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第2章 第14話「金庫の中身と、炎の記憶」
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ドーベルマンの目が、暗がりの中で光っている。
私は肉を掲げたまま、一歩も動かなかった。
犬は正直だ。
恐怖を見せた瞬間、襲いかかってくる。
「そう、いい子」
私は低く、穏やかに声をかけた。
肉の匂いが、廊下に広がる。
バレリアンの香りも、一緒に。
ドーベルマンの鼻が、ひくひくと動いた。
唸り声が、わずかに弱まる。
「美味しいでしょ。あんたのために持ってきたの」
私はゆっくりと腰を落とし、肉を床に置いた。
犬の視線が、私の手元に移る。
本能と訓練が、せめぎ合っているのが分かる。
でも、空腹には勝てない。
ドーベルマンが、一歩近づいた。
もう一歩。
そして、肉に顔を埋めた。
「行くわよ」
私は慧の腕を掴み、書斎の扉へ向かった。
-----
扉は、鍵がかかっていなかった。
私たちは音を殺して中に滑り込んだ。
背後で、犬が肉を貪る音が聞こえる。
バレリアンが効き始めるまで、あと数分。
「ここが、あの男の書斎か」
慧が低く呟いた。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
重厚なマホガニーの執務机。
壁一面を埋め尽くす、革装丁の洋書。
使われていない暖炉。
そして、正面の壁には巨大な肖像画。
白髪の老人が、こちらを睥睨している。
時康ではない。
もっと威厳のある、鷹のような目をした男。
「先代だ」
慧の声が、かすかに震えた。
「この家の先代当主だ」
私は肖像画を見上げた。
この男の遺言書を、時康は燃やそうとした。
でも、慧の母が本物をすり替えた。
「金庫は、どこ」
私は書斎を見回した。
日記には「書斎の金庫」としか書かれていない。
隠し場所は、自分たちで見つけるしかない。
「暖炉か、肖像画の裏か」
慧が呟いた。
「あの男なら、どこに隠す」
私は暖炉に近づいた。
煉瓦を一つずつ押してみる。
反応がない。
「待て」
慧が肖像画の前に立った。
「母なら、どこに隠す」
その言葉に、私ははっとした。
金庫を隠したのは、時康じゃない。
慧の母だ。
「あの男の目の届かない場所」
慧が肖像画の縁に手をかけた。
「でも、あの男が毎日見る場所」
カチリ。
かすかな音がして、肖像画が揺れた。
慧が絵を持ち上げると、その裏に小さな扉があった。
鍵穴が、月光を反射している。
「これだ」
慧がポケットから、あの小さな鍵を取り出した。
鳥籠の中に眠っていた、母の遺品。
鍵を差し込む。
回す。
カチリ。
重い音がして、扉が開いた。
-----
金庫の中には、二つのものがあった。
一つは、黄ばんだ封筒に入った書類。
もう一つは、小さな手紙。
慧が書類を手に取った。
封筒には「遺言状」と書かれている。
「本物の遺言書だ」
慧の声が、かすかに揺れた。
「これがあれば、時康の不正を証明できる」
私は頷いた。
でも、慧の目は書類ではなく、手紙に向いていた。
宛名は、震える文字で書かれている。
「愛する慧へ」
慧の指が、手紙に伸びた。
そして、止まった。
「……読んで」
私は首を振った。
「あんたが読むべきよ」
慧は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと封を切った。
-----
慧へ
これを読んでいるあなたは、どんな大人になっているでしょうか。
私があなたを置いて去ったこと。
許してもらえるとは、思っていません。
でも、知ってほしいのです。
時康様は、あなたを「後継者」にしようとしていました。
あの方のように、人を踏みにじって生きる人間に。
私は、取引をしました。
私がこの家から消えれば、あなたを自由にすると。
だから、私は去りました。
あなたが、あなたのままでいられるように。
弁護士になったと聞きました。
人を助ける仕事を選んでくれたこと。
誇りに思います。
愛しています。
ずっと、ずっと。
あなたの母より
-----
慧の声が、途中から震え始めた。
最後の一行を読み終えた時。
彼の肩が、小さく揺れた。
「僕は」
声が、かすれていた。
「捨てられたんじゃ、なかった」
私は何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。
慧の目から、光るものが頬を伝った。
音もなく、静かに。
私は、気づいたら彼を抱きしめていた。
「あんたは愛されてたのよ」
私の声も、震えていた。
「ずっと。最初から」
慧の体が、わずかに強張った。
そして、ゆっくりと力が抜けていく。
彼の手が、私の背中に回った。
強く、でも優しく。
どれくらい、そうしていただろう。
廊下から、足音が聞こえた。
-----
私は咄嗟に慧から離れた。
足音は、規則正しく近づいてくる。
複数ではない。
一人だ。
筆頭執事。
ボヤ騒ぎから、戻ってきた。
ガチャリ。
ドアノブが回った。
「誰かいるのですか」
冷たい声が、扉の向こうから響いた。
私は慧の手を掴んだ。
逃げ道は、一つしかない。
「窓よ」
私は窓に駆け寄り、鍵を外した。
二階だ。
でも、壁には古い蔦が絡みついている。
「行けるわ」
慧が頷いた。
その目には、もう迷いがなかった。
扉が開く音がした。
私は窓枠に足をかけ、慧の手を引いた。
月明かりの下、二人は夜の庭へ飛び出した。
私は肉を掲げたまま、一歩も動かなかった。
犬は正直だ。
恐怖を見せた瞬間、襲いかかってくる。
「そう、いい子」
私は低く、穏やかに声をかけた。
肉の匂いが、廊下に広がる。
バレリアンの香りも、一緒に。
ドーベルマンの鼻が、ひくひくと動いた。
唸り声が、わずかに弱まる。
「美味しいでしょ。あんたのために持ってきたの」
私はゆっくりと腰を落とし、肉を床に置いた。
犬の視線が、私の手元に移る。
本能と訓練が、せめぎ合っているのが分かる。
でも、空腹には勝てない。
ドーベルマンが、一歩近づいた。
もう一歩。
そして、肉に顔を埋めた。
「行くわよ」
私は慧の腕を掴み、書斎の扉へ向かった。
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扉は、鍵がかかっていなかった。
私たちは音を殺して中に滑り込んだ。
背後で、犬が肉を貪る音が聞こえる。
バレリアンが効き始めるまで、あと数分。
「ここが、あの男の書斎か」
慧が低く呟いた。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
重厚なマホガニーの執務机。
壁一面を埋め尽くす、革装丁の洋書。
使われていない暖炉。
そして、正面の壁には巨大な肖像画。
白髪の老人が、こちらを睥睨している。
時康ではない。
もっと威厳のある、鷹のような目をした男。
「先代だ」
慧の声が、かすかに震えた。
「この家の先代当主だ」
私は肖像画を見上げた。
この男の遺言書を、時康は燃やそうとした。
でも、慧の母が本物をすり替えた。
「金庫は、どこ」
私は書斎を見回した。
日記には「書斎の金庫」としか書かれていない。
隠し場所は、自分たちで見つけるしかない。
「暖炉か、肖像画の裏か」
慧が呟いた。
「あの男なら、どこに隠す」
私は暖炉に近づいた。
煉瓦を一つずつ押してみる。
反応がない。
「待て」
慧が肖像画の前に立った。
「母なら、どこに隠す」
その言葉に、私ははっとした。
金庫を隠したのは、時康じゃない。
慧の母だ。
「あの男の目の届かない場所」
慧が肖像画の縁に手をかけた。
「でも、あの男が毎日見る場所」
カチリ。
かすかな音がして、肖像画が揺れた。
慧が絵を持ち上げると、その裏に小さな扉があった。
鍵穴が、月光を反射している。
「これだ」
慧がポケットから、あの小さな鍵を取り出した。
鳥籠の中に眠っていた、母の遺品。
鍵を差し込む。
回す。
カチリ。
重い音がして、扉が開いた。
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金庫の中には、二つのものがあった。
一つは、黄ばんだ封筒に入った書類。
もう一つは、小さな手紙。
慧が書類を手に取った。
封筒には「遺言状」と書かれている。
「本物の遺言書だ」
慧の声が、かすかに揺れた。
「これがあれば、時康の不正を証明できる」
私は頷いた。
でも、慧の目は書類ではなく、手紙に向いていた。
宛名は、震える文字で書かれている。
「愛する慧へ」
慧の指が、手紙に伸びた。
そして、止まった。
「……読んで」
私は首を振った。
「あんたが読むべきよ」
慧は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと封を切った。
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慧へ
これを読んでいるあなたは、どんな大人になっているでしょうか。
私があなたを置いて去ったこと。
許してもらえるとは、思っていません。
でも、知ってほしいのです。
時康様は、あなたを「後継者」にしようとしていました。
あの方のように、人を踏みにじって生きる人間に。
私は、取引をしました。
私がこの家から消えれば、あなたを自由にすると。
だから、私は去りました。
あなたが、あなたのままでいられるように。
弁護士になったと聞きました。
人を助ける仕事を選んでくれたこと。
誇りに思います。
愛しています。
ずっと、ずっと。
あなたの母より
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慧の声が、途中から震え始めた。
最後の一行を読み終えた時。
彼の肩が、小さく揺れた。
「僕は」
声が、かすれていた。
「捨てられたんじゃ、なかった」
私は何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。
慧の目から、光るものが頬を伝った。
音もなく、静かに。
私は、気づいたら彼を抱きしめていた。
「あんたは愛されてたのよ」
私の声も、震えていた。
「ずっと。最初から」
慧の体が、わずかに強張った。
そして、ゆっくりと力が抜けていく。
彼の手が、私の背中に回った。
強く、でも優しく。
どれくらい、そうしていただろう。
廊下から、足音が聞こえた。
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私は咄嗟に慧から離れた。
足音は、規則正しく近づいてくる。
複数ではない。
一人だ。
筆頭執事。
ボヤ騒ぎから、戻ってきた。
ガチャリ。
ドアノブが回った。
「誰かいるのですか」
冷たい声が、扉の向こうから響いた。
私は慧の手を掴んだ。
逃げ道は、一つしかない。
「窓よ」
私は窓に駆け寄り、鍵を外した。
二階だ。
でも、壁には古い蔦が絡みついている。
「行けるわ」
慧が頷いた。
その目には、もう迷いがなかった。
扉が開く音がした。
私は窓枠に足をかけ、慧の手を引いた。
月明かりの下、二人は夜の庭へ飛び出した。
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