【完結】冷たい王に捨てられた私は、海峡の街で薫り高く生きる

チャビューヘ

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第15話:過去との対峙

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 領主館の門が見えた。

 リリアーナは走り続けた。

 息が切れている。でも止まらない。

 門番が驚いた顔をした。

「フィオーレのお嬢様?」

「ダミアーノ様は」

 声が震えた。

「どちらに」

「秘密の庭におられます」

 リリアーナは頭を下げ、駆け出した。

 廊下を抜ける。中庭を横切る。

 月光が足元を照らしていた。

 秘密の庭への扉。

 手が震える。

 深く息を吸った。

 扉を開けた。

 ダミアーノが振り返った。

 噴水のそばに立っている。

 月光が彼を照らしていた。

「リリアーナ」

 彼は一歩近づいた。

 でも、すぐに止まる。

 彼女が必要とする距離を保って。

「戻ってきてくれたのか」

 リリアーナは頷いた。

 喉が渇いている。心臓が騒いでいる。

「話したいことがあります」

 声を絞り出した。

 ダミアーノの表情が真剣になった。

「聞こう」

 噴水の縁に座った。

 リリアーナを見上げる形で。

 彼女より低い位置に。

「どんなことでも」

 リリアーナは立ったまま、言葉を探した。

 夜香木の香りが漂っている。

 噴水の水音だけが、小さく響いた。

「夢なのか、現実なのか」

 声が震えた。

「わからないのですが」

 両手がスカートの布を握った。

「私には、記憶があるんです」

 ダミアーノは動かなかった。

 彼女を見つめたまま。

 待っている。

「別の人生を生きた記憶が」

 リリアーナの呼吸が浅くなった。

「エレオノーラという名前で」

「王妃として」

 言葉が途切れた。

 胸が締め付けられる。

「15歳で嫁ぎました」

 目を閉じる。

「政略結婚でした」

 ダミアーノの顎が強張った。

 でも、声は静かだった。

「続けてくれ」

 リリアーナは目を開けた。

 月が雲の間から顔を出す。

 庭全体が銀色に染まった。

「30年間」

 声が掠れた。

「一度も、愛されませんでした」

 喉が詰まる。

 呼吸が苦しい。

「夫は私を」

 言葉を探す。

「『お飾りの妻』

 としか」

 膝が震えた。

「見てくれませんでした」

 ダミアーノの拳が固く握られた。

 その瞬間、リリアーナの身体が強張る。

 (頭では分かっている)

 (彼は私のために怒っているのだと)

 でも、身体が覚えている。

 怒りの後には、いつも。

「大丈夫……です」

 思わず、宥めるように言っていた。

 ダミアーノは深く息を吸った。

 拳をゆっくり開く。

「俺は、お前を傷つけない」

 彼の声は低く、制御されていた。

「続けてくれ。お前のペースで」

 リリアーナは頷いた。

 涙が頬を伝った。

「子供ができませんでした」

「だから、貴族たちは私を」

 声が小さくなる。

「『役立たず』

 と」

「夫は愛妾を迎えました」

 手が震える。止まらない。

「私の部屋の隣に、彼女の部屋を」

「毎晩、聞こえてきました」

「笑い声が」

 ダミアーノが立ち上がろうとした。

 でも止まる。

 彼女を怖がらせないように。

 歯を食いしばる音がした。

「そして、最後に」

 リリアーナの声が震えた。

「病床で、私は聞いたんです」

 息が苦しい。

「夫が愛妾に言うのを」

 涙が止まらなかった。

「『やっと邪魔者が消える』

 って」

 沈黙が落ちた。

 噴水の水音だけが響く。

 ダミアーノの目から、涙が一筋。

 彼は震える声で言った。

「リリアーナ」

 ゆっくりと立ち上がった。

 でも、近づかない。

「お前は」

 拳が再び握られる。

 でも、今度は制御していた。

「お前は、そんな目に遭うべきじゃなかった」

 リリアーナは首を横に振った。

「だから、怖いんです」

「また、捨てられるんじゃないかって」

「また、邪魔者だと思われるんじゃないかって」

 膝から力が抜けた。

 倒れそうになる。

 ダミアーノが一歩踏み出した。

 でも、触れなかった。

 ただ、近くにいた。

「座ってくれ」

 優しい声だった。

「お願いだ」

 リリアーナは噴水の縁に座った。

 ダミアーノは、その前に。

 ゆっくりと、膝をついた。

 彼女の目の高さに。

 いや、それより低く。

「リリアーナ」

 彼の声が震えていた。

「お前のその前世の夫が何者だったか」

「俺は知らない」

 月光が彼の涙を照らした。

「でも、俺はあいつとは違う」

「お前を『お飾り』

 だなんて」

 ダミアーノは彼女を見つめた。

「一度たりとも思ったことはない」

「お前は俺の光だ」

 声に力がこもる。

「生きる理由だ」

「お前の香りが、俺に母を思い出させてくれた」

「お前の微笑みが、俺に希望を教えてくれた」

「お前がいなければ、俺はまだ」

 彼は目を閉じた。

「心を閉ざしたままだった」

「お前が望むなら」

 ダミアーノは目を開けた。

「俺はここで待つ」

「一日でも、一年でも、十年でも」

「でも、俺がお前を愛していることだけは」

 彼の手が、地面に触れた。

「それだけは変わらない」

「お前が邪魔者だなんて」

 涙がこぼれた。

「そんなことは、決してない」

 リリアーナの視界が滲んだ。

 涙が溢れる。

 でも、今度は絶望の涙じゃなかった。

 何か別のもの。

 温かいもの。

 彼女の手が動いた。

 震えながら。

 前に伸ばす。

 (触れたら、何かが変わる)

 (前世は終わる)

 息を吸った。

 指先が、彼の手に向かった。

 触れた。

 温かかった。

 前世の夫の手は冷たかった。

 まるで死体のような。

 でも、ダミアーノの手は。

 生きていた。

 働く手の、固い皮膚。

 でも、優しい。

 震えている。

 彼も震えていた。

「ダミアーノ……様」

 声が出た。

「温かい……です」

 涙が止まらなかった。

「痛くない……です」

 ダミアーノの手が、ゆっくりと動いた。

 彼女の手を包む。

 強く握らない。

 ただ、優しく。

 温もりを伝えるように。

「リリアーナ」

 彼の声も涙に濡れていた。

「お前は、もう一人じゃない」

 月光が二人を照らした。

 噴水の水が、静かに流れている。

 夜香木の香りが二人を包んだ。

「俺が、ずっと傍にいる」

 リリアーナは頷いた。

 言葉が出なかった。

 ただ、彼の手の温もりを感じていた。

 前世の冷たさは、もうない。

 あるのは、この温かさだけ。

 月が雲の向こうに隠れた。

 また現れる。

 その光の中で。

 二人の手が重なっていた。
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