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新婚生活と恩返しは、綴られていた
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【帝国宮廷官報 帝国歴四〇三年 冬 第二の月 12日】
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結婚式典より4日が経過いたしました。
皇帝陛下と皇后殿下は、現在「婚礼後の祝期」中でございます。
つきましては、通常業務につきまして、以下の通りご案内申し上げます。
一、緊急案件:皇后殿下が決裁
二、重要案件:皇后殿下が決裁
三、通常案件:皇后殿下が決裁
四、軽微案件:皇后殿下が決裁
なお、皇帝陛下は「皇后殿下の膝枕」にて公務中でございます。
各省庁におかれましては、書類は全て皇后殿下へご提出ください。
帝国宮廷府
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ 同日 午前9:00】
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結婚式から4日。
帝国は、静かに崩壊しかけていた。
いや、違う。
崩壊しかけているのは、私の胃だ。
陛下が、執務室に来ない。
正確には、来ているのだが、仕事をしない。
皇后殿下の膝の上で、書類を眺めているだけだ。
眺めているだけで、サインをしない。
「陛下」
私は、恐る恐る声をかけた。
「こちらの書類、ご決裁を」
「うむ」
陛下は、視線を上げなかった。
皇后殿下の膝枕から、一歩も動かない。
「陛下」
「聞こえている」
「では、サインを」
「今は無理だ」
「なぜでございましょう」
「手が塞がっている」
私は、陛下の両手を見た。
右手は、皇后殿下の左手を握っている。
左手は、皇后殿下の右手を握っている。
両手で、両手を握っている。
「……陛下」
「何だ」
「どちらかの手を離していただければ」
「嫌だ」
即答だった。
「ティアラの手は、余の両手で守らねばならぬ」
「一本でも守れるかと」
「左右のバランスが崩れる」
「バランス」
「余の愛に、偏りがあってはならぬ」
私は、天を仰いだ。
この国は、どこへ向かっているのだろう。
「陛下」
皇后殿下が、くすりと笑った。
「ハインリヒが困っておりますわ」
「困らせているのではない。守っているのだ」
「何からですか」
「書類の山から」
「……なるほど」
皇后殿下は、陛下の銀髪を優しく撫でた。
「では、私が代わりに決裁いたしますわ」
「そうか」
「ええ。陛下は、そのまま休んでいてくださいませ」
「うむ」
陛下は、目を閉じた。
完全に、皇后殿下に委ねている。
私は、書類の束を皇后殿下に差し出した。
「殿下、こちらを」
「ありがとうございます」
彼女は、片手を陛下から離した。
陛下の眉が、ぴくりと動いた。
「ティアラ」
「お仕事ですわ」
「余の手が冷える」
「すぐに戻しますから」
皇后殿下は、手早く書類に目を通した。
そして、次々とサインを入れていく。
その速度は、陛下の3倍はあった。
「北部の橋梁工事、承認。南部の穀物備蓄、増量を指示。東部の税収報告、確認済み」
書類が、次々と処理されていく。
「商業連合との通商条約改定案、条件付き承認。闘技大会の予算、削減。宮廷料理人の増員、承認」
「殿下」
私は、思わず声を上げた。
「お早いですね」
「慣れましたわ」
彼女は、にこりと笑った。
「陛下の代わりに決裁するのも、4日目ですもの」
4日間。
つまり、結婚式の翌日から。
この国は、実質的に皇后殿下が動かしているのだ。
「はい、終わりましたわ」
書類の束が、私に返された。
「次の分をお持ちください」
「畏まりました」
私は、一礼して執務室を出た。
廊下で、財務大臣と鉢合わせした。
「ハインリヒ殿」
「大臣」
「陛下のご様子は」
「膝枕です」
「また、ですか」
「はい」
財務大臣は、深いため息をついた。
「国政は」
「皇后殿下が動かしております」
「そうですか」
彼は、胃を押さえた。
「我々の胃は」
「限界です」
「そうですか」
二人で、しばらく沈黙した。
「……でも」
財務大臣が、ぽつりと言った。
「陛下が幸せそうなのは、良いことです」
「……ええ」
私も、頷いた。
「あれほど笑う陛下を、初めて見ました」
「ですね」
財務大臣は、遠い目をした。
「先代陛下の頃から仕えておりますが、あの方が心から笑ったのを見たのは、皇后殿下がいらしてからです」
「そうでしたか」
「ええ。だから、まあ」
彼は、苦笑した。
「胃痛くらい、我慢します」
「同感です」
私たちは、胃薬を分け合った。
これが、帝国の日常になりつつあった。
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【映像ログ016-A 帝国宮殿 皇后のサロン 同日 午後2:00】
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送信元:帝国記録局 第一班
映像品質:良好
配信範囲:帝国内限定
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(映像開始)
皇后のサロン。
午後の柔らかな光が、窓から差し込んでいる。
ティアラは、ソファに腰掛けていた。
その向かいには、一人の女性が座っている。
結婚式で救われた、元婚約者候補の女性だ。
彼女は、緊張した面持ちでティアラを見つめていた。
「リラックスしてくださいませ」
ティアラが、穏やかに言った。
「お茶でも、いかが」
「あ、ありがとうございます」
女性は、ぎこちなく頷いた。
侍女が、紅茶を運んでくる。
二人の間に、しばしの沈黙が流れた。
「あの」
女性が、口を開いた。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「何がですか」
「私のような者が、皇后様にお目通りするなど」
彼女の声は、震えていた。
「私は、結婚式を台無しにしようとした女です。本来なら、牢に入れられても文句は言えません」
「まあ」
ティアラは、首を傾げた。
「台無しになどなっておりませんわ」
「え」
「むしろ、おかげで素敵な式になりました」
ティアラは、にこりと笑った。
「フェリックス殿下との和解も進みましたし、陛下の評判も上がりましたわ。感謝しておりますの」
「感謝」
女性は、目を丸くした。
「私に、感謝を」
「ええ」
ティアラは、紅茶を一口飲んだ。
「それで、今日はどのようなご用件でしょう」
「あ、はい」
女性は、姿勢を正した。
「皇后様に、恩返しがしたいのです」
「恩返し」
「はい。借金を肩代わりしていただいて、新しい生活の場まで与えていただいて。私は、何もお返しできておりません」
彼女の目には、真剣な光があった。
「何でもいたします。掃除でも、洗濯でも。皇后様のお役に立ちたいのです」
ティアラは、しばらく彼女を見つめていた。
その翠色の瞳が、何かを見定めるように細められた。
「お名前を、教えていただけますか」
「リリィと申します」
「リリィさん」
ティアラは、ゆっくりと頷いた。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何でしょう」
「アルベルトのこと、最初から疑っていらっしゃいましたか」
リリィの顔が、わずかに曇った。
「……いいえ」
彼女は、視線を落とした。
「最初は、信じておりました。あの方は、優しくて、気さくで。私のような身分の低い者にも、分け隔てなく接してくださいました」
「そうですか」
「でも、いつからか、変わりました。急に冷たくなって。他の女性と親しくするようになって」
リリィの声が、震えた。
「そして、ある日突然、『もう用はない』と」
「辛かったでしょう」
「はい」
彼女は、こくりと頷いた。
「でも、皇后様の方がずっとお辛かったはずです。国中から悪女と呼ばれて、命まで狙われて」
「いいえ」
ティアラは、首を横に振った。
「私には、陛下がいらっしゃいましたから」
「陛下が」
「ええ」
ティアラの目が、遠くを見た。
「あの方がいなければ、私は今頃、野垂れ死にでもしていたでしょうね」
「……皇后様」
「リリィさん」
ティアラは、彼女の方を向いた。
「貴女は、アルベルトのことを『最初は信じていた』と仰いました。私も、同じでしたわ」
「え」
「最初は、信じていたのです」
ティアラの声が、少し低くなった。
「あの方が、本当に私を愛してくれていると。私たちは、幸せになれると」
リリィは、息を呑んだ。
「でも、現実は違いました」
ティアラは、紅茶のカップを見つめた。
「彼は、最初から私を利用するつもりだった。公爵家の財産と、魔導通信技術。それが目当てでした」
「そんな」
「分かっていたはずでしたのに」
ティアラは、かすかに笑った。
「私は、馬鹿でしたわ。あの頃は」
沈黙が、サロンを包んだ。
リリィは、何も言えなかった。
目の前の皇后が、かつて自分と同じ苦しみを味わっていたことに、言葉を失っていた。
「リリィさん」
ティアラが、静かに言った。
「恩返しがしたいと、仰いましたね」
「は、はい」
「では、一つ、お願いがありますわ」
ティアラは、立ち上がった。
そして、窓辺に歩み寄った。
「帝都には、私と同じように傷ついた者たちがいます」
「傷ついた者たち」
「ええ。アルベルトに捨てられた者。マリアに陥れられた者。フローレンスに故郷を追われた者」
ティアラは、振り返った。
「彼らを、助けてあげてほしいのです」
「私が、ですか」
「ええ。貴女なら、彼らの気持ちが分かるでしょう。同じ痛みを知っているからこそ、寄り添えることがあります」
リリィは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「皇后様」
「はい」
「私に、できるでしょうか」
「できますわ」
ティアラは、穏やかに微笑んだ。
「貴女は、強い方です。あれだけの絶望から、ここまで来たのですから」
リリィの目に、涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
「いいえ」
ティアラは、彼女の手を取った。
「これから、よろしくお願いいたしますわ。リリィさん」
「はい」
リリィは、深く頭を下げた。
「皇后様のために、全力を尽くします」
(映像終了)
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【ヴァルトシュタイン帝国 城下町 掲示板】
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【速報】陛下、膝枕がないと書類にサインできない体になる
1:名無しの帝国民
結婚式から4日
2:名無しの帝国民
陛下が執務室に来ないらしい
3:名無しの帝国民
来てはいる
4:名無しの帝国民
来てるのか
5:名無しの帝国民
皇后様の膝の上で
6:名無しの帝国民
仕事しろ
7:名無しの帝国民
国が回らないだろ
8:名無しの帝国民
それが回ってるんだよな
9:名無しの帝国民
>>8
え
10:名無しの帝国民
皇后様が全部やってる
11:名無しの帝国民
は?
12:名無しの帝国民
陛下の代わりに決裁してる
13:名無しの帝国民
有能すぎないか
14:名無しの帝国民
帝国、実質皇后様が動かしてる説
15:名無しの帝国民
否定できない
16:名無しの帝国民
陛下は何してるんだ
17:名無しの帝国民
膝枕
18:名無しの帝国民
それだけ?
19:名無しの帝国民
あとは皇后様の手を握ってる
20:名無しの帝国民
両手で
21:名無しの帝国民
両手で?
22:名無しの帝国民
左右のバランスが崩れるらしい
23:名無しの帝国民
何のバランスだよ
24:名無しの帝国民
愛のバランス
25:名無しの帝国民
知らんわ
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【皇后様、元婚約者候補を救済】
26:名無しの帝国民
結婚式で乱入してきた女性いたよな
27:名無しの帝国民
いた
28:名無しの帝国民
あの人どうなったんだ
29:名無しの帝国民
皇后様に仕えることになったらしい
30:名無しの帝国民
マジ?
31:名無しの帝国民
恩返しがしたいって
32:名無しの帝国民
いい話じゃん
33:名無しの帝国民
アルベルトに捨てられた者同士か
34:名無しの帝国民
皇后様も昔は苦労したんだろうな
35:名無しの帝国民
でも今は幸せそう
36:名無しの帝国民
陛下に溺愛されてるしな
37:名無しの帝国民
勝ち組
38:名無しの帝国民
最強の逆転劇
39:名無しの帝国民
アルベルトざまぁ
40:名無しの帝国民
「隠遁」してるからセーフ
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【映像ログ016-B 帝国宮殿 執務室 同日 午後4:00】
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送信元:帝国記録局 第一班
映像品質:良好
配信範囲:帝国内限定
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(映像開始)
執務室。
ジークハルトは、相変わらずティアラの膝の上にいた。
ただし、今は目を開けている。
手には、一通の書状があった。
「フローレンスからの使者が来ている」
ジークハルトが、低く言った。
「フェリックスからの手紙だ」
「まあ、そうですか」
ティアラは、書状を受け取った。
封を開け、中身を読み始める。
その表情が、わずかに変わった。
「どうした」
「……いえ」
彼女は、かすかに笑った。
「懐かしいものが見つかったようですわ」
「懐かしいもの」
「ええ」
ティアラは、手紙を読み上げた。
「『皇后殿下へ。同盟の件、順調に進めております。ところで、兄の部屋から貴女の日記が見つかりました。私信につき、返却いたします。使者に託しましたので、ご査収ください』」
「日記」
ジークハルトの目が、鋭くなった。
「お前の日記を、アルベルトが持っていたのか」
「のようですわね」
「なぜだ」
「さあ」
ティアラは、肩をすくめた。
「私がフローレンスを発つ時、置いていったものでしょう。まさか、あの方が保管しているとは思いませんでしたけれど」
「読まれたのか」
「おそらく」
ジークハルトの表情が、冷たくなった。
「気に入らんな」
「陛下」
「お前の私的な記録を、あの男が読んでいたというのか」
氷が、床に広がり始めた。
「許せん」
「陛下、落ち着いてくださいませ」
ティアラは、彼の頬に手を添えた。
「もう、過去のことですわ」
「しかし」
「それに」
彼女は、くすりと笑った。
「今は、陛下が私の全てをご存知ですもの。日記の中身など、取るに足りませんわ」
ジークハルトの表情が、わずかに和らいだ。
「……そうか」
「ええ」
「お前の全て、か」
「はい」
ティアラは、彼の銀髪を撫でた。
「陛下は、私の過去も、現在も、未来も、全てをお持ちですわ」
ジークハルトは、目を閉じた。
「嬉しいことを言う」
「本当のことですもの」
しばらく、沈黙が流れた。
「ティアラ」
「はい」
「その日記、読んでみたいか」
「……どうでしょう」
ティアラの目が、遠くを見た。
「懐かしくもあり、恥ずかしくもありますわ」
「恥ずかしい」
「ええ。あの頃の私は、夢見がちな少女でしたから」
彼女は、苦笑した。
「今とは、全く違いますわ」
「そうか」
ジークハルトは、ゆっくりと起き上がった。
「余は、知りたい」
「何をですか」
「お前の過去だ」
彼は、ティアラの手を取った。
「お前が、どんな日々を過ごしてきたのか。どんな想いを抱えてきたのか」
「陛下」
「余は、今のお前しか知らない」
ジークハルトの瞳が、真剣だった。
「だが、今のお前を作ったのは、過去のお前だ。余は、その全てを知りたい」
ティアラは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「分かりましたわ」
「ティアラ」
「今夜、お話しいたします」
彼女は、彼の手を握り返した。
「私の昔のこと。そして、陛下と初めてお会いした夜のこと」
「初めて会った夜」
「ええ」
ティアラの目が、どこか懐かしげに細められた。
「あの夜のことを、お話しいたしますわ」
(映像終了)
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ 同日 午後6:00】
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フローレンスから、正式な使者が到着した。
フェリックス殿下からの手紙と、同盟締結に関する草案。
そして、一冊の日記。
私は、その日記を皇后殿下にお届けした。
殿下は、それを受け取り、しばらく表紙を見つめていた。
「懐かしいですわ」
彼女は、静かに呟いた。
「この日記を書いていた頃、私はまだ何も知りませんでした」
「殿下」
「愛することの難しさも、裏切られる痛みも。そして、本当の幸せも」
殿下は、日記を胸に抱いた。
「でも、もう大丈夫ですわ」
「大丈夫、ですか」
「ええ」
彼女は、穏やかに笑った。
「今は、陛下がいらっしゃいますから」
私は、何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
皇后殿下は、強い方だ。
どんな過去があっても、それを乗り越えて、今を生きている。
そして、陛下はその全てを受け止めようとしている。
二人の絆は、揺るぎない。
私は、そう確信した。
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【映像ログ016-C 帝国宮殿 中庭 同日 午後7:00】
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送信元:帝国記録局 第一班
映像品質:良好(夕暮れ補正)
配信範囲:帝国内限定
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(映像開始)
中庭。
夕日が、空を橙色に染めていた。
リリィが、一人で佇んでいる。
その手には、一枚の書類があった。
「リリィさん」
声をかけられ、彼女は振り返った。
ハインリヒが、歩み寄ってくる。
「ハインリヒ様」
「その書類は」
「はい」
リリィは、書類を差し出した。
「皇后様から、お仕事をいただきました」
「お仕事」
「はい。帝都で困っている人たちを助ける仕事です」
ハインリヒは、書類に目を通した。
「なるほど。救済事業の補佐官、ですか」
「はい。私に、務まるでしょうか」
「務まりますよ」
ハインリヒは、にこりと笑った。
「皇后殿下がお選びになったのです。間違いはありません」
「……ありがとうございます」
リリィは、深く頭を下げた。
「あの」
「はい」
「ハインリヒ様は、皇后様のことを、どう思っていらっしゃいますか」
ハインリヒは、しばらく考えた。
「恐ろしい方です」
「恐ろしい」
「ええ。そして、優しい方です」
彼は、夕日を見上げた。
「敵を味方に変え、憎しみを感謝に変える。それができる方は、そうはいらっしゃいません」
「……はい」
「でも、最も恐ろしいのは」
ハインリヒは、リリィの方を向いた。
「殿下は、決して油断なさらないことです」
「油断」
「ええ。どんなに有利な状況でも、どんなに平和な日々でも。殿下は、常に次の一手を考えていらっしゃる」
彼は、静かに笑った。
「だからこそ、我々は安心して仕えることができるのです」
リリィは、黙って頷いた。
自分が仕えることになった方が、どれほどの人物なのか。
少しずつ、分かり始めていた。
(映像終了)
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【ヴァルトシュタイン帝国 城下町 掲示板】
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【考察】皇后様の過去が気になる件
41:名無しの帝国民
フローレンスから日記が返却されたらしい
42:名無しの帝国民
日記?
43:名無しの帝国民
皇后様がフローレンスにいた頃の日記
44:名無しの帝国民
アルベルトが持ってたのか
45:名無しの帝国民
気持ち悪いな
46:名無しの帝国民
捨てた元婚約者の日記を保管って
47:名無しの帝国民
アルベルトらしいといえばらしい
48:名無しの帝国民
皇后様、昔はどんな人だったんだろうな
49:名無しの帝国民
今は完璧超人だけど
50:名無しの帝国民
最初からああだったわけじゃないだろ
51:名無しの帝国民
追放されて帝国に来たんだしな
52:名無しの帝国民
その前は普通の令嬢だったのかも
53:名無しの帝国民
アルベルトに騙されてた時期もあったんだろうな
54:名無しの帝国民
想像できない
55:名無しの帝国民
でも、あの女性(リリィ)と同じだって言ってたぞ
56:名無しの帝国民
>>55
マジ?
57:名無しの帝国民
「私も信じていた」って
58:名無しの帝国民
皇后様にもそんな時期があったのか
59:名無しの帝国民
切ない
60:名無しの帝国民
でも今は幸せだからいいだろ
61:名無しの帝国民
陛下に溺愛されてるしな
62:名無しの帝国民
人生大逆転
63:名無しの帝国民
過去編、見てみたいな
64:名無しの帝国民
陛下との出会いとかな
65:名無しの帝国民
絶対ロマンチックだろ
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【極秘ログ──送信者不明】
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記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第二の月 12日 深夜11:59
ファイル名:[解析不能]
送信元:[解析不能]
送信先:[解析不能]
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(音声のみ)
本のページをめくる音。
古い紙の匂いが漂う気配。
「懐かしいですわね」
女の声。
独り言のような、静かな響き。
「この日記を書いていた頃の私は、本当に何も知らなかった」
ページをめくる音が止まる。
「でも、今は違いますわ」
女の声が、少し低くなった。
「リリィさんは、良い駒になるでしょう。いえ、駒ではありませんわね。同志、と呼ぶべきかしら」
くすりと笑う気配。
「彼女はアルベルトに捨てられた。マリアに人生を壊された。私と同じですわ」
立ち上がる気配。
窓辺に歩み寄る足音。
「だからこそ、彼女は私の最も忠実な協力者になる。同じ痛みを知る者同士の絆は、何よりも強いもの」
窓を開ける音。
夜風が入り込む気配。
「救済事業、と名付けましたわ。表向きは慈善活動。でも本当の目的は、帝都に流れ着いたフローレンスの被害者たちを、私の網に取り込むこと」
女の声が、冷たくなった。
「彼らは皆、アルベルトかマリアか、あるいはフローレンスそのものを恨んでいる。その恨みは、いつか私の剣になりますわ」
窓を閉める音。
「ふふ。私は本当に、悪い女ですわね」
振り返る気配。
「でも、構いませんわ。陛下のためなら、私はいくらでも悪女になりますもの」
扉が開く音。
「陛下」
女の声が、ふわりと柔らかくなった。
「まだ起きていらっしゃいましたか」
「待っておった」
低い男の声。
「その日記、読んだか」
「少しだけ」
苦笑する気配。
「恥ずかしくて、とても最後まで読めませんわ」
「どんなことが書いてあった」
「……夢見がちなことばかりですわ」
女の声が、少し揺れた。
「アルベルト様と結婚して、幸せになりたいとか。子供を三人産んで、庭に薔薇を植えたいとか」
「そうか」
「愚かでしょう?」
「いや」
男の声が、優しくなった。
「愚かではない。当然の願いだ」
「陛下」
「お前は、幸せになりたかった。それだけだ」
沈黙。
衣擦れの音。
近づく気配。
「ティアラ」
「はい」
「その願いは、余が叶える」
女の息が、詰まる気配。
「子供を三人でも五人でも、産んでくれ。庭には薔薇でも向日葵でも、好きなだけ植えろ」
「陛下」
「余は、お前の全ての夢を叶える」
衣擦れの音。
抱きしめる気配。
「だから、もう泣くな」
「……泣いて、おりませんわ」
「嘘をつくな」
女の声が、震えていた。
「お前の頬は、濡れている」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、女の声が聞こえた。
「陛下」
「何だ」
「私の昔の話、聞いてくださいますか」
「もちろんだ」
「長くなりますわ」
「構わん」
男の声が、温かくなった。
「お前の話なら、一晩でも聞いていられる」
女が、小さく笑う気配。
「では、お話しいたしますわ」
本を閉じる音。
「私がまだ、何も知らなかった頃のこと」
深く息を吸う音。
「そして、陛下と初めてお会いした、あの舞踏会の夜のこと」
「舞踏会」
「ええ」
女の声が、どこか遠くを見ているようだった。
「あの夜、私は絶望の淵にいましたわ。アルベルト様に裏切られ、全てを失い、国中から悪女と呼ばれて」
「うむ」
「でも、あの夜、私は貴方と出会った」
衣擦れの音。
寄り添う気配。
「あの時、陛下は私に何と仰いましたか」
「覚えている」
男の声が、低くなった。
「『退屈そうだな』と」
「ええ」
女が、くすくすと笑う気配。
「私は、あの言葉に救われましたわ」
「救われた」
「はい。誰もが私を『悪女』『裏切り者』と見ていた中で、陛下だけが違いました」
女の声が、温かくなった。
「陛下は、ただ『退屈そうだな』と。まるで、私の評判など何も知らないかのように」
「知っていた」
「え」
「お前の評判は、知っていた」
男の声が、静かになった。
「だが、興味がなかった」
「興味が」
「噂など、どうでもよかった。余が見たのは、お前自身だ」
沈黙。
「あの夜、お前は美しかった」
男の声が、揺れていた。
「誰もがお前を避ける中、一人で凛と立っていた。その姿が、余の目に焼きついた」
「陛下」
「だから、声をかけた」
抱きしめる力が、強くなる気配。
「そして、余は正しかった」
「正しかった」
「ああ。お前は、余の人生で最も正しい選択だった」
女の息が、震える気配。
「陛下、私」
「言わなくていい」
男の声が、穏やかになった。
「今夜は、お前の話を聞く番だ。続けてくれ」
「……はい」
深呼吸する音。
「では、最初から。私がフローレンスで生まれた日のことから、お話しいたしますわ」
「聞かせよ」
「ええ」
女の声が、物語を紡ぎ始めた。
「私は、公爵家の一人娘として生まれました。両親は、とても愛情深い方々でした」
「うむ」
「でも、8歳の時、両親は流行り病で亡くなりました。私は一人になりました」
男の息が、詰まる気配。
「それから、叔父が後見人になりました。でも、叔父は私よりも、公爵家の財産に興味がありました」
「……続けろ」
「はい。そして、12歳の時、アルベルト王子との婚約が決まりました」
女の声が、少し冷たくなった。
「あの時は、嬉しかったのですわ。王子様と結婚できると。夢のようでした」
「夢」
「ええ。でも、夢は覚めるものですわ」
苦笑する気配。
「17歳になった時、全てが変わりました。マリアという女性が、現れたのです」
「マリア」
「はい。あの方は、本当に天使のようでしたわ。優しくて、美しくて、誰からも愛されて」
沈黙。
「そして、アルベルト様は、彼女に夢中になりました」
「……ティアラ」
「私は、どんどん孤立していきました。王宮での立場も、婚約者としての地位も。全てが、崩れていきました」
女の声が、震えていた。
「でも、私は諦めませんでしたわ。諦められなかった。だって、アルベルト様以外に、頼れる人がいなかったから」
抱きしめる気配。
「もういい」
「陛下」
「今夜は、ここまででいい」
男の声が、優しかった。
「お前は、十分に話してくれた」
「でも、まだ途中で」
「続きは、明日聞く」
衣擦れの音。
「お前は疲れている。今夜は、眠れ」
「……はい」
女の声が、小さくなった。
「ありがとうございます、陛下」
「礼を言うのは、余の方だ」
「え」
「お前の過去を、話してくれた。それだけで、余は嬉しい」
抱きしめる気配。
「おやすみなさいませ、私の陛下」
「ああ。おやすみ、余の妻」
(ログ終了)
(このファイルは自動消去されました)
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ 翌日 午前8:00】
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新婚生活5日目。
陛下は、相変わらず膝枕から動かない。
しかし、今日は少し様子が違った。
陛下の目が、どこか真剣だったのだ。
「ハインリヒ」
「はい」
「皇后の過去について、お前は何か知っているか」
「殿下の、過去ですか」
「ああ。フローレンスにいた頃のことだ」
私は、少し考えた。
「公式記録では、追放される前の詳細は不明です。ただ」
「ただ」
「噂では、かなり辛い日々を過ごされていたと」
「そうか」
陛下は、目を伏せた。
「余は、知らなければならん」
「陛下」
「あの女性の全てを。過去も、現在も、未来も」
その声には、揺るぎない決意があった。
「余は、あの女性の味方だ。永遠に」
私は、深く頷いた。
「畏まりました」
陛下と皇后殿下の絆は、日に日に深まっている。
そして、その絆を深めるために、過去と向き合おうとしている。
これは、記録に残すべき歴史だ。
二人が、どのようにして出会い、どのようにして結ばれたのか。
その全てを、私は記録しなければならない。
記録官として。
そして、彼らの側近として。
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【次回予告】
皇后の過去が、少しずつ明らかになる。
「あの舞踏会の夜、私は死のうと思っていましたわ」
「……何」
「でも、陛下に会って、考えが変わりました」
フローレンスでの日々。
マリアの登場。
そして、運命の舞踏会。
「なぜ、お前は笑っていた」
「笑う以外に、方法がなかったのですわ」
陛下と皇后の出会いの真実が、語られ始める。
「あの夜、余はお前に一目惚れをした」
「……陛下」
「だから、お前を帝国に連れてきたのだ」
過去と現在が交錯する、回想の物語。
第17話「舞踏会の夜は、記録されていなかった」
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【おまけ:帝国宮殿 厨房 同日 深夜】
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深夜の厨房。
料理長が、一人で作業していた。
「皇后殿下のための夜食か」
声をかけられ、振り返る。
財務大臣が、立っていた。
「大臣。こんな時間に」
「眠れなくてな。胃が痛い」
「お察しします」
料理長は、鍋をかき混ぜた。
「ホットミルクを、作っております」
「陛下用か」
「いえ、皇后殿下用です」
「皇后殿下」
「はい。今夜は、陛下と長話をなさっているようで。お体を冷やさないように、と」
財務大臣は、しばらく黙っていた。
「……皇后殿下は、幸せそうか」
「はい」
料理長は、にこりと笑った。
「お二人とも、とても幸せそうですよ」
「そうか」
財務大臣は、窓の外を見た。
「なら、胃痛も我慢できるな」
「大臣も、ホットミルクを飲まれますか」
「……頼む」
二人は、並んでホットミルクを飲んだ。
深夜の厨房に、穏やかな時間が流れていた。
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結婚式典より4日が経過いたしました。
皇帝陛下と皇后殿下は、現在「婚礼後の祝期」中でございます。
つきましては、通常業務につきまして、以下の通りご案内申し上げます。
一、緊急案件:皇后殿下が決裁
二、重要案件:皇后殿下が決裁
三、通常案件:皇后殿下が決裁
四、軽微案件:皇后殿下が決裁
なお、皇帝陛下は「皇后殿下の膝枕」にて公務中でございます。
各省庁におかれましては、書類は全て皇后殿下へご提出ください。
帝国宮廷府
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ 同日 午前9:00】
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結婚式から4日。
帝国は、静かに崩壊しかけていた。
いや、違う。
崩壊しかけているのは、私の胃だ。
陛下が、執務室に来ない。
正確には、来ているのだが、仕事をしない。
皇后殿下の膝の上で、書類を眺めているだけだ。
眺めているだけで、サインをしない。
「陛下」
私は、恐る恐る声をかけた。
「こちらの書類、ご決裁を」
「うむ」
陛下は、視線を上げなかった。
皇后殿下の膝枕から、一歩も動かない。
「陛下」
「聞こえている」
「では、サインを」
「今は無理だ」
「なぜでございましょう」
「手が塞がっている」
私は、陛下の両手を見た。
右手は、皇后殿下の左手を握っている。
左手は、皇后殿下の右手を握っている。
両手で、両手を握っている。
「……陛下」
「何だ」
「どちらかの手を離していただければ」
「嫌だ」
即答だった。
「ティアラの手は、余の両手で守らねばならぬ」
「一本でも守れるかと」
「左右のバランスが崩れる」
「バランス」
「余の愛に、偏りがあってはならぬ」
私は、天を仰いだ。
この国は、どこへ向かっているのだろう。
「陛下」
皇后殿下が、くすりと笑った。
「ハインリヒが困っておりますわ」
「困らせているのではない。守っているのだ」
「何からですか」
「書類の山から」
「……なるほど」
皇后殿下は、陛下の銀髪を優しく撫でた。
「では、私が代わりに決裁いたしますわ」
「そうか」
「ええ。陛下は、そのまま休んでいてくださいませ」
「うむ」
陛下は、目を閉じた。
完全に、皇后殿下に委ねている。
私は、書類の束を皇后殿下に差し出した。
「殿下、こちらを」
「ありがとうございます」
彼女は、片手を陛下から離した。
陛下の眉が、ぴくりと動いた。
「ティアラ」
「お仕事ですわ」
「余の手が冷える」
「すぐに戻しますから」
皇后殿下は、手早く書類に目を通した。
そして、次々とサインを入れていく。
その速度は、陛下の3倍はあった。
「北部の橋梁工事、承認。南部の穀物備蓄、増量を指示。東部の税収報告、確認済み」
書類が、次々と処理されていく。
「商業連合との通商条約改定案、条件付き承認。闘技大会の予算、削減。宮廷料理人の増員、承認」
「殿下」
私は、思わず声を上げた。
「お早いですね」
「慣れましたわ」
彼女は、にこりと笑った。
「陛下の代わりに決裁するのも、4日目ですもの」
4日間。
つまり、結婚式の翌日から。
この国は、実質的に皇后殿下が動かしているのだ。
「はい、終わりましたわ」
書類の束が、私に返された。
「次の分をお持ちください」
「畏まりました」
私は、一礼して執務室を出た。
廊下で、財務大臣と鉢合わせした。
「ハインリヒ殿」
「大臣」
「陛下のご様子は」
「膝枕です」
「また、ですか」
「はい」
財務大臣は、深いため息をついた。
「国政は」
「皇后殿下が動かしております」
「そうですか」
彼は、胃を押さえた。
「我々の胃は」
「限界です」
「そうですか」
二人で、しばらく沈黙した。
「……でも」
財務大臣が、ぽつりと言った。
「陛下が幸せそうなのは、良いことです」
「……ええ」
私も、頷いた。
「あれほど笑う陛下を、初めて見ました」
「ですね」
財務大臣は、遠い目をした。
「先代陛下の頃から仕えておりますが、あの方が心から笑ったのを見たのは、皇后殿下がいらしてからです」
「そうでしたか」
「ええ。だから、まあ」
彼は、苦笑した。
「胃痛くらい、我慢します」
「同感です」
私たちは、胃薬を分け合った。
これが、帝国の日常になりつつあった。
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【映像ログ016-A 帝国宮殿 皇后のサロン 同日 午後2:00】
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送信元:帝国記録局 第一班
映像品質:良好
配信範囲:帝国内限定
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(映像開始)
皇后のサロン。
午後の柔らかな光が、窓から差し込んでいる。
ティアラは、ソファに腰掛けていた。
その向かいには、一人の女性が座っている。
結婚式で救われた、元婚約者候補の女性だ。
彼女は、緊張した面持ちでティアラを見つめていた。
「リラックスしてくださいませ」
ティアラが、穏やかに言った。
「お茶でも、いかが」
「あ、ありがとうございます」
女性は、ぎこちなく頷いた。
侍女が、紅茶を運んでくる。
二人の間に、しばしの沈黙が流れた。
「あの」
女性が、口を開いた。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「何がですか」
「私のような者が、皇后様にお目通りするなど」
彼女の声は、震えていた。
「私は、結婚式を台無しにしようとした女です。本来なら、牢に入れられても文句は言えません」
「まあ」
ティアラは、首を傾げた。
「台無しになどなっておりませんわ」
「え」
「むしろ、おかげで素敵な式になりました」
ティアラは、にこりと笑った。
「フェリックス殿下との和解も進みましたし、陛下の評判も上がりましたわ。感謝しておりますの」
「感謝」
女性は、目を丸くした。
「私に、感謝を」
「ええ」
ティアラは、紅茶を一口飲んだ。
「それで、今日はどのようなご用件でしょう」
「あ、はい」
女性は、姿勢を正した。
「皇后様に、恩返しがしたいのです」
「恩返し」
「はい。借金を肩代わりしていただいて、新しい生活の場まで与えていただいて。私は、何もお返しできておりません」
彼女の目には、真剣な光があった。
「何でもいたします。掃除でも、洗濯でも。皇后様のお役に立ちたいのです」
ティアラは、しばらく彼女を見つめていた。
その翠色の瞳が、何かを見定めるように細められた。
「お名前を、教えていただけますか」
「リリィと申します」
「リリィさん」
ティアラは、ゆっくりと頷いた。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何でしょう」
「アルベルトのこと、最初から疑っていらっしゃいましたか」
リリィの顔が、わずかに曇った。
「……いいえ」
彼女は、視線を落とした。
「最初は、信じておりました。あの方は、優しくて、気さくで。私のような身分の低い者にも、分け隔てなく接してくださいました」
「そうですか」
「でも、いつからか、変わりました。急に冷たくなって。他の女性と親しくするようになって」
リリィの声が、震えた。
「そして、ある日突然、『もう用はない』と」
「辛かったでしょう」
「はい」
彼女は、こくりと頷いた。
「でも、皇后様の方がずっとお辛かったはずです。国中から悪女と呼ばれて、命まで狙われて」
「いいえ」
ティアラは、首を横に振った。
「私には、陛下がいらっしゃいましたから」
「陛下が」
「ええ」
ティアラの目が、遠くを見た。
「あの方がいなければ、私は今頃、野垂れ死にでもしていたでしょうね」
「……皇后様」
「リリィさん」
ティアラは、彼女の方を向いた。
「貴女は、アルベルトのことを『最初は信じていた』と仰いました。私も、同じでしたわ」
「え」
「最初は、信じていたのです」
ティアラの声が、少し低くなった。
「あの方が、本当に私を愛してくれていると。私たちは、幸せになれると」
リリィは、息を呑んだ。
「でも、現実は違いました」
ティアラは、紅茶のカップを見つめた。
「彼は、最初から私を利用するつもりだった。公爵家の財産と、魔導通信技術。それが目当てでした」
「そんな」
「分かっていたはずでしたのに」
ティアラは、かすかに笑った。
「私は、馬鹿でしたわ。あの頃は」
沈黙が、サロンを包んだ。
リリィは、何も言えなかった。
目の前の皇后が、かつて自分と同じ苦しみを味わっていたことに、言葉を失っていた。
「リリィさん」
ティアラが、静かに言った。
「恩返しがしたいと、仰いましたね」
「は、はい」
「では、一つ、お願いがありますわ」
ティアラは、立ち上がった。
そして、窓辺に歩み寄った。
「帝都には、私と同じように傷ついた者たちがいます」
「傷ついた者たち」
「ええ。アルベルトに捨てられた者。マリアに陥れられた者。フローレンスに故郷を追われた者」
ティアラは、振り返った。
「彼らを、助けてあげてほしいのです」
「私が、ですか」
「ええ。貴女なら、彼らの気持ちが分かるでしょう。同じ痛みを知っているからこそ、寄り添えることがあります」
リリィは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「皇后様」
「はい」
「私に、できるでしょうか」
「できますわ」
ティアラは、穏やかに微笑んだ。
「貴女は、強い方です。あれだけの絶望から、ここまで来たのですから」
リリィの目に、涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
「いいえ」
ティアラは、彼女の手を取った。
「これから、よろしくお願いいたしますわ。リリィさん」
「はい」
リリィは、深く頭を下げた。
「皇后様のために、全力を尽くします」
(映像終了)
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【ヴァルトシュタイン帝国 城下町 掲示板】
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【速報】陛下、膝枕がないと書類にサインできない体になる
1:名無しの帝国民
結婚式から4日
2:名無しの帝国民
陛下が執務室に来ないらしい
3:名無しの帝国民
来てはいる
4:名無しの帝国民
来てるのか
5:名無しの帝国民
皇后様の膝の上で
6:名無しの帝国民
仕事しろ
7:名無しの帝国民
国が回らないだろ
8:名無しの帝国民
それが回ってるんだよな
9:名無しの帝国民
>>8
え
10:名無しの帝国民
皇后様が全部やってる
11:名無しの帝国民
は?
12:名無しの帝国民
陛下の代わりに決裁してる
13:名無しの帝国民
有能すぎないか
14:名無しの帝国民
帝国、実質皇后様が動かしてる説
15:名無しの帝国民
否定できない
16:名無しの帝国民
陛下は何してるんだ
17:名無しの帝国民
膝枕
18:名無しの帝国民
それだけ?
19:名無しの帝国民
あとは皇后様の手を握ってる
20:名無しの帝国民
両手で
21:名無しの帝国民
両手で?
22:名無しの帝国民
左右のバランスが崩れるらしい
23:名無しの帝国民
何のバランスだよ
24:名無しの帝国民
愛のバランス
25:名無しの帝国民
知らんわ
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【皇后様、元婚約者候補を救済】
26:名無しの帝国民
結婚式で乱入してきた女性いたよな
27:名無しの帝国民
いた
28:名無しの帝国民
あの人どうなったんだ
29:名無しの帝国民
皇后様に仕えることになったらしい
30:名無しの帝国民
マジ?
31:名無しの帝国民
恩返しがしたいって
32:名無しの帝国民
いい話じゃん
33:名無しの帝国民
アルベルトに捨てられた者同士か
34:名無しの帝国民
皇后様も昔は苦労したんだろうな
35:名無しの帝国民
でも今は幸せそう
36:名無しの帝国民
陛下に溺愛されてるしな
37:名無しの帝国民
勝ち組
38:名無しの帝国民
最強の逆転劇
39:名無しの帝国民
アルベルトざまぁ
40:名無しの帝国民
「隠遁」してるからセーフ
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【映像ログ016-B 帝国宮殿 執務室 同日 午後4:00】
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送信元:帝国記録局 第一班
映像品質:良好
配信範囲:帝国内限定
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(映像開始)
執務室。
ジークハルトは、相変わらずティアラの膝の上にいた。
ただし、今は目を開けている。
手には、一通の書状があった。
「フローレンスからの使者が来ている」
ジークハルトが、低く言った。
「フェリックスからの手紙だ」
「まあ、そうですか」
ティアラは、書状を受け取った。
封を開け、中身を読み始める。
その表情が、わずかに変わった。
「どうした」
「……いえ」
彼女は、かすかに笑った。
「懐かしいものが見つかったようですわ」
「懐かしいもの」
「ええ」
ティアラは、手紙を読み上げた。
「『皇后殿下へ。同盟の件、順調に進めております。ところで、兄の部屋から貴女の日記が見つかりました。私信につき、返却いたします。使者に託しましたので、ご査収ください』」
「日記」
ジークハルトの目が、鋭くなった。
「お前の日記を、アルベルトが持っていたのか」
「のようですわね」
「なぜだ」
「さあ」
ティアラは、肩をすくめた。
「私がフローレンスを発つ時、置いていったものでしょう。まさか、あの方が保管しているとは思いませんでしたけれど」
「読まれたのか」
「おそらく」
ジークハルトの表情が、冷たくなった。
「気に入らんな」
「陛下」
「お前の私的な記録を、あの男が読んでいたというのか」
氷が、床に広がり始めた。
「許せん」
「陛下、落ち着いてくださいませ」
ティアラは、彼の頬に手を添えた。
「もう、過去のことですわ」
「しかし」
「それに」
彼女は、くすりと笑った。
「今は、陛下が私の全てをご存知ですもの。日記の中身など、取るに足りませんわ」
ジークハルトの表情が、わずかに和らいだ。
「……そうか」
「ええ」
「お前の全て、か」
「はい」
ティアラは、彼の銀髪を撫でた。
「陛下は、私の過去も、現在も、未来も、全てをお持ちですわ」
ジークハルトは、目を閉じた。
「嬉しいことを言う」
「本当のことですもの」
しばらく、沈黙が流れた。
「ティアラ」
「はい」
「その日記、読んでみたいか」
「……どうでしょう」
ティアラの目が、遠くを見た。
「懐かしくもあり、恥ずかしくもありますわ」
「恥ずかしい」
「ええ。あの頃の私は、夢見がちな少女でしたから」
彼女は、苦笑した。
「今とは、全く違いますわ」
「そうか」
ジークハルトは、ゆっくりと起き上がった。
「余は、知りたい」
「何をですか」
「お前の過去だ」
彼は、ティアラの手を取った。
「お前が、どんな日々を過ごしてきたのか。どんな想いを抱えてきたのか」
「陛下」
「余は、今のお前しか知らない」
ジークハルトの瞳が、真剣だった。
「だが、今のお前を作ったのは、過去のお前だ。余は、その全てを知りたい」
ティアラは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「分かりましたわ」
「ティアラ」
「今夜、お話しいたします」
彼女は、彼の手を握り返した。
「私の昔のこと。そして、陛下と初めてお会いした夜のこと」
「初めて会った夜」
「ええ」
ティアラの目が、どこか懐かしげに細められた。
「あの夜のことを、お話しいたしますわ」
(映像終了)
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【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ 同日 午後6:00】
-----
フローレンスから、正式な使者が到着した。
フェリックス殿下からの手紙と、同盟締結に関する草案。
そして、一冊の日記。
私は、その日記を皇后殿下にお届けした。
殿下は、それを受け取り、しばらく表紙を見つめていた。
「懐かしいですわ」
彼女は、静かに呟いた。
「この日記を書いていた頃、私はまだ何も知りませんでした」
「殿下」
「愛することの難しさも、裏切られる痛みも。そして、本当の幸せも」
殿下は、日記を胸に抱いた。
「でも、もう大丈夫ですわ」
「大丈夫、ですか」
「ええ」
彼女は、穏やかに笑った。
「今は、陛下がいらっしゃいますから」
私は、何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
皇后殿下は、強い方だ。
どんな過去があっても、それを乗り越えて、今を生きている。
そして、陛下はその全てを受け止めようとしている。
二人の絆は、揺るぎない。
私は、そう確信した。
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【映像ログ016-C 帝国宮殿 中庭 同日 午後7:00】
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送信元:帝国記録局 第一班
映像品質:良好(夕暮れ補正)
配信範囲:帝国内限定
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(映像開始)
中庭。
夕日が、空を橙色に染めていた。
リリィが、一人で佇んでいる。
その手には、一枚の書類があった。
「リリィさん」
声をかけられ、彼女は振り返った。
ハインリヒが、歩み寄ってくる。
「ハインリヒ様」
「その書類は」
「はい」
リリィは、書類を差し出した。
「皇后様から、お仕事をいただきました」
「お仕事」
「はい。帝都で困っている人たちを助ける仕事です」
ハインリヒは、書類に目を通した。
「なるほど。救済事業の補佐官、ですか」
「はい。私に、務まるでしょうか」
「務まりますよ」
ハインリヒは、にこりと笑った。
「皇后殿下がお選びになったのです。間違いはありません」
「……ありがとうございます」
リリィは、深く頭を下げた。
「あの」
「はい」
「ハインリヒ様は、皇后様のことを、どう思っていらっしゃいますか」
ハインリヒは、しばらく考えた。
「恐ろしい方です」
「恐ろしい」
「ええ。そして、優しい方です」
彼は、夕日を見上げた。
「敵を味方に変え、憎しみを感謝に変える。それができる方は、そうはいらっしゃいません」
「……はい」
「でも、最も恐ろしいのは」
ハインリヒは、リリィの方を向いた。
「殿下は、決して油断なさらないことです」
「油断」
「ええ。どんなに有利な状況でも、どんなに平和な日々でも。殿下は、常に次の一手を考えていらっしゃる」
彼は、静かに笑った。
「だからこそ、我々は安心して仕えることができるのです」
リリィは、黙って頷いた。
自分が仕えることになった方が、どれほどの人物なのか。
少しずつ、分かり始めていた。
(映像終了)
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【ヴァルトシュタイン帝国 城下町 掲示板】
-----
【考察】皇后様の過去が気になる件
41:名無しの帝国民
フローレンスから日記が返却されたらしい
42:名無しの帝国民
日記?
43:名無しの帝国民
皇后様がフローレンスにいた頃の日記
44:名無しの帝国民
アルベルトが持ってたのか
45:名無しの帝国民
気持ち悪いな
46:名無しの帝国民
捨てた元婚約者の日記を保管って
47:名無しの帝国民
アルベルトらしいといえばらしい
48:名無しの帝国民
皇后様、昔はどんな人だったんだろうな
49:名無しの帝国民
今は完璧超人だけど
50:名無しの帝国民
最初からああだったわけじゃないだろ
51:名無しの帝国民
追放されて帝国に来たんだしな
52:名無しの帝国民
その前は普通の令嬢だったのかも
53:名無しの帝国民
アルベルトに騙されてた時期もあったんだろうな
54:名無しの帝国民
想像できない
55:名無しの帝国民
でも、あの女性(リリィ)と同じだって言ってたぞ
56:名無しの帝国民
>>55
マジ?
57:名無しの帝国民
「私も信じていた」って
58:名無しの帝国民
皇后様にもそんな時期があったのか
59:名無しの帝国民
切ない
60:名無しの帝国民
でも今は幸せだからいいだろ
61:名無しの帝国民
陛下に溺愛されてるしな
62:名無しの帝国民
人生大逆転
63:名無しの帝国民
過去編、見てみたいな
64:名無しの帝国民
陛下との出会いとかな
65:名無しの帝国民
絶対ロマンチックだろ
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【極秘ログ──送信者不明】
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記録日時:帝国歴四〇三年 冬 第二の月 12日 深夜11:59
ファイル名:[解析不能]
送信元:[解析不能]
送信先:[解析不能]
-----
(音声のみ)
本のページをめくる音。
古い紙の匂いが漂う気配。
「懐かしいですわね」
女の声。
独り言のような、静かな響き。
「この日記を書いていた頃の私は、本当に何も知らなかった」
ページをめくる音が止まる。
「でも、今は違いますわ」
女の声が、少し低くなった。
「リリィさんは、良い駒になるでしょう。いえ、駒ではありませんわね。同志、と呼ぶべきかしら」
くすりと笑う気配。
「彼女はアルベルトに捨てられた。マリアに人生を壊された。私と同じですわ」
立ち上がる気配。
窓辺に歩み寄る足音。
「だからこそ、彼女は私の最も忠実な協力者になる。同じ痛みを知る者同士の絆は、何よりも強いもの」
窓を開ける音。
夜風が入り込む気配。
「救済事業、と名付けましたわ。表向きは慈善活動。でも本当の目的は、帝都に流れ着いたフローレンスの被害者たちを、私の網に取り込むこと」
女の声が、冷たくなった。
「彼らは皆、アルベルトかマリアか、あるいはフローレンスそのものを恨んでいる。その恨みは、いつか私の剣になりますわ」
窓を閉める音。
「ふふ。私は本当に、悪い女ですわね」
振り返る気配。
「でも、構いませんわ。陛下のためなら、私はいくらでも悪女になりますもの」
扉が開く音。
「陛下」
女の声が、ふわりと柔らかくなった。
「まだ起きていらっしゃいましたか」
「待っておった」
低い男の声。
「その日記、読んだか」
「少しだけ」
苦笑する気配。
「恥ずかしくて、とても最後まで読めませんわ」
「どんなことが書いてあった」
「……夢見がちなことばかりですわ」
女の声が、少し揺れた。
「アルベルト様と結婚して、幸せになりたいとか。子供を三人産んで、庭に薔薇を植えたいとか」
「そうか」
「愚かでしょう?」
「いや」
男の声が、優しくなった。
「愚かではない。当然の願いだ」
「陛下」
「お前は、幸せになりたかった。それだけだ」
沈黙。
衣擦れの音。
近づく気配。
「ティアラ」
「はい」
「その願いは、余が叶える」
女の息が、詰まる気配。
「子供を三人でも五人でも、産んでくれ。庭には薔薇でも向日葵でも、好きなだけ植えろ」
「陛下」
「余は、お前の全ての夢を叶える」
衣擦れの音。
抱きしめる気配。
「だから、もう泣くな」
「……泣いて、おりませんわ」
「嘘をつくな」
女の声が、震えていた。
「お前の頬は、濡れている」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、女の声が聞こえた。
「陛下」
「何だ」
「私の昔の話、聞いてくださいますか」
「もちろんだ」
「長くなりますわ」
「構わん」
男の声が、温かくなった。
「お前の話なら、一晩でも聞いていられる」
女が、小さく笑う気配。
「では、お話しいたしますわ」
本を閉じる音。
「私がまだ、何も知らなかった頃のこと」
深く息を吸う音。
「そして、陛下と初めてお会いした、あの舞踏会の夜のこと」
「舞踏会」
「ええ」
女の声が、どこか遠くを見ているようだった。
「あの夜、私は絶望の淵にいましたわ。アルベルト様に裏切られ、全てを失い、国中から悪女と呼ばれて」
「うむ」
「でも、あの夜、私は貴方と出会った」
衣擦れの音。
寄り添う気配。
「あの時、陛下は私に何と仰いましたか」
「覚えている」
男の声が、低くなった。
「『退屈そうだな』と」
「ええ」
女が、くすくすと笑う気配。
「私は、あの言葉に救われましたわ」
「救われた」
「はい。誰もが私を『悪女』『裏切り者』と見ていた中で、陛下だけが違いました」
女の声が、温かくなった。
「陛下は、ただ『退屈そうだな』と。まるで、私の評判など何も知らないかのように」
「知っていた」
「え」
「お前の評判は、知っていた」
男の声が、静かになった。
「だが、興味がなかった」
「興味が」
「噂など、どうでもよかった。余が見たのは、お前自身だ」
沈黙。
「あの夜、お前は美しかった」
男の声が、揺れていた。
「誰もがお前を避ける中、一人で凛と立っていた。その姿が、余の目に焼きついた」
「陛下」
「だから、声をかけた」
抱きしめる力が、強くなる気配。
「そして、余は正しかった」
「正しかった」
「ああ。お前は、余の人生で最も正しい選択だった」
女の息が、震える気配。
「陛下、私」
「言わなくていい」
男の声が、穏やかになった。
「今夜は、お前の話を聞く番だ。続けてくれ」
「……はい」
深呼吸する音。
「では、最初から。私がフローレンスで生まれた日のことから、お話しいたしますわ」
「聞かせよ」
「ええ」
女の声が、物語を紡ぎ始めた。
「私は、公爵家の一人娘として生まれました。両親は、とても愛情深い方々でした」
「うむ」
「でも、8歳の時、両親は流行り病で亡くなりました。私は一人になりました」
男の息が、詰まる気配。
「それから、叔父が後見人になりました。でも、叔父は私よりも、公爵家の財産に興味がありました」
「……続けろ」
「はい。そして、12歳の時、アルベルト王子との婚約が決まりました」
女の声が、少し冷たくなった。
「あの時は、嬉しかったのですわ。王子様と結婚できると。夢のようでした」
「夢」
「ええ。でも、夢は覚めるものですわ」
苦笑する気配。
「17歳になった時、全てが変わりました。マリアという女性が、現れたのです」
「マリア」
「はい。あの方は、本当に天使のようでしたわ。優しくて、美しくて、誰からも愛されて」
沈黙。
「そして、アルベルト様は、彼女に夢中になりました」
「……ティアラ」
「私は、どんどん孤立していきました。王宮での立場も、婚約者としての地位も。全てが、崩れていきました」
女の声が、震えていた。
「でも、私は諦めませんでしたわ。諦められなかった。だって、アルベルト様以外に、頼れる人がいなかったから」
抱きしめる気配。
「もういい」
「陛下」
「今夜は、ここまででいい」
男の声が、優しかった。
「お前は、十分に話してくれた」
「でも、まだ途中で」
「続きは、明日聞く」
衣擦れの音。
「お前は疲れている。今夜は、眠れ」
「……はい」
女の声が、小さくなった。
「ありがとうございます、陛下」
「礼を言うのは、余の方だ」
「え」
「お前の過去を、話してくれた。それだけで、余は嬉しい」
抱きしめる気配。
「おやすみなさいませ、私の陛下」
「ああ。おやすみ、余の妻」
(ログ終了)
(このファイルは自動消去されました)
-----
【帝国記録官 ハインリヒの私的メモ 翌日 午前8:00】
-----
新婚生活5日目。
陛下は、相変わらず膝枕から動かない。
しかし、今日は少し様子が違った。
陛下の目が、どこか真剣だったのだ。
「ハインリヒ」
「はい」
「皇后の過去について、お前は何か知っているか」
「殿下の、過去ですか」
「ああ。フローレンスにいた頃のことだ」
私は、少し考えた。
「公式記録では、追放される前の詳細は不明です。ただ」
「ただ」
「噂では、かなり辛い日々を過ごされていたと」
「そうか」
陛下は、目を伏せた。
「余は、知らなければならん」
「陛下」
「あの女性の全てを。過去も、現在も、未来も」
その声には、揺るぎない決意があった。
「余は、あの女性の味方だ。永遠に」
私は、深く頷いた。
「畏まりました」
陛下と皇后殿下の絆は、日に日に深まっている。
そして、その絆を深めるために、過去と向き合おうとしている。
これは、記録に残すべき歴史だ。
二人が、どのようにして出会い、どのようにして結ばれたのか。
その全てを、私は記録しなければならない。
記録官として。
そして、彼らの側近として。
-----
【次回予告】
皇后の過去が、少しずつ明らかになる。
「あの舞踏会の夜、私は死のうと思っていましたわ」
「……何」
「でも、陛下に会って、考えが変わりました」
フローレンスでの日々。
マリアの登場。
そして、運命の舞踏会。
「なぜ、お前は笑っていた」
「笑う以外に、方法がなかったのですわ」
陛下と皇后の出会いの真実が、語られ始める。
「あの夜、余はお前に一目惚れをした」
「……陛下」
「だから、お前を帝国に連れてきたのだ」
過去と現在が交錯する、回想の物語。
第17話「舞踏会の夜は、記録されていなかった」
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【おまけ:帝国宮殿 厨房 同日 深夜】
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深夜の厨房。
料理長が、一人で作業していた。
「皇后殿下のための夜食か」
声をかけられ、振り返る。
財務大臣が、立っていた。
「大臣。こんな時間に」
「眠れなくてな。胃が痛い」
「お察しします」
料理長は、鍋をかき混ぜた。
「ホットミルクを、作っております」
「陛下用か」
「いえ、皇后殿下用です」
「皇后殿下」
「はい。今夜は、陛下と長話をなさっているようで。お体を冷やさないように、と」
財務大臣は、しばらく黙っていた。
「……皇后殿下は、幸せそうか」
「はい」
料理長は、にこりと笑った。
「お二人とも、とても幸せそうですよ」
「そうか」
財務大臣は、窓の外を見た。
「なら、胃痛も我慢できるな」
「大臣も、ホットミルクを飲まれますか」
「……頼む」
二人は、並んでホットミルクを飲んだ。
深夜の厨房に、穏やかな時間が流れていた。
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