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夜の共犯者
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みんなが寝静まった頃を見計らった。
廊下に人の気配がない。
今しかない。
棚を見上げた。
一番上に、革張りの本が置かれている。
お父様がくれた、私の本。
椅子を引きずった。
重い。五歳の力では、思うように動かない。
でも、少しずつ。少しずつ棚の前まで運ぶ。
椅子に登った。
つま先立ちで手を伸ばす。
指先が、本の背表紙に触れた。
届かない。
あと少し。ほんの少しなのに。
五歳の体が憎らしい。
前世なら、こんな高さ。
身を乗り出した。
足場がぐらついた。
「っ」
バランスを崩す。
落ちる。そう思った瞬間。
誰かに、腕を掴まれた。
「何やってんだ」
低い声。
振り返ると、義兄様がいた。
月明かりの中、その顔が見えた。
目の下に濃い隈。唇は乾いて荒れている。
手には包帯。昼間の傷だろう。
眠れなくて、屋敷をさまよっていたのかもしれない。
まずい。
見つかった。
マルタさんに知られたら終わりだ。
「あ、あの」
言い訳を考える。
でも、何も浮かばない。
椅子の上で、棚に手を伸ばしていた。
どう見ても、本を取ろうとしていた。
義兄様は、棚の上を見た。
それから、私を見た。
「あの女に隠されたのか」
声に、棘がない。
いつもの「消えろ」という響きがない。
ただ、疲れたような声だった。
「は、はい」
嘘をついても仕方ない。
私は小さく頷いた。
「勉強なんかして、何になる」
義兄様が言った。
馬鹿にしているわけではなさそうだ。
本当にわからない、という声だった。
「生きたい、から」
気づいたら、口に出していた。
義兄様の目が、少しだけ見開かれた。
しまった。
五歳にしては、重すぎる言葉だった。
でも、もう遅い。言ってしまった。
長い沈黙が落ちた。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
義兄様の顔は、影に沈んでいた。
やがて、義兄様が動いた。
私の隣に立つ。
そして、無言で腕を伸ばした。
長い腕が、棚の一番上に届く。
革張りの本を、掴み取る。
「ほら」
ぶっきらぼうに、本を差し出された。
私は呆然と、それを受け取った。
「あ、ありがとう、ございます」
「うるさい」
義兄様は、そっぽを向いた。
でも、その声には怒りがなかった。
照れ隠しのような、ぎこちなさがあった。
本を胸に抱きしめる。
お父様の本。私が自由になるための本。
義兄様は、窓の外を見ていた。
月を見ているのか。
それとも、何も見ていないのか。
「俺は何も見なかった」
義兄様が、ぽつりと言った。
「あの女には、言わねえ」
私は義兄様を見上げた。
目が合った。
疲れた目。
でも、昼間よりは少し落ち着いている。
「どうして」
思わず聞いてしまった。
義兄様は、私を嫌っているはずだ。
なのに、なぜ。
「知らねえよ」
義兄様は吐き捨てるように言った。
でも、すぐに視線を逸らした。
「お前が、あいつに言いなりになってるのは」
言葉が途切れた。
義兄様の拳が、かすかに震えている。
「見てらんねえだけだ」
その声は、とても小さかった。
聞き取れないくらい。
でも、確かに聞こえた。
義兄様も、籠の中にいたのだ。
乳母という籠に。
愛されているふりをして、閉じ込められていた。
今、その籠が壊れて。
義兄様は、どこにもいけなくなっている。
「義兄様」
私は、本を抱いたまま言った。
「手、痛くないですか」
義兄様の包帯を見た。
木剣を握りすぎて傷ついた手。
血が滲んでいる。
「うるせえ。関係ねえだろ」
義兄様は顔をしかめた。
傷ついた手を、背中に隠すように引いた。
でも、その声は怒っていなかった。
むしろ、戸惑っているようだった。
「もう寝ろ」
義兄様が言った。
背を向けて、廊下へ歩き出す。
「義兄様」
呼び止めた。
義兄様は振り返らなかった。
でも、足を止めた。
「おやすみなさい」
義兄様の背中が、一瞬だけ強ばった。
それから、小さく頷いたように見えた。
足音が遠ざかっていく。
廊下の闇に、義兄様の姿が消えた。
私は本を抱きしめた。
胸の中で、何かが温かくなっている。
義兄様は私の味方ではない。
まだ、そうは言えない。
でも、今夜。たった今。
私たちは秘密を分け合った。
マルタさんには言わない。
それは、小さな秘密。
私と義兄様だけの、秘密。
窓の外で、月が雲に隠れた。
また、夜が深くなる。
でも、今夜は怖くなかった。
翌朝。
マルタさんが、部屋にやってきた。
「おはようございます、お嬢様」
三日月目の笑顔。
いつもの、甘い声。
「今日も刺繍を教えてあげますわね」
マルタさんは、棚をちらりと見上げた。
確認するまでもない、という顔だった。
まさか五歳の子どもが夜中に取り戻すとは思っていないのだろう。
私は机の引き出しを、さりげなく押さえた。
革張りの本が、そこに隠してある。
「は、はい。よろしくお願いします」
五歳の笑顔を作る。
無邪気な笑顔。
何も知らない、可愛い子の笑顔。
マルタさんは満足そうに頷いた。
「いい子ですわね、お嬢様は」
その言葉が、前より怖くなくなっていた。
だって、私には秘密がある。
思いがけない仲間がいる。
お父様の言葉が、頭の中で響いた。
「開けろ」
はい、お父様。
私は鍵を手に入れました。
まだ小さな、小さな鍵ですけど。
窓の外で、練兵場から木剣の音が聞こえた。
でも、昨日とは違う音だった。
少しだけ、規則正しいリズム。
狂ったように振り回す音じゃない。
義兄様も、何かを取り戻したのかもしれない。
私は刺繍針を手に取った。
マルタさんの前で、良い子を演じる。
でも、心の中では笑っていた。
お人形のふりをしながら、勉強を続ける。
それが、今の私にできる小さな抵抗。
籠の鳥は、まだ飛べない。
でも、鍵を握る手がある。
しかも、一人じゃない。
廊下に人の気配がない。
今しかない。
棚を見上げた。
一番上に、革張りの本が置かれている。
お父様がくれた、私の本。
椅子を引きずった。
重い。五歳の力では、思うように動かない。
でも、少しずつ。少しずつ棚の前まで運ぶ。
椅子に登った。
つま先立ちで手を伸ばす。
指先が、本の背表紙に触れた。
届かない。
あと少し。ほんの少しなのに。
五歳の体が憎らしい。
前世なら、こんな高さ。
身を乗り出した。
足場がぐらついた。
「っ」
バランスを崩す。
落ちる。そう思った瞬間。
誰かに、腕を掴まれた。
「何やってんだ」
低い声。
振り返ると、義兄様がいた。
月明かりの中、その顔が見えた。
目の下に濃い隈。唇は乾いて荒れている。
手には包帯。昼間の傷だろう。
眠れなくて、屋敷をさまよっていたのかもしれない。
まずい。
見つかった。
マルタさんに知られたら終わりだ。
「あ、あの」
言い訳を考える。
でも、何も浮かばない。
椅子の上で、棚に手を伸ばしていた。
どう見ても、本を取ろうとしていた。
義兄様は、棚の上を見た。
それから、私を見た。
「あの女に隠されたのか」
声に、棘がない。
いつもの「消えろ」という響きがない。
ただ、疲れたような声だった。
「は、はい」
嘘をついても仕方ない。
私は小さく頷いた。
「勉強なんかして、何になる」
義兄様が言った。
馬鹿にしているわけではなさそうだ。
本当にわからない、という声だった。
「生きたい、から」
気づいたら、口に出していた。
義兄様の目が、少しだけ見開かれた。
しまった。
五歳にしては、重すぎる言葉だった。
でも、もう遅い。言ってしまった。
長い沈黙が落ちた。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
義兄様の顔は、影に沈んでいた。
やがて、義兄様が動いた。
私の隣に立つ。
そして、無言で腕を伸ばした。
長い腕が、棚の一番上に届く。
革張りの本を、掴み取る。
「ほら」
ぶっきらぼうに、本を差し出された。
私は呆然と、それを受け取った。
「あ、ありがとう、ございます」
「うるさい」
義兄様は、そっぽを向いた。
でも、その声には怒りがなかった。
照れ隠しのような、ぎこちなさがあった。
本を胸に抱きしめる。
お父様の本。私が自由になるための本。
義兄様は、窓の外を見ていた。
月を見ているのか。
それとも、何も見ていないのか。
「俺は何も見なかった」
義兄様が、ぽつりと言った。
「あの女には、言わねえ」
私は義兄様を見上げた。
目が合った。
疲れた目。
でも、昼間よりは少し落ち着いている。
「どうして」
思わず聞いてしまった。
義兄様は、私を嫌っているはずだ。
なのに、なぜ。
「知らねえよ」
義兄様は吐き捨てるように言った。
でも、すぐに視線を逸らした。
「お前が、あいつに言いなりになってるのは」
言葉が途切れた。
義兄様の拳が、かすかに震えている。
「見てらんねえだけだ」
その声は、とても小さかった。
聞き取れないくらい。
でも、確かに聞こえた。
義兄様も、籠の中にいたのだ。
乳母という籠に。
愛されているふりをして、閉じ込められていた。
今、その籠が壊れて。
義兄様は、どこにもいけなくなっている。
「義兄様」
私は、本を抱いたまま言った。
「手、痛くないですか」
義兄様の包帯を見た。
木剣を握りすぎて傷ついた手。
血が滲んでいる。
「うるせえ。関係ねえだろ」
義兄様は顔をしかめた。
傷ついた手を、背中に隠すように引いた。
でも、その声は怒っていなかった。
むしろ、戸惑っているようだった。
「もう寝ろ」
義兄様が言った。
背を向けて、廊下へ歩き出す。
「義兄様」
呼び止めた。
義兄様は振り返らなかった。
でも、足を止めた。
「おやすみなさい」
義兄様の背中が、一瞬だけ強ばった。
それから、小さく頷いたように見えた。
足音が遠ざかっていく。
廊下の闇に、義兄様の姿が消えた。
私は本を抱きしめた。
胸の中で、何かが温かくなっている。
義兄様は私の味方ではない。
まだ、そうは言えない。
でも、今夜。たった今。
私たちは秘密を分け合った。
マルタさんには言わない。
それは、小さな秘密。
私と義兄様だけの、秘密。
窓の外で、月が雲に隠れた。
また、夜が深くなる。
でも、今夜は怖くなかった。
翌朝。
マルタさんが、部屋にやってきた。
「おはようございます、お嬢様」
三日月目の笑顔。
いつもの、甘い声。
「今日も刺繍を教えてあげますわね」
マルタさんは、棚をちらりと見上げた。
確認するまでもない、という顔だった。
まさか五歳の子どもが夜中に取り戻すとは思っていないのだろう。
私は机の引き出しを、さりげなく押さえた。
革張りの本が、そこに隠してある。
「は、はい。よろしくお願いします」
五歳の笑顔を作る。
無邪気な笑顔。
何も知らない、可愛い子の笑顔。
マルタさんは満足そうに頷いた。
「いい子ですわね、お嬢様は」
その言葉が、前より怖くなくなっていた。
だって、私には秘密がある。
思いがけない仲間がいる。
お父様の言葉が、頭の中で響いた。
「開けろ」
はい、お父様。
私は鍵を手に入れました。
まだ小さな、小さな鍵ですけど。
窓の外で、練兵場から木剣の音が聞こえた。
でも、昨日とは違う音だった。
少しだけ、規則正しいリズム。
狂ったように振り回す音じゃない。
義兄様も、何かを取り戻したのかもしれない。
私は刺繍針を手に取った。
マルタさんの前で、良い子を演じる。
でも、心の中では笑っていた。
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