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歩く帳簿が計算を間違えた朝
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目が覚めて、最初に確認したのは自分の首だった。
ある。繋がってる。今日も生きてる。
ベッドから起き上がり、窓の外を見る。灰色の空。北部の冬は容赦がない。
昨日の出来事を思い出す。
そして夕食のスープから、湯気が出ていた。
頭の中で、計算が回り始めた。
石ころ一個で、食事の温度が上がる。これは悪くない取引だ。
この路線で攻めよう。「無害で、手間がかからず、たまに貢ぎ物を持ってくる生き物」。それが私の目指す姿だ。
コンコン、とドアが叩かれた。
反射的に背筋が伸びる。
「失礼いたします」
入ってきたのは、あの執事だった。
銀縁の眼鏡。きっちり撫でつけた髪。そして、私を見る目。
昨日と変わらない。塵芥を見る目だ。
いや、違う。今日はもっと悪い。
昨日の単独行動がバレたのだろうか。廊下をうろついて、お父様に突撃したこと。
まずい。監視がついた。
「本日より、お嬢様の食事は私が直接お運びすることになりました」
ほら来た。
「直接」という言葉が怖い。「監視」の婉曲表現だ。間違いない。
執事は無言で朝食を並べていく。
今日の献立は、スープ、パン、それから小さな果物。昨日より品数が増えている。
だが、喜んでいる場合ではない。
この人の目が、私の一挙手一投足を記録している。まるで帳簿をつける商人だ。領主の視察が入った時のような、あの張り詰めた空気を思い出す。
「どうぞ」
執事が椅子を引いた。
私は小さく頭を下げて着席する。目の前にスープ。湯気が立っている。温かい。
でも、味わっている余裕はない。
執事が、私の斜め後ろに立った。
腕を後ろで組み、微動だにしない。完璧な「監視」の構えだ。
背中に視線が刺さる。
心臓がうるさい。手が震えそうになる。
落ち着け。
前世を思い出せ。昼の休憩が短くて、急いで食事を済ませなければならなかった日々を。あの頃に比べれば、監視付きの朝食なんて楽なものだ。
私はスプーンを手に取った。
ここからは、前世で身につけた早食いの技術を見せる時だ。
まず、スープ。
熱すぎないか、一瞬だけ唇に近づけて確認。適温。一口目を静かに運ぶ。音を立てない。啜らない。スプーンを口に対して水平に保ち、中身を滑り込ませる。
飲み込む。次。
二口目、三口目。
淀みなく動く。スプーンの軌道は最短距離。皿の端にスプーンを当てない。音を立てない。
パンは、一口の大きさにちぎる。ちぎる時に屑を出さない。皿の上で作業する。卓布を汚さない。
果物は、皮ごと食べられる種類だった。ありがたい。皮を剥く手間が省ける。三口で完食。
最後に布巾で口元を拭く。汚れはほとんどない。念のために拭いただけだ。
布巾を四つ折りにして、皿の横に置く。
終わり。
椅子を引いて立ち上がり、三歩下がって直立。
両手を前で組み、視線を落とす。「次のご指示をお待ちしております」の姿勢だ。
沈黙。
あれ、何も言われない。
恐る恐る顔を上げる。
執事が、固まっていた。
片手に手帳。もう片方の手には、羽根ペン。
そのペンを持つ指が、かすかに震えている。
「あ、あの」
私の声で、執事がハッとした。
眼鏡の奥の目が、さっきとは違う光を帯びている。
塵芥を見る目じゃない。
何か別のものを見る目だ。帳簿の数字が予想外に合った時の、商人の目。
「お嬢様」
執事の声が、わずかに上擦っていた。
「息をつく間もなく、お済ませになられた」
は?
「卓布の汚れ、皆無。食器の配置、乱れなし」
え?
「食事中の発声、なし。姿勢の崩れ、なし。食べ残し、なし」
執事が手帳に何かを書き殴っている。羽根ペンの先が紙を突き破りそうな勢いだ。
「信じられない」
その言葉に、心臓が跳ねた。
怒られる前触れだろうか。「信じられないほど行儀が悪い」とか?
「五歳のお子様であれば、食事に半刻はかかります。卓布を汚し、食器を倒し、食べ残しも出る。それが当然のこと」
執事が顔を上げた。
眼鏡が光っている。逆光のせいで、表情が読めない。
「それなのに、お嬢様は」
一歩、近づいてきた。私は思わず半歩下がる。
「手間が、かからない」
その目は、もはや塵芥を見る目ではなかった。
希少な宝石を鑑定する商人の目だ。
「お嬢様。大変失礼ながら、私はあなたを見誤っておりました」
待って。
なんか方向性がおかしい。
褒められてる気はするけど、褒め方が怖い。「手間がかからない」って、そこを評価するの?
「お世話に人手を割く必要がない。つまり、費用がかからない。なんと素晴らしい」
執事の目が、爛々と輝いている。
「お嬢様。本日の午後のご予定は」
「え、あ、特には」
「では、私がお嬢様に最適な一日の流れを組み立てましょう。お嬢様の行いの癖を把握すれば、さらに無駄を省けます」
待って。
なんか怖い。すごく怖い。
褒められてるはずなのに、品定めされてる気分だ。
その時だった。
バン、と扉が開いた。
心臓が止まるかと思った。
入ってきたのは、お父様だった。
銀髪が逆光で輝いている。相変わらず、この世の全てを憎んでいるような顔だ。
いや、今日はもっと険しい。眉間の皺が深い。明らかに機嫌が悪い。
「フリードリヒ」
低い声が、部屋の空気を凍らせた。
「はっ。旦那様」
執事が姿勢を正す。さっきまでの興奮が嘘のように、完璧な従者の顔に戻っている。
お父様の視線が、私と執事の間を行き来した。
距離が近い。確かに、執事は私に近づきすぎていた。手を伸ばせば届く距離だ。
お父様の眉間の皺が、さらに深くなった。
まるで、何か不快なものを感じ取ったかのように。
「近い」
お父様が、短く言った。
「は?」
「その娘に、近づきすぎだ」
お父様が、執事と私の間に割って入った。
大きな背中が、視界を塞ぐ。執事の姿が見えなくなる。
途端に、お父様の肩から力が抜けたように見えた。
「旦那様、私はお嬢様のお世話の件で報告を」
「いらん」
一言で切り捨てられた。
お父様が振り返る。灰色の瞳が、私を見下ろす。
「怖がらせたか」
え。
それは、執事に怖がらされたかという問いかけ?
「い、いえ」
「そうか」
お父様が片腕を伸ばしてきた。
反射的に目を瞑る。殴られる。いや、それとも。
ふわり、と体が浮いた。
目を開けると、私はお父様の腕の中にいた。
片腕で、軽々と抱き上げられている。まるで荷物だ。いや、荷物よりは丁寧な扱いかもしれない。
「旦那様、どちらへ」
「書斎だ」
「お嬢様もですか」
「ああ」
お父様が歩き出す。私を抱えたまま。
執事が何か言いかけたが、お父様は振り返らなかった。
廊下を進む。窓から差し込む光が、白い。
お父様の胸元に、小さな膨らみがあった。
昨日の石だ。まだ、入っている。
書斎に着いた。
お父様は私を、大きな革張りの長椅子に下ろした。
そして自分は机に向かい、書類を広げ始める。
沈黙。
私は、長椅子の端っこで小さくなっていた。
息を殺す。気配を消す。石になる。存在感を消す。
お父様はペンを走らせている。時折、書類をめくる音がする。それ以外は、静けさだけ。
十分経った。二十分経った。
お父様は私に話しかけてこない。追い出しもしない。ただ、同じ部屋にいることを許している。
もしかして。
これが、この人なりの「一緒にいる」なのだろうか。
分からない。全然分からない。
でも、殺されてはいない。それだけは確かだ。
私はそっと息を吐いた。
書斎は暖炉の火で暖かい。長椅子は柔らかい。お腹は満たされている。
目が、重くなってきた。
だめだ。寝たら失礼だ。お父様の前で無防備になるなんて。
でも、瞼が言うことを聞かない。
暖かい。静かだ。安全、かもしれない。
意識が、遠くなっていく。
最後に聞こえたのは、ペンが紙の上を走る音と。
かすかな、溜息のような声だった。
「やはり、静かだ」
その言葉の意味を考える前に、私は眠りに落ちた。
後から聞いた話だ。
その日から、執事フリードリヒは私の一日の予定を自ら管理するようになったらしい。
お父様が書斎にいる時刻。廊下を通る時間。庭に出る曜日。
全てが書き出され、私の部屋に届けられるようになった。
理由は、聞いていない。
でも、紙の端には小さく書き添えがあった。
『お父様にご挨拶できる、最も良い時間帯を記しました』
私は首を傾げた。
ご挨拶の時間帯? 誰が頼んだわけでもないのに?
答えは、考えるまでもなかった。
どうやら私は、屋敷の管理者という強い味方を手に入れたらしい。
経緯は全く分からないけど。
よし。
次は、あの「お兄様」だ。
一ヶ月後に、私を殺人犯に仕立て上げる出来事が待っている。
その前に、なんとかしないと。
生き残りの戦いは、まだ始まったばかりだ。
ある。繋がってる。今日も生きてる。
ベッドから起き上がり、窓の外を見る。灰色の空。北部の冬は容赦がない。
昨日の出来事を思い出す。
そして夕食のスープから、湯気が出ていた。
頭の中で、計算が回り始めた。
石ころ一個で、食事の温度が上がる。これは悪くない取引だ。
この路線で攻めよう。「無害で、手間がかからず、たまに貢ぎ物を持ってくる生き物」。それが私の目指す姿だ。
コンコン、とドアが叩かれた。
反射的に背筋が伸びる。
「失礼いたします」
入ってきたのは、あの執事だった。
銀縁の眼鏡。きっちり撫でつけた髪。そして、私を見る目。
昨日と変わらない。塵芥を見る目だ。
いや、違う。今日はもっと悪い。
昨日の単独行動がバレたのだろうか。廊下をうろついて、お父様に突撃したこと。
まずい。監視がついた。
「本日より、お嬢様の食事は私が直接お運びすることになりました」
ほら来た。
「直接」という言葉が怖い。「監視」の婉曲表現だ。間違いない。
執事は無言で朝食を並べていく。
今日の献立は、スープ、パン、それから小さな果物。昨日より品数が増えている。
だが、喜んでいる場合ではない。
この人の目が、私の一挙手一投足を記録している。まるで帳簿をつける商人だ。領主の視察が入った時のような、あの張り詰めた空気を思い出す。
「どうぞ」
執事が椅子を引いた。
私は小さく頭を下げて着席する。目の前にスープ。湯気が立っている。温かい。
でも、味わっている余裕はない。
執事が、私の斜め後ろに立った。
腕を後ろで組み、微動だにしない。完璧な「監視」の構えだ。
背中に視線が刺さる。
心臓がうるさい。手が震えそうになる。
落ち着け。
前世を思い出せ。昼の休憩が短くて、急いで食事を済ませなければならなかった日々を。あの頃に比べれば、監視付きの朝食なんて楽なものだ。
私はスプーンを手に取った。
ここからは、前世で身につけた早食いの技術を見せる時だ。
まず、スープ。
熱すぎないか、一瞬だけ唇に近づけて確認。適温。一口目を静かに運ぶ。音を立てない。啜らない。スプーンを口に対して水平に保ち、中身を滑り込ませる。
飲み込む。次。
二口目、三口目。
淀みなく動く。スプーンの軌道は最短距離。皿の端にスプーンを当てない。音を立てない。
パンは、一口の大きさにちぎる。ちぎる時に屑を出さない。皿の上で作業する。卓布を汚さない。
果物は、皮ごと食べられる種類だった。ありがたい。皮を剥く手間が省ける。三口で完食。
最後に布巾で口元を拭く。汚れはほとんどない。念のために拭いただけだ。
布巾を四つ折りにして、皿の横に置く。
終わり。
椅子を引いて立ち上がり、三歩下がって直立。
両手を前で組み、視線を落とす。「次のご指示をお待ちしております」の姿勢だ。
沈黙。
あれ、何も言われない。
恐る恐る顔を上げる。
執事が、固まっていた。
片手に手帳。もう片方の手には、羽根ペン。
そのペンを持つ指が、かすかに震えている。
「あ、あの」
私の声で、執事がハッとした。
眼鏡の奥の目が、さっきとは違う光を帯びている。
塵芥を見る目じゃない。
何か別のものを見る目だ。帳簿の数字が予想外に合った時の、商人の目。
「お嬢様」
執事の声が、わずかに上擦っていた。
「息をつく間もなく、お済ませになられた」
は?
「卓布の汚れ、皆無。食器の配置、乱れなし」
え?
「食事中の発声、なし。姿勢の崩れ、なし。食べ残し、なし」
執事が手帳に何かを書き殴っている。羽根ペンの先が紙を突き破りそうな勢いだ。
「信じられない」
その言葉に、心臓が跳ねた。
怒られる前触れだろうか。「信じられないほど行儀が悪い」とか?
「五歳のお子様であれば、食事に半刻はかかります。卓布を汚し、食器を倒し、食べ残しも出る。それが当然のこと」
執事が顔を上げた。
眼鏡が光っている。逆光のせいで、表情が読めない。
「それなのに、お嬢様は」
一歩、近づいてきた。私は思わず半歩下がる。
「手間が、かからない」
その目は、もはや塵芥を見る目ではなかった。
希少な宝石を鑑定する商人の目だ。
「お嬢様。大変失礼ながら、私はあなたを見誤っておりました」
待って。
なんか方向性がおかしい。
褒められてる気はするけど、褒め方が怖い。「手間がかからない」って、そこを評価するの?
「お世話に人手を割く必要がない。つまり、費用がかからない。なんと素晴らしい」
執事の目が、爛々と輝いている。
「お嬢様。本日の午後のご予定は」
「え、あ、特には」
「では、私がお嬢様に最適な一日の流れを組み立てましょう。お嬢様の行いの癖を把握すれば、さらに無駄を省けます」
待って。
なんか怖い。すごく怖い。
褒められてるはずなのに、品定めされてる気分だ。
その時だった。
バン、と扉が開いた。
心臓が止まるかと思った。
入ってきたのは、お父様だった。
銀髪が逆光で輝いている。相変わらず、この世の全てを憎んでいるような顔だ。
いや、今日はもっと険しい。眉間の皺が深い。明らかに機嫌が悪い。
「フリードリヒ」
低い声が、部屋の空気を凍らせた。
「はっ。旦那様」
執事が姿勢を正す。さっきまでの興奮が嘘のように、完璧な従者の顔に戻っている。
お父様の視線が、私と執事の間を行き来した。
距離が近い。確かに、執事は私に近づきすぎていた。手を伸ばせば届く距離だ。
お父様の眉間の皺が、さらに深くなった。
まるで、何か不快なものを感じ取ったかのように。
「近い」
お父様が、短く言った。
「は?」
「その娘に、近づきすぎだ」
お父様が、執事と私の間に割って入った。
大きな背中が、視界を塞ぐ。執事の姿が見えなくなる。
途端に、お父様の肩から力が抜けたように見えた。
「旦那様、私はお嬢様のお世話の件で報告を」
「いらん」
一言で切り捨てられた。
お父様が振り返る。灰色の瞳が、私を見下ろす。
「怖がらせたか」
え。
それは、執事に怖がらされたかという問いかけ?
「い、いえ」
「そうか」
お父様が片腕を伸ばしてきた。
反射的に目を瞑る。殴られる。いや、それとも。
ふわり、と体が浮いた。
目を開けると、私はお父様の腕の中にいた。
片腕で、軽々と抱き上げられている。まるで荷物だ。いや、荷物よりは丁寧な扱いかもしれない。
「旦那様、どちらへ」
「書斎だ」
「お嬢様もですか」
「ああ」
お父様が歩き出す。私を抱えたまま。
執事が何か言いかけたが、お父様は振り返らなかった。
廊下を進む。窓から差し込む光が、白い。
お父様の胸元に、小さな膨らみがあった。
昨日の石だ。まだ、入っている。
書斎に着いた。
お父様は私を、大きな革張りの長椅子に下ろした。
そして自分は机に向かい、書類を広げ始める。
沈黙。
私は、長椅子の端っこで小さくなっていた。
息を殺す。気配を消す。石になる。存在感を消す。
お父様はペンを走らせている。時折、書類をめくる音がする。それ以外は、静けさだけ。
十分経った。二十分経った。
お父様は私に話しかけてこない。追い出しもしない。ただ、同じ部屋にいることを許している。
もしかして。
これが、この人なりの「一緒にいる」なのだろうか。
分からない。全然分からない。
でも、殺されてはいない。それだけは確かだ。
私はそっと息を吐いた。
書斎は暖炉の火で暖かい。長椅子は柔らかい。お腹は満たされている。
目が、重くなってきた。
だめだ。寝たら失礼だ。お父様の前で無防備になるなんて。
でも、瞼が言うことを聞かない。
暖かい。静かだ。安全、かもしれない。
意識が、遠くなっていく。
最後に聞こえたのは、ペンが紙の上を走る音と。
かすかな、溜息のような声だった。
「やはり、静かだ」
その言葉の意味を考える前に、私は眠りに落ちた。
後から聞いた話だ。
その日から、執事フリードリヒは私の一日の予定を自ら管理するようになったらしい。
お父様が書斎にいる時刻。廊下を通る時間。庭に出る曜日。
全てが書き出され、私の部屋に届けられるようになった。
理由は、聞いていない。
でも、紙の端には小さく書き添えがあった。
『お父様にご挨拶できる、最も良い時間帯を記しました』
私は首を傾げた。
ご挨拶の時間帯? 誰が頼んだわけでもないのに?
答えは、考えるまでもなかった。
どうやら私は、屋敷の管理者という強い味方を手に入れたらしい。
経緯は全く分からないけど。
よし。
次は、あの「お兄様」だ。
一ヶ月後に、私を殺人犯に仕立て上げる出来事が待っている。
その前に、なんとかしないと。
生き残りの戦いは、まだ始まったばかりだ。
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