【完結】冷たい王に捨てられた私は、海峡の街で薫り高く生きる

チャビューヘ

文字の大きさ
5 / 20

第5話:花の使者

しおりを挟む
 一週間後。

 フィオーレ商会の店先には、朝から客が絶えなかった。

「この香油、本当に頭が軽くなるわ!」

 洗濯女が笑顔で小瓶を三本買っていく。

「仕事の疲れが取れる気がする」

 商人が「海峡の香り」

 シリーズを手に取った。

 リリアーナは一人ひとりに丁寧に包装を渡す。

 市場の喧騒が心地よい。商人の呼び込む声、子どもの笑い声、焼きたてパンの香ばしい匂い。

 父フランチェスコが嬉しそうに頷いている。

「リリアーナ、お前の読みは正しかった」

「ありがとうございます、父上」

 この瞬間が好きだった。

 自分の技術が人を助けている実感。前世では想像もできなかった、この平和な日常。

 ここが、私の居場所――

「フィオーレ商会の方はいらっしゃいますか」

 凛とした声が響いた。

 振り向くと、領主家の紋章を胸につけた若い使者が立っていた。

 リリアーナの動きが止まる。

「領主ダミアーノ様より、ご招待です」

 使者が羊皮紙を差し出した。

 金と青の紋章――領主家の印章。

 その瞬間、心臓が跳ねた。

 リリアーナは羊皮紙を受け取る。

 指先が微かに震えている。

「一週間後、領主館での宴にて、香りの演出をお願いしたいとのことです」

「……承知しました」

 声が、自分のものではないように聞こえた。

 使者が去る。

 周囲は相変わらず賑やかだ。

 でも、リリアーナの耳には遠くに聞こえる。

 羊皮紙を見つめる。金と青の紋章。

 胸が、締め付けられる。

 その夜、リリアーナは眠れなかった。

 寝台に横たわっても、目が冴えている。

 心臓が速く打っている。理由もなく。

 いや、理由はある。

 領主館――宴――大広間――

 記憶が押し寄せる。

 前世の王宮。大広間。儀式用の重い衣装。

 夫レオナルドは隣にいても、一度も視線を合わせなかった。

「王妃は飾り。美しく立っていればいい」

 貴族たちの視線。嘲笑。哀れみ。

「子も産めない役立たず」

 誰かの囁きが聞こえた。

 広間は広すぎた。逃げ場がなかった。

 息が苦しかった。笑顔を作り続けた。

 あの夜、部屋に戻って――

 リリアーナは目を開けた。

 額に冷や汗。

 ここは王宮ではない。フィオーレ商会の自室。

 今は違う。私はリリアーナ。誰の所有物でもない。

 そう自分に言い聞かせる。

 でも、動悸は止まらなかった。

 工房に降りた。

 鎮静作用のあるラベンダーとカモミールの小瓶を手に取る。

 栓を抜いて、深く吸い込む。

 一呼吸。二呼吸。

 柔らかな紫の香り。

 三呼吸目で、ほんの少しだけ、胸の締め付けが緩んだ。

 完全には消えない。でも、少しは楽になる。

 月明かりが工房に差し込んでいた。

「大丈夫……今は違う……」

 震える手で、小瓶を握りしめる。

 翌日、気分転換に市場を歩いた。

 でも、いつもの活気が今日は少し重い。

 商人の声が大きく聞こえる。群衆が多く感じる。

 リリアーナは深呼吸した。

 大丈夫。ここは安全。

 そう自分に言い聞かせながら、歩く。

「やあ、香料商の娘さん」

 聞き覚えのある声。

 振り向くと――あの人。

 市場で香油を買ってくれた、変装した男性。

 今日も質素な服装だが、どこか品がある。

「あなたは……」

「また香りを買いに来た」

 彼は微笑んだ。「あれから、毎日使っている」

 リリアーナの緊張が、少しだけ和らぐ。

 この人の微笑みは……優しい。

「ありがとうございます」

 彼はリリアーナの表情を見て、首を傾げた。

「何か、お悩みですか? 少し、顔色が……」

 リリアーナは一瞬迷った。

 でも、不思議と、この人には話せる気がした。

「実は……領主館での依頼を受けることになったのですが」

 声が小さくなる。

「大きな宴の場というのが……少し……」

「ああ、人が多い場所が苦手なのか」

 彼の声は穏やかだった。

「ええ。昔……辛い思い出があって」

 それ以上は言えなかった。

 彼は少し考えてから、静かに言った。

「なら、こう考えては?」

 彼の青い瞳が真っ直ぐにリリアーナを見る。

「宴の主役は貴族たちじゃない。君の作る『香り』

 だ」

 リリアーナの目が見開かれる。

「香りに語らせればいい」

 彼は続けた。

「君の香りは言葉以上に雄弁だ。あの『海峡の香り』

 のように」

 その言葉が、胸に染み入った。

 香りに、語らせる――

 そうだ。

 私が直接語る必要はない。

 私の香りが、代わりに語ってくれる。

 前世で失った声を、今は香りで取り戻せる。

「ありがとうございます」

 リリアーナは心から微笑んだ。

「その通りですね。私は、私の香りを通じて語ればいい」

 彼も微笑み返す。

「宴、成功を祈っている」

 去り際、リリアーナが尋ねた。

「あの……お名前を伺っても?」

 彼は一瞬迷い、「ダミアンとでも呼んでくれ」

 と答えた。

 工房に戻ったリリアーナは、新しい香りの構想を練り始めた。

 宴のための、特別な香り。

 不安はまだある。心臓はまだ時々速く打つ。

 でも――あの人の言葉が、支えになる。

 香りに語らせる。

 そうだ。私は香りの言葉で、もう一度世界に語りかけよう。

 作業台に並ぶ小瓶。

 柑橘、ハーブ、フローラル、ウッディ。

 これらを組み合わせて、物語を作る。

 歓迎の香り。食事の香り。夜の語らいの香り。

 三段階に変化する演出。

 前世では決して持てなかった――誰かの優しい励まし。

 それが、こんなにも心を軽くしてくれる。

 窓の外、夕陽が海峡を照らしている。

 リリアーナは小瓶を一つ手に取った。

 ラベンダー、カモミール、そして微かな柑橘。

 今日出会ったあの人を思い出す香り。

 優しさと、希望の香り。

「私の再生は、まだ始まったばかり」

 呟いて、リリアーナは微笑んだ。

 翌朝、父が驚いた顔で工房に入ってきた。

「リリアーナ、これは……」

 作業台には、十種類以上の試作品が並んでいた。

「宴の構想です」

 リリアーナは目を輝かせて説明する。

「時間の流れに合わせて、香りを三段階に変化させます」

 父は一つ一つ嗅いで、感嘆の息を漏らした。

「素晴らしい……お前の母もきっと喜ぶ」

 その言葉が、リリアーナの胸を温かくした。

 不安は消えていない。

 宴の日が近づくたび、心臓は騒ぐ。

 でも――今は一人じゃない。

 父がいる。番頭たちがいる。

 そして、あの優しい言葉をくれた人がいる。

 香りがある。技術がある。

 何より――自分の意志がある。

 リリアーナは窓の外を見た。

 海峡を行き交う船。東と西をつなぐ、この街。

 そして自分は、過去と未来をつなぐ。

 小瓶の中の香りが、朝日を受けて輝いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します

スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」 眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。 隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。 エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。 しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。 彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。 「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」 裏切りへのカウントダウンが今、始まる。 スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!

婚約者は冷酷宰相様。地味令嬢の私が政略結婚で嫁いだら、なぜか激甘溺愛が待っていました

春夜夢
恋愛
私はずっと「誰にも注目されない地味令嬢」だった。 名門とはいえ没落しかけの伯爵家の次女。 姉は美貌と才覚に恵まれ、私はただの飾り物のような存在。 ――そんな私に突然、王宮から「婚約命令」が下った。 相手は、王の右腕にして恐れられる冷酷宰相・ルシアス=ディエンツ公爵。 40を目前にしながら独身を貫き、感情を一切表に出さない男。 (……なぜ私が?) けれど、その婚約は国を揺るがす「ある計画」の始まりだった。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

お飾り王妃の愛と献身

石河 翠
恋愛
エスターは、お飾りの王妃だ。初夜どころか結婚式もない、王国存続の生贄のような結婚は、父親である宰相によって調えられた。国王は身分の低い平民に溺れ、公務を放棄している。 けれどエスターは白い結婚を隠しもせずに、王の代わりに執務を続けている。彼女にとって大切なものは国であり、夫の愛情など必要としていなかったのだ。 ところがある日、暗愚だが無害だった国王の独断により、隣国への侵攻が始まる。それをきっかけに国内では革命が起き……。 国のために恋を捨て、人生を捧げてきたヒロインと、王妃を密かに愛し、彼女を手に入れるために国を変えることを決意した一途なヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は他サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:24963620)をお借りしております。

僕は君を思うと吐き気がする

月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】

iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。 小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。 両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。 両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。 しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。 魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。 自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。 一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。 初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。 恋人になりたいが、年上で雇い主。 もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。 そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。 そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。 レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか? 両片思いのすれ違いのお話です。

処理中です...