悪役令嬢を救うためモブが婚約を申し込んだら、破滅フラグが全部俺に向いてきた

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「禁じられた書架」

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 エリス・ファーレンは、歩くのが速かった。
 小柄な身体が学院の廊下を縫うように進んでいく。
 カイルとリゼットは、その背中を追った。

「こっちです。人が少ない渡り廊下を通ります」

 エリスは振り返らずに言った。
 声を落としている。
 だが早口は変わらない。

「あのですね、禁書庫の話をするなら学院長室の近くはまずい。あの人、耳がいいんです。というか、耳がいいというより、知っているんです。こちらが何をしようとしているか」

「知っている?」

 カイルが聞き返した。

「勘がいいとか、そういうレベルじゃなくて。つまり、先に知っている。まだ起きていないことを」

 エリスの足が止まった。
 渡り廊下の中ほどだった。
 左右に窓が並び、中庭が見下ろせる。
 学生の姿はない。

 エリスは窓枠に背を預け、カイルとリゼットに向き直った。

「去年、三年生のルーカスという学生が退学になりました」

 エリスの声から、早口の勢いが消えていた。

「古代魔法史の授業で、教科書に載っていない文献の存在に気づいたんです。参考文献リストの番号が飛んでいた。つまり、意図的に抜かれている文献がある」

「それを調べようとした?」

「図書館に問い合わせたんです。該当番号の文献を閲覧したいと。翌日、学院長室に呼び出されました」

 エリスは唇を引き結んだ。

「退学勧告です。理由は『聖灯の教義に対する不敬な探究姿勢』。ルーカスはただ、番号が飛んでいることを指摘しただけなのに」

 リゼットが口を開いた。

「その文献は、どこにありますの」

「地下です。本館の地下二階に、学院の設計図にも載っていない部屋がある。私はそれを禁書庫と呼んでいます」

 エリスはローブのポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
 広げると、学院の見取り図だった。
 手書きの線が何本も走っている。

「半年かけて調べました。地下一階の構造と、地上階の柱の配置を比較すると、つまり、荷重計算が合わないんです。地下にもう一層ある。柱が支えている重量から逆算すると、かなり広い空間です」

 カイルは見取り図を覗き込んだ。
 エリスの手書きの計算式が余白に書き込まれている。
 建築の知識はないが、数字の密度が彼女の執念を物語っていた。

「鍵は学院長だけが持っています。地下二階への入口は、学院長室の書架の裏」

「学院長室の中に入口がある?」

「そうです。だから教授でも入れない。学院長の許可なく、あの部屋には誰も近づけない」

 リゼットが窓の外に目をやった。
 中庭の向こうに、本館の尖塔が見える。

「文献が隠されている。番号を飛ばしてまで。それを調べた学生は退学させられる」

 リゼットの声は平坦だった。
 感情を排した、事実の確認だ。

「教義を盾にしているけれど、守っているのは教義ではありませんわね」

「そうなんです」

 エリスの目が光った。

「聖灯の教義は『魔法は恩寵であり、感謝をもって行使せよ』と説いています。根源を調べるなとは、どこにも書いていない。あのですね、私は教義の原典を全部読みました。禁じているのは教義じゃない。学院長です」

 カイルは腕を組んだ。
 グラーフは何を隠しているのか。
 古代の魔法理論の中に、隠さなければならないものがある。
 それは運命補正システムに関わる知識かもしれない。

「エリス。君の研究テーマは?」

「古代における魔法の発動原理の変遷です。現在の魔法体系は感情の結晶化を基盤にしていますが、古代文献の断片を見る限り、もっと根本的な原理があったはずなんです」

 エリスは早口に戻っていた。
 目が輝いている。

「今の四属性、愛・怒り・悲しみ・喜び。これは感情の分類としては粗すぎる。古代にはもっと精密な体系があって、それが失われた。いや、失われたんじゃなくて」

 エリスは言葉を切った。
 声を落とした。

「隠された」

 渡り廊下の端から、足音が聞こえた。
 三人は口を閉じた。

 学院の教官が一人、書類を抱えて通り過ぎていく。
 エリスに目を留め、軽く頷いた。
 エリスは笑顔で頭を下げた。
 教官が去るまで、誰も口を開かなかった。

「ファーレン」

 声は、教官が去った方向から聞こえた。
 別の足音だった。
 重い。ゆっくりとした歩調。

 渡り廊下の入口に、グラーフが立っていた。
 深紅のローブが廊下の幅いっぱいに広がっている。
 腕を後ろに組み、エリスを見下ろしていた。

「また渡り廊下か。授業はどうした」

「本日は午後からです、学院長」

「そうか」

 グラーフの視線がカイルとリゼットに移った。
 笑みはなかった。

「来客の案内は学院の職務ではない。特待生の本分は学業だ。わきまえなさい」

「はい、学院長」

 エリスは頭を下げた。
 声が小さくなっている。

「ヴェストリア殿。古文書庫の閲覧であれば、職員が対応いたします。学生に案内させる必要はございません」

 グラーフはカイルに向き直った。

「特にこの学生は、以前から教義の範囲を逸脱した研究に手を染めている。悪い影響を受けられては困る」

 グラーフの声は穏やかだった。
 だが言葉の一つ一つが、エリスの居場所を狭めていく。

「平民の出で、特待生の立場を得ただけでも僥倖。それを忘れて分を超えた探究に走るのは、恩知らずと言われても仕方がない」

 エリスの肩が強張った。
 俯いている。
 拳を握りしめていた。

 カイルは口を開きかけた。
 だがリゼットが先に動いた。

「学院長」

 リゼットの声は冷たかった。
 社交界で使う声だ。
 刃物のように正確な敬語。

「クロムウェル公爵家は、学院への寄付金の継続を検討しております。その判断材料として、学院の研究環境を視察したいのですが」

 グラーフの表情が変わった。
 僅かだが、目の奥に計算が走った。

「この学生の案内はたいへんわかりやすかった。学院の教育水準の高さがよくわかりましたわ」

 リゼットはエリスを見た。

「引き続き、案内をお願いできるかしら」

 グラーフは数秒の間、リゼットの顔を見つめていた。
 それから、笑みを作った。

「もちろんです。公爵令嬢のご要望であれば」

 グラーフは踵を返した。
 深紅のローブが翻る。

「ファーレン。客人に失礼のないように」

 足音が遠ざかっていく。
 完全に聞こえなくなるまで、三人は動かなかった。

 エリスが顔を上げた。
 目が赤い。
 泣いてはいない。
 だが、ぎりぎりだった。

「あの、クロムウェル様」

「リゼットで構いませんわ」

「えっ」

「長いから。それだけ」

 リゼットは窓の外を見ていた。
 表情は変わらない。

 エリスはしばらく口を開閉させていた。
 それから、小さく頷いた。

「ありがとう、ございます」

 カイルの右腕が、痛んだ。

 突然だった。
 紋様が熱を持っている。
 朝の微かな熱ではない。
 脈打つように、鋭く。

 カイルは顔色を変えないように努めた。
 だが右手が無意識に左の袖を掴んでいた。

 窓の外で、風が変わった。
 冬の乾いた風ではない。
 湿った、重い空気。
 中庭の旗がばたばたと暴れ始めた。

 学院の尖塔の上で、聖灯の石像の目が光った気がした。
 一瞬だけ。
 見間違いかもしれない。

 だが紋様は嘘をつかない。
 補正が動き始めている。
 この学院の中で。
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