【完結】冷たい王に捨てられた私は、海峡の街で薫り高く生きる

チャビューヘ

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第6話:月夜の調香

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 領主館の大広間は、リリアーナが想像していたよりも遥かに広かった。

 天井は三階分の高さがあり、壁には東方の絹織物と西方の紋章が並んで飾られている。

 リリアーナの指先が、無意識に香油の小瓶に触れた。

 大丈夫。今は違う。

 そう自分に言い聞かせても、心臓は速く打っている。

「リリアーナ」

 父フランチェスコの声が、すぐ隣から聞こえた。

「ここにいる」

 その言葉だけで、胸の締め付けが少し緩んだ。

 番頭のマルコも反対側に立っている。

「お嬢様なら、必ずできます」

 マルコが小さく頷いた。

 リリアーナは深く息を吸った。

 香炉の配置を確認する。四隅に、真鍮製の固定式香炉。

 炭は既に温められている。

 あとは、時間に合わせて香料を加えるだけ。

「始めましょう」

 正午、客人たちが広間に入り始めた。

 東方の使節団は鮮やかな絹の衣装。西方の商人たちは重厚な毛織物。

 リリアーナは最初の香炉に、柑橘の皮とラベンダーの束を置いた。

 炭の熱で、香りがゆっくりと立ち上る。

 レモンの清冽さ。ラベンダーの優しさ。

 それが溶け合って、初夏の庭園のような透明な空気を作る。

 東方の使節の一人が、驚いたように顔を上げた。

「これは……故郷の朝の香りだ」

 その言葉を聞いて、リリアーナの肩から力が抜けた。

 伝わっている。

 父が遠くから親指を立てて見せた。

 リリアーナは小さく微笑み返した。

 午後、料理が運ばれ始める。

 リリアーナは給仕たちに合図を送った。

 彼らは四隅の香炉に、新しい香料を加える。

 シナモンの粉末。クローブの蕾。生姜の欠片。

 甘く刺激的な煙が、天井に向かって渦を巻いた。

 やがて広間全体が、温かな琥珀色の香りで満たされる。

 西方の商人が、満足そうに息を吐いた。

「素晴らしい。食欲が増す」

 料理が運ばれる度に、香りが変化する。

 スパイスの濃淡が、食事のリズムに寄り添っていく。

 リリアーナは壁際に立ったまま、広間を見渡した。

 人々の笑顔。談笑する声。

 前世の王宮とは、何もかもが違う。

 あそこでは、自分は透明人間だった。

 でも、ここでは——

「素晴らしい演出だ」

 隣に立っていた番頭が囁いた。

「お嬢様の香りが、皆を幸せにしています」

 リリアーナの目が、少し潤んだ。

 夕暮れ。

 宴は最後の段階に入った。

 リリアーナは給仕たちに、最後の指示を出す。

 スパイスの香料を取り除き、白檀のチップとバラの花びらを。

 重複する時間を作る。古い香りが消える前に、新しい香りを。

 やがて、広間の空気が変わり始めた。

 スパイスの鋭さが薄れ、その奥から別の何かが浮かび上がる。

 白檀の丸みを帯びた温もり。

 バラの、深く官能的な甘さ。

 燭台の炎が揺れる度、煙が金色の筋となって見える。

 会場が、静かになった。

 誰もが、その香りに包まれている。

 東方の使節が目を閉じた。

「これは……母が身につけていた香り……」

 西方の商人も、何かを思い出すように遠くを見つめている。

 領主ダミアーノが立ち上がった。

「皆様、本日の宴を彩ってくれた香りは、我が街の香料商、フィオーレ商会のリリアーナ嬢によるものです」

 拍手が広間を満たした。

 リリアーナは深くお辞儀をした。

 顔が熱い。でも、嬉しかった。

 宴が終わり、客人たちが帰り始める。

 リリアーナは香炉の片付けを指示していた。

 その時、領主家の使用人が近づいてきた。

「リリアーナ様、領主様がお呼びです」

 リリアーナの動きが止まる。

 父が心配そうに見た。

「大丈夫か?」

「はい」

 声は思ったより落ち着いていた。

 使用人について、長い廊下を歩く。

 心臓が、また速く打ち始めた。

 でも、逃げたくはなかった。

 執務室の扉が開いた。

 部屋は書斎と応接室を兼ねたような空間。

 窓から月明かりが差し込んでいる。

 そして——

 リリアーナの足が、止まった。

 机の前に立つ男性。

 正装を解き、襟を緩めている。

 その横顔。

 あの人——

「どうぞ、入ってください」

 振り向いた顔を見て、リリアーナの息が止まった。

 市場で会った、あの優しい人。

 ダミアン、と名乗った人。

 でも——

「驚かせてしまいましたね」

 彼は穏やかに微笑んだ。

「正式には、ダミアーノ・ディ・アルカナです。この街の領主を務めています」

 リリアーナの手が、微かに震えた。

 過去の記憶が、急速に再構成されていく。

 市場での出会い。優しい言葉。励まし。

 あれは——全部——

「あの……」

 声が小さく出た。

「市場での、あの時は……」

「本当のことを言えず、すみませんでした」

 ダミアーノは一歩近づいた。

 リリアーナは、反射的に一歩下がった。

 ダミアーノの動きが止まる。

「怖がらせるつもりはありません」

 彼の声は、市場で聞いたあの声と同じだった。

 優しく、穏やかで。

「ただ、街を見て回る時は、変装をしているんです。領主として見られると、皆が本音を話してくれないから」

 リリアーナは唇を噛んだ。

「では……あの時の言葉も……」

「全て本心です」

 ダミアーノの青い瞳が、真っ直ぐにリリアーナを見た。

「君の香りは素晴らしい。君の技術は本物だ。それは、変わらない真実です」

 リリアーナの胸の締め付けが、少しだけ緩んだ。

「どうぞ、座ってください」

 ダミアーノが椅子を示した。

 リリアーナは慎重に、椅子の端に腰を下ろす。

 ダミアーノも向かいに座った。

「今日の宴、素晴らしかった」

「ありがとうございます」

「特に、最後の香り」

 ダミアーノの声が、少し震えた。

「あれは……」

「白檀とローズです」

 リリアーナは小さく答えた。

「東方の香木と、西方の花。この街を象徴する組み合わせだと思って」

「そうか」

 ダミアーノは窓の外を見た。

「実は……俺の母も、東方出身なんです」

 リリアーナの目が見開かれた。

「10年前に亡くなりましたが、生前、よくあの香りを身につけていました」

 月明かりの中で、ダミアーノの横顔が寂しげに見えた。

「母は、この街で孤独でした。東方から来た異邦人として、貴族たちに受け入れられなくて」

 リリアーナの胸が、痛んだ。

「私の母も……東方の血を引いていました」

 ダミアーノが、リリアーナを見た。

「そうなのか」

「はい。だから……あの香りには、母の記憶を込めたんです」

 二人の間に、静かな沈黙が流れた。

 でも、それは不快な沈黙ではなかった。

 共有された何か。言葉にならない理解。

「リリアーナ殿」

 ダミアーノが改まった口調で言った。

「お願いがあります」

「はい」

「これから定期的に、領主館での香りの調合を依頼したい」

 リリアーナの心臓が跳ねた。

「週に一度、新しい香りを納品してもらえませんか。もちろん、相応の報酬は支払います」

 領主館。定期的に。

 前世なら、絶対に嫌だと思っただろう。

 でも——

 目の前にいるこの人は、市場で自分を励ましてくれた。

 正体を隠していたとしても、あの優しさは本物だった。

「お引き受けします」

 リリアーナは頷いた。

「ありがとう」

 ダミアーノが微笑んだ。

 その笑顔は、あの日、市場で見たものと同じだった。

 帰り道、月夜の街を歩く。

 父が隣で嬉しそうに話している。

「領主様直々の依頼だ!これは大きな名誉だぞ!」

 でも、リリアーナの耳には、あまり入ってこなかった。

 胸が、まだ高鳴っている。

 ダミアーノ様の、あの優しい瞳。

 母を思う時の、寂しげな横顔。

 そして——自分と同じ、孤独を知る人。

 リリアーナは夜空を見上げた。

 月が、雲の間から顔を出している。

 前世とは違う。今は違う。

 でも——

 油断してはいけない。

 そう自分に言い聞かせても、胸の高鳴りは止まらなかった。

 工房に戻ると、リリアーナは一人、新しい香りの構想を練り始めた。

 次に納品する香り。

 ダミアーノ様のための香り。

 東方の香木。西方の花。

 そして——

 希望の香り。

 小瓶を手に取り、リリアーナは微笑んだ。

 窓の外、月が静かに輝いている。

 この街は、東と西をつなぐ。

 そして自分は——

 過去と未来をつなぐ。

 新しい人生を、香りと共に歩んでいく。

 リリアーナの手の中で、小瓶が月光を受けて輝いた。
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