悪役令嬢を救うためモブが婚約を申し込んだら、破滅フラグが全部俺に向いてきた

チャビューヘ

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「笑っている世界」

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 ハルバート侯爵の失脚は、三日で確定した。
 ランベール伯爵が提出した財務記録は精査され、王室予算の流用が複数件確認された。
 ハルバートは侯爵位を剥奪され、領地に蟄居を命じられた。

 それに伴い、法務院への勅令再解釈請願も取り下げられた。
 建国王勅令集第十七条は有効のまま残り、カイルとリゼットの婚約を法的に守り続ける。

 王太子エドワードは、公式には沈黙を保っている。
 側近の不正を知らなかったのか、黙認していたのか。
 その答えは、まだ誰にもわからない。
 だが当面、リゼットへの婚約要求が繰り返されることはないだろう。

 嵐が去った。
 少なくとも、今は。

 カイルはクロムウェル公爵邸の庭園にいた。
 リゼットに呼び出されたのだ。
 書簡は一行だけ。
 『庭に来なさい。話がありますわ』

 公爵邸の庭園は、屋敷の裏手に広がっていた。
 冬の花壇には霜が降りている。
 枯れた噴水の縁に、白い苔がこびりついていた。
 華やかさのない庭だ。
 だが手入れは行き届いていて、枯れ枝一本落ちていない。
 リゼットの性格が、そのまま庭になったような場所だった。

 リゼットは噴水の縁に座っていた。
 いつもの白い礼装ではなく、淡い青のワンピース。
 銀髪が風に揺れている。
 社交界で見る彼女とは、別人のように見えた。

「座って」

 カイルは噴水の縁に、リゼットの隣に腰を下ろした。
 一人分の距離を空ける。
 近くもなく、遠くもない。

「婚約は維持されましたわ」

「ああ」

「ハルバートは蟄居。法典も有効。王太子も当面は手を出せない」

「ああ」

「あなたの言った通りになった」

 リゼットは正面を向いたまま言った。
 庭の向こうに並ぶ冬木立を見ている。

「一つだけ、聞かせて」

 声が静かだった。
 冷淡さは消えている。
 かといって柔らかいわけでもない。
 ただ、飾りのない声だった。

「あなたの目的は何?」

 カイルはその問いを、ずっと待っていた気がする。

「最初から不思議だったの」

 リゼットは噴水の縁の石を指先でなぞった。

「辺境伯家の次男が、会ったこともない公爵令嬢に婚約を申し込む。王太子に逆らい、側近と戦い、法典まで引っ張り出す」

 紫水晶の瞳がカイルを見た。
 警戒はなかった。
 代わりにあったのは、純粋な問いかけだ。

「普通じゃない」

「政治的な利益? それなら、もっと安全な方法がある」

 リゼットは首を傾けた。

「名誉? 辺境伯家の名は王太子に逆らった時点で傷ついている。じゃあ何のために」

 カイルは後頭部を掻いた。
 いつもの癖だ。
 答えを探しているのではない。
 答えはとっくに決まっている。
 ただ、声に出すのが怖いだけだ。

 左手が右手首に伸びかけた。
 カイルはその手を、膝の上に戻した。
 嘘はつかない。今は。

「君が笑っている世界が見たい。それだけだ」

 沈黙が降りた。
 冬の風が、枯れた花壇を渡っていく。

 リゼットは動かなかった。
 長い間、何も言わなかった。

「……それだけ?」

「それだけだ」

「政略でも、打算でも、義務感でもなく?」

「どれでもない」

 カイルは正面を向いたまま言った。

「ゲームの中で、君はいつも一人だった」

 口が滑った。
 ゲーム。また言ってしまった。
 だが今度は、訂正しなかった。

「……ゲーム?」

「うまく説明できない。いつか、ちゃんと話す」

 リゼットはしばらくカイルの横顔を見つめていた。
 それから、小さく息を吐いた。

「あなたは本当に、変な人」

「よく言われる」

「言われないでしょう。辺境にそんなことを言う人、いないもの」

 リゼットの声に、かすかな色が混じった。
 冷たくない色。温かいとも違う。
 少しだけ、可笑しそうな色だ。

 カイルが振り向くと、リゼットの唇が動いていた。
 持ち上がっている。
 ほんの少しだけ。
 だが確かに。

 笑っている。

 氷の仮面ではない。
 社交界の計算された微笑みでもない。
 噴水の縁に座った十七歳の少女が、ただ可笑しくて、少しだけ笑っている。

 カイルの胸の奥で、何かが軋んだ。
 嬉しいのか、苦しいのか、わからなかった。
 ただ、この瞬間のためにここまで来たのだと思った。

「リゼット」

「何?」

「ありがとう。信じてくれて」

 リゼットの笑みが消えた。
 消えたのではない。
 驚いて、一瞬だけ表情が止まったのだ。

「信じたわけではありませんわ」

 声が少しだけ高くなっていた。

「利害が一致しているだけ。勘違いしないで」

「わかった。利害の一致だ」

「……そう。それでいいの」

 リゼットは立ち上がった。
 ワンピースの裾を払い、屋敷に向かって歩き出す。

「次はいつ来るの」

 振り返らずに言った。

「呼ばれれば、いつでも」

「呼んでないわ。勝手に来なさい」

 リゼットは屋敷の中に消えた。
 カイルは噴水の縁に座ったまま、冬の空を見上げた。

 笑った。
 リゼットが笑った。
 たったそれだけのことが、胸の中で鳴り続けている。

 右腕が、熱かった。

 カイルは袖をまくった。
 前腕の内側に、見慣れないものがある。
 薄い線が、皮膚の下を走っていた。
 血管ではない。
 紋様だ。
 幾何学的な模様が、肘から手首にかけて浮かんでいる。
 触れると、かすかに熱を持っていた。

 昨夜はなかった。
 今朝もなかった。
 リゼットと話している間に、現れたのだ。

 運命補正の反撃は、終わっていない。
 こめかみの痛みが消えた代わりに、身体に刻まれ始めている。
 リゼットの運命を変えるたびに、その負債がカイルの身体に蓄積する。

 カイルは袖を下ろした。
 リゼットには見せなかった。
 見せるわけにはいかない。

 庭園の向こうで、冬の陽が傾いていた。
 枯れた花壇に、長い影が伸びている。

 第一の嵐は過ぎた。
 だが紋様は消えない。

 カイルは立ち上がり、公爵邸を後にした。
 背中に冬の風を受けながら、拳を握った。

 次の嵐が来る前に、やることがある。
 運命補正の正体を突き止める。
 この世界を縛っている力の仕組みを解き明かす。

 リゼットが笑える世界を作るために。
 まだ、止まるわけにはいかない。
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