処刑回避のために「空気」になったら、なぜか冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで。

チャビューヘ

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熊の勘と、甘くない秘密

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 朝の練兵場には、もう見慣れた光景が広がっていた。
 騎士たちが汗を流している。木剣がぶつかり合う音。掛け声。
 その中に、バルバロスさんの姿を見つけた。

 今日も、あの場所にいる。
 練兵場の端。壁にもたれかかって、腕を組んでいる。
 待っていてくれている。

 私は小さく息を吐いて、バルバロスさんに近づいた。

「よう」

 低い声。熊のような体が、こちらを向いた。

「おはようございます」

 五歳の声を作る。おずおずと、でも嬉しそうに。
 バルバロスさんは無言で懐に手を入れた。
 出てきたのは、布に包まれた何か。

 干し肉だ。

 前と同じ。硬くて、塩辛くて、でも噛めば噛むほど味が出る。
 兵士の保存食。甘いお菓子なんかより、ずっと役に立つ。

「ありがとう、ございます」

 両手で受け取る。
 バルバロスさんは小さく頷いた。

 干し肉を齧りながら、練兵場を眺めた。
 騎士たちが訓練に励んでいる。その隅で、一人だけ離れて素振りをしている姿があった。

 義兄様だ。

 木剣を振る音が聞こえる。
 規則正しいリズム。昨日の朝より、さらに安定している。
 迷いのない、真っ直ぐな軌道。

「若様の剣が変わった」

 バルバロスさんがぽつりと言った。
 私は干し肉を齧る手を止めた。

「迷いが消えた。ここ数日、どうも荒れていたが」

 バルバロスさんの目が、私に向いた。
 黒い瞳。深い森のような色。

「お前、何かしたか」

 心臓が跳ねた。
 まずい。気づかれている。
 でも、何を言えばいい。夜中に会いましたなんて言えない。

「何も」

 私は首を横に振った。
 五歳らしく、きょとんとした顔を作る。

「そうか」

 バルバロスさんは、それ以上追及しなかった。
 ただ、何かを見透かすような目で私を見ていた。

 視線を感じて、練兵場の方を見た。
 義兄様と目が合った。一瞬だけ。
 言葉は交わさない。手も振らない。

 でも、わかった。
 「余計なことは言うな」という合図だ。

 私も小さく瞬きで返す。「わかってます」と。
 誰にも気づかれない、二人だけの符丁。

 義兄様はすぐに視線を逸らした。
 何事もなかったように、木剣を振り続ける。
 でも、その目に昨日までの虚無感はなかった。

「干し肉、美味いか」

 バルバロスさんが聞いた。

「はい」

 私は頷いた。これは嘘じゃない。
 塩辛いけど、噛むと肉の味がする。
 甘いお菓子より、ずっと好きだ。

「そうか」

 バルバロスさんは小さく笑った。
 熊のような顔が、少しだけ柔らかくなる。

「変わった嬢ちゃんだな」

 その言葉が、なぜか嬉しかった。



 部屋に戻ると、刺繍の続きをした。
 マルタさんが来るまでの時間。演技の練習。

 針を動かしながら、考える。
 義兄様との秘密。バルバロスさんの目。
 知られてはいけない。でも、誰かが気づき始めている。

 慎重にならないと。

 昼前に、扉が叩かれた。

「お嬢様、マルタですわ」

 三日月目の笑顔が、部屋に入ってきた。

「まあ、お上手!」

 マルタさんは私の刺繍を覗き込んで、手を叩いた。
 過剰な褒め言葉。甘い声。

「どんどん上手になりますわねぇ」

 私は照れたふりをした。
 五歳の笑顔。無邪気で、何も知らない子の顔。

 マルタさんは部屋の中を歩き回った。
 窓辺の花を直すふりをして、棚の方をちらりと見る。

 心臓が止まりそうになった。
 もし近づいて確認されたら。
 本がないと気づかれたら。

 でも、マルタさんは棚に近づかなかった。
 一番上の段。暗くて、よく見えない位置。
 あの高さに手が届くはずがない。そう思っているのだろう。
 確認するまでもない、という顔だった。

「届きませんわよねぇ、お嬢様には」

 振り返って、にっこりと笑う。

「は、はい。届きません」

 私は嘘をついた。
 声が震えないように、必死で唇を引き結ぶ。

 机に向かったまま、引き出しの縁をそっと押さえた。
 革張りの本が、そこに隠してある。

 マルタさんは満足そうに頷いた。

「いい子ですわね、お嬢様は」

 その言葉が、もう怖くなかった。
 だって、私には秘密がある。
 思いがけない仲間がいる。

 嘘をつく自分に、少しだけ強さを感じた。

「刺繍は素敵な趣味ですわ」

 マルタさんは私の隣に座った。

「針の持ち方、こうですわ。そうそう、お上手」

 甘い声。優しい手つき。
 でも、その目は冷たい。
 お人形を可愛がるような、愛情のない優しさ。

 私は黙って針を動かした。
 心の中では別のことを考えている。

 お父様の授業は、いつだろう。
 今日も文字を教えてもらえるだろうか。
 「開けろ」という言葉の続きを、知りたい。

「夕方までに、この花を完成させましょうね」

 マルタさんが言った。

「は、はい」

 私は頷いた。
 良い子のふりを、続ける。



 夕方、お父様の書斎に呼ばれた。

 文字の授業。四日目。
 今日も革張りの本が、机の上に置かれている。

 お父様は私を膝の上に乗せた。
 いつものように。無言で。
 でも、その腕は温かかった。

「今日は四つ」

 お父様が本を開いた。
 新しいページ。見たことのない文字が並んでいる。

「光」

 お父様の指が、最初の文字をなぞった。

「ひかり」

 私は繰り返した。指で文字をなぞる。
 光。明るいもの。闇を照らすもの。

「闇」

 次の文字。

「やみ」

 闇。暗いもの。光がないところ。
 対になる言葉だ。光と闇。

 三つ目の文字で、手が止まった。

「嘘」

 お父様の声が、少し低くなった気がした。

「う、そ」

 私は繰り返した。
 嘘。本当ではないこと。騙すこと。

 この文字をなぞった瞬間、お父様の指が止まった。
 灰色の瞳が、私を見下ろしている。

「上手くなったな」

 お父様が言った。

 文字を読むのが上手くなった?
 それとも。
 まさか、マルタさんへの嘘が?

 いや、考えすぎだ。お父様に私の心は聞こえない。
 はずだ。
 たぶん。

 お父様は何も言わずにページをめくった。
 沈黙が、重く落ちる。

 四つ目の文字。

「真実」

「しん、じつ」

 真実。嘘の反対。本当のこと。

 嘘と真実。
 光と闇。
 お父様は、何を教えようとしているのだろう。

「復習しろ」

 お父様が言った。

「は、はい」

 私は机に向かった。
 紙に文字を書く。光。闇。嘘。真実。

 お父様の視線を、背中に感じる。
 「全部見ているぞ」と言われている気がした。

 でも、お父様は何も言わない。
 ただ、静かに見守っている。

 私は文字を書き続けた。
 嘘という文字を、何度もなぞる。

 今の私は、嘘つきだ。
 マルタさんに嘘をついている。
 お父様にも、本当のことは言えていない。

 でも、生きるために嘘をつく。
 それは悪いことなのだろうか。

 わからない。
 わからないけど、今は嘘しかない。

「終わったか」

 お父様の声。

「は、はい」

 私は紙を差し出した。
 お父様は無言でそれを見た。

「いい」

 短い言葉。でも、それが褒め言葉だとわかる。
 お父様は私の頭を、軽く撫でた。

 大きな手。温かい手。
 この手が、どれだけの血を流させてきたのかを知っている。
 でも、今は優しい。

「また明日」

 お父様が言った。

「は、はい。ありがとう、ございました」

 私は書斎を出た。
 廊下を歩きながら、考える。

 光と闇。嘘と真実。
 お父様は、対になる言葉を教えてくれた。
 それには、きっと意味がある。

 籠から出るためには、嘘も必要だ。
 でも、嘘だけでは足りない。

 真実を見抜く目が必要だ。
 誰が敵で、誰が味方なのか。
 マルタさんの笑顔の裏に、何があるのか。

 窓の外で、夕日が沈もうとしていた。
 光が消えて、闇が迫ってくる。

 でも、怖くなかった。
 だって私には、秘密を分け合った人がいる。
 文字を教えてくれる人がいる。
 干し肉をくれる人がいる。

 一人じゃない。

 部屋に戻ると、引き出しを開けた。
 革張りの本が、そこにある。
 お父様がくれた、私の本。

 今日習った文字を、本の中から探してみる。
 光。見つけた。闇。これも見つけた。
 嘘と真実は、まだ見つからない。

 でも、いつか読める。
 この本の全部を。
 そうしたら、もっと強くなれる。

 窓の外から、木剣の音が聞こえた。
 規則正しいリズム。
 義兄様が、まだ練習しているのだろう。

 明日も、目が合うだろうか。
 言葉を交わさない、二人だけの合図。

 なんだか、密偵になった気分だ。
 前の人生で読んだ物語に、こんな場面があった気がする。

 私は小さく笑って、本を引き出しにしまった。
 明日に備えて、眠らないと。

 嘘つきの一日は、こうして終わった。
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