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第2章 第15話「朝食の取引」
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庭の蔦を伝い降りた私たちは、夜明けまで客間で息を潜めていた。
窓の外が白み始めた頃。
慧が静かに立ち上がった。
「朝食の席で、あの男と決着をつける」
その声には、もう震えがなかった。
昨夜、母の手紙を読んだ時とは別人のようだ。
「どうするつもり?」
「取引だ」
慧は懐から、一枚の紙を取り出した。
遺言書のコピー。
時康の不正を証明する、たった一つの切り札。
「これ以上、僕たちに干渉しないことを約束させる」
私は頷いた。
彼の目には、迷いがない。
「法廷の悪魔」が、完全に目を覚ましていた。
-----
ダイニングルームには、すでに時康がいた。
白髪を後ろに撫でつけた老人は、何事もなかったかのように朝食をとっている。
銀のカトラリーが、皿に触れる音だけが響いていた。
「おはよう」
時康は顔も上げなかった。
「昨夜は、よく眠れたかね」
その言葉に、私の背筋が凍った。
知っている。
少なくとも、何かが起きたことは察している。
でも、隣の慧は動じなかった。
「ええ、おかげさまで」
慧は私の椅子を引き、自分も腰を下ろした。
そして、懐から一枚の紙を取り出した。
テーブルの上に、静かに置く。
「これをご存知ですか」
時康の手が、止まった。
ナイフとフォークを持ったまま、老人の目が紙に向けられる。
その瞬間、空気が変わった。
「……どこで、それを」
初めて聞いた。
時康の声が、わずかに揺れるのを。
「母が遺したものです」
慧は淡々と言った。
「先代の遺言書のコピーです。本物は、安全な場所に」
沈黙が落ちた。
時康の顔から、血の気が引いていく。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ、計算が狂った人間の顔だった。
「これを公表すれば」
慧が続けた。
「あなたの当主としての正当性は失われる」
私は息を呑んだ。
これが、「法廷の悪魔」の本領だ。
感情ではなく、証拠で相手を追い詰める。
時康は、しばらく動かなかった。
やがて、カトラリーを置いた。
「……で、お前は何を望む」
声は低く、押し殺されていた。
-----
「破滅は望んでいません」
慧の声は、驚くほど穏やかだった。
「取引です」
時康の目が、わずかに細まる。
「条件は二つ」
慧は指を立てた。
「一つ。ミレイとの婚姻を認め、今後一切の干渉をやめること」
私の心臓が跳ねた。
今、この男は私を「守る」と宣言している。
契約の妻である私を。
「二つ。顧問弁護士の話は、保留としてください」
これには、私も驚いた。
顧問弁護士になることが、契約結婚の目的だったはずだ。
「僕は鳳凰の名ではなく」
慧が続けた。
「高塔慧としての実力で、あなたに認めさせてみせる」
その言葉に、時康の表情が変わった。
怒りでも、屈辱でもない。
何か別のもの。
「……あの女の息子にしては」
時康が、低く呟いた。
「悪知恵が働くようになったな」
皮肉だった。
でも、その目には、かすかな光があった。
興味。
あるいは、評価。
「面白い」
時康がゆっくりと立ち上がった。
「いいだろう。その取引、乗ってやる」
私は信じられなかった。
あの時康が、折れた。
「だが覚えておけ」
老人の目が、鷹のように光った。
「この家は、甘くはないぞ」
それは脅しだった。
でも同時に、宣戦布告でもあった。
一方的な支配ではない。
対等な敵として、認めた証。
-----
荷物をまとめ、玄関に向かう。
筆頭執事が、無言で見送っていた。
昨夜のことは、何も言わない。
ただ、その目がわずかに細められた気がした。
車に乗り込んだ瞬間、慧が長い息を吐いた。
「……終わった」
初めて聞く、安堵の声だった。
「完全に潰さなかったのね」
私は窓の外を見ながら言った。
巨大な洋館が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「まだ利用価値がある」
慧は目を閉じたまま答えた。
「それに、母も復讐までは望んでいなかったはずだ」
私は彼の横顔を見た。
穏やかだった。
昨夜、涙を流した人とは思えないほど。
「性格悪いわね」
私は思わず笑った。
「君に言われたくない」
「……好きよ、そういうところ」
軽口のつもりだった。
でも、言った瞬間、心臓が跳ねた。
慧が目を開けた。
その視線が、私を捉える。
「……今の、契約外だぞ」
「冗談よ、冗談」
私は慌てて視線を逸らした。
顔が熱い。
何を言っているんだ、私は。
車内に、沈黙が落ちた。
でも、不快じゃなかった。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は思った。
この男との契約は、まだ続く。
顧問弁護士の話が「保留」になった以上、偽装結婚を解消する理由はない。
そう思った瞬間、胸の奥がほんのり温かくなった。
-----
都心に入った頃、慧のスマホが鳴った。
画面を見た慧の眉が、わずかに寄る。
「誰?」
「……宮園梨花」
その名前に、私の背中が強張った。
最初に立ちはだかった「敵」。
あの時、「愛され妻」の演技で追い払った女。
慧が通話ボタンを押した。
「……久しぶりですね、宮園さん」
スピーカーにはなっていない。
でも、隣に座る私には、彼女の声がかすかに聞こえた。
「お久しぶりね、高塔先生」
甘い声だった。
でも、その奥に毒がある。
「面白い噂を聞いたの」
慧の表情が、一瞬固まった。
「奥様、昔『別れさせ屋』だったんですって?」
私の血の気が引いた。
心臓が、凍りついたように止まる。
どこから漏れた。
誰が話した。
慧が、ゆっくりと私を見た。
その目には、動揺はなかった。
ただ、冷たい怒りだけがあった。
「……どこでそれを」
「さあ? 噂って怖いわよね」
梨花の声が、耳に残った。
「また連絡するわ。楽しみにしていてね」
通話が切れた。
車内に、重い沈黙が落ちた。
「慧」
「黙って」
慧の声は、静かだった。
でも、その静けさが怖かった。
「……君の過去が漏れた」
「私、そんなつもりじゃ」
「分かっている」
慧が私の手を取った。
強く、でも優しく。
「君を守る。それが契約だ」
その言葉に、私の目が熱くなった。
鳳凰家との戦いは、終わった。
でも、新しい嵐が始まろうとしていた。
私の過去が、最悪の形で。
まだまだ契約結婚のドタバタは続く。
それはまたべつのお話。
窓の外が白み始めた頃。
慧が静かに立ち上がった。
「朝食の席で、あの男と決着をつける」
その声には、もう震えがなかった。
昨夜、母の手紙を読んだ時とは別人のようだ。
「どうするつもり?」
「取引だ」
慧は懐から、一枚の紙を取り出した。
遺言書のコピー。
時康の不正を証明する、たった一つの切り札。
「これ以上、僕たちに干渉しないことを約束させる」
私は頷いた。
彼の目には、迷いがない。
「法廷の悪魔」が、完全に目を覚ましていた。
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ダイニングルームには、すでに時康がいた。
白髪を後ろに撫でつけた老人は、何事もなかったかのように朝食をとっている。
銀のカトラリーが、皿に触れる音だけが響いていた。
「おはよう」
時康は顔も上げなかった。
「昨夜は、よく眠れたかね」
その言葉に、私の背筋が凍った。
知っている。
少なくとも、何かが起きたことは察している。
でも、隣の慧は動じなかった。
「ええ、おかげさまで」
慧は私の椅子を引き、自分も腰を下ろした。
そして、懐から一枚の紙を取り出した。
テーブルの上に、静かに置く。
「これをご存知ですか」
時康の手が、止まった。
ナイフとフォークを持ったまま、老人の目が紙に向けられる。
その瞬間、空気が変わった。
「……どこで、それを」
初めて聞いた。
時康の声が、わずかに揺れるのを。
「母が遺したものです」
慧は淡々と言った。
「先代の遺言書のコピーです。本物は、安全な場所に」
沈黙が落ちた。
時康の顔から、血の気が引いていく。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ、計算が狂った人間の顔だった。
「これを公表すれば」
慧が続けた。
「あなたの当主としての正当性は失われる」
私は息を呑んだ。
これが、「法廷の悪魔」の本領だ。
感情ではなく、証拠で相手を追い詰める。
時康は、しばらく動かなかった。
やがて、カトラリーを置いた。
「……で、お前は何を望む」
声は低く、押し殺されていた。
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「破滅は望んでいません」
慧の声は、驚くほど穏やかだった。
「取引です」
時康の目が、わずかに細まる。
「条件は二つ」
慧は指を立てた。
「一つ。ミレイとの婚姻を認め、今後一切の干渉をやめること」
私の心臓が跳ねた。
今、この男は私を「守る」と宣言している。
契約の妻である私を。
「二つ。顧問弁護士の話は、保留としてください」
これには、私も驚いた。
顧問弁護士になることが、契約結婚の目的だったはずだ。
「僕は鳳凰の名ではなく」
慧が続けた。
「高塔慧としての実力で、あなたに認めさせてみせる」
その言葉に、時康の表情が変わった。
怒りでも、屈辱でもない。
何か別のもの。
「……あの女の息子にしては」
時康が、低く呟いた。
「悪知恵が働くようになったな」
皮肉だった。
でも、その目には、かすかな光があった。
興味。
あるいは、評価。
「面白い」
時康がゆっくりと立ち上がった。
「いいだろう。その取引、乗ってやる」
私は信じられなかった。
あの時康が、折れた。
「だが覚えておけ」
老人の目が、鷹のように光った。
「この家は、甘くはないぞ」
それは脅しだった。
でも同時に、宣戦布告でもあった。
一方的な支配ではない。
対等な敵として、認めた証。
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荷物をまとめ、玄関に向かう。
筆頭執事が、無言で見送っていた。
昨夜のことは、何も言わない。
ただ、その目がわずかに細められた気がした。
車に乗り込んだ瞬間、慧が長い息を吐いた。
「……終わった」
初めて聞く、安堵の声だった。
「完全に潰さなかったのね」
私は窓の外を見ながら言った。
巨大な洋館が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「まだ利用価値がある」
慧は目を閉じたまま答えた。
「それに、母も復讐までは望んでいなかったはずだ」
私は彼の横顔を見た。
穏やかだった。
昨夜、涙を流した人とは思えないほど。
「性格悪いわね」
私は思わず笑った。
「君に言われたくない」
「……好きよ、そういうところ」
軽口のつもりだった。
でも、言った瞬間、心臓が跳ねた。
慧が目を開けた。
その視線が、私を捉える。
「……今の、契約外だぞ」
「冗談よ、冗談」
私は慌てて視線を逸らした。
顔が熱い。
何を言っているんだ、私は。
車内に、沈黙が落ちた。
でも、不快じゃなかった。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は思った。
この男との契約は、まだ続く。
顧問弁護士の話が「保留」になった以上、偽装結婚を解消する理由はない。
そう思った瞬間、胸の奥がほんのり温かくなった。
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都心に入った頃、慧のスマホが鳴った。
画面を見た慧の眉が、わずかに寄る。
「誰?」
「……宮園梨花」
その名前に、私の背中が強張った。
最初に立ちはだかった「敵」。
あの時、「愛され妻」の演技で追い払った女。
慧が通話ボタンを押した。
「……久しぶりですね、宮園さん」
スピーカーにはなっていない。
でも、隣に座る私には、彼女の声がかすかに聞こえた。
「お久しぶりね、高塔先生」
甘い声だった。
でも、その奥に毒がある。
「面白い噂を聞いたの」
慧の表情が、一瞬固まった。
「奥様、昔『別れさせ屋』だったんですって?」
私の血の気が引いた。
心臓が、凍りついたように止まる。
どこから漏れた。
誰が話した。
慧が、ゆっくりと私を見た。
その目には、動揺はなかった。
ただ、冷たい怒りだけがあった。
「……どこでそれを」
「さあ? 噂って怖いわよね」
梨花の声が、耳に残った。
「また連絡するわ。楽しみにしていてね」
通話が切れた。
車内に、重い沈黙が落ちた。
「慧」
「黙って」
慧の声は、静かだった。
でも、その静けさが怖かった。
「……君の過去が漏れた」
「私、そんなつもりじゃ」
「分かっている」
慧が私の手を取った。
強く、でも優しく。
「君を守る。それが契約だ」
その言葉に、私の目が熱くなった。
鳳凰家との戦いは、終わった。
でも、新しい嵐が始まろうとしていた。
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