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雨の日は傘がなくても濡れていい
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朝、目を開けて、まず首を確認した。
ある。つながっている。
次に枕元を見た。
何もない。
キャンディはなかった。昨日もなかった。
執事さんが「手を打った」と言った、その翌日から。
五日間続いた朝の儀式が、あっさりと途絶えた。
私はベッドの上で膝を抱えた。
終わったのだ。たぶん。
乳母という脅威が、この屋敷から消えた。
でも、どうやって?
裁判が開かれた様子はない。騒ぎもなかった。
昨夜は静かに眠り、朝になって目が覚めた。それだけ。
権力者のやり方は、音がしない。
逆らえば、気づいた時にはもう遅い。
私は喉の奥がひんやりするのを感じた。
この屋敷の主が、どれほど恐ろしい人間か。
改めて思い知らされた朝だった。
-----
廊下に出ると、空気が違った。
メイドたちがひそひそ話をしている。視線が泳いでいる。
私を見ると、あわてて頭を下げた。
聞き耳を立てるまでもない。
断片的な言葉が、勝手に耳に入ってくる。
「乳母様が」
「昨夜のうちに」
「北の塔へ」
北の塔。
この屋敷で、その名前が出る時は決まっている。
処刑か、幽閉か。どちらにしても、二度と戻れない場所。
私は足を止めずに歩いた。
何も聞こえなかったふりをして。
五歳児には重すぎる話だ。知らないほうが自然。
でも、心の中では考えていた。
乳母は、どんな顔で連れて行かれたのだろう。
泣いたか。叫んだか。それとも、最後まで黙っていたか。
わからない。知りたくもない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
お父様は、私を守った。
結果として、だけど。
-----
練兵場に着くと、いつもと様子が違った。
騎士たちがざわついている。素振りをする者がいない。
バルバロスの怒鳴り声も聞こえない。
私は端の方で、様子をうかがった。
保存食の包みを懐に忍ばせている。今日も届けに来たのだ。
そこで、見つけた。
義兄様だ。
練兵場の隅に、一人で立っている。
木剣を握ったまま、動かない。
いつもなら、ドカドカと足音を立てて素振りをしている頃だ。
「どけ」「邪魔だ」と周りに当たり散らしている頃だ。
なのに、今日は石像みたいに固まっている。
私は目を凝らした。
義兄様の顔が、よく見えない。俯いているから。
でも、肩が震えているのはわかった。
怒り?
違う。あれは怒りの震え方じゃない。
バルバロスが近づいて、何か声をかけた。
義兄様は首を横に振った。それだけ。
言葉を返さなかった。
私の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
あの子は、知ってしまったのだ。
自分を育てた乳母が、妹を殺そうとしていたことを。
そして、もういないことを。
十歳。
十歳の男の子が、母代わりを失った。
しかも、その理由が「妹を殺そうとしたから」。
どう受け止めればいい?
誰を恨めばいい?
乳母を? 妹を? 父を? それとも、自分を?
私は知っている。
答えが出ないまま、ぐるぐる回り続ける苦しさを。
前の人生で、同じ寒さを味わったから。
大人になってからでも、立ち直るのに何年もかかった。
義兄様は、十歳だ。
-----
空が暗くなってきた。
北部の雲は、いつも足が速い。
さっきまで白かった空が、あっという間に鉛色に変わる。
最初の一滴が、私の鼻先に落ちた。
冷たい。凍るような冷たさ。
北部の雨は、雪に変わる一歩手前の温度をしている。
騎士たちが散っていく。
「雨だ」
「今日はここまでだな」
誰かがそう言って、屋根のある方へ走っていく。
バルバロスも眉をひそめた。
「坊主、中に入れ」
義兄様に声をかける。
でも、返事がない。
義兄様は、木剣を握ったまま、雨の中に立ち尽くしていた。
「おい、坊主。聞いてるか」
バルバロスが肩に手を置こうとした。
義兄様が、その手を振り払った。
「放っておいてくれ」
掠れた声だった。
いつもの棘がない。ただ、疲れ切った声。
バルバロスは一瞬だけ眉を寄せた。
それから、私の方を見た。
何か言いたそうな顔。
でも、小さく息を吐いて、何も言わずに去っていった。
まるで、「お前に任せる」と言っているみたいに。
練兵場に、私と義兄様だけが残った。
-----
雨が強くなってきた。
義兄様の肩が濡れている。髪の毛が額に張りついている。
でも、動かない。木剣を握ったまま、俯いている。
私はその背中を見ていた。
小さく見えた。
いつもはあんなに大きくて、うるさくて、邪魔だったのに。
今はただの、母親を失った子供にしか見えない。
関わらないほうがいい。
生き延びることだけ考えれば、義兄様と深入りするのは得策じゃない。
放っておいて、自分は屋根の下に逃げればいい。
でも、足が動かなかった。
私は、あの寒さを知っている。
誰かを失った後の、骨の髄まで凍りつくような寒さを。
傘があっても防げない、心の底から湧き上がる冷たさを。
気がついたら、私は歩き出していた。
義兄様の方へ。
雨に打たれながら。
何を言えばいいかわからない。
「大丈夫?」なんて聞けない。大丈夫じゃないに決まっている。
「元気出して」なんて言えない。そんな言葉で元気が出るなら苦労しない。
だから、私は何も言わなかった。
ただ、義兄様の隣に立った。
そして、懐から布を取り出した。
保存食を包んでいた、大きめの布。
それを、義兄様の頭の上に広げた。
小さな傘。
五歳の手では、うまく支えられない。
義兄様の半分くらいしか覆えていない。
でも、ないよりはまし。
義兄様が顔を上げた。
赤い目。泣いていたのか、雨なのか、わからない。
でも、瞳の奥が空っぽだった。
魂が抜けたみたいに、何も映っていない目。
私を見下ろしている。
睨んではいない。ただ、見ている。
長い沈黙があった。
雨の音だけが、耳に響く。
義兄様の唇が、かすかに動いた。
「いなくなった」
それだけ。
掠れた声で、それだけ言った。
私は何も答えなかった。
ただ、布を持つ手に力を込めた。
腕が震える。五歳の筋力では、すぐに限界が来る。
でも、下ろさなかった。
義兄様が、また俯いた。
肩が震えている。
声は出さない。でも、泣いているのだとわかった。
私は黙って立っていた。
雨に打たれながら。
腕が痺れてきても、布を下ろさずに。
何分経ったかわからない。
永遠みたいに長く感じた。
やがて、義兄様の視線が私の腕に落ちた。
震えている。五歳の筋力では、とうに限界を超えていた。
義兄様の手が動いた。
木剣が、地面に落ちる音がした。
そして、私が持っている布の端を、乱暴に掴んだ。
「……馬鹿」
小さな声。
それが悪口なのか、何なのか、わからなかった。
私の手から、布が離れた。
義兄様が、自分で傘を持っている。
私は用済みだ。離れてもいい。
でも、離れなかった。
義兄様が、布の端をこちらに傾けたから。
私の頭の上にも、屋根ができた。
何も言わない。
義兄様も、私も。
ただ、同じ布の下で、雨が止むのを待っている。
これは、優しさじゃない。
たぶん、義兄様にとっては、ただの無意識の動作だ。
一人で濡れているのが嫌だっただけかもしれない。
でも、私は少しだけ、胸が温かくなった。
この子は、まだ壊れていない。
傷ついて、震えて、泣いているけど。
それでも、小さな妹に屋根を分けてくれた。
お兄ちゃんだ。
私が前の人生で、手に入れられなかったもの。
義兄様。
あなたは、ひどいことを言ってきた。
「消えろ」「うるさい」「妹なんかいらない」。
全部覚えている。
でも今は、同じ傘の下にいる。
それだけで、十分だ。
-----
雨が小降りになった頃、足音が聞こえた。
振り返ると、執事さんが立っていた。
傘を二本持っている。
「お嬢様。若様」
いつもと変わらない、事務的な声。
「お召し替えのご用意ができております」
義兄様は何も言わずに、布を私に押しつけた。
そして、執事さんの傘の下に入った。
一度も振り返らずに、屋敷の方へ歩いていく。
私は濡れた布を抱えて、その背中を見送った。
執事さんが、もう一本の傘を差し出した。
「お嬢様。風邪を召されます」
「あ、ありがとう、ございます」
傘を受け取る。大人用だから、重い。
両手で持って、よろよろと歩き出す。
執事さんが、私の歩調に合わせてくれた。
何も聞かない。何も言わない。
ただ、黙って隣を歩いてくれる。
屋敷の入り口で、執事さんが口を開いた。
「お嬢様」
「は、はい」
「若様は、しばらく荒れるかもしれません」
私は頷いた。
当然だ。母代わりを失ったのだから。
「ですが」
執事さんの眼鏡の奥の目が、かすかに和らいだ。
「今日のことは、忘れないでしょう」
何のことだろう。
私は首を傾げた。
執事さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、いつもより少しだけ深く、頭を下げた。
-----
自室に戻って、濡れた服を着替えた。
温かいミルクが用意されていた。メイドさんの気遣いだ。
窓の外では、まだ雨が降っている。
北部の雨は、しつこい。一度降り出すと、なかなか止まない。
私はベッドに腰かけて、膝を抱えた。
今日、私は何をしたのだろう。
生き延びることだけを考えれば、完全に失敗だ。
義兄様に近づくべきじゃなかった。関わるべきじゃなかった。
でも、後悔はしていない。
たぶん、同じ状況になったら、また同じことをする。
前世の私は、一人で泣いた。
親を亡くした後、誰も傘を差してくれなかった。
仕事仲間は「大変だったね」と言ってくれたけど、それだけだった。
一緒に濡れてくれる人は、いなかった。
だから、わかる。
あの寒さが、どれほど辛いか。
一人で耐えるのが、どれほど苦しいか。
義兄様は、まだ十歳だ。
私より、ずっと子供だ。
誰かが、傘を差してあげなきゃいけない。
それが私である必要はなかった。
でも、他に誰もいなかった。
だから、私が立った。それだけのことだ。
明日、義兄様がまた「消えろ」と言ってきても、構わない。
今日のことを忘れても、構わない。
私は、自分が正しいと思ったことをしただけだ。
窓の外で、雷が光った。
遠い。まだこちらには来ない。
私はミルクを飲み干して、目を閉じた。
明日は、文字の授業がある。
狼。森。雪。夜。
四つの単語を復習しなきゃ。
生き延びるために、学び続ける。
それが、私の仕事だ。
でも今日だけは、少しだけ別のことを考えていた。
お兄ちゃん。
いつか、その呼び方ができる日が来るのだろうか。
たぶん、来ない。
でも、来なくてもいい。
同じ傘の下にいられた、それだけで十分だ。
私は毛布を引き寄せて、眠りに落ちた。
外では、まだ雨が降り続いている。
北部の、冷たい雨が。
ある。つながっている。
次に枕元を見た。
何もない。
キャンディはなかった。昨日もなかった。
執事さんが「手を打った」と言った、その翌日から。
五日間続いた朝の儀式が、あっさりと途絶えた。
私はベッドの上で膝を抱えた。
終わったのだ。たぶん。
乳母という脅威が、この屋敷から消えた。
でも、どうやって?
裁判が開かれた様子はない。騒ぎもなかった。
昨夜は静かに眠り、朝になって目が覚めた。それだけ。
権力者のやり方は、音がしない。
逆らえば、気づいた時にはもう遅い。
私は喉の奥がひんやりするのを感じた。
この屋敷の主が、どれほど恐ろしい人間か。
改めて思い知らされた朝だった。
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廊下に出ると、空気が違った。
メイドたちがひそひそ話をしている。視線が泳いでいる。
私を見ると、あわてて頭を下げた。
聞き耳を立てるまでもない。
断片的な言葉が、勝手に耳に入ってくる。
「乳母様が」
「昨夜のうちに」
「北の塔へ」
北の塔。
この屋敷で、その名前が出る時は決まっている。
処刑か、幽閉か。どちらにしても、二度と戻れない場所。
私は足を止めずに歩いた。
何も聞こえなかったふりをして。
五歳児には重すぎる話だ。知らないほうが自然。
でも、心の中では考えていた。
乳母は、どんな顔で連れて行かれたのだろう。
泣いたか。叫んだか。それとも、最後まで黙っていたか。
わからない。知りたくもない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
お父様は、私を守った。
結果として、だけど。
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練兵場に着くと、いつもと様子が違った。
騎士たちがざわついている。素振りをする者がいない。
バルバロスの怒鳴り声も聞こえない。
私は端の方で、様子をうかがった。
保存食の包みを懐に忍ばせている。今日も届けに来たのだ。
そこで、見つけた。
義兄様だ。
練兵場の隅に、一人で立っている。
木剣を握ったまま、動かない。
いつもなら、ドカドカと足音を立てて素振りをしている頃だ。
「どけ」「邪魔だ」と周りに当たり散らしている頃だ。
なのに、今日は石像みたいに固まっている。
私は目を凝らした。
義兄様の顔が、よく見えない。俯いているから。
でも、肩が震えているのはわかった。
怒り?
違う。あれは怒りの震え方じゃない。
バルバロスが近づいて、何か声をかけた。
義兄様は首を横に振った。それだけ。
言葉を返さなかった。
私の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
あの子は、知ってしまったのだ。
自分を育てた乳母が、妹を殺そうとしていたことを。
そして、もういないことを。
十歳。
十歳の男の子が、母代わりを失った。
しかも、その理由が「妹を殺そうとしたから」。
どう受け止めればいい?
誰を恨めばいい?
乳母を? 妹を? 父を? それとも、自分を?
私は知っている。
答えが出ないまま、ぐるぐる回り続ける苦しさを。
前の人生で、同じ寒さを味わったから。
大人になってからでも、立ち直るのに何年もかかった。
義兄様は、十歳だ。
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空が暗くなってきた。
北部の雲は、いつも足が速い。
さっきまで白かった空が、あっという間に鉛色に変わる。
最初の一滴が、私の鼻先に落ちた。
冷たい。凍るような冷たさ。
北部の雨は、雪に変わる一歩手前の温度をしている。
騎士たちが散っていく。
「雨だ」
「今日はここまでだな」
誰かがそう言って、屋根のある方へ走っていく。
バルバロスも眉をひそめた。
「坊主、中に入れ」
義兄様に声をかける。
でも、返事がない。
義兄様は、木剣を握ったまま、雨の中に立ち尽くしていた。
「おい、坊主。聞いてるか」
バルバロスが肩に手を置こうとした。
義兄様が、その手を振り払った。
「放っておいてくれ」
掠れた声だった。
いつもの棘がない。ただ、疲れ切った声。
バルバロスは一瞬だけ眉を寄せた。
それから、私の方を見た。
何か言いたそうな顔。
でも、小さく息を吐いて、何も言わずに去っていった。
まるで、「お前に任せる」と言っているみたいに。
練兵場に、私と義兄様だけが残った。
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雨が強くなってきた。
義兄様の肩が濡れている。髪の毛が額に張りついている。
でも、動かない。木剣を握ったまま、俯いている。
私はその背中を見ていた。
小さく見えた。
いつもはあんなに大きくて、うるさくて、邪魔だったのに。
今はただの、母親を失った子供にしか見えない。
関わらないほうがいい。
生き延びることだけ考えれば、義兄様と深入りするのは得策じゃない。
放っておいて、自分は屋根の下に逃げればいい。
でも、足が動かなかった。
私は、あの寒さを知っている。
誰かを失った後の、骨の髄まで凍りつくような寒さを。
傘があっても防げない、心の底から湧き上がる冷たさを。
気がついたら、私は歩き出していた。
義兄様の方へ。
雨に打たれながら。
何を言えばいいかわからない。
「大丈夫?」なんて聞けない。大丈夫じゃないに決まっている。
「元気出して」なんて言えない。そんな言葉で元気が出るなら苦労しない。
だから、私は何も言わなかった。
ただ、義兄様の隣に立った。
そして、懐から布を取り出した。
保存食を包んでいた、大きめの布。
それを、義兄様の頭の上に広げた。
小さな傘。
五歳の手では、うまく支えられない。
義兄様の半分くらいしか覆えていない。
でも、ないよりはまし。
義兄様が顔を上げた。
赤い目。泣いていたのか、雨なのか、わからない。
でも、瞳の奥が空っぽだった。
魂が抜けたみたいに、何も映っていない目。
私を見下ろしている。
睨んではいない。ただ、見ている。
長い沈黙があった。
雨の音だけが、耳に響く。
義兄様の唇が、かすかに動いた。
「いなくなった」
それだけ。
掠れた声で、それだけ言った。
私は何も答えなかった。
ただ、布を持つ手に力を込めた。
腕が震える。五歳の筋力では、すぐに限界が来る。
でも、下ろさなかった。
義兄様が、また俯いた。
肩が震えている。
声は出さない。でも、泣いているのだとわかった。
私は黙って立っていた。
雨に打たれながら。
腕が痺れてきても、布を下ろさずに。
何分経ったかわからない。
永遠みたいに長く感じた。
やがて、義兄様の視線が私の腕に落ちた。
震えている。五歳の筋力では、とうに限界を超えていた。
義兄様の手が動いた。
木剣が、地面に落ちる音がした。
そして、私が持っている布の端を、乱暴に掴んだ。
「……馬鹿」
小さな声。
それが悪口なのか、何なのか、わからなかった。
私の手から、布が離れた。
義兄様が、自分で傘を持っている。
私は用済みだ。離れてもいい。
でも、離れなかった。
義兄様が、布の端をこちらに傾けたから。
私の頭の上にも、屋根ができた。
何も言わない。
義兄様も、私も。
ただ、同じ布の下で、雨が止むのを待っている。
これは、優しさじゃない。
たぶん、義兄様にとっては、ただの無意識の動作だ。
一人で濡れているのが嫌だっただけかもしれない。
でも、私は少しだけ、胸が温かくなった。
この子は、まだ壊れていない。
傷ついて、震えて、泣いているけど。
それでも、小さな妹に屋根を分けてくれた。
お兄ちゃんだ。
私が前の人生で、手に入れられなかったもの。
義兄様。
あなたは、ひどいことを言ってきた。
「消えろ」「うるさい」「妹なんかいらない」。
全部覚えている。
でも今は、同じ傘の下にいる。
それだけで、十分だ。
-----
雨が小降りになった頃、足音が聞こえた。
振り返ると、執事さんが立っていた。
傘を二本持っている。
「お嬢様。若様」
いつもと変わらない、事務的な声。
「お召し替えのご用意ができております」
義兄様は何も言わずに、布を私に押しつけた。
そして、執事さんの傘の下に入った。
一度も振り返らずに、屋敷の方へ歩いていく。
私は濡れた布を抱えて、その背中を見送った。
執事さんが、もう一本の傘を差し出した。
「お嬢様。風邪を召されます」
「あ、ありがとう、ございます」
傘を受け取る。大人用だから、重い。
両手で持って、よろよろと歩き出す。
執事さんが、私の歩調に合わせてくれた。
何も聞かない。何も言わない。
ただ、黙って隣を歩いてくれる。
屋敷の入り口で、執事さんが口を開いた。
「お嬢様」
「は、はい」
「若様は、しばらく荒れるかもしれません」
私は頷いた。
当然だ。母代わりを失ったのだから。
「ですが」
執事さんの眼鏡の奥の目が、かすかに和らいだ。
「今日のことは、忘れないでしょう」
何のことだろう。
私は首を傾げた。
執事さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、いつもより少しだけ深く、頭を下げた。
-----
自室に戻って、濡れた服を着替えた。
温かいミルクが用意されていた。メイドさんの気遣いだ。
窓の外では、まだ雨が降っている。
北部の雨は、しつこい。一度降り出すと、なかなか止まない。
私はベッドに腰かけて、膝を抱えた。
今日、私は何をしたのだろう。
生き延びることだけを考えれば、完全に失敗だ。
義兄様に近づくべきじゃなかった。関わるべきじゃなかった。
でも、後悔はしていない。
たぶん、同じ状況になったら、また同じことをする。
前世の私は、一人で泣いた。
親を亡くした後、誰も傘を差してくれなかった。
仕事仲間は「大変だったね」と言ってくれたけど、それだけだった。
一緒に濡れてくれる人は、いなかった。
だから、わかる。
あの寒さが、どれほど辛いか。
一人で耐えるのが、どれほど苦しいか。
義兄様は、まだ十歳だ。
私より、ずっと子供だ。
誰かが、傘を差してあげなきゃいけない。
それが私である必要はなかった。
でも、他に誰もいなかった。
だから、私が立った。それだけのことだ。
明日、義兄様がまた「消えろ」と言ってきても、構わない。
今日のことを忘れても、構わない。
私は、自分が正しいと思ったことをしただけだ。
窓の外で、雷が光った。
遠い。まだこちらには来ない。
私はミルクを飲み干して、目を閉じた。
明日は、文字の授業がある。
狼。森。雪。夜。
四つの単語を復習しなきゃ。
生き延びるために、学び続ける。
それが、私の仕事だ。
でも今日だけは、少しだけ別のことを考えていた。
お兄ちゃん。
いつか、その呼び方ができる日が来るのだろうか。
たぶん、来ない。
でも、来なくてもいい。
同じ傘の下にいられた、それだけで十分だ。
私は毛布を引き寄せて、眠りに落ちた。
外では、まだ雨が降り続いている。
北部の、冷たい雨が。
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