
銀髪の男がルーレットで五連勝
4:名無しの商人
五連勝?
5:名無しの商人
全部赤、全額賭け
6:名無しの商人
は?
7:名無しの商人
頭おかしい
8:名無しの商人
しかも当然のように勝った
9:名無しの商人
イカサマだろ
10:名無しの商人
>>9
ディーラーはカジノ側だぞ
イカサマする理由がない
11:名無しの商人
じゃあ何だよ
12:名無しの商人
……運?
13:名無しの商人
五回連続で運とか言うな
14:名無しの商人
でも他に説明がつかない
15:名無しの商人
あの男、何者なんだ
16:名無しの商人
あ、それよりもう一つ
17:名無しの商人
>>16
ん?
18:名無しの商人
VIPラウンジで、闇のルシアがその男に言い寄ってた
19:名無しの商人
マジ?
20:名無しの商人
あの「誘惑の蛇」が?
21:名無しの商人
>>20
そう
22:名無しの商人
それで?
23:名無しの商人
「臭い」って一蹴された
24:名無しの商人
は?
25:名無しの商人
「香水が臭い、近寄るな」だって
26:名無しの商人
……
27:名無しの商人
ルシア、あれでプライド高いからな
28:名無しの商人
完全に砕けただろ
29:名無しの商人
いい気味だ
30:名無しの商人
>>29
なんか恨みでもあるのか
31:名無しの商人
昔、友人がハニトラに引っかかった
32:名無しの商人
あー……
33:名無しの商人
それは呪いたくもなるな
34:名無しの商人
にしても、あの男すごいな
35:名無しの商人
ルシア相手に「妻の方がいい匂い」って言い切るとか
36:名無しの商人
惚気かよ
37:名無しの商人
うらやましい
38:名無しの商人
爆発……いや、呪われろ
39:名無しの商人
>>38
言葉選び悩んでて面白い
40:名無しの商人
まあ、お幸せに
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【ラスヴェーダ 高級宿「月影の館」 屋上テラス 深夜】
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屋上テラスからは、ラスヴェーダの夜景が一望できた。
港には無数の船の灯り。
街には色とりどりの魔導灯。
遠くには、海に浮かぶ月。
「……綺麗ですわね」
ティアラは、手すりに寄りかかっていた。
夜風が、蜂蜜色の髪を揺らす。
「ああ」
ジークハルトが、彼女の隣に立った。
「だが、お前の方が綺麗だ」
「……また直球ですの」
「事実だ」
「はいはい」
ティアラは、小さく笑った。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
「陛下」
「なんだ」
「……楽しかったですか? 今日」
ジークハルトは、彼女を見た。
「ああ。楽しかった」
「本当ですか?」
「本当だ」
彼は、彼女の手を取った。
「お前と一緒にいられた。それだけで、十分だ」
「……」
ティアラの目に、かすかに涙が滲んだ。
「……陛下」
「なんだ」
「私、あなたのために……色々なことをしていますわ」
彼女の声が、かすかに震えた。
「あなたの知らないところで、あなたの敵を……」
「知っている」
ジークハルトの声は、穏やかだった。
「え……」
「お前が、余のために何かをしていること。知っている」
「……」
「細かいことは分からん。だが、分かっている」
彼は、彼女の頬に手を添えた。
「お前が何をしても、余はお前を愛している。それは変わらない」
「……っ」
ティアラの目から、涙がこぼれた。
「陛下……」
「泣くな」
ジークハルトは、親指で彼女の涙を拭った。
「お前が泣くと、余も辛い」
「……ごめんなさい」
「謝るな」
彼は、彼女を引き寄せた。
「余は、お前の全てを受け入れる。光も、闇も」
「……」
「だから、泣くな。笑え」
ティアラは、彼の胸に顔を埋めた。
そして──
顔を上げた。
涙で濡れた頬。
しかし、その唇には微笑みが浮かんでいた。
「……ありがとうございます、陛下」
「うむ」
ジークハルトは、彼女の顎に手を添えた。
二人の顔が、近づいていく。
月明かりの中。
港の灯りに照らされて。
二つのシルエットが、一つになった。
(画面下部に魔導文字:【注】本映像はプライバシー保護のため、ここで記録を終了します)
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ】
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翌朝。
私は、衝撃的な報告を受けた。
昨夜、ティアラ殿下が「お話」した女──ルシアという名のスパイが、発見されたという。
彼女は生きていた。
しかし、その目は虚ろで、まるで魂が抜けたかのようだったらしい。
何をされたのか。
私には、想像したくもない。
カジノの従業員たちの間では、こう囁かれているらしい。
『あの女、何を見たんだ……?』
答えを知っている私は、何も言えなかった。
ティアラ殿下は、今朝も涼しい顔で朝食を召し上がっていた。
陛下の隣で、幸せそうに微笑みながら。
昨夜、人を「壊した」女と同一人物とは、とても思えなかった。
……いや、違う。
彼女は「壊した」のではない。
「従わせた」のだ。
殺さず、生かさず。
恐怖で縛り、情報源として利用する。
それが、ティアラ殿下のやり方なのだろう。
私は、改めて思い知った。
この女性は、陛下を心から愛している。
それは間違いない。
しかし、その愛ゆえに──
彼女は、どこまでも恐ろしい。
私は、胃薬を飲んだ。
三日分を用意したはずが、もう半分以上なくなっていた。
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【極秘ログ──送信者不明】
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記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 15日 深夜11時59分
ファイル名:[解析不能]
送信元:[解析不能]
送信先:[解析不能]
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(音声のみ)
カチャ、カチャ。
チップを弄ぶ音。
「……情報は揃いましたわ」
女の声。
穏やかで、どこか冷たい。
「カジノの裏帳簿。闇国への送金ルート。そして……」
紙を広げる音。
「マリアの居場所」
チップが止まる。
「北の塔。闇国の首都、ノクターナの最奥」
椅子を引く音。
「資金源は断ちました。次は、本丸ですわね」
窓を開ける音。
夜風が吹き込む。
「陛下には……そうですわね。『観光の続き』とでも申し上げましょうか」
小さな笑い声。
「ノクターナは『影の都』と呼ばれる美しい街ですもの。観光名所もたくさんありますわ」
羽音。
金属の蝶が、窓から飛び立つ音。
「行ってらっしゃいな、私の可愛い子」
蝶の羽ばたきが、遠ざかっていく。
「先に下見をしておいて」
窓を閉める音。
足音。
寝室に向かう気配。
「さて。明日は陛下と、もう少しこの街を楽しみましょうか」
扉を開ける音。
「……その後は」
声が、低くなる。
「地獄の底へ、参りましょう」
間。
そして──
ふっと、声の調子が変わる。
「……でも、その前に」
穏やかな声。
先ほどまでとは、まるで別人。
「陛下のお隣で、眠らせていただきますわ」
衣擦れの音。
寝台に入る気配。
「……おやすみなさいませ、私の陛下」
穏やかな声だった。
しかし、その直前まで「地獄の底」への侵攻を計画していた女と、同一人物とは思えない。
(ログ終了)
(このファイルは自動消去されました)
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【次回予告】
ラスヴェーダでの「情報収集」を終えた二人は、いよいよ闇国──ノクターナへと向かう。
「影の都」と呼ばれる美しい街。
しかしその奥には、聖女マリアが潜んでいた。
ティアラは「観光」を装いながら、着々と包囲網を狭めていく。
ジークハルトは、妻との旅行を満喫しながら……時折、妙な胸騒ぎを感じていた。
「なあ、ティアラ。この街、やけに静かじゃないか?」
「あら、陛下。観光地は静かな方がよろしいですわ」
「……そうか?」
そして、ハインリヒは決断を迫られる。
全てを知りながら、沈黙を守るか。それとも──
第7話「影の都と追跡劇は、記録されていた」
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【おまけ:ラスヴェーダ 某酒場 深夜】
-----
「聞いたか?」
「ん? 何を」
「グランド・カジノで、ルーレット五連勝した男の話」
「ああ、聞いた聞いた。全額賭けで五連勝だろ?」
「そうそう」
「ありえねえよな」
「でも目撃者多数なんだろ?」
「ああ。しかも『当然のように勝った』って」
「……何者なんだ、その男」
「さあな。名前はシルバーマンとかいう商人らしいけど」
「聞いたことねえな」
「俺もだ」
「でもよ、永久氷晶の指輪持ってるんだろ?」
「ああ。奥さんにプレゼントしたらしい」
「……」
「……」
「俺たちが一生働いても買えないやつじゃん」
「言うな。泣きたくなる」
「……」
「まあ、幸せそうでいいんじゃねえか」
「……だな」
「呪われろ、金持ち」
「呪われろ」
「乾杯」
「乾杯」
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【公式発表】
皇帝陛下並びに皇后陛下(婚約)、静養のため御不在に
皇帝ジークハルト陛下と、婚約者ティアラ殿下は、公務の疲れを癒やすため、本日より静養に入られる。
期間は未定。
行き先は非公表。
なお、静養中の政務は、宰相が代行する。
臣民各位におかれては、両陛下の御休息を心よりお祈り申し上げる。
(署名:帝国宮廷府)
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ】
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静養。
公式発表には、そう記されていた。
しかし、私は知っている。
これは「静養」などではない。
昨夜、ティアラ殿下から呼び出された。
「ハインリヒ様。少しお願いがありますの」
彼女は微笑みながら言った。
その笑顔が、背筋を凍らせた。
「ネルヴァス商業連合のラスヴェーダ。ご存じかしら?」
「……はい。商業連合最大の港湾都市にして、大陸随一の歓楽街ですね」
「ええ。カジノ、劇場、高級娼館……何でもある街ですわ」
彼女は扇子を開いた。
「そして、闇国の資金洗浄拠点でもありますの」
「……」
「私たち、そこへ『視察旅行』に参りますわ。ハインリヒ様には、執事として同行していただきたいの」
断れるわけがなかった。
そして今、私は馬車の中にいる。
「大富豪の若夫婦」に扮した両陛下と共に。
胃薬は、三日分を用意した。
足りるだろうか。
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【ヴァルトシュタイン帝国 城下町 掲示板】
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【速報】陛下静養入り 第1板
1:名無しの帝国民
静養だってさ
2:名無しの帝国民
求婚から一週間で静養は森生える
3:名無しの帝国民
>>2
疲れたんだろ、色々と
4:名無しの帝国民
いや本当に疲れてるならいいけど
5:名無しの帝国民
何の疲れかは言及しない
6:名無しの帝国民
>>5
賢明
7:名無しの帝国民
行き先非公表なのが気になる
8:名無しの帝国民
>>7
新婚旅行じゃね
9:名無しの帝国民
まだ婚約だぞ
10:名無しの帝国民
>>9
プレ新婚旅行
11:名無しの帝国民
どこ行くんだろ
12:名無しの帝国民
>>11
南の島とか?
13:名無しの帝国民
陛下、暑いの苦手そう
14:名無しの帝国民
氷の皇帝だからな
15:名無しの帝国民
でもティアラ様のためなら灼熱の砂漠でも行きそう
16:名無しの帝国民
>>15
分かる
17:名無しの帝国民
溶けそう
18:名無しの帝国民
愛の力で耐えるだろ
19:名無しの帝国民
まあ幸せならいいか
20:名無しの帝国民
それな
21:名無しの帝国民
お幸せに!
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【移動中 馬車内 映像ログ006-A】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午前10時23分
記録者:帝国記録官ハインリヒ
場所:帝国領内街道、馬車内
(注:本映像は極秘記録として保管された)
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馬車の窓から、冬の田園風景が流れていく。
車内には三人。
一人目は、眼鏡をかけた銀髪の男。
長い髪を後ろで一つに束ね、商人風の上質なコートを羽織っている。
──ジークハルト。
変装しているはずだが、隠しきれない威圧感が車内に満ちている。
「陛下、眼鏡が曇っておられます」
「む」
彼は眼鏡を外し、懐から布を取り出して拭き始めた。
「この眼鏡というものは不便だな。視界が狭い」
「変装ですので、ご辛抱くださいませ」
「ティアラ。余の目は悪くないのだが、なぜ眼鏡をかけねばならん」
二人目の人物が、くすりと笑った。
「陛下。眼鏡をかけると、少し印象が柔らかくなりますのよ」
蜂蜜色の髪を緩く編み込み、商家の娘風のドレスを纏った女性。
左手の薬指には、永久氷晶の指輪が光っている。
──ティアラ。
「それに」
彼女は扇子で口元を隠した。
「眼鏡姿の陛下、とてもお似合いですわ」
「……そうか」
ジークハルトの耳が、かすかに赤くなった。
「ならば、つけておこう」
三人目──執事に扮したハインリヒは、静かにため息をついた。
……相変わらずだ。
「あの、殿下。確認させていただきたいのですが」
「なんですの、ハインリヒ様」
「今回の『視察旅行』の目的は、本当に通商条約の事前調査なのでしょうか」
ティアラは微笑んだ。
「ええ、もちろんですわ」
「……」
「ラスヴェーダは商業連合最大の都市。帝国との交易拡大に向けて、現地の実情を把握しておくのは大切なことですもの」
彼女の言葉は、一分の隙もなかった。
しかし、その目が笑っていない。
「陛下はどうお考えですか」
「余か?」
ジークハルトは窓の外を見た。
「ティアラと二人で旅ができる。それだけで十分だ」
「……はあ」
「通商条約だの、交易拡大だの、正直どうでもいい」
彼は振り返り、ティアラを見つめた。
「お前と一緒にいられれば、それでいい」
「……っ」
ティアラの頬に、朱が差した。
「か、陛下。朝から直球すぎますわ」
「事実を述べただけだ」
「それが直球だと申し上げているのです」
馬車の中に、穏やかな空気が流れた。
ハインリヒは、再びため息をついた。
──この二人の会話を聞いていると、本当に「新婚旅行」のようだ。
しかし、私は知っている。
ティアラ殿下の本当の目的を。
彼は、懐に入れた胃薬の瓶を握りしめた。
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【極秘映像 馬車内 午前10時45分】
(注:この映像は通常のログには記録されていない)
-----
ジークハルトが、窓の外を眺めながら眠り始めた。
規則正しい寝息が、馬車内に響く。
ティアラは、その横顔を見つめた。
そして、静かに旅行鞄を開けた。
中から取り出したのは──
小さな金属の蝶だった。
手のひらに乗るほどの大きさ。
翅には精緻な魔導刻印が刻まれ、かすかに光を放っている。
「……行ってらっしゃいな」
ティアラは窓を細く開けた。
金属の蝶は、翅を震わせ、冬の空へと飛び立った。
ハインリヒは、その光景を見つめていた。
「殿下。それは……」
「偵察型ゴーレム。私が作りましたの」
ティアラは微笑んだ。
「ラスヴェーダに先行して、情報を集めさせますわ」
「……」
「カジノの裏帳簿、闇国との取引記録、要人の弱み。何でも見つけてくれる、優秀な子ですのよ」
彼女は窓を閉めた。
「ハインリヒ様」
「はい」
「今のこと、陛下には内緒にしてくださいまし」
彼女の目が、ハインリヒを捉えた。
穏やかな翠色。
しかし、その奥に冷たい光が宿っている。
「……承知いたしました」
ハインリヒは頷いた。
それ以外に、何ができるというのか。
ティアラは再び微笑んだ。
「良い子ですわね、ハインリヒ様」
その声は、まるで子供を褒めるようだった。
-----
【ネルヴァス商業連合 ラスヴェーダ 入国審査所 同日 午後3時12分】
-----
ラスヴェーダ。
大陸最大の港湾都市にして、商業連合の経済の心臓。
そして、「何でも買える街」として知られる歓楽の都。
入国審査所は、多くの旅行者で賑わっていた。
「次の方、どうぞ」
審査官が手招きする。
ジークハルトとティアラが、窓口に進んだ。
「ご身分と渡航目的を」
「商人だ。妻と二人で、休暇を楽しみに来た」
ジークハルトは、偽造の身分証を差し出した。
「ジーク・シルバーマン」と記されている。
「奥様のお名前は?」
「ティア・シルバーマン。余の……俺の妻だ」
ティアラが、彼の腕に手を添えた。
「新婚旅行ですの。よろしくお願いいたしますわ」
審査官は二人を見つめた。
銀髪の男は、眼鏡をかけているが、その眼光は鋭い。
蜂蜜色の髪の女は、左手の指輪を輝かせている。
「……永久氷晶の指輪ですね」
「ええ。夫からの贈り物ですわ」
「大変高価なものです。相当な資産家とお見受けしますが」
「そうだ」
ジークハルトが頷いた。
「金なら腐るほどある。この街で全て使い切るつもりだ」
「……」
審査官の目が、一瞬輝いた。
「ようこそ、ラスヴェーダへ。ごゆっくりお楽しみください」
スタンプが押され、三人は街へと足を踏み入れた。
-----
【ラスヴェーダ 中央大通り 映像ログ006-B】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午後3時45分
記録者:帝国記録官ハインリヒ(執事として同行中)
-----
中央大通りは、活気に満ちていた。
色とりどりの看板。
客引きの声。
香水と酒と、どこか甘い煙の匂い。
「あなた、あちらに露店がありますわ」
「うむ」
ティアラが指差した先には、小さな宝飾品の店があった。
店主が、二人を見て顔を輝かせる。
「いらっしゃいませ! お美しい奥様に、耳飾りなどいかがですか?」
「ほう」
ジークハルトが、陳列台を見下ろした。
真珠、紅玉、青玉。
様々な宝石が並んでいる。
「……全部くれ」
「ジーク様!?」
ティアラが、慌てて彼の腕を引いた。
「お、お待ちくださいませ。そんなに買ってどうなさるのです」
「お前にやる」
「私一人では着けきれませんわ」
「なら、毎日違うものを着ければいい」
ジークハルトは真顔だった。
「一年分くらいは買えるだろう」
「そういう問題ではありませんの」
ティアラは彼の手を握った。
「『お忍び』なのですから、目立つ行動は控えてくださいまし」
「……むう」
ジークハルトは不満そうだったが、やがて頷いた。
「分かった。では、三つだけにしておこう」
「……まあ、それなら」
ティアラは諦めたように微笑んだ。
店主は歓喜の表情で、最高級の耳飾りを三組包んだ。
-----
通りを歩く二人の後ろで、影が動いた。
黒いフードの男が二人、路地から姿を現す。
「あの二人、金持ちだな」
「ああ。永久氷晶の指輪……本物なら、城が三つ買える」
「尾行するか」
「ああ。隙を見て、財布を──」
その時。
「虫がいるな」
ジークハルトの声が、静かに響いた。
彼は振り返らなかった。
ただ、片手を軽く振った。
──バキッ。
空気が凍りついたような音。
二人の男は、壁に叩きつけられていた。
まるで見えない巨人に殴り飛ばされたかのように。
「か……は……」
「な、何が……」
男たちは呻きながら、這うように逃げていった。
「あなた?」
「なんでもない。虫を払っただけだ」
ジークハルトは、何事もなかったかのように歩き続けた。
ティアラは、彼の横顔を見つめた。
「……相変わらず、加減が苦手ですわね」
「加減?」
「殺さなかっただけ、上達しましたわ」
「お前がいるからな」
彼は、かすかに微笑んだ。
「お前の前で、殺しはしない」
「……」
ティアラの頬に、また朱が差した。
後ろを歩くハインリヒは、静かにメモを取った。
『旦那様、デコピンで成人男性二人を吹き飛ばす。本人は「虫を払った」と主張。お忍びになっていない。なお、一人称「俺」を三回に一回は「余」と言い間違えている。変装になっていない』
-----
【ラスヴェーダ 城下町 掲示板(ネルヴァス支部)】
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【雑談】最近の観光客 第42板
1:名無しの商人
今日見た客がすごかった
2:名無しの商人
>>1
どんな
3:名無しの商人
銀髪の男と、蜂蜜色の髪の美女
新婚旅行だって
4:名無しの商人
ふーん
5:名無しの商人
何がすごいの
6:名無しの商人
>>5
女の指輪、永久氷晶だった
7:名無しの商人
は?
8:名無しの商人
嘘だろ
9:名無しの商人
城三つ分の価値のやつじゃん
10:名無しの商人
>>9
そう、それ
11:名無しの商人
どこの貴族だ
12:名無しの商人
名乗ったのは「シルバーマン」って名前
商人らしい
13:名無しの商人
聞いたことない
14:名無しの商人
新興の大富豪か?
15:名無しの商人
にしても永久氷晶は異常
16:名無しの商人
そんな富豪いたら噂になるだろ
17:名無しの商人
そういえば
18:名無しの商人
>>17
ん?
19:名無しの商人
帝国の皇帝が婚約したって話、聞いたか
20:名無しの商人
ああ、全世界配信のやつな
21:名無しの商人
永久氷晶の指輪で求婚したって
22:名無しの商人
……
23:名無しの商人
……
24:名無しの商人
まさか
25:名無しの商人
いやいや
26:名無しの商人
帝国の皇帝がうちの街に来るわけないだろ
27:名無しの商人
だよな
28:名無しの商人
偶然だ、偶然
29:名無しの商人
偶然だな
30:名無しの商人
……たぶん
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【ラスヴェーダ グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 夜】
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ラスヴェーダ最大のカジノ、「黄金の羅針盤」。
金と大理石で装飾された内装。
シャンデリアが無数の光を放ち、夜を昼に変えている。
タキシードの紳士たち。
ドレスを纏った貴婦人たち。
そして、ディーラーたちの手さばき。
チップが積まれ、歓声と溜息が交錯する。
「……すごいですわね」
ティアラは、会場を見渡した。
深紅のドレスに着替えた彼女は、まるで社交界の花のようだった。
「うむ」
ジークハルトは、黒のタキシードを纏っていた。
眼鏡はそのまま。
髪を束ねた姿は、どこか知的な印象を与える。
──しかし、その威圧感は隠しようがなかった。
周囲の客たちが、無意識に道を空ける。
彼が歩くと、まるで海が割れるように人波が分かれていく。
「あなた。あちらにルーレットがありますわ」
「ルーレット?」
「玉を回して、どこに落ちるか当てる遊戯ですの」
「ほう」
ジークハルトは、ルーレット台に近づいた。
ディーラーが、彼を見上げた。
その目に、一瞬怯えの色が浮かぶ。
「い、いらっしゃいませ。賭けはいかがなさいますか」
「赤か黒か、だな」
「はい。赤か黒か、あるいは数字に賭けることもできます」
「なるほど」
ジークハルトは、懐から金貨の袋を取り出した。
──ずっしりと重い袋。
どう見ても、普通の商人が持つ額ではない。
「全部、赤に」
「……は?」
ディーラーの声が裏返った。
「その袋、全てですか?」
「ああ」
ジークハルトは平然と頷いた。
「足りなければ追加する」
「あ、あの、お客様……」
周囲の客たちが、どよめいた。
「正気か、あの男」
「一発勝負で全財産?」
「狂ってる」
「いや、見ろ。あの女の指輪」
「永久氷晶……本物だ」
「金持ちの道楽か」
ディーラーは、震える手でルーレットを回した。
玉が、回転する台の上を跳ねる。
カラカラカラ……
全員の視線が、玉に集中した。
カラ……カラ……
玉の動きが、ゆっくりになっていく。
そして──
「……赤、27」
ディーラーの声が、震えていた。
「……赤」
静寂。
次の瞬間、会場が沸いた。
「勝った!?」
「一発勝負で!?」
「ありえない!」
「いや、確率は半々だろ」
「それにしても度胸がすごい」
ジークハルトは、淡々とチップを受け取った。
「次も赤だ」
「え?」
「聞こえなかったか。赤に全額だ」
「……」
ディーラーは、もう何も言わなかった。
ただ、震える手でルーレットを回した。
結果。
赤。
「もう一度」
赤。
「もう一度」
赤。
──五回連続で、赤が出た。
会場は、もはや騒然としていた。
「ありえない」
「イカサマだ」
「いや、ディーラーがイカサマしてるわけない」
「じゃあ何だ」
「……運?」
「五回連続で運?」
「女神に愛されてるのか、あの男」
ジークハルトは、積み上がったチップの山を見下ろした。
「つまらんな」
「……え?」
隣に立つティアラが、首を傾げた。
「あなた?」
「余が勝つと分かっている勝負など、つまらん」
彼は、チップの山をそのままにして歩き去った。
「ちょ、お客様! チップは……」
「くれてやる」
「は?」
「俺の物は、全てお前の物だ。好きに使え」
ティアラは、呆れたように微笑んだ。
「……かしこまりましたわ」
彼女は、チップの山をハインリヒに託した。
「ハインリヒ様。これで情報を買ってきてくださいまし」
「……承知いたしました」
ハインリヒは、重いため息と共にチップを受け取った。
-----
【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ】
-----
ルーレットで五連勝。
全て赤。
確率を計算してみた。
二分の一の五乗。
約3%。
……いや、違う。
あれは確率ではなかった。
私は見た。
陛下がルーレットを睨んだ瞬間、玉の動きが変わったのを。
覇気。
圧力。
存在感。
あの方は、玉を「赤に落ちろ」と命じたのだ。
そして、玉は従った。
これを「運」と呼ぶべきか。
それとも「暴力」と呼ぶべきか。
いずれにせよ、私の胃には厳しい夜になりそうだ。
-----
【グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 VIPラウンジ】
-----
VIPラウンジは、一般フロアとは別世界だった。
深紅のソファ。
金糸で縁取られたカーテン。
静かに流れる弦楽の調べ。
ジークハルトとティアラは、奥のソファに座っていた。
給仕が、シャンパンを運んでくる。
「お飲み物でございます」
「うむ」
ジークハルトは、グラスを受け取った。
ティアラも、小さく頷いて受け取る。
「……静かですわね」
「ああ。外の騒がしさが嘘のようだ」
二人は、グラスを軽く合わせた。
その時──
「あら、素敵な旦那様ですこと」
女の声が、二人の耳に届いた。
振り向くと、一人の女がソファの傍に立っていた。
黒髪を艶やかに結い上げ、背中の大きく開いたドレスを纏っている。
唇は紅く、目元には影が差している。
──どこか蛇を思わせる、妖艶な美女だった。
「失礼ですわ。私はルシアと申します」
彼女は、ジークハルトに近づいた。
「こんな素敵な殿方が、お一人で退屈されているのかと思いまして」
「一人ではない」
ジークハルトの声は、冷たかった。
「妻がいる」
「あら、奥様は……」
ルシアは、ティアラを見た。
その目に、かすかな侮蔑が浮かぶ。
「……とてもお若い方ですのね。旦那様のご趣味かしら」
「……」
ティアラは、扇子で口元を隠した。
「ふふ。私、年上の殿方のお世話をするのが得意ですの」
ルシアは、ジークハルトの隣に座ろうとした。
その瞬間──
「臭い」
ジークハルトの一言が、彼女を凍りつかせた。
「……は?」
「香水が臭い。近寄るな」
彼の目が、ルシアを見据えた。
氷のように冷たい、切れ長の瞳。
ルシアは、一歩後退った。
その背筋に、悪寒が走る。
「あ……あの……」
「余の妻は、花の香りがする」
ジークハルトは、ティアラの方を向いた。
「お前の香水の方が、百倍いい匂いだ」
「……っ」
ティアラの頬が、真っ赤になった。
「あ、あなた。こんな所で何をおっしゃるのです」
「事実だ」
「事実でも、時と場所を……!」
ルシアは、その光景を呆然と見つめていた。
自分は今、存在を無視されている。
いや、「臭い」と一蹴された上で、無視されている。
屈辱で、顔が熱くなった。
「……失礼しましたわ」
彼女は踵を返した。
しかし、その腕を誰かが掴んだ。
「あら、もうお帰りですの?」
ティアラの声だった。
「少しお話ししましょうよ、ルシアさん」
彼女の笑顔は、穏やかだった。
しかし、握られた腕には、逃げられないほどの力がこもっている。
「女同士、色々とお話ししたいことがありますもの」
「……」
「ねえ?」
ティアラの目が、ルシアを見据えた。
その奥に、冷たい光が宿っている。
ルシアは、初めて「恐怖」を感じた。
-----
【グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 裏通路 音声ログ006-C】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午後11時23分
記録者:不明(盗聴装置による自動記録と推測)
場所:VIPラウンジ裏、従業員通路
(注:映像なし、音声のみ)
-----
コツ、コツ、コツ。
ヒールの音が、通路に響く。
「さあ、着きましたわ」
女の声。
穏やかで、どこか冷たい。
「ここなら、誰にも邪魔されませんわね」
扉が閉まる音。
「……あなた、何者なの」
別の女の声。
震えている。
「あら、名乗りませんでしたかしら。失礼いたしましたわ」
衣擦れの音。
扇子を開く音。
「ティア・シルバーマン。……ふふ、今はそう名乗っておりますの」
「……偽名ね」
「ご明察ですわ。さすが、闇国のスパイは優秀ですこと」
息を呑む音。
「な……何のことかしら」
「ルシアさん。いえ、本名は別にあるのでしょうけれど。……あなた、この街で何をしていらして?」
沈黙。
「答えたくないなら、構いませんわ」
何かが軽く叩かれる音。
壁か、あるいは人か。
「私、すでに知っていますもの」
「……」
「カジノの裏帳簿の管理。闇国への送金の仲介。そして、富豪を誘惑して情報を抜き取る『ハニートラップ』担当」
息を荒げる音。
「ど、どうしてそれを……」
「私の可愛いお友達が、教えてくれましたの」
微かな羽音。
金属が軋むような、小さな共鳴音。
「これ……何……」
「偵察型ゴーレム。私が作りましたの。可愛いでしょう?」
蝶の羽ばたくような音。
「この子が、あなたの上司の部屋に忍び込んで、色々と記録してくれましたわ」
「……」
「昨夜の会話、聞かせてあげましょうか?」
水晶の共鳴音。
別の男の声が、再生される。
『──闇国からの指示だ。帝国の動きを探れ。皇帝が動くなら、情報を最優先で送れ』
『分かりました。ですが、報酬は──』
『金なら心配するな。マリア様が持ってきた資金がある。存分に使え』
再生が止まる。
沈黙。
「マリア様、ですって」
ティアラの声が、低くなった。
「あの聖女……やはり闇国に逃げていたのね」
「わ、私は何も知らない……」
「嘘はお上手でないですわね」
壁に何かが叩きつけられる音。
女の悲鳴。
「マリアはどこ?」
ティアラの声は、もはや穏やかではなかった。
氷のように、冷たい。
「北の塔……闇国の……北の、塔に……!」
息が荒くなる。
「あら、素直でいらっしゃること」
足音。
ティアラが離れる気配。
「お、終わり……? 私を……殺さないの……?」
「殺しませんわ」
ティアラの声が、再び穏やかになった。
「あなたには、もう少し働いていただきますもの」
「……え?」
「明日から、あなたは私の『お友達』。……分かりますわね?」
沈黙。
「分かりますわね?」
声が、低くなる。
「は……はい……」
「よろしい」
扉が開く音。
「夫がお待ちですから、失礼いたしますわ。……ああ、それから」
足が止まる。
「上司の方には、何も言わないでくださいましね。もし言ったら……」
間。
「あなたの故郷のご家族、元気にしていらっしゃるかしら?」
息を呑む音。
「……い、言いません……絶対に……」
「良い子ですわ」
足音が遠ざかる。
残されたのは、震える呼吸だけだった。
(音声ログ終了)
-----
【グランド・カジノ「黄金の羅針盤」 VIPラウンジ 映像ログ006-D】
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 14日 午後11時47分
-----
ティアラは、涼しい顔でVIPラウンジに戻ってきた。
「お待たせいたしましたわ」
「うむ」
ジークハルトは、グラスを傾けていた。
「女同士の話は済んだか」
「ええ。とても有意義でしたわ」
ティアラは、彼の隣に座った。
「素敵なお友達ができましたの」
「そうか。よかったな」
ジークハルトは、穏やかに頷いた。
彼女が「何をしてきたか」など、聞く気はないようだった。
「ねえ」
「なんだ」
「明日は、もう少しゆっくり過ごしましょうか」
「……ああ」
彼は、グラスを置いた。
「お前と一緒なら、何でもいい」
「……」
ティアラの頬に、かすかな朱が差した。
「……相変わらず、直球ですわね」
「事実だ」
「はいはい。事実ですわね」
彼女は、彼の肩に頭を預けた。
「……少し、疲れましたわ」
「そうか」
ジークハルトは、彼女の髪をそっと撫でた。
「今日は早く休もう」
「ええ」
二人は、静かにソファに寄り添っていた。
その姿は、どこから見ても──幸せな新婚夫婦だった。
-----
【ラスヴェーダ 城下町 掲示板(ネルヴァス支部)】
-----
【目撃情報】例の夫婦、カジノで大暴れ 第1板
1:名無しの商人
見た
2:名無しの商人
>>1
何を
3:名無しの商人
銀髪の男がルーレットで五連勝
4:名無しの商人
五連勝?
5:名無しの商人
全部赤、全額賭け
6:名無しの商人
は?
7:名無しの商人
頭おかしい
8:名無しの商人
しかも当然のように勝った
9:名無しの商人
イカサマだろ
10:名無しの商人
>>9
ディーラーはカジノ側だぞ
イカサマする理由がない
11:名無しの商人
じゃあ何だよ
12:名無しの商人
……運?
13:名無しの商人
五回連続で運とか言うな
14:名無しの商人
でも他に説明がつかない
15:名無しの商人
あの男、何者なんだ
16:名無しの商人
あ、それよりもう一つ
17:名無しの商人
>>16
ん?
18:名無しの商人
VIPラウンジで、闇のルシアがその男に言い寄ってた
19:名無しの商人
マジ?
20:名無しの商人
あの「誘惑の蛇」が?
21:名無しの商人
>>20
そう
22:名無しの商人
それで?
23:名無しの商人
「臭い」って一蹴された
24:名無しの商人
は?
25:名無しの商人
「香水が臭い、近寄るな」だって
26:名無しの商人
……
27:名無しの商人
ルシア、あれでプライド高いからな
28:名無しの商人
完全に砕けただろ
29:名無しの商人
いい気味だ
30:名無しの商人
>>29
なんか恨みでもあるのか
31:名無しの商人
昔、友人がハニトラに引っかかった
32:名無しの商人
あー……
33:名無しの商人
それは呪いたくもなるな
34:名無しの商人
にしても、あの男すごいな
35:名無しの商人
ルシア相手に「妻の方がいい匂い」って言い切るとか
36:名無しの商人
惚気かよ
37:名無しの商人
うらやましい
38:名無しの商人
爆発……いや、呪われろ
39:名無しの商人
>>38
言葉選び悩んでて面白い
40:名無しの商人
まあ、お幸せに
-----
【ラスヴェーダ 高級宿「月影の館」 屋上テラス 深夜】
-----
屋上テラスからは、ラスヴェーダの夜景が一望できた。
港には無数の船の灯り。
街には色とりどりの魔導灯。
遠くには、海に浮かぶ月。
「……綺麗ですわね」
ティアラは、手すりに寄りかかっていた。
夜風が、蜂蜜色の髪を揺らす。
「ああ」
ジークハルトが、彼女の隣に立った。
「だが、お前の方が綺麗だ」
「……また直球ですの」
「事実だ」
「はいはい」
ティアラは、小さく笑った。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
「陛下」
「なんだ」
「……楽しかったですか? 今日」
ジークハルトは、彼女を見た。
「ああ。楽しかった」
「本当ですか?」
「本当だ」
彼は、彼女の手を取った。
「お前と一緒にいられた。それだけで、十分だ」
「……」
ティアラの目に、かすかに涙が滲んだ。
「……陛下」
「なんだ」
「私、あなたのために……色々なことをしていますわ」
彼女の声が、かすかに震えた。
「あなたの知らないところで、あなたの敵を……」
「知っている」
ジークハルトの声は、穏やかだった。
「え……」
「お前が、余のために何かをしていること。知っている」
「……」
「細かいことは分からん。だが、分かっている」
彼は、彼女の頬に手を添えた。
「お前が何をしても、余はお前を愛している。それは変わらない」
「……っ」
ティアラの目から、涙がこぼれた。
「陛下……」
「泣くな」
ジークハルトは、親指で彼女の涙を拭った。
「お前が泣くと、余も辛い」
「……ごめんなさい」
「謝るな」
彼は、彼女を引き寄せた。
「余は、お前の全てを受け入れる。光も、闇も」
「……」
「だから、泣くな。笑え」
ティアラは、彼の胸に顔を埋めた。
そして──
顔を上げた。
涙で濡れた頬。
しかし、その唇には微笑みが浮かんでいた。
「……ありがとうございます、陛下」
「うむ」
ジークハルトは、彼女の顎に手を添えた。
二人の顔が、近づいていく。
月明かりの中。
港の灯りに照らされて。
二つのシルエットが、一つになった。
(画面下部に魔導文字:【注】本映像はプライバシー保護のため、ここで記録を終了します)
-----
【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ】
-----
翌朝。
私は、衝撃的な報告を受けた。
昨夜、ティアラ殿下が「お話」した女──ルシアという名のスパイが、発見されたという。
彼女は生きていた。
しかし、その目は虚ろで、まるで魂が抜けたかのようだったらしい。
何をされたのか。
私には、想像したくもない。
カジノの従業員たちの間では、こう囁かれているらしい。
『あの女、何を見たんだ……?』
答えを知っている私は、何も言えなかった。
ティアラ殿下は、今朝も涼しい顔で朝食を召し上がっていた。
陛下の隣で、幸せそうに微笑みながら。
昨夜、人を「壊した」女と同一人物とは、とても思えなかった。
……いや、違う。
彼女は「壊した」のではない。
「従わせた」のだ。
殺さず、生かさず。
恐怖で縛り、情報源として利用する。
それが、ティアラ殿下のやり方なのだろう。
私は、改めて思い知った。
この女性は、陛下を心から愛している。
それは間違いない。
しかし、その愛ゆえに──
彼女は、どこまでも恐ろしい。
私は、胃薬を飲んだ。
三日分を用意したはずが、もう半分以上なくなっていた。
-----
【極秘ログ──送信者不明】
-----
記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第一の月 15日 深夜11時59分
ファイル名:[解析不能]
送信元:[解析不能]
送信先:[解析不能]
-----
(音声のみ)
カチャ、カチャ。
チップを弄ぶ音。
「……情報は揃いましたわ」
女の声。
穏やかで、どこか冷たい。
「カジノの裏帳簿。闇国への送金ルート。そして……」
紙を広げる音。
「マリアの居場所」
チップが止まる。
「北の塔。闇国の首都、ノクターナの最奥」
椅子を引く音。
「資金源は断ちました。次は、本丸ですわね」
窓を開ける音。
夜風が吹き込む。
「陛下には……そうですわね。『観光の続き』とでも申し上げましょうか」
小さな笑い声。
「ノクターナは『影の都』と呼ばれる美しい街ですもの。観光名所もたくさんありますわ」
羽音。
金属の蝶が、窓から飛び立つ音。
「行ってらっしゃいな、私の可愛い子」
蝶の羽ばたきが、遠ざかっていく。
「先に下見をしておいて」
窓を閉める音。
足音。
寝室に向かう気配。
「さて。明日は陛下と、もう少しこの街を楽しみましょうか」
扉を開ける音。
「……その後は」
声が、低くなる。
「地獄の底へ、参りましょう」
間。
そして──
ふっと、声の調子が変わる。
「……でも、その前に」
穏やかな声。
先ほどまでとは、まるで別人。
「陛下のお隣で、眠らせていただきますわ」
衣擦れの音。
寝台に入る気配。
「……おやすみなさいませ、私の陛下」
穏やかな声だった。
しかし、その直前まで「地獄の底」への侵攻を計画していた女と、同一人物とは思えない。
(ログ終了)
(このファイルは自動消去されました)
-----
【次回予告】
ラスヴェーダでの「情報収集」を終えた二人は、いよいよ闇国──ノクターナへと向かう。
「影の都」と呼ばれる美しい街。
しかしその奥には、聖女マリアが潜んでいた。
ティアラは「観光」を装いながら、着々と包囲網を狭めていく。
ジークハルトは、妻との旅行を満喫しながら……時折、妙な胸騒ぎを感じていた。
「なあ、ティアラ。この街、やけに静かじゃないか?」
「あら、陛下。観光地は静かな方がよろしいですわ」
「……そうか?」
そして、ハインリヒは決断を迫られる。
全てを知りながら、沈黙を守るか。それとも──
第7話「影の都と追跡劇は、記録されていた」
-----
【おまけ:ラスヴェーダ 某酒場 深夜】
-----
「聞いたか?」
「ん? 何を」
「グランド・カジノで、ルーレット五連勝した男の話」
「ああ、聞いた聞いた。全額賭けで五連勝だろ?」
「そうそう」
「ありえねえよな」
「でも目撃者多数なんだろ?」
「ああ。しかも『当然のように勝った』って」
「……何者なんだ、その男」
「さあな。名前はシルバーマンとかいう商人らしいけど」
「聞いたことねえな」
「俺もだ」
「でもよ、永久氷晶の指輪持ってるんだろ?」
「ああ。奥さんにプレゼントしたらしい」
「……」
「……」
「俺たちが一生働いても買えないやつじゃん」
「言うな。泣きたくなる」
「……」
「まあ、幸せそうでいいんじゃねえか」
「……だな」
「呪われろ、金持ち」
「呪われろ」
「乾杯」
「乾杯」
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