悪役令嬢を救うためモブが婚約を申し込んだら、破滅フラグが全部俺に向いてきた

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「教義の裏側」

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 翌朝、エリスが古文書庫の一般閲覧区画を案内してくれた。
 禁書庫ではない。
 学生や来客が閲覧を許可された、地上階の文献棚だ。

 それでも量は膨大だった。
 天井まで届く書架が何列も並び、革表紙の背がずらりと連なっている。
 埃っぽい紙の匂いが鼻を突いた。
 窓が少なく、魔導灯の青白い光だけが棚の間を照らしている。

「ここが一般区画です。古代魔法史の文献はこの棚からこの棚まで。あのですね、でも肝心なところは全部抜かれています」

 エリスは棚の一角を指差した。
 並んだ背表紙の間に、不自然な隙間がある。
 一冊分ではない。五冊、六冊と連続して欠けていた。

「番号でいうと、四百二十番台から四百三十番台。古代の魔法発動原理に関する論文集が丸ごとない。目録には番号だけ残っていて、タイトルも著者名も黒く塗り潰されています」

 リゼットが目録帳を手に取った。
 指先で頁をめくっていく。
 黒い墨で塗り潰された行を見つけ、光にかざした。

「雑ね。墨の下に筆圧の跡が残っている」

「読めるんですか」

「全部は無理。でも、何文字かは」

 リゼットは目を細めた。

「『フィリア』。この単語だけ読める」

 カイルの心臓が跳ねた。
 フィリア。
 『聖灯のフィリア』。
 前世でプレイした乙女ゲームの名前だ。

「エリス。その言葉に心当たりは?」

「あります」

 エリスはローブの内ポケットから、紙束を取り出した。
 くしゃくしゃに折り畳まれた写本だ。

「これは退学になったルーカスが、退学前に私に託してくれたものです。禁書庫の文献ではなく、地方の修道院に残っていた断簡。つまり、学院長の検閲が及んでいなかった文書です」

 エリスは紙束を広げた。
 古い書体で、短い文章が書かれている。

「ここです。『フィリアとは、世界を観測する灯火の名なり。聖灯とはすなわち、フィリアの残光にほかならず』」

 カイルは文面を読み返した。
 三度、読んだ。

 フィリアは、ゲームの名前ではない。
 この世界を観測する装置の、古い呼称だ。

 前世の自分がプレイしていた乙女ゲーム『聖灯のフィリア』。
 その名前は、この世界にもともと存在していた概念から取られていた。
 あるいは、ゲーム自体がこの世界の観測装置そのものだったのか。

 頭の中で、いくつもの疑問が渦を巻いた。
 だが今は整理する時間がない。

「この文書、他にも内容が?」

「断片的ですが、あのですね、『フィリアは物語を維持する』『逸脱は補正される』という記述があります。つまり」

 エリスの声が震えた。
 興奮だ。

「この世界には、物語を維持しようとする力が存在する。古代の人々はそれを知っていた。そして、今の学院はそれを隠している」

 カイルは右腕に意識を向けた。
 紋様が脈打っている。
 物語からの逸脱。その補正。
 断簡の内容は、カイルが身体で知っていることと一致していた。

 リゼットが目録帳を棚に戻した。

「続きは禁書庫にしかない。そういうことね」

「はい。地上の文献からわかるのは、ここまでです」

 三人が閲覧区画を出たとき、学院の鐘が鳴った。
 昼の鐘ではない。
 短く、三度。
 警鐘だ。

 廊下の向こうから、学生たちが走ってくる。
 顔が青い。

「実験棟が崩れる!」

 カイルは走った。

 実験棟は本館の東に隣接する三階建ての建物だった。
 魔法の実技演習に使われる施設だ。
 その二階部分の外壁に、太い亀裂が走っていた。

 亀裂は生き物のように広がっていく。
 壁から粉塵が噴き出し、石材が軋む音が響いた。

 建物の前に学生たちが群がっている。
 中にまだ人がいるのだ。
 二階の窓から、制服姿の学生が叫んでいた。
 扉が歪んで開かない。

 カイルの右腕が灼けるように熱かった。
 紋様が脈打っている。
 これは事故じゃない。
 補正イベントだ。

 カイルは実験棟に駆け込んだ。

「待ちなさい!」

 リゼットの声が背中に届いた。
 振り返る余裕はなかった。

 一階の廊下は粉塵で白く煙っていた。
 天井の梁が軋んでいる。
 階段を駆け上がる。
 二段飛ばしで二階に着いた。

 二階の教室の前で、三人の学生が座り込んでいた。
 扉が外れかけた枠に挟まって開かず、反対側の窓は鉄格子がはめられている。
 天井に亀裂が走っていた。
 石材の破片が断続的に降ってくる。

「こっちだ。歩ける?」

 カイルは一人の肩を支えた。
 足を挫いている。
 残りの二人は自力で立てた。

 廊下に出た瞬間、頭上で嫌な音がした。
 見上げると、天井の梁が折れかけていた。
 亀裂が梁を横断している。
 あと数秒で落ちる。

 カイルは足を挫いた学生を突き飛ばすように前に押し出した。
 自分は、間に合わなかった。

 梁が落ちた。
 石と木の塊が、カイルの右肩に直撃した。

 視界が白く弾けた。
 膝をついた。
 右腕に激痛が走る。
 肩だけじゃない。
 紋様が焼けている。

 粉塵の中で、カイルは立ち上がった。
 右腕がうまく動かない。
 左手で壁を伝い、階段に向かった。

 一階に降りたとき、リゼットがいた。
 入口に立っていた。
 粉塵が降る中を、一歩も退いていなかった。

 紫水晶の瞳が、カイルを見た。
 カイルの右肩を見た。
 破れた服の下から、右腕が見えている。

 紋様が、光っていた。
 肘から肩まで。
 幾何学的な線が、淡い光を放っている。
 昨日の朝より、確実に広がっていた。

 リゼットの表情が凍った。

「それは、何」

 カイルは答えられなかった。
 右腕を隠す余裕もなかった。

 学院の教官たちが駆けつけ、負傷した学生を運び出していく。
 実験棟の崩落は二階の一部で止まり、全壊は免れた。
 閉じ込められた学生三人は全員無事だった。

 グラーフが現れたのは、騒ぎが収まり始めた頃だった。

 深紅のローブが粉塵を被っている。
 だが歩き方は悠然としていた。
 急いだ形跡がない。

「痛ましいことだ」

 グラーフは崩れかけた実験棟を見上げた。

「しかし、これは警告である」

 声が大きくなった。
 集まった学生や教官に向けて語り始めている。

「近頃、この学院において聖灯の教義を軽んじる風潮が見受けられる。魔法の根源を暴こうとする不遜な探究。恩寵を当然のものと驕る傲慢さ。この崩落は、聖灯の戒めと受け止めるべきだ」

 グラーフの視線がカイルに向いた。
 それからエリスに移った。

「学外からの来客と特待生が、教義の範囲を逸脱した研究に着手した直後にこの事態だ。偶然とは思えない」

 エリスの顔から血の気が引いた。
 周囲の学生たちの視線が、エリスに集まっていく。
 囁きが広がった。

 カイルは右腕を押さえたまま、グラーフを見た。
 建物が崩れかけた直後に、この演説。
 準備が良すぎる。
 まるで、起きることを知っていたかのように。

 エリスの言葉が蘇った。
 『先に知っている。まだ起きていないことを』

 リゼットはカイルの隣に立っていた。
 何も言わなかった。
 ただ、カイルの右腕を見つめていた。

 紋様はまだ光っている。
 薄く、だが確かに。

 リゼットの唇が動いた。
 声にはならなかった。
 だがカイルには読めた。

 あとで、話して。

 冬の空に、粉塵が舞い上がっていた。
 学院の尖塔の影が、崩れた実験棟の上に長く伸びている。
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