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日記 2
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私にとって本田さんからのプロポーズは、幸せの入口ではなく、単なる輪っかのようなものであったことに気付かされた。
その幸せは一時的なものに過ぎなかった。
本田さんが悪いとか、好きではないという意味ではない。
彼は何も悪くないのだ。
よく考えてみると、悪いのは身分をごまかした私だった。神様はやはりいるのだと思う。
幸せになってはいけない人間というのはいるのかも知れない。
人生の絶頂にいた私は、本田さんの運転する車の助手席に座りながら車窓から見える景色を眺めていた。あの時は辛いという気持ちばかりで顔を上げる余裕はなかったけど、今になって見ると、なるほど、夕日が海をオレンジ色に染めている光景は見ものだった。
懐かしい風景に眼を奪われて、私は気が付かなかった。
一時的に忘れていたのかも知れない。
本田さんの運転する車は、いつの間にかあの場所へ向かっていた。
彼は知らなかったんだ。
こんなに呼吸をすることが苦しいと思ったことはない。
いつの間にか、力づくで押さえつけていた記憶の封印が解き放たれ、甦っていた。
私とお姉さんが事故に遭った日。
その日の朝食はとても豪勢だった。
出前の寿司に炭酸ジュース。ウチの家庭にとってこれ以上の贅沢はない。朝食があること自体が数年ぶりだった。両親は私達姉妹に食事を勧めてくれた。はしゃぎ回って馬鹿みたいに飲み食いした私達は頭がくらくらしたかと思うと、視界がぐらついてすぐに眠くなった。
意識が戻った頃には車の中にいた。隣りでお姉さんも寝ている。混沌とした意識の中で心地良い車の揺れに身を任せて、もう一度まぶたを閉じようとしたところで助手席にいた母親の呟きが聞こえた。
「佐々木さんへの恩返しね」
どういう意味だろう?
そう思った時には凄まじい衝撃音と共に海に落ちていた。
正直、事故に遭った時の記憶はほとんどない。
家族を失った私は記憶を封印したんだと思う。
ただ、佐々木さんが命懸けで私を助けてくれたことだけはかろうじて覚えている。だから、佐々木さんには非常に感謝している。いや、感謝していたと謂うべきだろう。私は祖母に引き取られ、借金は全額保険から支払われたと訊いた。
そして私は今、一人暮らしのアパートにいる。祖母に電話をして、どうしても知りたいことを確認した。祖母は隠し事が下手だ。優しい人だ。
私の両親は予想以上の額の借金をしていた。
両親が金を借りた相手方は金融機関だけではなかった。借金の返済ができなくて、更なる借金をしようにも金融機関が貸し渋ったのだと思う。
両親は仕方なく個人に金を借りることにした。当然、どの家も金を簡単に貸してくれるところはなかった。
そこで、情けをかけてくれて金を貸してくれたのが佐々木建設の社長である佐々木浩一さんだった。そう、私を助けてくれた佐々木さんのお父さんだ。佐々木さんは無利子で金を貸してくれたそうだ。
この話を訊いて私は疑問を抱かずにはいられなかった。
金を貸してくれたのが佐々木さんのお父さんで、私を助けたのが佐々木さん。偶然にしては出来過ぎていないか?お金で苦労した私の考えが歪んでいるのかも知れない。だが、疑わずにはいられなかった。
佐々木浩一から厳しい取り立てを受けた両親が自殺に追い込まれた。あるいは、事故に見せかけて自殺して、保険金で借金を返すように入れ知恵されたのではないか。
愚かな考えだ。そう思いながらも、母親の「佐々木さんへの恩返しね」という言葉が脳裏から離れない。私は何度も自分を責めた。情けでお金を貸してくれた方に対して、さも人殺しのように疑うなんて。
そんな自己嫌悪に陥ったのは僅かな間だった。
私は当時、刑事さんから何度も事故状況を訊かれていたからだ。その内容は、私を助けてくれた人が唯一の目撃者で、運転を誤った軽トラを避けようとした私達の車が海に転落した、というものだったはずだ。私は精神的ショックから「覚えていません」としか応えなかったが、今なら断言できる。
軽トラなんか走っていなかった。
私は両親の存在を確認するため、後部座席から前方を確認した。
事故現場は長い直線道路だ。
車が来ていたら分からないはずがない。
意識が朦朧としていたから見逃していたという可能性もあるが、それならば母親が事故直前に呟いた言葉の説明がつかない。
ああ……、また悪い癖が出た。
あくまで推論に過ぎないのに。
頭がおかしくなりそうだ。
佐々木さん親子は親切心から助けてくれただけかも知れないのに。
例え、借金返済を迫られていたとしても、借りた金を返すのは当然のことだ。何言ってるんだろう、私は。そもそも、のうのうと幸せになろうとしたこと自体がいけないんだ。
しかも嘘までついて。
その上、結婚しようとしている相手はお姉さんが本気で好きになった相手。
もう嫌だ。嫌な記憶ばかりが甦ってくる。
都合の悪いことは全部奥底にしまっておいたはずだったのに。
海の転落事故の件、佐々木さん親子次第で様々な解釈ができてしまう。
単に、両親が借金返済のために自殺を図ったなら、何故私とお姉さんまで巻き込む必要があったのだろうか?
どんな言葉を並べても、私達を道連れにする理由にはならない。
佐々木さんが謀ったことなら、私は約十年も家族を間接的に殺した人間に感謝していたことになる。
まあ、私にとってはこっちの方がいいかも。
どちらにしても、疲れた。
本当に疲れた。
今まで抑制してきた十年分の思いが爆発してしまって止まらない。
こんな陰惨な考えしかできない私だけど、本田さんにだけは素直に感謝している。
本田さん、幸せな時間を与えてくれてありがとう。
その幸せは一時的なものに過ぎなかった。
本田さんが悪いとか、好きではないという意味ではない。
彼は何も悪くないのだ。
よく考えてみると、悪いのは身分をごまかした私だった。神様はやはりいるのだと思う。
幸せになってはいけない人間というのはいるのかも知れない。
人生の絶頂にいた私は、本田さんの運転する車の助手席に座りながら車窓から見える景色を眺めていた。あの時は辛いという気持ちばかりで顔を上げる余裕はなかったけど、今になって見ると、なるほど、夕日が海をオレンジ色に染めている光景は見ものだった。
懐かしい風景に眼を奪われて、私は気が付かなかった。
一時的に忘れていたのかも知れない。
本田さんの運転する車は、いつの間にかあの場所へ向かっていた。
彼は知らなかったんだ。
こんなに呼吸をすることが苦しいと思ったことはない。
いつの間にか、力づくで押さえつけていた記憶の封印が解き放たれ、甦っていた。
私とお姉さんが事故に遭った日。
その日の朝食はとても豪勢だった。
出前の寿司に炭酸ジュース。ウチの家庭にとってこれ以上の贅沢はない。朝食があること自体が数年ぶりだった。両親は私達姉妹に食事を勧めてくれた。はしゃぎ回って馬鹿みたいに飲み食いした私達は頭がくらくらしたかと思うと、視界がぐらついてすぐに眠くなった。
意識が戻った頃には車の中にいた。隣りでお姉さんも寝ている。混沌とした意識の中で心地良い車の揺れに身を任せて、もう一度まぶたを閉じようとしたところで助手席にいた母親の呟きが聞こえた。
「佐々木さんへの恩返しね」
どういう意味だろう?
そう思った時には凄まじい衝撃音と共に海に落ちていた。
正直、事故に遭った時の記憶はほとんどない。
家族を失った私は記憶を封印したんだと思う。
ただ、佐々木さんが命懸けで私を助けてくれたことだけはかろうじて覚えている。だから、佐々木さんには非常に感謝している。いや、感謝していたと謂うべきだろう。私は祖母に引き取られ、借金は全額保険から支払われたと訊いた。
そして私は今、一人暮らしのアパートにいる。祖母に電話をして、どうしても知りたいことを確認した。祖母は隠し事が下手だ。優しい人だ。
私の両親は予想以上の額の借金をしていた。
両親が金を借りた相手方は金融機関だけではなかった。借金の返済ができなくて、更なる借金をしようにも金融機関が貸し渋ったのだと思う。
両親は仕方なく個人に金を借りることにした。当然、どの家も金を簡単に貸してくれるところはなかった。
そこで、情けをかけてくれて金を貸してくれたのが佐々木建設の社長である佐々木浩一さんだった。そう、私を助けてくれた佐々木さんのお父さんだ。佐々木さんは無利子で金を貸してくれたそうだ。
この話を訊いて私は疑問を抱かずにはいられなかった。
金を貸してくれたのが佐々木さんのお父さんで、私を助けたのが佐々木さん。偶然にしては出来過ぎていないか?お金で苦労した私の考えが歪んでいるのかも知れない。だが、疑わずにはいられなかった。
佐々木浩一から厳しい取り立てを受けた両親が自殺に追い込まれた。あるいは、事故に見せかけて自殺して、保険金で借金を返すように入れ知恵されたのではないか。
愚かな考えだ。そう思いながらも、母親の「佐々木さんへの恩返しね」という言葉が脳裏から離れない。私は何度も自分を責めた。情けでお金を貸してくれた方に対して、さも人殺しのように疑うなんて。
そんな自己嫌悪に陥ったのは僅かな間だった。
私は当時、刑事さんから何度も事故状況を訊かれていたからだ。その内容は、私を助けてくれた人が唯一の目撃者で、運転を誤った軽トラを避けようとした私達の車が海に転落した、というものだったはずだ。私は精神的ショックから「覚えていません」としか応えなかったが、今なら断言できる。
軽トラなんか走っていなかった。
私は両親の存在を確認するため、後部座席から前方を確認した。
事故現場は長い直線道路だ。
車が来ていたら分からないはずがない。
意識が朦朧としていたから見逃していたという可能性もあるが、それならば母親が事故直前に呟いた言葉の説明がつかない。
ああ……、また悪い癖が出た。
あくまで推論に過ぎないのに。
頭がおかしくなりそうだ。
佐々木さん親子は親切心から助けてくれただけかも知れないのに。
例え、借金返済を迫られていたとしても、借りた金を返すのは当然のことだ。何言ってるんだろう、私は。そもそも、のうのうと幸せになろうとしたこと自体がいけないんだ。
しかも嘘までついて。
その上、結婚しようとしている相手はお姉さんが本気で好きになった相手。
もう嫌だ。嫌な記憶ばかりが甦ってくる。
都合の悪いことは全部奥底にしまっておいたはずだったのに。
海の転落事故の件、佐々木さん親子次第で様々な解釈ができてしまう。
単に、両親が借金返済のために自殺を図ったなら、何故私とお姉さんまで巻き込む必要があったのだろうか?
どんな言葉を並べても、私達を道連れにする理由にはならない。
佐々木さんが謀ったことなら、私は約十年も家族を間接的に殺した人間に感謝していたことになる。
まあ、私にとってはこっちの方がいいかも。
どちらにしても、疲れた。
本当に疲れた。
今まで抑制してきた十年分の思いが爆発してしまって止まらない。
こんな陰惨な考えしかできない私だけど、本田さんにだけは素直に感謝している。
本田さん、幸せな時間を与えてくれてありがとう。
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