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「仮面の裏」
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階段が落ちた。
足元の石段が、何の前触れもなく崩れた。
カイルの体が傾く。壁に手をついた。腕に衝撃が走る。
砕けた石が階下の床に散らばり、乾いた音を立てた。
舞踏会の当日、朝。
ヴェストリア家の別邸の階段だった。
築五十年の堅牢な石造り。昨日まで何の異常もなかった。
カイルは壁に背をつけ、呼吸を整えた。
右のこめかみが痛む。いつもの痛みだ。
補正イベント。
リゼットの破滅を回避し続けた代償が、また一つ降りてきた。
落ちたのは三段だけだった。致命傷にはならない高さ。
だが左膝を石の角で打った。鈍い痛みが残っている。
カイルは襟元を確認した。
鏡はない。指で触れる。
首筋の紋様が、さっきより上に来ている。
朝、鏡で見たときは襟の内側に収まっていた。
今は喉の横まで伸びている。細いつたが一本、顎の下に向かって。
襟を立てた。高く、きつく。
顎を引けば隠れる。だが首を回せば見える。
今夜の舞踏会で、一晩中うつむいているわけにはいかない。
別邸の書斎に降りると、エリスがいた。
学院から今朝到着したばかりだ。
旅装のまま、机に資料を広げている。
「カイル。大丈夫ですか、すごい音がしました」
「階段が壊れた。古い建物だからな」
嘘だ。エリスは知っている。
だが追及しなかった。
代わりに机の上の紙束を指した。
「あのですね、学院の経理記録を持ってきました。グラーフが罷免されたあと、開示された書類の中に面白いものがあって」
エリスの指が一枚の帳簿に止まった。
学院への寄付金の記録だ。
「アッシュフォード公爵家が、過去十年で学院に寄付した金額。これだけ見ると普通なんです」
「だが」
「はい。寄付の時期が、ハルバート侯爵の財務記録と重なるんです」
エリスの指が帳簿の数字をなぞった。
「ハルバート家の支出の翌月に、同額がアッシュフォード家経由で学院に入っている」
カイルは帳簿を見た。
金額の羅列。日付。名義。
確かにパターンがある。偶然と呼ぶには規則的すぎる。
「不正資金がアッシュフォード家を経由して学院に流れていた。資金の洗浄ですわね」
リゼットが書斎に入ってきた。
カイルの襟元に一瞬視線を向けたが、何も言わなかった。
「可能性、です。確証にはなりません」
エリスの声は慎重だった。
「金額と時期の一致だけでは、状況証拠にしかならない。直接の送金記録がないと」
「開示された書類は全部目を通したのか」
「いえ、まだです。量が膨大で、帳簿だけでも数十冊。今回持ってこられたのは一部だけで、書簡類にはまだ手がつけられていません」
「それはそうだな。だが方向は見えた」
カイルは帳簿をめくった。
「セレスティーヌは金の流れだけじゃない。フィオナの話だと、クロムウェル公爵家の取引先にも圧力をかけている」
リゼットの指が止まった。
「取引先?」
「クロムウェル公爵家の取引先にも手が伸びている。繊維商と武具納入業者に、アッシュフォード家から接触があった」
「誰から」
「フィオナだ。昨日、追加で伝えてきた」
「経済的にも締め上げる気ですのね」
リゼットの声は静かだった。
だが膝の上の手が、僅かに拳を作っていた。
「社交的孤立と経済的圧迫。二つ同時に仕掛けている。手際がいい」
「褒めてどうするんだ」
「事実を述べただけですわ」
リゼットは立ち上がった。
「証拠が足りないなら、足りないまま出ましょう。今夜は相手の舞台。だけど、舞台に立つのは私たちも同じ」
エリスが顔を上げた。
「あのですね、帳簿の原本は学院長代行の許可を得て持ち出しています。提出はできます。ただ、それだけで倒せるかは」
「倒す必要はない。今夜は守りですわ」
リゼットの目がカイルを見た。
「公爵家の存続がかかっている。父の書簡は脅しではなく事実。一手でも間違えれば、取り返しがつかない」
カイルは頷いた。
「それと、もう一つ気になることがある。フィオナが言っていた。王太子がハルバートの蟄居処分の見直しも進めているらしい」
「蟄居を解く気ですの?」
「表向きは『温情措置の再検討』だ。だが実態は駒の回収だろう」
リゼットの目が鋭くなった。
「やることが多いわね」
リゼットは書斎を出た。
支度があるからだ。舞踏会のドレスは、戦場の鎧と同じだ。
エリスが小声で言った。
「カイル。首、紋様が見えてます」
カイルは襟を直した。
「わかっている」
「わかっているなら、ちゃんと隠してください。リゼットが気づいたら、あの人は平気な顔をしますけど、でも」
エリスの言葉が途切れた。
言わなくてもわかる。
リゼットは平気な顔をする。そして一人で抱え込む。
日が暮れた。
雪が止んでいた。
代わりに冷たい風が王都を吹き抜けている。
王宮の大広間に灯りが入った。
千の魔導灯が天井から吊るされ、金と白の光が床の大理石に反射している。
正面の壇上に、王室の紋章が掲げられている。
入口の両脇に、二つの人影が立っていた。
王太子エドワードと、セレスティーヌ・アッシュフォード公爵夫人。
セレスティーヌは深い紫のドレスをまとっていた。
胸元に紫水晶のブローチ。金髪が灯りを受けて輝いている。
隣の王太子に向かって、微笑みかけた。
「今宵は素晴らしい夜になりますわ」
大広間の扉が開いた。
招待客が列をなして入ってくる。
カイルはリゼットの隣に立った。
襟は高く立てている。顎を引いている。
それでも首を動かせば、紋様の先端が覗く。
リゼットが小さく言った。
「顔を上げなさい。うつむいていたら、怯えていると思われる」
「わかっている」
「なら、堂々としていて。私の婚約者でしょう」
カイルは顔を上げた。
大広間の光が目に刺さった。
千の灯りの向こうで、セレスティーヌが微笑んでいる。
足元の石段が、何の前触れもなく崩れた。
カイルの体が傾く。壁に手をついた。腕に衝撃が走る。
砕けた石が階下の床に散らばり、乾いた音を立てた。
舞踏会の当日、朝。
ヴェストリア家の別邸の階段だった。
築五十年の堅牢な石造り。昨日まで何の異常もなかった。
カイルは壁に背をつけ、呼吸を整えた。
右のこめかみが痛む。いつもの痛みだ。
補正イベント。
リゼットの破滅を回避し続けた代償が、また一つ降りてきた。
落ちたのは三段だけだった。致命傷にはならない高さ。
だが左膝を石の角で打った。鈍い痛みが残っている。
カイルは襟元を確認した。
鏡はない。指で触れる。
首筋の紋様が、さっきより上に来ている。
朝、鏡で見たときは襟の内側に収まっていた。
今は喉の横まで伸びている。細いつたが一本、顎の下に向かって。
襟を立てた。高く、きつく。
顎を引けば隠れる。だが首を回せば見える。
今夜の舞踏会で、一晩中うつむいているわけにはいかない。
別邸の書斎に降りると、エリスがいた。
学院から今朝到着したばかりだ。
旅装のまま、机に資料を広げている。
「カイル。大丈夫ですか、すごい音がしました」
「階段が壊れた。古い建物だからな」
嘘だ。エリスは知っている。
だが追及しなかった。
代わりに机の上の紙束を指した。
「あのですね、学院の経理記録を持ってきました。グラーフが罷免されたあと、開示された書類の中に面白いものがあって」
エリスの指が一枚の帳簿に止まった。
学院への寄付金の記録だ。
「アッシュフォード公爵家が、過去十年で学院に寄付した金額。これだけ見ると普通なんです」
「だが」
「はい。寄付の時期が、ハルバート侯爵の財務記録と重なるんです」
エリスの指が帳簿の数字をなぞった。
「ハルバート家の支出の翌月に、同額がアッシュフォード家経由で学院に入っている」
カイルは帳簿を見た。
金額の羅列。日付。名義。
確かにパターンがある。偶然と呼ぶには規則的すぎる。
「不正資金がアッシュフォード家を経由して学院に流れていた。資金の洗浄ですわね」
リゼットが書斎に入ってきた。
カイルの襟元に一瞬視線を向けたが、何も言わなかった。
「可能性、です。確証にはなりません」
エリスの声は慎重だった。
「金額と時期の一致だけでは、状況証拠にしかならない。直接の送金記録がないと」
「開示された書類は全部目を通したのか」
「いえ、まだです。量が膨大で、帳簿だけでも数十冊。今回持ってこられたのは一部だけで、書簡類にはまだ手がつけられていません」
「それはそうだな。だが方向は見えた」
カイルは帳簿をめくった。
「セレスティーヌは金の流れだけじゃない。フィオナの話だと、クロムウェル公爵家の取引先にも圧力をかけている」
リゼットの指が止まった。
「取引先?」
「クロムウェル公爵家の取引先にも手が伸びている。繊維商と武具納入業者に、アッシュフォード家から接触があった」
「誰から」
「フィオナだ。昨日、追加で伝えてきた」
「経済的にも締め上げる気ですのね」
リゼットの声は静かだった。
だが膝の上の手が、僅かに拳を作っていた。
「社交的孤立と経済的圧迫。二つ同時に仕掛けている。手際がいい」
「褒めてどうするんだ」
「事実を述べただけですわ」
リゼットは立ち上がった。
「証拠が足りないなら、足りないまま出ましょう。今夜は相手の舞台。だけど、舞台に立つのは私たちも同じ」
エリスが顔を上げた。
「あのですね、帳簿の原本は学院長代行の許可を得て持ち出しています。提出はできます。ただ、それだけで倒せるかは」
「倒す必要はない。今夜は守りですわ」
リゼットの目がカイルを見た。
「公爵家の存続がかかっている。父の書簡は脅しではなく事実。一手でも間違えれば、取り返しがつかない」
カイルは頷いた。
「それと、もう一つ気になることがある。フィオナが言っていた。王太子がハルバートの蟄居処分の見直しも進めているらしい」
「蟄居を解く気ですの?」
「表向きは『温情措置の再検討』だ。だが実態は駒の回収だろう」
リゼットの目が鋭くなった。
「やることが多いわね」
リゼットは書斎を出た。
支度があるからだ。舞踏会のドレスは、戦場の鎧と同じだ。
エリスが小声で言った。
「カイル。首、紋様が見えてます」
カイルは襟を直した。
「わかっている」
「わかっているなら、ちゃんと隠してください。リゼットが気づいたら、あの人は平気な顔をしますけど、でも」
エリスの言葉が途切れた。
言わなくてもわかる。
リゼットは平気な顔をする。そして一人で抱え込む。
日が暮れた。
雪が止んでいた。
代わりに冷たい風が王都を吹き抜けている。
王宮の大広間に灯りが入った。
千の魔導灯が天井から吊るされ、金と白の光が床の大理石に反射している。
正面の壇上に、王室の紋章が掲げられている。
入口の両脇に、二つの人影が立っていた。
王太子エドワードと、セレスティーヌ・アッシュフォード公爵夫人。
セレスティーヌは深い紫のドレスをまとっていた。
胸元に紫水晶のブローチ。金髪が灯りを受けて輝いている。
隣の王太子に向かって、微笑みかけた。
「今宵は素晴らしい夜になりますわ」
大広間の扉が開いた。
招待客が列をなして入ってくる。
カイルはリゼットの隣に立った。
襟は高く立てている。顎を引いている。
それでも首を動かせば、紋様の先端が覗く。
リゼットが小さく言った。
「顔を上げなさい。うつむいていたら、怯えていると思われる」
「わかっている」
「なら、堂々としていて。私の婚約者でしょう」
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大広間の光が目に刺さった。
千の灯りの向こうで、セレスティーヌが微笑んでいる。
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