【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

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笑顔の下に眠るもの

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 マルタさんは、棚を見上げなかった。

 刺繍の時間。いつもの昼前。
 いつもの笑顔。いつもの声。
 でも、何かが違う。

 私は針を動かしながら、観察した。
 細められた目。弧を描く唇。
 張り付いたような笑み。
 視線は私の手元に注がれている。
 棚の方へは、一度も向かない。

 昨日まで、棚を見ることがあったのに。
 「高いところは危ないですわ」と。
 何気なく言いながら。
 何かを気にしているように見えた。

 今日は、違う。

 棚など存在しないかのように。
 完璧に無視している。
 それが逆に怖かった。

 私は糸を引きながら、考える。
 「確認は済んだ」ということか。
 それとも、別の意味か。
 私の行動を把握している。
 だから確認する必要がない。

 彼女の笑顔が、仮面のように見えた。
 動かない。崩れない。完璧すぎる。

「お嬢様」

 マルタさんが声をかけてきた。
 私は針を止めた。心臓が跳ねる。

「は、はい」

「特別なお菓子をお持ちしましたの」

 マルタさんが、小さな箱を取り出した。
 開けると、砂糖菓子が並んでいる。
 透き通っている。
 花の形。薄い桃色。
 光を受けてきらきらと輝く。

 綺麗だ。とても綺麗だ。
 だからこそ、警戒が頭をもたげる。

「お子様は甘いものがお好きですものね」

 マルタさんが、砂糖菓子を取り上げた。
 私の前に差し出す。
 その動作に、無駄がない。

「で、でも」

「いいんですのよ」

 マルタさんが微笑んだ。

「お嬢様は頑張っていらっしゃいますもの」
「ご褒美ですわ」

 私は砂糖菓子を受け取った。
 指先が震えそうになる。
 必死で押さえた。
 冷たい。氷のように感じた。

「ただ」

 マルタさんが、人差し指を立てた。

「食べ過ぎると虫歯になりますわよ」

 にっこりと笑う。

「隠れて食べてはいけません」

 その言葉が、心臓に刺さった。

 隠れて。
 本のことを言っているのか。
 義兄様との秘密のことか。
 私の演技のすべてを。

 私は笑顔を作った。
 練習した笑顔。無邪気な顔。

「は、はい」
「ありがとう、ございます」

 砂糖菓子を口に入れた。
 甘い。舌の上で溶けていく。
 でも、喉を通るとき。
 苦いものがこみ上げてきた。

 マルタさんは満足そうに頷いた。
 いつも通り世間話を始める。

「今日は少し暖かいですわねぇ」

 棚を見ない。本の話をしない。
 何事もなかったかのように。
 それが一番怖い。

 私は刺繍を続けた。
 砂糖菓子の甘さを噛みしめながら。
 この甘さは、毒か。餌か。
 どちらにしても、私は食べてしまった。



 昼食の後、義兄様を見かけた。
 廊下ですれ違っただけ。
 言葉は交わさない。

 でも、義兄様が顎を上げた。
 練兵場ではなく、廊下で。
 それでも、意味は同じだ。

 私は小さく頷いた。
 義兄様の足が、一瞬だけ止まった。
 振り返りはしない。
 でも、それが返事だとわかった。

 義兄様の足取りは、今日も力強い。
 背筋が伸びている。顔色も良い。
 完食三日目になるはずだ。

 すれ違いざま、視線が交わった。
 一瞬だけ。
 敵意はない。無視でもない。
 何かを確認するような目。
 私がここにいることを確かめている。

 義兄様の背中が遠ざかっていく。
 私は小さく息を吐いた。

 この人は、味方だ。
 たぶん。きっと。
 少なくとも、敵ではない。

 マルタさんの笑顔を思い出す。
 あの人は、どうだろう。
 味方か、敵か。
 どちらでもないのか。

 わからない。
 見えないものが、一番怖い。



 夕方、お父様の書斎に呼ばれた。
 文字の授業。六日目。

 お父様は私を膝の上に乗せた。
 いつものように。無言で。
 温かい腕の中。

「今日は四つ」

 お父様が本を開いた。
 新しいページ。見慣れない文字。

「目」

 お父様の指が、文字をなぞった。

「め」

 私は繰り返した。
 目。見るためのもの。
 でも、見えるものがすべてじゃない。

「耳」

「みみ」

 耳。聞くためのもの。
 お父様には、聞こえすぎるものがある。
 他人の心の声という、呪い。

「口」

「くち」

 口。話すためのもの。
 私は、本当のことを言えない。
 演技の言葉ばかりが出てくる。

「心」

 お父様の指が、四つ目で止まった。

「こころ」

 私は静かに繰り返した。
 心。見えない。聞こえない。
 触れない。
 でも、確かにある。
 誰もが持っている。
 誰にも見せないもの。

 お父様が、しばらく黙っていた。
 灰色の瞳が、本を見つめている。

「見えないものほど」

 お父様が、ぽつりと呟いた。

「厄介だ」

 私は顔を上げた。
 お父様の横顔を見る。
 眉間に深い皺。どこか疲れた表情。

 この人は、何を見ているのだろう。
 心の声が聞こえる呪い。
 他人の心が、騒音として聞こえる。
 その苦しみ。

 姿の見えぬ敵と戦ってきた人。
 私と、同じだ。

「お父様」

 私は小さく呟いた。

「わたしも、そう思います」

 お父様が、私を見下ろした。
 灰色の瞳。
 何を考えているのかわからない目。
 でも、そこに敵意はなかった。

「そうか」

 お父様は短く答えた。
 それだけだった。
 でも、その言葉が柔らかく聞こえた。
 いつもより、少しだけ。

 私たちの敵は、姿を見せない。
 お父様の敵は「声」。
 私の敵は「笑顔の裏」。

 見えない敵に囲まれて生きている。
 だからこそ。
 背中合わせで戦う仲間が必要だ。

 お父様は、そんなことは言わない。
 私も、言えない。
 でも、この沈黙の中に。
 何かが通じている気がした。

「復習しろ」

 お父様が言った。

「は、はい」

 私は机に向かった。
 紙に文字を書く。
 目。耳。口。心。

 四つの言葉。
 体の部品と、見えないもの。
 目で見て、耳で聞いて、口で話す。
 でも、心だけは違う。
 どこにあるのかもわからない。

「終わったか」

「は、はい」

 私は紙を差し出した。
 お父様は無言でそれを見た。

「いい」

 短い言葉。いつもの褒め言葉。
 お父様が私の頭を撫でた。

 大きな手。温かい手。
 この手が、私を守ってくれている。
 それとも、道具を管理しているだけか。

 わからない。
 心は見えない。誰の心も。

「また明日」

 お父様が言った。

「は、はい」
「ありがとう、ございました」

 私は書斎を出た。



 部屋に戻ると、引き出しを開けた。
 革張りの本が、そこにある。
 まだ大丈夫。まだ見つかっていない。

 今日習った文字を探してみる。
 「目」は、すぐに見つかった。
 「耳」も、「口」も、ある。

 「心」は、どこだろう。
 ページをめくる。探す。
 なかなか見つからない。

 見えないものは、探すのも難しい。

 窓の外を見た。
 夕日が沈んでいく。
 赤い光が、部屋を染めている。

 マルタさんの笑顔を思い出す。
 「隠れて食べてはいけません」
 あの言葉の意味は、何だったのか。

 警告か。
 それとも、ただの世間話か。
 あの人の心は、どこにあるのだろう。

 私は本を引き出しにしまった。
 そっと、音を立てないように。

 明日も、マルタさんが来る。
 明日も、笑顔で演技をする。
 お互いに、心を隠しながら。

 見えない敵との戦いは、終わらない。
 でも、今日も生き延びた。
 それだけで、十分だ。

 私はベッドに潜り込んだ。
 毛布が温かい。柔らかい。
 北部の夜は冷える。
 でも、この部屋は暖かい。

 目を閉じる。
 今日学んだ文字が、瞼の裏に浮かぶ。
 目。耳。口。心。

 明日は、どんな文字を学ぶのだろう。
 義兄様は、また合図をくれるだろうか。
 マルタさんは、何かを隠すのだろうか。

 わからない。
 でも、明日が来る。
 それだけは、確かだ。

 私は静かに眠りについた。
 見えない敵に囲まれた、小さな城の中で。
 でも、一人ではない。
 たぶん。
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