【完結】冷たい王に捨てられた私は、海峡の街で薫り高く生きる

チャビューヘ

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第16話:嵐の前

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 あの夜から三日が経った。

 リリアーナは工房で新しい香油を調合していた。

 心は軽かった。

 ダミアーノ様の手の温もりが、まだ残っているような気がした。

 扉が乱暴に開いた。

「お嬢様!」

 番頭のマルコが駆け込んできた。

 息を切らしている。

「大変です」

 リリアーナは手を止めた。

「どうしました」

「市場で、お客様が」

 マルコの声が震えた。

「お嬢様の香油で、病人が出たと」

 市場への道を急いだ。

 父フランチェスコも一緒だった。

 群衆が集まっていた。

 中心に、泣いている女性がいた。

 腕に赤い発疹が広がっている。

「この香油のせいで!」

 女性が小瓶を掲げた。

 フィオーレ商会のラベルが貼ってある。

 リリアーナは静かに近づいた。

「拝見してもよろしいですか」

 女性は疑わしげな目を向けた。

 でも、小瓶を渡してくれた。

 リリアーナは光にかざした。

 液体の色が、微かに濁っている。

 瓶の重さも、軽すぎる。

 蓋を開けた。

 鼻を近づける。

 甘ったるい、平坦な香り。

 奥行きがない。

 そして――微かに、化学的な刺激臭。

 リリアーナの指が、瓶を強く握った。

「これは」

 声を低くした。

「私どもの製品ではありません」

 群衆がざわめいた。

「嘘だ!」

 誰かが叫んだ。

「ラベルに、フィオーレって」

「ラベルは偽造できます」

 リリアーナは群衆を見回した。

「この香油には、有害な物質が混ざっています」

「私どもの調合とは、全く違います」

 領主館の執務室。

 ダミアーノが地図を広げていた時、リリアーナが訪れた。

 彼女の顔を見て、すぐに立ち上がった。

「リリアーナ、どうした」

 彼女は偽物の小瓶を机に置いた。

「偽造品が、市場に出回っています」

 ダミアーノは瓶を手に取った。

「これが?」

「私どものラベルを貼った、粗悪な偽物です」

 リリアーナの声が震えた。

「しかも、有害な物質が混入されています」

 ダミアーノの顎が強張った。

「誰の仕業だ」

「バルトロメオだと思います」

 リリアーナは彼を見つめた。

「でも、証拠が必要です」

 ダミアーノは頷いた。

「集めよう。一緒に」

 三日間、二人は証拠を集めた。

 リリアーナは偽物を分析した。

 工房で、本物と並べて比較する。

 色、香り、粘度。

 全てが違っていた。

 光にかざすと、偽物は濁っている。

 香りを試験紙に取る。

 本物は時間と共に変化する。

 柑橘の爽やかさから、花の甘さへ。

 そして、木の温かさへ。

 三層が、順番に開いていく。

 でも偽物は――

 最初から最後まで、同じ平坦な甘さ。

 一時間後には、ほとんど消えていた。

「これは香油じゃない」

 リリアーナは呟いた。

「ただの、毒入りの水だわ」

 ダミアーノは流通経路を追った。

 偽物を売っていた商人たちを訪ねる。

 最初は口を閉ざしていた。

 でも、領主の権威の前に、やがて話し始めた。

「バルトロメオ商会から仕入れました」

「安かったので」

「本物だと思っていたんです」

 証言は、一つずつ積み重なった。

 倉庫の記録。

 船積みの書類。

 そして、決定的な証拠――

 バルトロメオ自身の署名入りの発注書。

 夜、領主館の私室。

 リリアーナとダミアーノは、証拠を並べていた。

 テーブルの上に、書類の山。

「これで十分だ」

 ダミアーノが言った。

「明日、商人評議会を招集する」

 リリアーナは頷いた。

 でも、手が震えていた。

 ダミアーノはそれに気づいた。

「怖いか」

「ええ」

 リリアーナは正直に答えた。

「でも、やらなくてはいけません」

 ダミアーノの手が、彼女の手に重なった。

 前世の夫とは違う、温かい手。

「一人じゃない」

 彼の声は静かだった。

「俺がいる」

 翌日、領主館の大広間。

 商人評議会が開かれた。

 東方と西方の商人頭たちが並ぶ。

 ダミアーノが上座に座った。

 バルトロメオも、呼び出されていた。

 彼は自信ありげに、椅子に座っている。

 リリアーナは立っていた。

 テーブルの前に、証拠を並べて。

「始めよう」

 ダミアーノが宣言した。

「フィオーレ商会のリリアーナ殿より、訴えがある」

 リリアーナは深く息を吸った。

「この三日間、市場に偽造品が出回りました」

 彼女は本物と偽物の瓶を掲げた。

「私どもの商会の名を騙り、有害な物質を売った者がいます」

 バルトロメオが鼻で笑った。

「証拠はあるのか?」

「あります」

 リリアーナは静かに答えた。

「まず、製品の比較から」

 彼女は二つの瓶を、窓辺に持っていった。

 日光が液体を照らす。

「ご覧ください」

 本物は透明に輝いている。

 偽物は、微かに濁っていた。

「瓶の重さも違います」

 リリアーナは両手に持って見せた。

「偽物は、安価なガラスを使っています」

 商人たちが身を乗り出した。

 バルトロメオの顔が、僅かに強張った。

「それだけでは、ただの粗悪品だ」

 彼は強がった。

「意図的な偽造とは言えない」

「では、これは?」

 リリアーナは試験紙を取り出した。

 朝、両方の香油を染み込ませたもの。

「本物の香油は、時間と共に変化します」

 彼女は本物の試験紙を配った。

「柑橘の爽やかさから、花の甘さへ」

「そして、木の温かさへ」

「三層が、順番に開いていきます」

 商人たちが、試験紙の香りを嗅いだ。

 頷きが、広間に広がった。

「では、偽物は」

 リリアーナは偽物の試験紙を配った。

「平坦で、奥行きがありません」

「まるで、香りの写真です」

 商人たちの表情が変わった。

 明らかに、違う。

 バルトロメオは椅子の肘掛けを握った。

「それは、技術の差だ」

「我々の調合が、劣っていただけで」

「劣っているだけではありません」

 リリアーナの声が、冷たくなった。

「有毒です」

 広間が静まり返った。

「薬師に分析を依頼しました」

 リリアーナは報告書を掲げた。

「偽物には、安価な染料と化学薬品が混入されています」

「皮膚に炎症を起こし、場合によっては内臓にも害を及ぼします」

「これは、もはや商業上の競争ではありません」

 ダミアーノが立ち上がった。

「人々の命を危険に晒す、犯罪だ」

 バルトロメオの顔が、青ざめた。

「俺は、そんなつもりでは」

「では、これをどう説明する」

 ダミアーノは書類を投げた。

 バルトロメオの前に散らばる。

「倉庫の記録だ」

「お前の署名入りの発注書」

「船積みの書類」

「全て、お前の商会から出ている」

 バルトロメオは書類を掴んだ。

 手が震えていた。

「これは、部下が勝手に」

「お前の署名だろう」

 ダミアーノの声が響いた。

「お前が、全てを指示した」

 バルトロメオは立ち上がった。

 椅子が倒れる音。

「そうだ!」

 彼は叫んだ。

「俺がやった!」

 広間がざわめいた。

「あの女が、俺を拒絶した!」

 バルトロメオの指がリリアーナを指した。

「商家の娘のくせに、生意気に!」

「俺の申し出を断りやがって!」

 彼の顔が歪んだ。

「だから、思い知らせてやろうとした」

「お前の商会なんて、簡単に潰せるって」

 沈黙が落ちた。

 商人たちが、呆れた顔でバルトロメオを見ている。

 これは、正当な商売ではない。

 私怨による、ただの復讐だった。

 ダミアーノは冷たい目でバルトロメオを見下ろした。

「バルトロメオ・ディ・マルケッティ」

 彼の声は、氷のようだった。

「お前を、商業組合から永久追放する」

「アルカナからの退去を命じる」

「商会の全資産は、被害者への賠償に充てる」

「偽造品は、明日、港の広場で焼却する」

 バルトロメオは膝から崩れた。

「待ってくれ」

 彼の声が掠れた。

「そんな、全てを失うなんて」

「お前が人々に与えた苦痛を考えれば」

 ダミアーノは顔を背けた。

「軽い処罰だ」

「連行しろ」

 衛兵がバルトロメオを抱え上げた。

 彼は最後にリリアーナを睨んだ。

「後悔するぞ」

 恨みの声だった。

「お前も、いつか」

 リリアーナは静かに彼を見つめた。

「後悔はしません」

 彼女の声は穏やかだった。

「私は、私の道を行くだけです」

 バルトロメオは引きずられていった。

 扉が閉まる音。

 それで、全てが終わった。

 広間が空になった。

 リリアーナは椅子に座り込んだ。

 証拠の書類が、そのまま散らばっている。

 緊張が解けて、体から力が抜けた。

 足音が近づいてきた。

 ダミアーノだった。

「よくやった」

 彼は隣に座った。

 触れないけれど、近くに。

「お前は、素晴らしかった」

 リリアーナは首を横に振った。

「怖かったです」

「分かっている」

 ダミアーノは微笑んだ。

「だから、素晴らしいんだ」

 沈黙が落ちた。

 心地よい沈黙。

 戦略を議論する必要もない。

 ただ、一緒にいる。

「リリアーナ」

 ダミアーノが呼んだ。

「ん?」

「お前がいなければ、この街の人々は」

 彼の声が、少し震えた。

「もっと多くの被害を受けていた」

「お前が、守ってくれた」

 リリアーナは彼を見た。

 彼の目に、真摯な感謝があった。

 そして、それ以上の何か。

「私たちが、です」

 リリアーナは微笑んだ。

「あなたがいなければ、私も」

 彼女の手が動いた。

 テーブルの上で、彼の手に近づく。

 触れた。

 また、あの温もり。

 ダミアーノの指が、優しく彼女の手を包んだ。

「今夜、夕食を一緒に」

 彼が尋ねた。

「はい」

 リリアーナは答えた。

 心臓が、優しく跳ねた。

 窓の外、日が傾き始めていた。

 港の向こうに、雲が集まっている。

 でも、今はまだ、陽の光が差していた。

 二人の手が、テーブルの上で重なっていた。

 前世の痛みは、もう遠い。

 あるのは――

 この人と共に歩む、未来だけ。
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