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3章 顕現編
第17話「ダンジョンの少女、空を見る」
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テレビの画面に赤い帯が走った。
『速報 未踏破ダンジョン付近で人型のマナ反応を観測 探索者協会が確認中』
居酒屋のカウンター。昼下がりの店内に客はまばらで、壁掛けのテレビだけが騒がしい。キャスターが原稿を読み上げている。「ダンジョン外部で人型のマナ反応が確認されたのは、観測史上初めてのことです」
カメラが切り替わった。空撮。ダンジョン入口の周辺に警察車両が並んでいる。
その映像の端に、ふたりの人影が映った。背の高い男と、白い髪の少女。手を繋いでいる。
カウンターに座っていた中年の男が、テレビを指差した。
「おい。あれ、ソウじゃねえか」
もうひとりが箸を止めた。
「マジだ。隣の子、誰だ」
ふたりはテレビに釘付けになった。全国で同じ反応が起きていた。
30分前。
ダンジョンの入口から、想が一歩踏み出した。右手を引かれている。ノアが想の腕を両手で抱えたまま、地上に足を下ろした。
靴の底が砂利を踏む音。ノアは一瞬動きを止めた。
「想さん」
「ん」
「地面が、固いです」
「コンクリートだからな。ダンジョンの床と違うだろ」
ノアは足元を見つめていた。灰色のコンクリート。ひび割れた隙間から雑草が伸びている。ダンジョンの壁面とは違う、荒くて無骨な表面だった。
視線が上がった。
空。
雲ひとつない冬晴れだった。真っ青な空が、ダンジョンの入口から見える範囲いっぱいに広がっている。
「想さん。これが、空ですか」
「ああ。空だよ」
「広い、ですね」
ノアの声が揺れていた。普段の抑揚のない声ではない。どう反応していいかわからないまま、言葉だけが先に出たような声だった。
想はノアの横顔を見た。光苔の発光がない。地上ではダンジョンの加護が薄れるのか、白い肌と淡い髪だけの普通の少女に見える。目だけが青白く光って、人間との差を残していた。
「眩しくないか」
「少し。でも、嫌じゃないです」
ノアが目を細めた。唇が微かに上がっている。笑顔と呼ぶには控えめだが、ダンジョンの暗がりでは見たことのない表情だった。
投影体の技術が安定したのは昨日のことだ。ノアがマナを人型に凝縮し、コアの外に射出する。半径500メートル、3時間が限界。それを超えると投影体が崩壊して、マナがダンジョンに引き戻される。
想の近くにいるとマナの減りが遅い、とノアは言った。「想さんの隣にいると、マナが減りにくいです。理由はわかりません。でも、嬉しいです」
理由はわからない。想もわからなかった。E級の自分に、コアのマナ効率を上げるような力があるとは思えない。
「ノアさん!」
駆けてくる足音。千歳がダンジョンの入口に向かって走ってきた。手にビニール袋を提げている。まだ走ると肋骨が響くはずだが、全力疾走だった。
「外に出てきたんですね! すごい! ねえ見て、持ってきました!」
千歳がビニール袋を開けた。中から小さな紙袋が出てくる。「向日葵の種です。春になったら一緒に植えましょう」
ノアが千歳の手の中の紙袋を見つめた。指先が伸びて、紙袋に触れる。
「白峰さん。ありがとうございます」
千歳の顔がほころんだ。振り返って想に耳打ちする。
「想さん想さん、ノアさんに『ありがとう』って言われました。これ記念日にしていいですか」
「勝手にしろ」
想はゴーグル型のARデバイスを装着した。カメラの画角を確認する。
「よし。やるか」
配信開始のアイコンをタップした。
「どうも、ソウです。今日はちょっと特別な回」
カメラをノアに向けた。ノアがレンズを見つめている。白い髪が風に揺れた。背景はダンジョンの入口ではなく、冬の青空。
「紹介する。ノア。ダンジョンにいたあの子が、外に出てきた」
「想さんの視聴者のみなさん、はじめまして。ノアです」
ノアが小さく頭を下げた。ぎこちない動作。お辞儀という行為を、映像で見て覚えたばかりだとわかる角度だった。
コメント欄が爆発した。
───────────────────
草:は??????
†漆黒の剣†:外出てきてるんだが!?!?
しろくま_22:ちょっと待ってノアちゃん地上にいるの
DJケンタ_B級:コアの顕現体が地上に出た前例ないぞ
深層好き_A:歴史的瞬間では
推しが重い:ノアちゃんがカメラに映ってる。映ってる!!
草:同接4万超えたけど
しろくま_22:いま配信始めて2分だよね?
†漆黒の剣†:5万いった
DJケンタ_B級:トレンド1位きたぞ
N_o_a:想さん、空がきれいです。
推しが重い:ノアちゃんのコメントが尊い
草:今日のノアちゃんは穏やかだな
───────────────────
同接が止まらなかった。6万を超え、7万に届こうとしている。トレンドには「#ダンジョンの少女」「#ノア地上」「#ソウ配信」がほぼ同時にランクインした。
「ノア。風、冷たくないか」
「冷たいです。でも想さんが暖かいので、大丈夫です」
ノアは想の腕から離れなかった。ダンジョンの中でも常に接触を求めていたが、地上ではそれが強くなっている。5本の指が想の袖をしっかり掴んでいた。
千歳がカメラに割り込んだ。
「みなさーん、白峰千歳です! 今日は特別ゲストのノアさんと、三人でお散歩配信します!」
「白峰さん。カメラが近いです」
「あ、ごめんなさい」
千歳が半歩下がった。ノアの表情は変わらないが、想の腕を握る力が少しだけ強くなった。
三人でダンジョン周辺を歩いた。半径500メートルの制限があるから、コンビニと公園くらいしか行けない。それでもノアには十分だった。
自動ドアが開くたびに身構える。自動販売機のボタンを真剣な顔で押す。公園の砂場の砂を手のひらに載せて、指の隙間からこぼれるのを眺めている。
「想さん。砂は、つかめないんですね」
「そりゃそうだろ」
「マナなら形を変えられるのに。地上のものは、思い通りにならないんですね」
ノアの声に寂しさはなかった。新しい発見を、そのまま言葉にしているだけだった。
想のスマホが鳴った。梶原からの着信だった。
「柊さん。ニュースは見ましたか」
「いや、今配信中で」
「ノアさんの地上出現が速報で流れています。探索者協会が動きます」
梶原の声は穏やかだが、いつもより早口だった。
「特殊対応部の氷壁班が派遣されるとの情報が入りました。コア関連の異常事態として、調査に来ます」
「氷壁班?」
「S級探索者で構成される実動部隊です。ダンジョンコアの異常事態に対応する専門チームで、隊長は氷室要という方です」
想はノアの手を見た。5本の指がまだ袖を掴んでいる。砂場で遊ぶ子どもみたいな無邪気さで、空を見上げている。
「調査って、具体的に何をするんだ」
「ノアさんの観察と、評価です。場合によっては」
梶原が一拍置いた。
「排除の判断を下す権限が、氷壁班にはあります」
想の指が冷えた。冬の風のせいだけじゃない。
「柊さん。私が間に入りますから、落ち着いてください。あなたとノアさんを守るのも、私の仕事です」
「ああ。頼む」
通話が切れた。
ノアが想を見上げていた。通話の内容を聞いていたかどうかはわからない。ただ青白い目が、想の顔を正確に捉えている。
「想さん。何かありましたか」
「いや。何もない」
嘘はつかない。でも、今は言わなかった。ノアが初めて見た空の下で、排除という言葉を聞かせたくなかった。
配信は続いている。コメント欄はまだ沸いていた。登録者数の通知が画面の端に表示される。26万。27万。数字が上がるたびに、小さなファンファーレが鳴る。
ノアは知らない。この空の下に、彼女を殺しに来る人間がいることを。
───────────────────
草:登録者28万突破おめでとう
†漆黒の剣†:1日で3万増えたぞ
DJケンタ_B級:トレンド全部ソウ関連で埋まってて笑う
しろくま_22:ノアちゃんが砂を触ってるだけの配信がなぜか泣ける
深層好き_A:コアの地上顕現、論文出るレベルの事象だぞこれ
推しが重い:ノアちゃんが空見て笑ってるの見て私も泣いてる
N_o_a:今日は、楽しかったです。想さん、ありがとうございます。
草:今日のノアちゃん穏やかすぎて逆に怖い
推しが重い:嵐の前の静けさ感ある
───────────────────
夕暮れ。投影体の維持限界が近づいていた。
ノアの輪郭が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。砂粒が風に散るような、かすかなちらつき。想だけが気づいた。
「そろそろ戻るか」
「もう少しだけ」
「ダメだ。限界が来てから慌てるのは危ないだろ」
ノアの指が、想の袖を離さなかった。数秒。それから、ゆっくりと力が抜けた。
「はい」
ダンジョンの入口まで歩いた。ノアが振り返って、もう一度空を見た。夕焼けがオレンジから紫に変わりかけている。
「想さん」
「ん」
「明日も、出てきていいですか」
「ああ。いいよ」
ノアが微笑んだ。今度ははっきりとわかる笑顔だった。朝とは違う。見よう見まねのお辞儀ではなく、覚えたての表情だった。
ノアの姿がダンジョンの入口に溶けていった。投影体が解けて、マナの粒子が壁面に吸い込まれる。靴が砂利を踏む音が最後に残って、消えた。
想はポケットに手を突っ込んで、空を見上げた。ノアが見ていた空と同じ空だ。
スマホが振動した。ノアからのメッセージ。ダンジョンの中に戻ったのに、もうスマホに直接送ってきている。
「明日の天気は晴れです。気温は7度。想さん、マフラーを巻いてきてください」
天気予報まで調べている。想は鼻で笑った。「了解」と返した。
笑った直後に、梶原の言葉が蘇った。
排除の判断を下す権限。
ポケットの中で、拳を握った。
『速報 未踏破ダンジョン付近で人型のマナ反応を観測 探索者協会が確認中』
居酒屋のカウンター。昼下がりの店内に客はまばらで、壁掛けのテレビだけが騒がしい。キャスターが原稿を読み上げている。「ダンジョン外部で人型のマナ反応が確認されたのは、観測史上初めてのことです」
カメラが切り替わった。空撮。ダンジョン入口の周辺に警察車両が並んでいる。
その映像の端に、ふたりの人影が映った。背の高い男と、白い髪の少女。手を繋いでいる。
カウンターに座っていた中年の男が、テレビを指差した。
「おい。あれ、ソウじゃねえか」
もうひとりが箸を止めた。
「マジだ。隣の子、誰だ」
ふたりはテレビに釘付けになった。全国で同じ反応が起きていた。
30分前。
ダンジョンの入口から、想が一歩踏み出した。右手を引かれている。ノアが想の腕を両手で抱えたまま、地上に足を下ろした。
靴の底が砂利を踏む音。ノアは一瞬動きを止めた。
「想さん」
「ん」
「地面が、固いです」
「コンクリートだからな。ダンジョンの床と違うだろ」
ノアは足元を見つめていた。灰色のコンクリート。ひび割れた隙間から雑草が伸びている。ダンジョンの壁面とは違う、荒くて無骨な表面だった。
視線が上がった。
空。
雲ひとつない冬晴れだった。真っ青な空が、ダンジョンの入口から見える範囲いっぱいに広がっている。
「想さん。これが、空ですか」
「ああ。空だよ」
「広い、ですね」
ノアの声が揺れていた。普段の抑揚のない声ではない。どう反応していいかわからないまま、言葉だけが先に出たような声だった。
想はノアの横顔を見た。光苔の発光がない。地上ではダンジョンの加護が薄れるのか、白い肌と淡い髪だけの普通の少女に見える。目だけが青白く光って、人間との差を残していた。
「眩しくないか」
「少し。でも、嫌じゃないです」
ノアが目を細めた。唇が微かに上がっている。笑顔と呼ぶには控えめだが、ダンジョンの暗がりでは見たことのない表情だった。
投影体の技術が安定したのは昨日のことだ。ノアがマナを人型に凝縮し、コアの外に射出する。半径500メートル、3時間が限界。それを超えると投影体が崩壊して、マナがダンジョンに引き戻される。
想の近くにいるとマナの減りが遅い、とノアは言った。「想さんの隣にいると、マナが減りにくいです。理由はわかりません。でも、嬉しいです」
理由はわからない。想もわからなかった。E級の自分に、コアのマナ効率を上げるような力があるとは思えない。
「ノアさん!」
駆けてくる足音。千歳がダンジョンの入口に向かって走ってきた。手にビニール袋を提げている。まだ走ると肋骨が響くはずだが、全力疾走だった。
「外に出てきたんですね! すごい! ねえ見て、持ってきました!」
千歳がビニール袋を開けた。中から小さな紙袋が出てくる。「向日葵の種です。春になったら一緒に植えましょう」
ノアが千歳の手の中の紙袋を見つめた。指先が伸びて、紙袋に触れる。
「白峰さん。ありがとうございます」
千歳の顔がほころんだ。振り返って想に耳打ちする。
「想さん想さん、ノアさんに『ありがとう』って言われました。これ記念日にしていいですか」
「勝手にしろ」
想はゴーグル型のARデバイスを装着した。カメラの画角を確認する。
「よし。やるか」
配信開始のアイコンをタップした。
「どうも、ソウです。今日はちょっと特別な回」
カメラをノアに向けた。ノアがレンズを見つめている。白い髪が風に揺れた。背景はダンジョンの入口ではなく、冬の青空。
「紹介する。ノア。ダンジョンにいたあの子が、外に出てきた」
「想さんの視聴者のみなさん、はじめまして。ノアです」
ノアが小さく頭を下げた。ぎこちない動作。お辞儀という行為を、映像で見て覚えたばかりだとわかる角度だった。
コメント欄が爆発した。
───────────────────
草:は??????
†漆黒の剣†:外出てきてるんだが!?!?
しろくま_22:ちょっと待ってノアちゃん地上にいるの
DJケンタ_B級:コアの顕現体が地上に出た前例ないぞ
深層好き_A:歴史的瞬間では
推しが重い:ノアちゃんがカメラに映ってる。映ってる!!
草:同接4万超えたけど
しろくま_22:いま配信始めて2分だよね?
†漆黒の剣†:5万いった
DJケンタ_B級:トレンド1位きたぞ
N_o_a:想さん、空がきれいです。
推しが重い:ノアちゃんのコメントが尊い
草:今日のノアちゃんは穏やかだな
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同接が止まらなかった。6万を超え、7万に届こうとしている。トレンドには「#ダンジョンの少女」「#ノア地上」「#ソウ配信」がほぼ同時にランクインした。
「ノア。風、冷たくないか」
「冷たいです。でも想さんが暖かいので、大丈夫です」
ノアは想の腕から離れなかった。ダンジョンの中でも常に接触を求めていたが、地上ではそれが強くなっている。5本の指が想の袖をしっかり掴んでいた。
千歳がカメラに割り込んだ。
「みなさーん、白峰千歳です! 今日は特別ゲストのノアさんと、三人でお散歩配信します!」
「白峰さん。カメラが近いです」
「あ、ごめんなさい」
千歳が半歩下がった。ノアの表情は変わらないが、想の腕を握る力が少しだけ強くなった。
三人でダンジョン周辺を歩いた。半径500メートルの制限があるから、コンビニと公園くらいしか行けない。それでもノアには十分だった。
自動ドアが開くたびに身構える。自動販売機のボタンを真剣な顔で押す。公園の砂場の砂を手のひらに載せて、指の隙間からこぼれるのを眺めている。
「想さん。砂は、つかめないんですね」
「そりゃそうだろ」
「マナなら形を変えられるのに。地上のものは、思い通りにならないんですね」
ノアの声に寂しさはなかった。新しい発見を、そのまま言葉にしているだけだった。
想のスマホが鳴った。梶原からの着信だった。
「柊さん。ニュースは見ましたか」
「いや、今配信中で」
「ノアさんの地上出現が速報で流れています。探索者協会が動きます」
梶原の声は穏やかだが、いつもより早口だった。
「特殊対応部の氷壁班が派遣されるとの情報が入りました。コア関連の異常事態として、調査に来ます」
「氷壁班?」
「S級探索者で構成される実動部隊です。ダンジョンコアの異常事態に対応する専門チームで、隊長は氷室要という方です」
想はノアの手を見た。5本の指がまだ袖を掴んでいる。砂場で遊ぶ子どもみたいな無邪気さで、空を見上げている。
「調査って、具体的に何をするんだ」
「ノアさんの観察と、評価です。場合によっては」
梶原が一拍置いた。
「排除の判断を下す権限が、氷壁班にはあります」
想の指が冷えた。冬の風のせいだけじゃない。
「柊さん。私が間に入りますから、落ち着いてください。あなたとノアさんを守るのも、私の仕事です」
「ああ。頼む」
通話が切れた。
ノアが想を見上げていた。通話の内容を聞いていたかどうかはわからない。ただ青白い目が、想の顔を正確に捉えている。
「想さん。何かありましたか」
「いや。何もない」
嘘はつかない。でも、今は言わなかった。ノアが初めて見た空の下で、排除という言葉を聞かせたくなかった。
配信は続いている。コメント欄はまだ沸いていた。登録者数の通知が画面の端に表示される。26万。27万。数字が上がるたびに、小さなファンファーレが鳴る。
ノアは知らない。この空の下に、彼女を殺しに来る人間がいることを。
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草:登録者28万突破おめでとう
†漆黒の剣†:1日で3万増えたぞ
DJケンタ_B級:トレンド全部ソウ関連で埋まってて笑う
しろくま_22:ノアちゃんが砂を触ってるだけの配信がなぜか泣ける
深層好き_A:コアの地上顕現、論文出るレベルの事象だぞこれ
推しが重い:ノアちゃんが空見て笑ってるの見て私も泣いてる
N_o_a:今日は、楽しかったです。想さん、ありがとうございます。
草:今日のノアちゃん穏やかすぎて逆に怖い
推しが重い:嵐の前の静けさ感ある
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夕暮れ。投影体の維持限界が近づいていた。
ノアの輪郭が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。砂粒が風に散るような、かすかなちらつき。想だけが気づいた。
「そろそろ戻るか」
「もう少しだけ」
「ダメだ。限界が来てから慌てるのは危ないだろ」
ノアの指が、想の袖を離さなかった。数秒。それから、ゆっくりと力が抜けた。
「はい」
ダンジョンの入口まで歩いた。ノアが振り返って、もう一度空を見た。夕焼けがオレンジから紫に変わりかけている。
「想さん」
「ん」
「明日も、出てきていいですか」
「ああ。いいよ」
ノアが微笑んだ。今度ははっきりとわかる笑顔だった。朝とは違う。見よう見まねのお辞儀ではなく、覚えたての表情だった。
ノアの姿がダンジョンの入口に溶けていった。投影体が解けて、マナの粒子が壁面に吸い込まれる。靴が砂利を踏む音が最後に残って、消えた。
想はポケットに手を突っ込んで、空を見上げた。ノアが見ていた空と同じ空だ。
スマホが振動した。ノアからのメッセージ。ダンジョンの中に戻ったのに、もうスマホに直接送ってきている。
「明日の天気は晴れです。気温は7度。想さん、マフラーを巻いてきてください」
天気予報まで調べている。想は鼻で笑った。「了解」と返した。
笑った直後に、梶原の言葉が蘇った。
排除の判断を下す権限。
ポケットの中で、拳を握った。
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