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ケース4:②
木曜日。午後二時。戸塚が来た。
前回と同じスーツ。同じネクタイ。だが手に封筒を持っていた。中に写真が入っていた。
「妻と娘です。写真ならまだ区別がつくので。撮っておきました」
棘は緑茶を出した。戸塚は一口飲んで、湯呑みをテーブルに置いた。
「始めましょう」
短かった。営業マンの時間の使い方だった。決断したら実行する。それだけ。
奥の和室。布団の上に三人が並んだ。縁が真ん中。右に戸塚、左に棘。縁が針を右手に持った。左手の人差し指に先端を刺した。指先には針傷がいくつもあった。ケース1の分。ケース2の分。ケース3の分。治療のたびに増える。血が一滴、布団に落ちた。
「入ります」
世界が裏返った。
最初に来たのは、何もなかった。
匂いも音も温度もなかった。三人は立っていたが、足の裏に床の感触がない。目を開けているのに何も見えない。息を吸ったが空気の味がしない。暗闇ですらなかった。暗闇には「暗い」という質がある。ここにはそれすらない。
何も、ない。
棘は声を出そうとした。縁さん、と。喉は動いたが、音が世界に出ていかなかった。声が体の中で反射して戻ってきた。右手首のサポーターの下が疼いた。鋏を握る手の、使いすぎた腱。
三秒。五秒。十秒。
おい、と棘は思った。今までで一番怖い。ケース1の腐った甘い匂いも、ケース3の歪んだチャイムの音も、少なくとも「ある」ことが分かった。今は何もない。自分がいるのかも分からない。
二十秒。
足の裏に、何かが触れた。
柔らかい。温かい。手だ。子供の手が、棘の足首を掴んでいた。
世界が、下から来た。
地面が足の裏に浮き上がってきた。アスファルト。運動場のアスファルト。白い線。体育で使う白い線が、足元から四方に伸びていく。空が上から降りてきた。青。絵の具の青。雲ひとつない、塗りつぶしたような青空。
音が殺到した。子供の声。十人分ではない。五十人分でもない。百人分の子供の声が、全方位から同時に。
「「「おはよう!」」」
目が追いつかなかった。
運動場だった。広い。小学校の運動場。遊具がある。鉄棒。ブランコ。ジャングルジム。すべり台。すべてがパステルカラーで塗られている。水色のブランコ。薄緑の鉄棒。淡いピンクのすべり台。空の青と相まって、絵本のページそのものだった。
子供がいた。
百人。
運動場の至るところに子供がいた。ブランコを漕いでいる子。砂場で遊んでいる子。鬼ごっこをしている子。縄跳びをしている子。全員が同じ体操服を着ていた。白い半袖シャツに紺色の短パン。赤い帽子。
顔が同じだった。
丸い顔。大きな目。小さな鼻。三日月形の口。笑っている。全員が笑っている。目の形も眉の角度も歯の並びも全部同じ。絵本の表紙に描かれていた子供の顔。あの黄色い表紙の、手をつないだ子供たちの顔が、百人分、目の前にいた。
棘の鳩尾が冷えた。
今まで見た怪異には個体差があった。マカロンは大柄な女性だった。クマは一体の巨大なぬいぐるみだった。魔法使いは老人だった。それぞれが固有の形を持っていた。
百人の子供には差がなかった。身長も体格も髪型も全部同じ。判子で押したように同じ子供が百人。
「棘くん」
縁の声がした。声のトーンが変わっていた。雑談がない。観察と指示だけの声。世界モードの縁。
だが、その声に聞き慣れないものが混じっていた。
間。普段の縁にはない間。
「校舎に入る。走らないで。笑って」
笑って。
棘は縁を見た。縁は笑っていた。普段の棒読みの愛想笑いではなかった。もっと自然な、もっと無害な笑顔。校庭にいる見学者の笑顔。怖がっていない人間の顔をしていた。
棘は自分の顔を作った。笑え。友好的に。この世界では、友好的であることが生存条件だ。
戸塚を見た。
戸塚は動いていなかった。立ったまま、百人の子供を見ていた。目が開いている。口が半分開いている。両手がスーツのズボンの脇で握りしめられていた。
変わっていた。
何が、とは最初分からなかった。スーツは同じ。ネクタイも同じ。身長も同じ。だが何かが薄くなっていた。顔の輪郭が丸みを帯びていた。顎のラインが柔らかくなっている。目がわずかに大きくなっている。
戸塚の顔が、子供たちの顔に近づいていた。
「動いて、戸塚さん」
縁が戸塚の肘に触れた。戸塚が弾かれたように縁を見た。
「ここ、は」
「校庭です。歩いてください。普通に。笑って」
戸塚が笑おうとした。口が震えた。だが形にはなった。営業の笑顔。何千回と作ってきた笑顔。
三人は校舎に向かって歩いた。
子供たちがこちらを見ていた。百人の同じ顔が、三人を見ていた。だが誰も近づいてこなかった。遠くから見ているだけ。手を振っている子がいた。ブランコの上から。
「棘くん」
「ああ」
「壁を見て」
校舎の外壁だった。コンクリートにクリーム色のペンキ。窓が規則正しく並んでいる。壁の一部にタイル画が嵌め込まれている。子供たちが手をつないでいるタイル画。
その下に文字があった。
棘は読もうとした。
読めなかった。
文字があるのは分かった。日本語の文字だ。ひらがなが並んでいる。だが全部同じ文字に見えた。同じ文字が何十回も繰り返されている。
と。
と、と、と、と、と、と、と、と、と。
全部「と」だった。壁に書かれた文章が、一文字の繰り返しに見えた。
「縁さん。読めるか」
「読めない」
棘は足を止めた。縁が読めない。物語世界で壁に浮かぶ文字を読み、世界の構造を解析する。それが縁の最も基本的な能力だった。ケース1では壁に滲んだ文字を追った。ケース2では壁紙の下に透けた文字を読んだ。ケース3では黒板の下の彫り込みを解読した。
読めない、と縁が言ったのは初めてだった。
「文字が区別できない」
縁の声が低かった。感情がないのではなく、感情を出さないようにしている声。
「全部同じに見える。ひらがなの形が判別できない。あ、と、い、の違いが分からない。全部同じ文字に見える」
この世界の侵食だった。「区別するな」という命令が、文字にまで及んでいた。顔だけではない。文字すら区別させない。
縁が壁から手を離した。指先が震えていた。一瞬だけ。すぐに止まった。
「校舎の中に入る。別の手がかりを探す」
昇降口から入った。靴箱が並んでいた。一人一つ。ラベルが貼ってある。全部同じ文字。読めない。靴も全部同じだった。白い上履き。百足分。同じサイズ。
廊下は長かった。リノリウムの床。壁に子供たちの絵が貼ってある。画用紙にクレヨンで描いた絵。
全部同じ絵だった。
丸い顔。大きな目。三日月の口。隣に立っている丸い顔。二人が手をつないでいる。その隣にも丸い顔。三人が手をつないでいる。四人。五人。十人。全部の絵が同じ構図で、人数だけが違った。
「これが百まで増える」
縁が最後の絵を見た。画用紙いっぱいに百人の丸い顔が描かれていた。全員が手をつないでいる。画用紙の余白がない。百人の顔でぎっしりと埋まっている。
「教室に」
教室の引き戸を開けた。
三十の机と椅子。木製。天板に名札が嵌め込まれている。白いプラスチックに文字が印刷されている。
全部「ともだち」と書いてあった。
名前がない。苗字も名前も番号もない。三十の机すべてに「ともだち」。隣の教室も確認した。「ともだち」。その隣も。「ともだち」。
黒板があった。チョークで文字が書いてある。大きな文字。
棘には読めた。この文字だけは、なぜか読めた。
きょうの もくひょう
みんなで なかよく しましょう
一つだけ文字が読める場所があった。世界で唯一の意味のある文字が、この命令だった。
「戸塚さん」
縁が教室に入らず、廊下に立ったまま言った。
「この教室に見覚えは」
戸塚が教室を見ていた。顔がさらに変わっていた。輪郭がもっと丸くなっている。目の幅が広がっている。スーツが少し余っている。体が縮んでいるわけではない。スーツのサイズが合わなくなっていた。
「四年三組」
戸塚の声がかすれていた。
「学級会をやった教室。この並び。窓際の三列目。あそこが僕の席で、前から五番目」
三列目の窓際、前から五番目の席。机の名札は「ともだち」。
「リーダーの子は、一列目の一番前でした。先生の真正面。どの席だったか、今でも覚えてます。二十五年経っても」
戸塚がネクタイに手をやった。締め直すように。だがネクタイの結び目は緩んでいなかった。指先が行き場を失って、胸元で止まった。
棘は、触れた。
戸塚の肘に。軽く。情報を取りに行ったのではなかった。安心させるために。だが触れた瞬間に、来た。
来なかった。
正確には何も来なかった。棘の共感体質は、触れた人間の感情を洪水のように流し込む。榊の飢餓感。瑛太の恐怖。紗世の窒息感。毎回、膝をつくほどの衝撃が来た。
戸塚からは何も来なかった。
平坦だった。地表の起伏を全部削って均したような、完全に水平な感情の地面。喜びも悲しみも怒りも恐怖もない。あるのは一定の温度と、一定の湿度と、一定の明るさだけ。空調の効いたオフィスの空気。快適で、無害で、何もない。
棘は手を離さなかった。
押した。
意識的に。共感の回路を普段より深く開いた。表層の下に何があるか。水平な地面の下に何が埋まっているか。
地面が割れた。
下から来た。百の声。百の悲鳴ではなかった。悲鳴は音になる。これは音にならなかった。百の沈黙が一斉に叫んでいた。助けて、ではない。ここにいる、だった。ここにいる。ここにいる。俺はここにいる。私はここにいる。僕はここにいる。百の異なる声色で、百の異なる言い回しで、全員が同じことを叫んでいた。
ここにいる。ここにいるのに。
誰も見てくれない。
棘の目から涙が出た。鳩尾から胸にかけて、えぐられるような痛みがあった。だがこれは流入ではなかった。棘自身の反応だった。百の沈黙に、棘の体が反応した。
手を離した。息が荒かった。
「棘くん」
「大丈夫だ」
大丈夫ではなかった。だが今は止まれない。
「戸塚さんの中じゃない。この学校全体だ。あの子供たち全員。全員が自分の名前を叫んでる。でも声にならない。『ともだち』って名札の下に、全員の本当の名前がある。百人分の違う名前が」
縁が棘を見た。三秒。それから頷いた。
「保健室を探す」
理由は言わなかった。普段の縁なら言う。「壁紙の下に文字がある」「インクが湿ってる」と手がかりを言語化する。今回は言わなかった。文字が読めない。手がかりが拾えない。だから行き先を直感で選んだ。縁が直感で動くのは、棘が知る限り初めてだった。
廊下を歩いた。保健室の表示板があった。文字は読めないが、赤い十字のマークが描かれていた。文字ではなく図形。図形は区別できる。
引き戸を開けた。
白いカーテン。ベッドが二台。薬棚。身長計。体重計。視力検査の表が壁に掛かっている。Cの字が並んでいる。上から大きいのが一つ、中くらいが三つ、小さいのが五つ。
Cの字が全部同じ方向を向いていた。
右。全部右。上も下も左も右もなく、全部の切れ目が右を向いている。区別できない視力検査表。見えても見えなくても結果が同じ。
「縁さん」
棘が声を落とした。
保健室の奥の壁。棚があった。透明なプラスチックのケースが並んでいる。中身が見えた。
顔だった。
子供の顔の形をしたものが、ケースの中に並んでいた。肌色のシリコンのような素材。目。鼻。口。耳。全部ついている。全部同じ。さっき校庭にいた百人の子供と同じ顔。
ケースに手書きのラベルが貼ってあった。文字は読めない。だが数字は読めた。数字は「区別するための記号」ではなく「順序を表す記号」だからだ。数字だけが、この世界でまだ機能していた。
1、2、3、4、5。五つのケース。
棘は一番手前のケースを開けた。
顔が呼吸していた。
肌色のシリコンではなかった。皮膚だった。薄い、人間の皮膚。鼻孔が微かに開閉している。唇が空気を吸い、吐いている。瞼が閉じている。閉じた瞼の下で、目が動いていた。夢を見ている人間のように。
温かかった。
生きている。
棘は蓋を閉じた。指先が冷たくなっていた。
「予備の顔だ」
縁が隣のケースを確認していた。同じだった。同じ顔。同じ呼吸。
「壊れたら取り替える。全員同じ顔を維持するために。誰かの顔が傷ついたり、表情が歪んだりしたら、新しい顔に付け替える」
縁の声は観察報告の声だった。だが言葉が少なかった。普段なら構造を解説する。なぜそうなっているか、トラウマとどう接続しているか。今回はそこまで踏み込めていなかった。
「表情が歪む」
棘が繰り返した。
「怒ったり。泣いたり。笑い方が人と違ったり」
「個別の感情を見せること自体が『故障』扱い」
戸塚が壁にもたれていた。顔がまた変わっていた。目がさらに大きくなっている。輪郭がさらに丸くなっている。子供の顔に近づいている。
そのとき、棘は気がついた。
戸塚の目に、涙が浮かんでいた。
涙が出ている。それ自体はおかしくない。だが問題は、涙が出ているのに顔が変わり続けていることだった。泣いている。個別の感情を見せている。なのに世界は戸塚の顔を「ともだち」の顔に変え続けている。
つまり、顔の変化はこの場にいるだけで進行する。感情を殺しても殺さなくても、この世界にいる限り「同じ顔」に近づいていく。
抵抗できない。
「戸塚さん」
棘は戸塚の前に立った。正面から目を見た。変わりかけた目。大人の目と子供の目の中間。
「顔が変わってきてます。知ってますか」
「分かる。鏡は見てない。でも分かる。顔の筋肉が動いてる。勝手に」
戸塚の声は落ち着いていた。恐怖を社会人の鋳型に流し込んでいる。受付のときと同じだった。
縁が保健室の窓から校庭を見た。子供たちがまだ遊んでいた。百人の同じ顔。ブランコ。すべり台。鬼ごっこ。誰が鬼かは分からない。全員同じ顔だから。
「チャイムが鳴る前に動く。校舎の二階に上がる。職員室か図書室。文字が読めないなら、別のものを探す」
「何を」
「分からない」
縁が言った。分からない。
棘は縁の横顔を見た。物語世界の縁は迷わない。常に何かを読み、何かを見つけ、次の指示を出す。分からない、と縁が言うのを、物語世界の中で聞いたのは初めてだった。
棘の背筋が冷えた。
怖かった。怪異が百体いることより。予備の顔が呼吸していることより。縁が「分からない」と言ったことが、一番怖かった。
二階に上がった。階段の壁に標語が貼ってある。読めない。絵だけが分かる。手をつないだ子供の絵。笑顔の子供の絵。全部同じ顔。
図書室があった。
引き戸を開けた。
本棚が壁一面を覆っていた。木製の本棚。五段。横に八列。棚ぎっしりに本が詰まっている。背表紙が見えた。色はさまざまだった。赤、青、緑、黄、紫。色だけが違った。
縁が一冊抜き取った。開いた。
閉じた。
別の一冊を抜いた。開いた。閉じた。三冊目。四冊目。五冊目。
棘は縁の手元を覗いた。
全部同じだった。
中身がない。正確には、中身はある。文字が印刷されている。だが全ページ同じ文字の繰り返し。同じ文字が、活字のサイズだけ変えて、ページを埋め尽くしている。タイトルも本文も奥付も全部同じ文字。
「何の文字に見える」
縁が棘に聞いた。
「と」
「私にも『と』に見える。でも、たぶん文字じゃない。これは模様。文字の形をした模様。意味がない。意味を与えるとそれが『区別』になるから。この世界では意味すら均されてる」
縁が本を棚に戻した。
「棘くん」
「ああ」
「この世界、今までと構造が違う」
縁が図書室の窓辺に立った。校庭が見下ろせた。子供たちがまだ遊んでいた。
「ケース1は物語が腐っていた。食材が内臓に変わった。ケース2は物語の意味が反転していた。安全が拘束に変わった。ケース3はルールが人格を潰していた。正しさが暴力になっていた」
縁が窓枠に指を置いた。
「ここには腐敗がない」
「腐敗がない」
「文字が読めないのは、文字が壊れたからじゃない。区別が存在しないから、文字が文字として機能しない。腐ってるんじゃなくて、均されてる。全部が同じ高さに均されてる。突出も欠損もない。だから私の針は刺す場所がない。裂け目がないから縫えない」
棘は理解した。
今までのケースでは、腐った部分が明確にあった。壊死した箇所を棘が切り、裂け目を縁が縫った。だがこの世界には壊死がない。全部が等しく生きている。等しく健康で、等しく笑っていて、等しく何も問題がない。
問題がない世界で、何を治す。
「それでも戸塚さんは侵食されてる。顔が変わってきてる。均される方向に。この世界にいるだけで」
「時間がない」
縁が窓から離れた。
「図書室の奥に部屋がある。司書室。あそこを見る」
図書室の奥に小さなドアがあった。縁が開けた。
狭い部屋だった。デスクが一つ。椅子が一つ。壁に本棚。この部屋の本棚には本が少なかった。十冊ほど。他の棚は空だった。
デスクの上に一冊の本が開いたまま置かれていた。
縁が近づいた。本を見た。
「これは読める」
棘が横から覗いた。
読めた。文字が文字として見えた。この世界で初めて、意味のある文を読んだ。
きょうは にゅうがくしき。
がっこうに あたらしい ともだちが きました。
なまえは とつかりょういちくん。
戸塚諒一。
「原本だ」
縁が本のページを捲った。
とつかくんは はずかしがりやです。
でも がんばって みんなに こえを かけました。
「いっしょに あそぼう」
ともだちが ひとり ふえました。
「これが腐る前の物語。戸塚さんが子供の頃に読んだ絵本の、戸塚さん版の物語。原本のきれいな状態が、ここにだけ残ってる」
ページを捲り続けた。挿絵があった。丸い顔の子供。二人。三人。友達が一人ずつ増えていく。どのページも穏やかだった。新しい友達ができる喜びが、丸い文字で綴られていた。
十ページ目で、文字が変わった。
せんせいが いいました。
「みんな なかよく しましょう」
とつかくんは てを つなぎました。
きらいな こ とも。
十一ページ目。挿絵の子供が五人増えていた。でも前のページとは違っていた。手をつないでいるが、つないでいる手が白かった。血の気がない手。笑顔は同じだった。だが目が描かれていなかった。目のない笑顔が五つ。
十二ページ目。
ともだちが ふえました。
10にん。20にん。30にん。
みんな おなじ かおに なりました。
だって ともだちは みんな おなじだから。
ここでページが終わっていた。次のページは白紙だった。その次も白紙。物語が途中で止まっている。
「十二ページ目以降が腐敗した部分。白紙になってるけど消えたんじゃない。白紙の下に押し込められてる。読めない文字として均されてる」
縁が本を閉じた。
「この原本が読めるのは、ここだけが戸塚さんの記憶の中で『区別』が残ってる場所だからだ。司書室。一人でいる場所。誰とも仲良くしなくていい場所」
棘は部屋を見回した。デスクの上に鉛筆が一本。削りかけの。消しゴムが一つ。使い込まれた。ノートが一冊。閉じてある。
ノートを開いた。
名前が書いてあった。
とつか りょういち
その下に、文章。
きょうは みんなと あそびたくなかった。
でも あそばないと 「なかよく してない」って おこられる。
だから にこにこ した。
にこにこ するのは もう じょうずに なった。
棘の胸が詰まった。自分の痛みだった。共感体質を通さない、棘自身の痛みだった。
チャイムが鳴った。
キンコンカンコン。四音。校舎全体に響いた。
窓の外で子供たちが動いた。一斉に。遊びをやめ、列を作り始めた。百人が同じ動きで同じ方向に歩いている。校舎の入口に向かって。
「戻ってくる」
縁が言った。
「ここにいる。この部屋から出ない。ドアを閉める」
棘がドアを閉めた。鍵はなかった。
廊下を足音が近づいてきた。百人分の足音。ぱたぱたぱたと上履きがリノリウムを叩く音。全員同じリズム。
足音が図書室の前を通過した。通過したはずだった。
引き戸が開いた。
子供が立っていた。一人。丸い顔。大きな目。三日月の口。笑っている。
「あ、いた」
子供が司書室を覗き込んだ。
「せんせいが、よんでるよ。あたらしい ともだちの しょうかいを するんだって。おいでよ」
手を差し伸べた。小さな手。子供の手。
「みんな まってるよ」
子供が笑った。悪意のない笑顔。本当に、心の底から、一緒に遊びたいだけの笑顔だった。
棘は子供を見た。目を見た。丸い目。くりくりした目。その奥に、何もなかった。個人の色がなかった。感情が均されて一定温度になっていた。
だが棘は知っていた。この下に本当の声がある。本当の名前がある。名札の下に隠された本当の。
「行きましょう」
戸塚が言った。
棘と縁が同時に戸塚を見た。
戸塚は笑っていた。子供たちと同じ笑顔ではなかった。営業の笑顔だった。二十五年間使い続けてきた、全員に同じ顔を見せる笑顔。
「行かないと。先生が待ってる」
「戸塚さん」
「大丈夫です。慣れてますから。これだけは」
戸塚がネクタイを直した。スーツがまた少し余っていた。体のサイズが合わなくなっている。大人の体が子供に戻ろうとしている。
戸塚が司書室を出た。
棘は縁を見た。縁は棘を見た。
縁の目に、棘が見たことのないものがあった。
焦り。
糸守縁が焦っている。文字が読めない。裂け目が見つからない。針を刺す場所がない。今までの手順が使えない。
「行く」
縁が言った。短く。迷いがあるまま。
三人は司書室を出た。子供が先導した。ぱたぱたと走る。棘と縁と戸塚がその後を追った。
階段を降りた。一階の廊下を歩いた。体育館に向かう渡り廊下。窓の外は青空。雲一つない。
体育館の扉が開いていた。
中に入った。
百人の子供が椅子に座っていた。五列二十行。全員がこちらを向いていた。全員が笑っていた。同じ顔で。
壇上にパイプ椅子が三つ用意されていた。
壇上の脇に大人が一人立っていた。大人だった。子供ではなかった。スーツを着ている。眼鏡をかけている。だが顔は同じだった。子供たちと同じ丸い顔。同じ大きな目。同じ三日月の口。子供の顔を引き伸ばしたような大人の顔。
先生だった。
「あ、来た来た。おいでおいで」
先生が手招きした。にこにこと。
「みんなー、今日は新しいお友達が来てくれましたよー。さあ、前に出て、お名前を教えてくださいね」
百人の子供が一斉に拍手した。ぱちぱちぱちぱち。同じリズム。同じ強さ。同じ速度の拍手が体育館に反響した。
棘は壇上のパイプ椅子を見た。三つ。三人分。自分と縁と戸塚。
先生がこちらを見ていた。笑顔で。
「さあ、自己紹介。お名前と、好きなものを教えてね」
好きなもの。
棘の拳が震えた。
好きなものを言う。それは区別することだ。好きなものがあるということは、嫌いなものがあるということだ。好きと嫌いを分けることは、この世界では。
棘は左目がうずくのを感じた。眼帯の下で、少女がまだ走っている。森の中を。木の幹のアルファベットが増えていた。見なくても分かった。Tが加わっている。AからT。二十文字。
そしてアルファベットの合間を歩く子供たちの列が、前より長くなっていた。先頭の黒い影が、本を開いて何かを読み聞かせている。
一週間前、右目で見えた影を思い出した。台所の窓の外。向かいのビルの屋上。あれ以来見えてはいない。だが見えなくなったわけではない気がした。見えないのと、見ていないのは違う。
縁には言えなかった。今もまだ。
棘は目を開けた。
百人の子供が笑っていた。
「「「よろしくね!」」」
前回と同じスーツ。同じネクタイ。だが手に封筒を持っていた。中に写真が入っていた。
「妻と娘です。写真ならまだ区別がつくので。撮っておきました」
棘は緑茶を出した。戸塚は一口飲んで、湯呑みをテーブルに置いた。
「始めましょう」
短かった。営業マンの時間の使い方だった。決断したら実行する。それだけ。
奥の和室。布団の上に三人が並んだ。縁が真ん中。右に戸塚、左に棘。縁が針を右手に持った。左手の人差し指に先端を刺した。指先には針傷がいくつもあった。ケース1の分。ケース2の分。ケース3の分。治療のたびに増える。血が一滴、布団に落ちた。
「入ります」
世界が裏返った。
最初に来たのは、何もなかった。
匂いも音も温度もなかった。三人は立っていたが、足の裏に床の感触がない。目を開けているのに何も見えない。息を吸ったが空気の味がしない。暗闇ですらなかった。暗闇には「暗い」という質がある。ここにはそれすらない。
何も、ない。
棘は声を出そうとした。縁さん、と。喉は動いたが、音が世界に出ていかなかった。声が体の中で反射して戻ってきた。右手首のサポーターの下が疼いた。鋏を握る手の、使いすぎた腱。
三秒。五秒。十秒。
おい、と棘は思った。今までで一番怖い。ケース1の腐った甘い匂いも、ケース3の歪んだチャイムの音も、少なくとも「ある」ことが分かった。今は何もない。自分がいるのかも分からない。
二十秒。
足の裏に、何かが触れた。
柔らかい。温かい。手だ。子供の手が、棘の足首を掴んでいた。
世界が、下から来た。
地面が足の裏に浮き上がってきた。アスファルト。運動場のアスファルト。白い線。体育で使う白い線が、足元から四方に伸びていく。空が上から降りてきた。青。絵の具の青。雲ひとつない、塗りつぶしたような青空。
音が殺到した。子供の声。十人分ではない。五十人分でもない。百人分の子供の声が、全方位から同時に。
「「「おはよう!」」」
目が追いつかなかった。
運動場だった。広い。小学校の運動場。遊具がある。鉄棒。ブランコ。ジャングルジム。すべり台。すべてがパステルカラーで塗られている。水色のブランコ。薄緑の鉄棒。淡いピンクのすべり台。空の青と相まって、絵本のページそのものだった。
子供がいた。
百人。
運動場の至るところに子供がいた。ブランコを漕いでいる子。砂場で遊んでいる子。鬼ごっこをしている子。縄跳びをしている子。全員が同じ体操服を着ていた。白い半袖シャツに紺色の短パン。赤い帽子。
顔が同じだった。
丸い顔。大きな目。小さな鼻。三日月形の口。笑っている。全員が笑っている。目の形も眉の角度も歯の並びも全部同じ。絵本の表紙に描かれていた子供の顔。あの黄色い表紙の、手をつないだ子供たちの顔が、百人分、目の前にいた。
棘の鳩尾が冷えた。
今まで見た怪異には個体差があった。マカロンは大柄な女性だった。クマは一体の巨大なぬいぐるみだった。魔法使いは老人だった。それぞれが固有の形を持っていた。
百人の子供には差がなかった。身長も体格も髪型も全部同じ。判子で押したように同じ子供が百人。
「棘くん」
縁の声がした。声のトーンが変わっていた。雑談がない。観察と指示だけの声。世界モードの縁。
だが、その声に聞き慣れないものが混じっていた。
間。普段の縁にはない間。
「校舎に入る。走らないで。笑って」
笑って。
棘は縁を見た。縁は笑っていた。普段の棒読みの愛想笑いではなかった。もっと自然な、もっと無害な笑顔。校庭にいる見学者の笑顔。怖がっていない人間の顔をしていた。
棘は自分の顔を作った。笑え。友好的に。この世界では、友好的であることが生存条件だ。
戸塚を見た。
戸塚は動いていなかった。立ったまま、百人の子供を見ていた。目が開いている。口が半分開いている。両手がスーツのズボンの脇で握りしめられていた。
変わっていた。
何が、とは最初分からなかった。スーツは同じ。ネクタイも同じ。身長も同じ。だが何かが薄くなっていた。顔の輪郭が丸みを帯びていた。顎のラインが柔らかくなっている。目がわずかに大きくなっている。
戸塚の顔が、子供たちの顔に近づいていた。
「動いて、戸塚さん」
縁が戸塚の肘に触れた。戸塚が弾かれたように縁を見た。
「ここ、は」
「校庭です。歩いてください。普通に。笑って」
戸塚が笑おうとした。口が震えた。だが形にはなった。営業の笑顔。何千回と作ってきた笑顔。
三人は校舎に向かって歩いた。
子供たちがこちらを見ていた。百人の同じ顔が、三人を見ていた。だが誰も近づいてこなかった。遠くから見ているだけ。手を振っている子がいた。ブランコの上から。
「棘くん」
「ああ」
「壁を見て」
校舎の外壁だった。コンクリートにクリーム色のペンキ。窓が規則正しく並んでいる。壁の一部にタイル画が嵌め込まれている。子供たちが手をつないでいるタイル画。
その下に文字があった。
棘は読もうとした。
読めなかった。
文字があるのは分かった。日本語の文字だ。ひらがなが並んでいる。だが全部同じ文字に見えた。同じ文字が何十回も繰り返されている。
と。
と、と、と、と、と、と、と、と、と。
全部「と」だった。壁に書かれた文章が、一文字の繰り返しに見えた。
「縁さん。読めるか」
「読めない」
棘は足を止めた。縁が読めない。物語世界で壁に浮かぶ文字を読み、世界の構造を解析する。それが縁の最も基本的な能力だった。ケース1では壁に滲んだ文字を追った。ケース2では壁紙の下に透けた文字を読んだ。ケース3では黒板の下の彫り込みを解読した。
読めない、と縁が言ったのは初めてだった。
「文字が区別できない」
縁の声が低かった。感情がないのではなく、感情を出さないようにしている声。
「全部同じに見える。ひらがなの形が判別できない。あ、と、い、の違いが分からない。全部同じ文字に見える」
この世界の侵食だった。「区別するな」という命令が、文字にまで及んでいた。顔だけではない。文字すら区別させない。
縁が壁から手を離した。指先が震えていた。一瞬だけ。すぐに止まった。
「校舎の中に入る。別の手がかりを探す」
昇降口から入った。靴箱が並んでいた。一人一つ。ラベルが貼ってある。全部同じ文字。読めない。靴も全部同じだった。白い上履き。百足分。同じサイズ。
廊下は長かった。リノリウムの床。壁に子供たちの絵が貼ってある。画用紙にクレヨンで描いた絵。
全部同じ絵だった。
丸い顔。大きな目。三日月の口。隣に立っている丸い顔。二人が手をつないでいる。その隣にも丸い顔。三人が手をつないでいる。四人。五人。十人。全部の絵が同じ構図で、人数だけが違った。
「これが百まで増える」
縁が最後の絵を見た。画用紙いっぱいに百人の丸い顔が描かれていた。全員が手をつないでいる。画用紙の余白がない。百人の顔でぎっしりと埋まっている。
「教室に」
教室の引き戸を開けた。
三十の机と椅子。木製。天板に名札が嵌め込まれている。白いプラスチックに文字が印刷されている。
全部「ともだち」と書いてあった。
名前がない。苗字も名前も番号もない。三十の机すべてに「ともだち」。隣の教室も確認した。「ともだち」。その隣も。「ともだち」。
黒板があった。チョークで文字が書いてある。大きな文字。
棘には読めた。この文字だけは、なぜか読めた。
きょうの もくひょう
みんなで なかよく しましょう
一つだけ文字が読める場所があった。世界で唯一の意味のある文字が、この命令だった。
「戸塚さん」
縁が教室に入らず、廊下に立ったまま言った。
「この教室に見覚えは」
戸塚が教室を見ていた。顔がさらに変わっていた。輪郭がもっと丸くなっている。目の幅が広がっている。スーツが少し余っている。体が縮んでいるわけではない。スーツのサイズが合わなくなっていた。
「四年三組」
戸塚の声がかすれていた。
「学級会をやった教室。この並び。窓際の三列目。あそこが僕の席で、前から五番目」
三列目の窓際、前から五番目の席。机の名札は「ともだち」。
「リーダーの子は、一列目の一番前でした。先生の真正面。どの席だったか、今でも覚えてます。二十五年経っても」
戸塚がネクタイに手をやった。締め直すように。だがネクタイの結び目は緩んでいなかった。指先が行き場を失って、胸元で止まった。
棘は、触れた。
戸塚の肘に。軽く。情報を取りに行ったのではなかった。安心させるために。だが触れた瞬間に、来た。
来なかった。
正確には何も来なかった。棘の共感体質は、触れた人間の感情を洪水のように流し込む。榊の飢餓感。瑛太の恐怖。紗世の窒息感。毎回、膝をつくほどの衝撃が来た。
戸塚からは何も来なかった。
平坦だった。地表の起伏を全部削って均したような、完全に水平な感情の地面。喜びも悲しみも怒りも恐怖もない。あるのは一定の温度と、一定の湿度と、一定の明るさだけ。空調の効いたオフィスの空気。快適で、無害で、何もない。
棘は手を離さなかった。
押した。
意識的に。共感の回路を普段より深く開いた。表層の下に何があるか。水平な地面の下に何が埋まっているか。
地面が割れた。
下から来た。百の声。百の悲鳴ではなかった。悲鳴は音になる。これは音にならなかった。百の沈黙が一斉に叫んでいた。助けて、ではない。ここにいる、だった。ここにいる。ここにいる。俺はここにいる。私はここにいる。僕はここにいる。百の異なる声色で、百の異なる言い回しで、全員が同じことを叫んでいた。
ここにいる。ここにいるのに。
誰も見てくれない。
棘の目から涙が出た。鳩尾から胸にかけて、えぐられるような痛みがあった。だがこれは流入ではなかった。棘自身の反応だった。百の沈黙に、棘の体が反応した。
手を離した。息が荒かった。
「棘くん」
「大丈夫だ」
大丈夫ではなかった。だが今は止まれない。
「戸塚さんの中じゃない。この学校全体だ。あの子供たち全員。全員が自分の名前を叫んでる。でも声にならない。『ともだち』って名札の下に、全員の本当の名前がある。百人分の違う名前が」
縁が棘を見た。三秒。それから頷いた。
「保健室を探す」
理由は言わなかった。普段の縁なら言う。「壁紙の下に文字がある」「インクが湿ってる」と手がかりを言語化する。今回は言わなかった。文字が読めない。手がかりが拾えない。だから行き先を直感で選んだ。縁が直感で動くのは、棘が知る限り初めてだった。
廊下を歩いた。保健室の表示板があった。文字は読めないが、赤い十字のマークが描かれていた。文字ではなく図形。図形は区別できる。
引き戸を開けた。
白いカーテン。ベッドが二台。薬棚。身長計。体重計。視力検査の表が壁に掛かっている。Cの字が並んでいる。上から大きいのが一つ、中くらいが三つ、小さいのが五つ。
Cの字が全部同じ方向を向いていた。
右。全部右。上も下も左も右もなく、全部の切れ目が右を向いている。区別できない視力検査表。見えても見えなくても結果が同じ。
「縁さん」
棘が声を落とした。
保健室の奥の壁。棚があった。透明なプラスチックのケースが並んでいる。中身が見えた。
顔だった。
子供の顔の形をしたものが、ケースの中に並んでいた。肌色のシリコンのような素材。目。鼻。口。耳。全部ついている。全部同じ。さっき校庭にいた百人の子供と同じ顔。
ケースに手書きのラベルが貼ってあった。文字は読めない。だが数字は読めた。数字は「区別するための記号」ではなく「順序を表す記号」だからだ。数字だけが、この世界でまだ機能していた。
1、2、3、4、5。五つのケース。
棘は一番手前のケースを開けた。
顔が呼吸していた。
肌色のシリコンではなかった。皮膚だった。薄い、人間の皮膚。鼻孔が微かに開閉している。唇が空気を吸い、吐いている。瞼が閉じている。閉じた瞼の下で、目が動いていた。夢を見ている人間のように。
温かかった。
生きている。
棘は蓋を閉じた。指先が冷たくなっていた。
「予備の顔だ」
縁が隣のケースを確認していた。同じだった。同じ顔。同じ呼吸。
「壊れたら取り替える。全員同じ顔を維持するために。誰かの顔が傷ついたり、表情が歪んだりしたら、新しい顔に付け替える」
縁の声は観察報告の声だった。だが言葉が少なかった。普段なら構造を解説する。なぜそうなっているか、トラウマとどう接続しているか。今回はそこまで踏み込めていなかった。
「表情が歪む」
棘が繰り返した。
「怒ったり。泣いたり。笑い方が人と違ったり」
「個別の感情を見せること自体が『故障』扱い」
戸塚が壁にもたれていた。顔がまた変わっていた。目がさらに大きくなっている。輪郭がさらに丸くなっている。子供の顔に近づいている。
そのとき、棘は気がついた。
戸塚の目に、涙が浮かんでいた。
涙が出ている。それ自体はおかしくない。だが問題は、涙が出ているのに顔が変わり続けていることだった。泣いている。個別の感情を見せている。なのに世界は戸塚の顔を「ともだち」の顔に変え続けている。
つまり、顔の変化はこの場にいるだけで進行する。感情を殺しても殺さなくても、この世界にいる限り「同じ顔」に近づいていく。
抵抗できない。
「戸塚さん」
棘は戸塚の前に立った。正面から目を見た。変わりかけた目。大人の目と子供の目の中間。
「顔が変わってきてます。知ってますか」
「分かる。鏡は見てない。でも分かる。顔の筋肉が動いてる。勝手に」
戸塚の声は落ち着いていた。恐怖を社会人の鋳型に流し込んでいる。受付のときと同じだった。
縁が保健室の窓から校庭を見た。子供たちがまだ遊んでいた。百人の同じ顔。ブランコ。すべり台。鬼ごっこ。誰が鬼かは分からない。全員同じ顔だから。
「チャイムが鳴る前に動く。校舎の二階に上がる。職員室か図書室。文字が読めないなら、別のものを探す」
「何を」
「分からない」
縁が言った。分からない。
棘は縁の横顔を見た。物語世界の縁は迷わない。常に何かを読み、何かを見つけ、次の指示を出す。分からない、と縁が言うのを、物語世界の中で聞いたのは初めてだった。
棘の背筋が冷えた。
怖かった。怪異が百体いることより。予備の顔が呼吸していることより。縁が「分からない」と言ったことが、一番怖かった。
二階に上がった。階段の壁に標語が貼ってある。読めない。絵だけが分かる。手をつないだ子供の絵。笑顔の子供の絵。全部同じ顔。
図書室があった。
引き戸を開けた。
本棚が壁一面を覆っていた。木製の本棚。五段。横に八列。棚ぎっしりに本が詰まっている。背表紙が見えた。色はさまざまだった。赤、青、緑、黄、紫。色だけが違った。
縁が一冊抜き取った。開いた。
閉じた。
別の一冊を抜いた。開いた。閉じた。三冊目。四冊目。五冊目。
棘は縁の手元を覗いた。
全部同じだった。
中身がない。正確には、中身はある。文字が印刷されている。だが全ページ同じ文字の繰り返し。同じ文字が、活字のサイズだけ変えて、ページを埋め尽くしている。タイトルも本文も奥付も全部同じ文字。
「何の文字に見える」
縁が棘に聞いた。
「と」
「私にも『と』に見える。でも、たぶん文字じゃない。これは模様。文字の形をした模様。意味がない。意味を与えるとそれが『区別』になるから。この世界では意味すら均されてる」
縁が本を棚に戻した。
「棘くん」
「ああ」
「この世界、今までと構造が違う」
縁が図書室の窓辺に立った。校庭が見下ろせた。子供たちがまだ遊んでいた。
「ケース1は物語が腐っていた。食材が内臓に変わった。ケース2は物語の意味が反転していた。安全が拘束に変わった。ケース3はルールが人格を潰していた。正しさが暴力になっていた」
縁が窓枠に指を置いた。
「ここには腐敗がない」
「腐敗がない」
「文字が読めないのは、文字が壊れたからじゃない。区別が存在しないから、文字が文字として機能しない。腐ってるんじゃなくて、均されてる。全部が同じ高さに均されてる。突出も欠損もない。だから私の針は刺す場所がない。裂け目がないから縫えない」
棘は理解した。
今までのケースでは、腐った部分が明確にあった。壊死した箇所を棘が切り、裂け目を縁が縫った。だがこの世界には壊死がない。全部が等しく生きている。等しく健康で、等しく笑っていて、等しく何も問題がない。
問題がない世界で、何を治す。
「それでも戸塚さんは侵食されてる。顔が変わってきてる。均される方向に。この世界にいるだけで」
「時間がない」
縁が窓から離れた。
「図書室の奥に部屋がある。司書室。あそこを見る」
図書室の奥に小さなドアがあった。縁が開けた。
狭い部屋だった。デスクが一つ。椅子が一つ。壁に本棚。この部屋の本棚には本が少なかった。十冊ほど。他の棚は空だった。
デスクの上に一冊の本が開いたまま置かれていた。
縁が近づいた。本を見た。
「これは読める」
棘が横から覗いた。
読めた。文字が文字として見えた。この世界で初めて、意味のある文を読んだ。
きょうは にゅうがくしき。
がっこうに あたらしい ともだちが きました。
なまえは とつかりょういちくん。
戸塚諒一。
「原本だ」
縁が本のページを捲った。
とつかくんは はずかしがりやです。
でも がんばって みんなに こえを かけました。
「いっしょに あそぼう」
ともだちが ひとり ふえました。
「これが腐る前の物語。戸塚さんが子供の頃に読んだ絵本の、戸塚さん版の物語。原本のきれいな状態が、ここにだけ残ってる」
ページを捲り続けた。挿絵があった。丸い顔の子供。二人。三人。友達が一人ずつ増えていく。どのページも穏やかだった。新しい友達ができる喜びが、丸い文字で綴られていた。
十ページ目で、文字が変わった。
せんせいが いいました。
「みんな なかよく しましょう」
とつかくんは てを つなぎました。
きらいな こ とも。
十一ページ目。挿絵の子供が五人増えていた。でも前のページとは違っていた。手をつないでいるが、つないでいる手が白かった。血の気がない手。笑顔は同じだった。だが目が描かれていなかった。目のない笑顔が五つ。
十二ページ目。
ともだちが ふえました。
10にん。20にん。30にん。
みんな おなじ かおに なりました。
だって ともだちは みんな おなじだから。
ここでページが終わっていた。次のページは白紙だった。その次も白紙。物語が途中で止まっている。
「十二ページ目以降が腐敗した部分。白紙になってるけど消えたんじゃない。白紙の下に押し込められてる。読めない文字として均されてる」
縁が本を閉じた。
「この原本が読めるのは、ここだけが戸塚さんの記憶の中で『区別』が残ってる場所だからだ。司書室。一人でいる場所。誰とも仲良くしなくていい場所」
棘は部屋を見回した。デスクの上に鉛筆が一本。削りかけの。消しゴムが一つ。使い込まれた。ノートが一冊。閉じてある。
ノートを開いた。
名前が書いてあった。
とつか りょういち
その下に、文章。
きょうは みんなと あそびたくなかった。
でも あそばないと 「なかよく してない」って おこられる。
だから にこにこ した。
にこにこ するのは もう じょうずに なった。
棘の胸が詰まった。自分の痛みだった。共感体質を通さない、棘自身の痛みだった。
チャイムが鳴った。
キンコンカンコン。四音。校舎全体に響いた。
窓の外で子供たちが動いた。一斉に。遊びをやめ、列を作り始めた。百人が同じ動きで同じ方向に歩いている。校舎の入口に向かって。
「戻ってくる」
縁が言った。
「ここにいる。この部屋から出ない。ドアを閉める」
棘がドアを閉めた。鍵はなかった。
廊下を足音が近づいてきた。百人分の足音。ぱたぱたぱたと上履きがリノリウムを叩く音。全員同じリズム。
足音が図書室の前を通過した。通過したはずだった。
引き戸が開いた。
子供が立っていた。一人。丸い顔。大きな目。三日月の口。笑っている。
「あ、いた」
子供が司書室を覗き込んだ。
「せんせいが、よんでるよ。あたらしい ともだちの しょうかいを するんだって。おいでよ」
手を差し伸べた。小さな手。子供の手。
「みんな まってるよ」
子供が笑った。悪意のない笑顔。本当に、心の底から、一緒に遊びたいだけの笑顔だった。
棘は子供を見た。目を見た。丸い目。くりくりした目。その奥に、何もなかった。個人の色がなかった。感情が均されて一定温度になっていた。
だが棘は知っていた。この下に本当の声がある。本当の名前がある。名札の下に隠された本当の。
「行きましょう」
戸塚が言った。
棘と縁が同時に戸塚を見た。
戸塚は笑っていた。子供たちと同じ笑顔ではなかった。営業の笑顔だった。二十五年間使い続けてきた、全員に同じ顔を見せる笑顔。
「行かないと。先生が待ってる」
「戸塚さん」
「大丈夫です。慣れてますから。これだけは」
戸塚がネクタイを直した。スーツがまた少し余っていた。体のサイズが合わなくなっている。大人の体が子供に戻ろうとしている。
戸塚が司書室を出た。
棘は縁を見た。縁は棘を見た。
縁の目に、棘が見たことのないものがあった。
焦り。
糸守縁が焦っている。文字が読めない。裂け目が見つからない。針を刺す場所がない。今までの手順が使えない。
「行く」
縁が言った。短く。迷いがあるまま。
三人は司書室を出た。子供が先導した。ぱたぱたと走る。棘と縁と戸塚がその後を追った。
階段を降りた。一階の廊下を歩いた。体育館に向かう渡り廊下。窓の外は青空。雲一つない。
体育館の扉が開いていた。
中に入った。
百人の子供が椅子に座っていた。五列二十行。全員がこちらを向いていた。全員が笑っていた。同じ顔で。
壇上にパイプ椅子が三つ用意されていた。
壇上の脇に大人が一人立っていた。大人だった。子供ではなかった。スーツを着ている。眼鏡をかけている。だが顔は同じだった。子供たちと同じ丸い顔。同じ大きな目。同じ三日月の口。子供の顔を引き伸ばしたような大人の顔。
先生だった。
「あ、来た来た。おいでおいで」
先生が手招きした。にこにこと。
「みんなー、今日は新しいお友達が来てくれましたよー。さあ、前に出て、お名前を教えてくださいね」
百人の子供が一斉に拍手した。ぱちぱちぱちぱち。同じリズム。同じ強さ。同じ速度の拍手が体育館に反響した。
棘は壇上のパイプ椅子を見た。三つ。三人分。自分と縁と戸塚。
先生がこちらを見ていた。笑顔で。
「さあ、自己紹介。お名前と、好きなものを教えてね」
好きなもの。
棘の拳が震えた。
好きなものを言う。それは区別することだ。好きなものがあるということは、嫌いなものがあるということだ。好きと嫌いを分けることは、この世界では。
棘は左目がうずくのを感じた。眼帯の下で、少女がまだ走っている。森の中を。木の幹のアルファベットが増えていた。見なくても分かった。Tが加わっている。AからT。二十文字。
そしてアルファベットの合間を歩く子供たちの列が、前より長くなっていた。先頭の黒い影が、本を開いて何かを読み聞かせている。
一週間前、右目で見えた影を思い出した。台所の窓の外。向かいのビルの屋上。あれ以来見えてはいない。だが見えなくなったわけではない気がした。見えないのと、見ていないのは違う。
縁には言えなかった。今もまだ。
棘は目を開けた。
百人の子供が笑っていた。
「「「よろしくね!」」」
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