処刑回避のために「空気」になったら、なぜか冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで。

チャビューヘ

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執事の目と予測できぬ変化

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 朝食の席で、私は背筋を伸ばしていた。

 お父様の隣。義兄様の向かい。
 いつもの配置。いつもの沈黙。
 給仕の執事さんが、スープを並べていく。

 でも、今日は何かが違った。

 義兄様が、スープを飲んでいる。
 一口、また一口。黙々と、しかし確実に。
 スプーンが皿の底を擦る音がした。

 空になっている。

 私は目を瞬いた。
 義兄様は、ずっと食が細かった。
 乳母がいなくなってからは特に、残すことが多かった。
 荒れていた。木剣を振り続けて、食事なんて二の次だった。

 今日は、違う。
 パンにも手を伸ばしている。バターを塗って、一口で頬張る。
 咀嚼する顎。動く喉仏。
 飢えた獣のように、とまでは言わない。
 でも、確かに食べている。

 ちらりと、執事さんを見た。
 眼鏡の奥の目が、義兄様を観察している。

 執事さんは、何も言わなかった。
 給仕を続けながら、義兄様の皿を見ていた。
 その視線が、一瞬だけ私に向けられた。

 何か、探られている気がした。

 お父様は黙って食事を続けている。
 灰色の瞳は、どこを見ているのかわからない。

 義兄様が席を立った。

「ごちそうさま」

 短い言葉。ぶっきらぼうな声。
 でも、空になった皿が残されている。
 それだけで、十分な証拠だった。

 私も小さく息を吐いて、スープに口をつけた。
 温かい。おいしい。生きている証。

 義兄様の背中が、食堂から消えていく。
 その足取りは、数日前より力強かった。



 食後、廊下を歩いていると、執事さんに呼び止められた。

「お嬢様」

 落ち着いた声。いつも通りの礼儀正しさ。

「は、はい」

 私は足を止めた。
 何だろう。何か、失敗しただろうか。

「少々、お散歩にお付き合い願えますか」

 散歩。
 執事さんが、散歩に誘う。
 朝食の後、お父様と何か話していた。
 その指示だろうか。

「い、いいの?」

「旦那様のお許しは得ております」

 お父様の許可。それなら、断る理由はない。
 私は小さく頷いた。

 執事さんに連れられて、屋敷の外へ出た。
 庭を抜けて、練兵場へ向かう道。

 朝の空気は冷たい。北部の冬が近づいている。
 吐く息が白く曇った。

「お嬢様」

 執事さんが、歩きながら口を開いた。

「若様が、昨日から完食なさるようになりました」

 昨日から。
 私は少し驚いた。気づいていなかった。
 いや、昨日は私もぼんやりしていたのかもしれない。

「以前より、随分とお召し上がりになられております」

 執事さんの声は、静かだが確信に満ちていた。
 観察。記録。報告。
 この人は、屋敷のすべてを見ている人なのだ。

「それは、その」

 私は言葉を選んだ。

「良いこと、ですか?」

「はい」

 執事さんは短く答えた。
 眼鏡の奥の目が、真っ直ぐ前を向いている。

「若様の回復は、この屋敷にとって重要なことでございます」

 回復。
 人の健康を見守っている。
 この人は、そういう人なのだ。

 練兵場が見えてきた。
 木剣がぶつかる音。掛け声。騎士たちの姿。

 その隅で、二人の人影が向かい合っていた。

 義兄様と、バルバロス様。

「ご覧ください」

 執事さんが、足を止めた。
 私も隣に立って、その光景を眺めた。

 義兄様が、木剣を構えている。
 バルバロス様は、熊のような体を低く沈めていた。

 一瞬の静寂。

 義兄様が、動いた。
 踏み込む。振りかぶる。打ち下ろす。
 その動作が、前より鋭くなっている気がした。

 バルバロス様の木剣が、それを受け止めた。
 ガンッ、と硬い音が響く。

 でも、バルバロス様が一歩下がった。

 私は目を見張った。
 あのバルバロス様が、押されている。
 いや、押されているふりかもしれない。
 でも、義兄様の剣に、確かな力があった。

「踏み込みが改善されております」

 執事さんが、小さく呟いた。

「以前は軸がぶれておりましたが、本日は真っ直ぐでございます」

 踏み込み。軸。
 私には、よくわからない。
 でも、執事さんには見えているのだろう。

 義兄様が、続けて打ち込んだ。
 一撃、二撃、三撃。
 規則正しいリズム。迷いのない軌道。

 バルバロス様が、防御の姿勢を崩さない。
 受け止めて、受け流して、また受け止める。

 やがて、義兄様が息を切らせて下がった。
 汗が額から流れている。肩で息をしている。

 でも、その目に虚無感はなかった。

 バルバロス様が、木剣を下ろした。

「悪くねえ」

 短い言葉。でも、それが褒め言葉だとわかった。
 義兄様の肩が、ほんの少しだけ上がった気がした。

 義兄様が、こちらを見た。
 一瞬だけ。手は振らない。笑顔もない。
 ただ、顎を少し上げた。
 「見たか」と言いたげに。

 私は小さく頷いた。
 それだけで、十分だった。

「お嬢様」

 執事さんの声が、静かに響いた。
 練兵場を眺めたまま、こちらを見ない。

「若様の変化を、旦那様も喜ばれるでしょう」

 それだけだった。
 原因を問わない。詮索しない。
 ただ、結果を受け入れている。

 でも、その目が一瞬だけ私を捉えた。
 何か、見透かされている気がした。

 執事さんは、しばらく黙っていた。
 練兵場の方を眺めながら、何かを考えている。

「予測しておりませんでした」

 やがて、執事さんはそう言った。

「この短期間で、これほどの変化が起こるとは」

 その声には、戸惑いのようなものがあった。
 でも、嫌な感じではなかった。

「しかしながら」

 執事さんが、私の横に並んだ。
 背の高い影が、私の隣に落ちる。

「予測できぬ変化というものも、悪くはございません」

 私は顔を上げた。
 執事さんの横顔を見る。

 その唇の端が、ほんの少しだけ上がっていた。

「旦那様も、同じお考えかと存じます」

 それは、この人なりの笑顔だったのかもしれない。



 部屋に戻ると、刺繍の続きをした。
 マルタさんが来るまでの時間。いつもの演技。

 でも、今日は少しだけ気分が違った。

 義兄様の剣が強くなっている。
 食事を完食している。
 執事さんが、それに気づいている。

 私が何かをしたわけじゃない。
 本を取るのを手伝っただけ。
 秘密を共有しただけ。

 でも、それだけで、何かが変わった。

 針を動かしながら、考える。
 この屋敷には、敵ばかりじゃない。
 執事さんとバルバロス様は、少なくとも私を害そうとはしていない。
 そして義兄様は、秘密を分け合った人だ。

 完全に一人じゃない。それだけで、十分だ。

 昼前に、マルタさんが来た。
 細められた目。柔らかく弧を描く笑み。いつもの甘い声。

「お嬢様、今日もお上手ですわ」

 私は照れたふりをした。
 演技。嘘。でも、もう慣れてきた。

 マルタさんが、棚の方を見た。
 今日は、少しだけ長い。

 心臓が跳ねる。
 気づいた?

 でも、マルタさんは近づかなかった。
 窓辺に視線を移して、首を傾げただけ。

「今日はいいお天気ですわねぇ」

 私は引き出しの縁を、そっと押さえた。
 革張りの本は、ここにある。
 まだ、大丈夫。たぶん。



 夕方、お父様の書斎に呼ばれた。

 文字の授業。五日目。
 今日も革張りの本が、机の上に置かれている。

 お父様は私を膝の上に乗せた。
 いつものように。無言で。
 腕の中は、今日も温かかった。

「今日は四つ」

 お父様が本を開いた。
 新しいページ。見慣れない文字が並んでいる。

「父」

 お父様の指が、最初の文字をなぞった。

「ちち」

 私は繰り返した。
 父。お父さん。この言葉は、私にとって複雑だ。
 前の人生では、普通の父親がいた。
 今は、この人がいる。

「母」

 次の文字。

「はは」

 母。お母さん。
 この世界の母は、私を産んで死んだ。
 顔も知らない。声も聞いたことがない。

「兄」

 三つ目の文字で、お父様の指が少し止まった。

「あに」

 兄。義兄様。
 私の中で、その文字の意味が変わりつつある。

「変わったか」

 お父様が、突然言った。

 私は顔を上げた。
 灰色の瞳が、私を見下ろしている。

 何を聞いているのだろう。
 義兄様のことか。私自身のことか。
 それとも、両方か。

「はい」

 私は小さく答えた。

「つよそう、です」

 嘘ではない。義兄様は、確かに強くなっている。
 剣も。食欲も。目の光も。

 お父様は、しばらく黙っていた。
 その沈黙が、何を意味するのかわからない。

「そうか」

 やがて、お父様はそれだけ言った。
 満足そうでも、不満そうでもなかった。
 ただ、静かに頷いただけ。

 四つ目の文字。

「妹」

「いもうと」

 妹。それは、私のことだ。
 義兄様にとっての、妹。

 お父様は、対になる言葉を教えている。
 父と母。兄と妹。
 家族。血のつながり。

 私は、この家族の一員なのだろうか。
 前の人生の記憶を持ったまま、この家に生まれた。
 でも、今はここにいる。

「復習しろ」

 お父様が言った。

「は、はい」

 私は机に向かった。
 紙に文字を書く。父。母。兄。妹。

 書きながら、考える。
 父と母は、対になっている。
 兄と妹も、対だ。

 義兄様と私は、本当の兄妹じゃない。
 別の母から生まれた。
 血はつながっていない。

 それでも、「兄」と「妹」の文字は、並んでいる。

「終わったか」

 お父様の声。

「は、はい」

 私は紙を差し出した。
 お父様は無言でそれを見た。

「いい」

 短い言葉。でも、それが褒め言葉だとわかる。
 お父様は私の頭を、軽く撫でた。

 大きな手。温かい手。
 父の手。

「また明日」

 お父様が言った。

「は、はい。ありがとう、ございました」

 私は書斎を出た。
 廊下を歩きながら、指を動かす。
 父。母。兄。妹。

 家族の文字を、空に書いてみる。

 窓の外では、夕日が沈もうとしていた。
 赤い光が、廊下を染めている。

 義兄様は、今頃何をしているだろう。
 まだ木剣を振っているのか。
 それとも、もう部屋に戻っているのか。

 明日も、目が合うだろうか。
 言葉を交わさない、二人だけの合図。

 私は小さく笑って、部屋への道を歩いた。

 引き出しを開けると、革張りの本が見えた。
 今日習った文字を、本の中から探してみる。

 「父」は、すぐに見つかった。
 「母」も、ある。
 「兄」と「妹」は、まだ見つけられない。

 でも、いつか読める。
 この本の全部を。

 窓の外から、騎士たちの声が聞こえた。
 訓練は終わったのだろう。
 静かになっていく練兵場。

 明日は、どんな一日になるのだろう。
 執事さんは、また何か気づいているのだろうか。
 義兄様は、また食事を完食するのだろうか。

 わからない。
 でも、楽しみだと思う自分がいた。

 私は本を引き出しにしまって、窓辺に立った。
 夕日の残光が、ゆっくりと消えていく。

 予測できぬ変化。
 執事さんの言葉が、頭に残っていた。

 この屋敷で起こっていることは、誰にも予測できない。
 私にも、執事さんにも、きっとお父様にも。

 でも、それは悪いことじゃない。

 少なくとも、今日は悪くなかった。
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